24話 巡航する星の速度で惹かれあう
「皆まだ俺より若いくらいか。しかしイダ家の血縁がこうも多いとは聞かんが、さて」
大方の避難が終わった街の広場でアドラフェルは頬から血を流し、肩を激しく上下させながら僅かに苛立ったような声を上げた。あたりは凍り付き、魔力が底をついたローブ姿の者たちが転がっていた。
「みな的確に俺を狙ってきたな、ヒサール城には近づけさせんつもりか」
巨大な鳥型魔獣に乗った人々は領内に進入し、砦に囲まれたヒサールの城下街に入った途端、魔獣から降りた。そのまま避難で騒がしい街に紛れ、一部はヒサール城に向かおうとする領主とその傍にいた護衛たちを襲撃して足止めし、残りは混乱に乗じてヒサール城に向かったらしかった。
「躾の行き届いたことだ」
砦に囲まれたヒサールの街の往来には人っ子一人いないのに、妙に騒がしかった。各所に設けられた避難所の人々や、周囲で警戒に当たる兵士たちは顔を曇らせながら空を仰いで不安を口にし、あるいは祈りをつぶやき、それが幾千幾万と重なり、このヒサール全体を包んでいた。
否、実際にそんな声は聞こえないのだ。けれど人々の強い感情は大気中に漂る魔力を揺らし、魔力の扱いに長けた者に内側に反響する。
誰も見たことのないような巨大な魔法陣に対し、不安な気持ちにならない者はこの街にただの一人もいなかった。しかしヒサール領主は自身の不安を決して顔には出さず、深呼吸を一つして胸の奥に仕舞ったあの日の約束をなぞる。
(……大丈夫、大丈夫だ。俺はこの街を守れるし、もう一人ではない)
ささやかな笑みを浮かべて顔を上げ、領主は交渉の席から護衛としてついて来ていた周囲の兵士たちに問いかける。建物の陰に隠れていた馬たちをなだめて引っ張り出すのも忘れない。
「街の避難はどうなった?」
「騎士グラッドのおかげでほぼ完了しています」
「よろしい。あの空に出ている魔法陣については?」
「ネリネ班長から伝言です。術の内容は不明だが発動すればろくでもないことしか起きないのは目に見えているので術者を見つけて発動を中断させるように、と。魔獣調査班は現在あの空に光る魔法陣の破壊術式の構築を行っているようです」
「よろしい。ヒサール大門、及び南北の門への部隊の派遣は?」
「すでにそれぞれに30人編成の部隊が向かっています」
「よろしい。砦内への侵入者たちのうち、この場を早々に離脱した者の追跡は?」
「取り逃しました、申し訳ございません。彼らは既にヒサール城に到着していると思われます」
「了解した。城は侵入者に備えて警戒態勢を敷いているが、俺も今から急ぎそちらに向かう。緊急に備えて誰かひとり、連絡係として俺と共に来てくれ。残りの者はここに倒れている者らを医療棟に運ぶように」
「では私が供を。参りましょう」
先日の訓練で魔女から一本取ったあの年かさの騎士が名乗り出た。
石畳の街路を駆けながら、アドラフェルは連絡係を名乗り出た騎士に笑いかける。
「まったく、天馬があればもう少し移動も楽になるのだが」
騎士は己に向けられた柔い表情と軽口に目を丸くし、そして何事もなかったかのように答えた。
「中央に書類を届ける早馬として魔女様が王国府から預かった天馬まで3頭全部使ってしまいましたからね」
先代ヒサール公の時代からヒサール領に仕える騎士は当然、この青年を生まれたばかりの頃からよく知っていた。母を亡くして以来、唯一の肉親である父を避けている節のあった少年は歳に似合わず寡黙で己に厳しく、王国府から帰還して一層にその傾向を深めていた。それがこういう表情をするようになったのか、という驚きがあった。
