21話 同じものを見ている
ヒサール領に王国府からの早馬が到着したのはその夜の深夜のことであった。既に日付が変わって十分に時間がたっており、城のスタッフの中でも心配性の者は眠りもせずそわそわとあちこちを歩き回る、そんな最中のことであった。
赤い布地に金糸で王国府の紋を刺繍した旗を掲げた天馬が降り立つと、ヒサール城門前の2人の兵士はぎょっとした。若い方が槍を握る手に力を込めるが、年かさの方がその手を軽く押さえて首を横に振る。
「閣下のお言葉を忘れたか」
王国府の紋章を掲げることはそこに王国府の長、すなわち国王がいるのと同じ意味を持つ。先輩兵士は若者の忠誠を正しい方へと導きながら声を張り上げた。
「開門、開門! 王国府からの使者である!」
***
「遠路はるばる良く参った。夜通し走ってお疲れであろう、ひとまず茶でもいかがか」
「お気持ちだけありがたく」
供応を受けるわけにはまいりませんので、と首を横に振った王国府からの使者は、自身の正面に座るヒサール領主アドラフェル・ヒサール・ユリスナ公爵の姿に肩を緊張させた。
「ふむ、そうだったな」
軽い調子で答える若干26歳の領主は、王国府からの使者を全く待たせずに現れた。それどころか深夜だというのにシャマル宮廷に赴く時のような恰好で、眠気や疲れを微塵も見せないのだ。
高い山がそびえ他国を寄せ付けない土地とはいえ、若くして国境の地の領主になるにはこれほどまで隙のない人間でなければならないのかと使者は姿勢を正し、懐に入れていた書簡を差し出した。シャマル王家と宰相、防衛局の紋章の3つの封蠟が押されたそれを老秘書官ザマンが受け取り領主に差し出す。
上等紙の書簡の内容を目で追いながらヒサール領主は顔をしかめた。アイスブルーの瞳は鋭く、眉間の皺も深まったその面差しに使者は彼の二つ名を思い出す。血濡れの氷冷公、と彼を呼び習わしたのは王都の者たちだ。
使者とて礼儀作法をわきまえた貴族の身である。貴族どころか一国の王を前にすることも多い。それでも彼はこの場において青年領主から発せられる威圧感を前にして、平静を装うことに多大な労力を割いていた。何せ、巨大な瘴気の穴をふさぐ封印そのものであるこの魔王城内部には、王