良かった、とすがすがしく感じながら馬の手綱を握りなおして城へと急ぐ。
いざたどり着いた城は死屍累々といった有様だった。
「閣下、申し訳ございません……。予想もしないことで」
「不意をつかれました」
倒れていた者たちがゆっくりと起き上がり、報告をしようとする。連絡係をかって出た騎士は壁に縋り付きなんとか膝をつかずにいる猛者を見つけ、そちらに駆け寄った。
「何があった、メリル殿! あなたほどの方が!」
長身の女中頭がゆっくりと振り返った。シニヨンの外れた長い栗毛が肩から背に流れている。床に捨て置かれた破れた白いエプロンや、壁のあちこちのへこみがこの場手の戦いの激しさを物語っている。
喧嘩最強の二つ名を持つ女は不格好なスリットが入り、ボタンが飛んだ黒いワンピースを手で押さえながら、血のにじむ唇をゆがめた。色白の頬が赤くなっているのが痛々しい。
「ナーヒヤール殿です。真っ先に彼が戻ってきて、こちらと目が合うや否や戦闘になりました。その間にローブを着た一団が侵入し、そのまま奥に……」
壁を強く叩いて悔しがる女中頭メリルに、ヒサール城主は優しく声をかける。
「ご苦労だった。命令だ、今は休め」
分かりました、と女拳闘士はその場に座り込んだ。
城主はそのほんの短い時間に考える。既に彼らが城内に入っているのなら、最短距離で彼らの目的である魔王城最深部、瘴気の穴まで向かわなくてはいけない。
父と共に過ごした最後の1年の間に教わったことを思い出し、アドラフェルは連絡係として付いて来た年かさの騎士に向き直った。
「ここまでご苦労だった。俺はここから城の最深部に向かう。お前はザマンに合流し、現状を伝えてくれ」
そういうと、魔王城の主は自身の執務室へと急いだ。
病床の父に呼び出されて王国府から故郷ヒサールに帰還したアドラフェルが最初に教わったのはヒサール城最深部にある瘴気の穴への隠し通路だった。
瘴気の穴そのものを埋め立てたり、それを隔離した空間を開かずの間にできないのは封印術式の問題だ、と言った先代ヒサール公は全盛期に比べて幾分か痩せた体で息子を連れて執務室の本棚を動かして見せた。
その時の動きをなぞり、現魔王城主は隠し通路の扉を開く。
瘴気の穴のある空間を開かずの間にできない以上、扉を設けて厳重な鍵をかけることになったわけだが、逆に扉を壊せばそこにたどり着くことができる。そういった最悪の事態に備えて作られたのがこの代々領主にのみ伝わる隠し通路だった。
アドラフェルは本棚の奥の暗がりに隠された狭い階段を足早に黙々と上る。ゴツン、と頭に当たった木の板を押し上げると薄明かりが差し込んだ。風が吹きつけるヒサール城の屋上から見える空はどんよりと曇っている。
街中の鐘が変則8点鍾を鳴らしている。近くの物見塔の兵士たちの声が妙によく聞こえた。街を覆う不安の声は一層強くアドラフェルの耳に響く。こんなことは初めてだった。
「あんなデカい魔法陣見たことねぇ」
「おい……魔法陣の向こうに何か……景色みたいなのが見えねぇか?」
「なにが出てくるんだ、大丈夫かよこの街は」
腕を伸ばせば触れられるのではないかと思うほど重く低く雲が垂れ込む空には複雑な図案の魔法陣が描かれ拡大し、兵士たちの言う通り、そこにどこかの景色が見えている。
(この大きさ、王国全体を覆うつもりか? いずれにせよ時間はなさそうだ)
アドラフェルは隣の棟の屋上に移動する。籠城戦を前提としたつくりの魔王城は、壁から屋根にいたるまで兵士たちを配置できるようになっているのだ。屋上の端のガレキをどかし、その下にある扉を開いたところで彼の視界の端に赤い光が映った。
「閣下、魔女アウレーシャ・バルワが参りました!」
聞きなれた声に、アドラフェルの耳の中に響いていた不安が掻き消える。
赤い光は薄暗い空を引き裂く勢いで飛来し、炎の尾を引きながら彼の元にたどり着くなり言った。
「アドラフェル卿、閣下に、ヒサール大門にて防衛局大臣と共に対魔獣防衛戦を行っているエリエッタ・ナフル嬢から伝言です」
「は?」
「世界一カッコ良くて可愛い最高の女はこのエリエッタ・ナフルなのでよく見て私に惚れなさい、あと必ず凱旋するので大いに褒めなさい、とのこと」
「……了承した」
ク、とアドラフェルは喉を鳴らして笑う。
「さらに報告します、あの魔法陣は魔界召喚のためのものです。本人たちから直接聞きました」
「本人たち?」
魔女の言葉に、アドラフェルは顔をしかめる。詳細に伝える必要があるらしい。
「鳥型魔獣に乗った一団を追いかけようとしたところ、カレーナ・イダとレパーサ・イダの妨害を受けました。彼ら曰く、魔界を召喚し、それを以て10年前の東方独立未遂事件を別の形でやり直すことが目的、だそうです」
「……なるほど、ここに至るまでのあれこれは『西方独立未遂事件』にならなかったことに対するヒサールへのあてつけもあるか」
先代ヒサール領主の息子は淡々と言った。何も感じていないのではなく、いつも親身になってくれる年上たちの手を自ら振り払ったアウレーシャへの気遣いゆえである。けれど彼女もまたそこに対して大きな感情は示さなかった。
「それからアディ、もうひとつ」
「何だ」
「ナーヒヤールなんだけど、彼、今すごく困ってるんじゃないかって思う」
そう言われてアドラフェルは目を見張るも、思案顔をしてそうか、と言うとがれきの下の扉を指さしていかにも気軽な声色で言った。
「今から彼に会いに行くんだが、来るか? アウリー」
「もちろん、アディ」
頷き合うと、2人は扉の先、下へと続く暗く深い穴に飛び込んだ。
***
「ナーヒヤール、殿……?」
「裏切ったのか、それとも最初から……」
侵入者たちと共にやって来たヒサール領主付き秘書官見習いナーヒヤール・ボーカードの姿に、巨大な扉の前に立っていた兵士たちは意識を失って倒れていく。
ナーヒヤールは顔をしかめる。あの女中頭メリルとの戦闘の痛みはもちろんだが、彼の耳の内側でもうわんうわんとヒサールの街に渦巻く悲嘆と不安の声が響いていた。
「思いのほか激しい抵抗だったな。とくにあのメリルとか言ったか? あの女は凄まじかったな。俺が出なけりゃどっちかが死んでたぜ、ナーヒヤール」
大柄な男に言われ、一行を先導していたナーヒヤール・ボーカードは鼻から出る血をぬぐって「未熟者ですいませんね」と返事した。
「ま、いいさ。しかし城内のこの魔力濃度は凄まじいな」
呆れたように言った侵入者一団のリーダー格の男は左手に『魔王城大全』を抱え、右手にミスリル鉱の小さな彫像を握っている。彼の足元には濃い紫色の魔法陣が光っていて、彼が歩くとそれを追いかけるように陣も移動していた。
彼の後ろからローブ姿の者が駆けてきてリーダーの男に報告した。
「シラトさん、魔界召喚の第1シークエンスは順調です。すでに魔法陣は拡大しています」
よし、と言ったシラト・ボーカードは右手の彫像を強く握って魔力を注ぎながら、隣に立つ先導役の眼帯の青年に声をかける。
「ナーヒヤール、道はこっちでいいのか?」
「ええ、合ってますよ。僕がこの城に来た次の日の案内で唯一案内されなかったのがこのエリアですから」
ヒサール城の秘書官見習いが生真面目な表情で言うと、その養い親は無精ひげの生えた口を大きく開けて笑った。
「信用されてねぇなぁ!」
「仕方ないでしょ、仮採用なんだから」
「ク、ク……お前は本当に優秀だよ。その眼帯の下の右目といい、お前がいなきゃあこの計画は成立しなかった」
男は歌うように言って立ち止まる。目的地である瘴気の穴は、目の前の扉の先にある。ローブ姿の者たちは扉に攻撃を加えて亀裂を入れ、そこにさらに重点的に攻撃をして扉を破壊した。その様子を眺めながらシラト・ボーカードは右手の彫像をもてあそんでいる。人間の姿をした銀色のそれは、シラトの魔力を吸って外の魔法陣と同じ濃い紫色に光っている。
シラトの後ろに控えていた者がスッと前に出て手をかざした。小さな光がふわふわと飛んでいき、破壊された扉の奥、瘴気の穴の一帯を照らし出す。周囲に脅威になるものが無いと判断すると、一団のリーダーは迷いなく穴に近寄った。
(これが、瘴気の穴の封印の根本……)
ナーヒヤールは己の内側に響く不安の声に意識を割かれながらも、目の前の光景をまじまじと見つめた。
ごつごつとした地面には直径20メートルほどの穴が開いており、その真上の中空には何重もの魔法陣が光り輝いている。穴から吹き出る黒い靄のような瘴気は、魔法陣を通して少しずつ黒から段階を経て無色透明に変化している。
「封印を通して瘴気の濃度を下げて魔力と呼べる程度にして大気中に流す、か。なるほど」
うんうん、とうなずくシラトにナーヒヤールは顔をしかめる。養い親が不快なのか、己のうちに聞こえる不安の声が不快なのかは彼自身よくわかっていない。
「急いでください。アドラフェル卿もアウレーシャ嬢も甘くはありませんよ。イダ家のお二人はアウレーシャ嬢に本気を出しきれないかもしれません」
養い子にせっつかれ、ボーカード家の当主は手のひらで彫像を転がしながらわかってるさ、と笑う。
「あのご姉弟はアウレーシャお嬢さんに負けるはずだ。お二人は賢くて度胸があって腹芸もできる貴族の中の貴族だが、どうにもあのお嬢さんに甘い。それに当のアウレーシャお嬢さんは話を聞いてる限りじゃ口説き落とされてはくれんだろうよ」
そこまで言ってあの私家版呪術本を書いた男は頭を掻いた。
「呪術なんて今時流行らんもんを受け入れてくれたあのご姉弟には恩義を返すつもりだが」
ううむ、と男は唸る。このシラト・ボーカードが当主を務めるボーカード家はイダ領に拠点を持つ旧家で、今は平民だが元は貴族だったという。現在においてはシャマル王国内で唯一、家として呪術の研究を行っている。シラト自身は気さくで豪放磊落、しかしどちらかと言えば旧き家系に近い気質の家の生まれだからか思慮深く慎重で、呪術の研究も先祖から続く矜持としての営みだった。
よし、と言ってシラトは養い子の方を見た。
「ナーヒヤール、お前は万が一に備えて俺の隣にいろ。他のやつらは入り口付近で警戒、襲撃に備えろ」
ナーヒヤールは首を縦に振るふりでうつむきわずかに顔をしかめる。己のうちで響くヒサール中の声がより不安定になり、魔法陣の奥から何か出てきた、終わりが来るのか、と叫んでいた。
全員が配置についたのを確認したところで、シラトは手元の彫像を確認した。そこにローブ姿の者が向こうからやってきて報告した。
「シラトさん、異界召喚術式の第1シークエンス魔法陣の展開は完全に完了しました! 魔法陣は既に上空に展開を終えています」
それを聞いてシラトはおう、と返事して強張っていた顔をわずかに緩めた。
「古代魔法、異界召喚術起動。第2シークエンス、封印の解除を開始」
指さし確認のごとく声を上げて、ミスリル鉱の人型彫像を瘴気の穴に落とした。
だが次の瞬間。
ナーヒヤールがそれに手を伸ばした。
「ッ、届け!」
大穴に落ちようとする紫色に光る彫像を、彼の手が受け止める。
「あ? ナーヒヤール?」
唖然とした術者の隣で、ナーヒヤールは彫像をしっかり握ると素早く穴の縁から距離を取る。そのまま腰に下げていたナイフを抜くと、彫像に勢いよく振り下ろした。
ナーヒヤールの耳のうちで絶叫する「もうだめだ!」の声を打ち消すように、金属質な音が響き、彫像は真っ二つに割れて光を失った。
途端にシラトは己の足元を見て怒鳴った。
「ナーヒヤール、てめぇマジでやりやがったな!」
足元にあったあの紫色の魔法陣が消えている。
術者はナーヒヤールの傍まで大股で歩み寄ると、胸ぐらをつかんで引き起こし、その顔に拳をめり込ませた。
けれど、殴打された青年はくつくつと喉を鳴らして笑う。彼の耳には今、安堵と歓喜の声が響いていた。空の巨大な魔法陣の向こうに見えていた靄が消えた、助かった、というヒサール領の声だ。
頬を殴打されて笑う青年に、シラト・ボーカードは苛立った声を上げる。
「これは俺たちボーカード家とイダ家の10年がかりの計画だったんだぞ。イダ家のご姉弟の憂いが晴れる瞬間だった。それに横槍を入れやがって!」
台無しじゃねえか、ともう一発拳が入る。
あたりはシン、と静かになった。警戒に当たっていた者たちも唖然として彼らを見つめている。
ハ、と嘲笑じみた吐息が沈黙を破った。シラトではなく、ナーヒヤールのものだった。彼はゆっくりと首をひねり、髪の合間から片方だけの目を細めて胸ぐらをつかむ養父を見つめて言った。
「馬ァ鹿、僕はずっとお前が勝利を確信して油断するその瞬間を狙ってたんだよ」
黄金の隻眼をまばゆく輝かせた彼は大きく息を吐き、感じ入ったように瞼を閉ざして呟く。耳の中でざわめく声たちも鳴りを潜めていた。
「アディ、アウリー、遅くなったけど最低限の責任は果たしました」
目じりに涙が滲み、口元はわずかに弧を描く。心からの安堵の笑みだった。
それをまじまじと見つめて、シラト・ボーカードは言った。
「おめぇ、昔っからヒサール領と野蛮令嬢の話題になると目を色を変えるけど、そのわりに生爪をはがされたって何も言わなかった」
なるほどな、と冷え冷えした声で呟いたシラトが養い子の手を握ると、とたんに彼の手が緊張した。再びざわざわと耳の奥で音が聞こえ始める。
シラトの声に嘲笑が滲む。
「お前は『アディニプト卿の魔力が宿った分霊箱を持ってナナマン家から逃げて』、イダ領で行き倒れて、俺の養子になったあのときから今日までの10年間、おめぇは俺たちに協力するふりをしてヒサール公とアウレーシャお嬢さんのためにずっとさっきのあの一瞬を待ってたってわけだ」
大したもんだ、と言う言葉が嘲笑に塗り替わった。
「残念だったな。確かに魔界召喚そのものは失敗したが、こっちはお前が裏切ることなんざ織り込み済みだ」
その言葉に、ナーヒヤールの耳の奥のざわめきは明確な声になった。
(魔法陣の奥に見えていた物は消えたけど、魔法陣そのものは消えていない?!)
ナーヒヤールはとっさにシラトの腕から抜け出そうとする。握った手はそのままに、腕を拘束され、身動きが取れなくなった。
「おめぇに体の使い方を叩きこんだのは誰だと思ってンだ。必死に隠してたみたいだがな、おめぇは最初に爪をはがされた時から、手を握られると体が硬直しちまう」
ナーヒヤールはびくりと肩を震わせた。彼の眼帯を引っぺがしたシラトはため息をついた。右の瞼の下では目玉の代わりに埋め込まれた純度の高い魔法石が輝いている。
「行き場のないお前に戦う術と生きる術を与えたのは俺だぞ? 勝てると思ってんのか?」
呆れて言いながらシラトはナーヒヤールの右目に手を伸ばした。
「何を、するつもりだッ!」
腕を拘束され身をよじる以外に抵抗もできない青年に、養い親は片眉を上げる。
「お前が裏切ると予想して対応策を用意しない俺だと思ってんのか? さっきお前を傍に置いたことが、まさか信頼の証だと思ってたのか? 違ぇだろ、信用ならないから傍において監視するんだ」
甘ぇなぁ、とシラトがニヤニヤ笑う。養い子は苛立った声を上げた。
「裏切ると分かってどうして僕をすぐ殺さなかった!」
途端に養父は真顔になって答えた。
「優秀な人材を失うのは惜しい。それに、お前が裏切るという確証はなかった。ヒサール領潜入の準備のためにイダ領を離れても、お前は今日まで尻尾を見せなかった。数か月前から最終調整のために各所に放っていた改造魔獣からの報告を見てもお前の動きに不審はなかった」
喋りすぎたか、と呟いて、シラトはナーヒヤールの右頬を掴んだ。
「お前の右目の魔法石、その純度なら充分だ。魔界召喚はできなくても空に浮かんだあの魔法陣が残ってるならやりようはあるんだよ」
シラトの指がぐり、と右瞼を開かせる。そのまま指は無遠慮に潜り込んで右目に嵌った魔法石を掴んだ。
「う゛、ぐッ、あ゛あ゛ぁぁぁぁァァッ!」
不快感と恐怖、痛みでナーヒヤールが絶叫を上げ、瘴気の穴にぐわんぐわんと反響する。ずるり、と大きな魔法石が取り出されると彼はその場に倒れこんだ。肩で息をして額を地面にこすると、くすんだ金髪が垂れて彼の顔を隠した。
「……大、丈夫。大丈、夫」
それでも彼は唇を動かし、小さな声で呟く。己の中に響くヒサールの声への言葉であり、自身への言葉だった。
不意に、シラトは手の中の魔法石を強く握りこんで全身を硬直させた。ゆっくりと立ち上がったナーヒヤールの変化に目を奪われたからだ。
「まだ、やれる」
10年前イダ領で行き倒れていた青年のくすんだ金髪が、頭頂部から徐々に黒へと変わっていく。
「アウリー、アディ、あんたたちが10年間僕を助けてくれたみたいに」
鴉の濡れ羽のように艶めき輝く黒髪、それがヒサール城見習い秘書官ナーヒヤールの本来の髪色であった。
「僕もあんたたちを助けるって誓ったから」
立ち上がったナーヒヤールがナイフを構える。金色の隻眼が輝いている。
「その魔法石は返してもらう、悪用はさせない」
「やってみやがれッ! お前らも相手しろ!」
シラトの叫びは震えていた。
正面で光る金の瞳に明けの明星の輝きと、それに導かれてやって来る朝焼けの光を見出したからだ。
顔を青くしながら後ずさるシラトの様子に怪訝な顔をしながらも、扉のあたりで展開を見守っていたローブ姿の者たちが一斉に裏切り者に襲い掛かり、自分たちのリーダーの前に壁を作る。
けれどナーヒヤールの金の瞳は見るべきものを知っていた。体内の魔力で身体能力を爆発的に向上させて刃や魔法を潜り抜けると、地を踏みしめて跳び、シラトがとっさに瘴気の穴に放った魔法石に手を伸ばした。
足元に何もない、と気づいたのは魔法石を強く握った直後だった。
(……やっぱり駄目かもしれない)
ナーヒヤールの中に浮かんだその言葉が彼自身の声かヒサールの人々の声なのか、もう区別はつかなかった。
「愚か者め、それこそ俺のもう1つの手! 人間1人と魔法石1つ、悪魔を呼ぶならおつりがくる!」
穴のふちに立ったシラトが声を上げ、体をそらし天井を仰いで笑いだした。自分を止めようとした者が図らずとも己の望むように動いて身を滅ぼそうとするのだから、愉快で仕方ない。
「あっはっはっはっ、は……は?」
だがそれは中途半端に止まり、最後には疑問形になる。
シラトの視線の先、灰色の天井に亀裂が入ったのだ。そのまま亀裂は大きくなり、ミシミシと音を立てて最後にはボガン!と破裂するような音を立てて崩壊した。
瘴気の穴の底へと落ちていくナーヒヤールは壊れた天井を仰ぎ、そこに2つの光を見出した。
ひとつは赤。天を駆けて遥かな先へとたどり着こうとする流星。
ひとつは青。天の同じ場所に佇み導となる極星。
ぴかぴかと光りながら星たちは腕を伸ばし、盟友の名を呼ぶ。
「ナーヒャ、助けに来たよ!」
「ナーヒャ、手を!」
それを聞いた途端、ナーヒヤールの中に響いていた不安も絶望も諦念もとたんに掻き消えて、代わりにドクドクと血潮の巡る音が響き出す。
ナーヒヤールが夢にまで見た光景だった。その光に出会いたくて、どれだけ苦しくても生きることを諦められなかった。
(訓練が苦しい時、傷が痛む時、シラトにあの分霊箱を奪われて計画の第1サンプルにされた時、昔の自分みたいにどっかから連れ去られた子が来た時だって、あんたたちのことを考えた。あんたたちが約束して、魔法が使えない僕を頼ってくれた、味方だって言ってくれたそのことを想うと勇気がわいた。あんたたちが約束を交わすにふさわしくあろうと何とかやってきた……それで十分だ)
彼らが約束やナーヒヤール自身のことを忘れていたって構わなかった。ナーヒヤールがただ彼らに勝手に恩義を感じ、勝手にそれに報いようとしただけなのだから。
(だから、あんたたちは僕のことなんて気にしなくていい)
大人になってはじめて彼らに出会ってから、毎日そう自分に言い聞かせた。
(それに、僕は結局僕の愚かさであんたたちを苦しめた。だから、あんたたちの手を握り返すことはできない。握り返してはいけない)
けれどいざ手を差し出され、夢見た光景を眼前にしてしまえば、そんな理屈も自制も吹き飛ばして体はもっと正直に動き出す。
(……それでも)
ナーヒヤールが腕を伸ばす。黒髪に飾られた顔の中、明けの明星は上方で輝く極星と流星と惹かれ合う。
(やっぱりあんたたちと一緒にいたい)
つぶやきは掠れた声で、しかし確かに盟友たちの名前を呼んだ。
「アウリー、アディ……」
ナーヒヤールの体が上に引っ張られる。身体の周りにできる魔力の支配空間は近くにある物のみならず縁の強いものを引き寄せる、とはアウレーシャが訓練の時に説明していたことだったな、と彼はふと思い出す。
そうして引き寄せられたナーヒヤールの体を、アウレーシャとアドラフェルは強く抱きしめた。
「やっと会えた!」
「ずっと会いたかった……」
「屋上からここまで下りてくるあいだ、ずっと見えてたよ」
「ナーヒャ、お前の金色の光が」
触れ合った肌も、声も、眼差しも、どれもが眩しく熱かった。寄り添った熱たちにナーヒヤールもまた強く腕を回す。
「僕もずっと会いたかった、アディ、アウリー」




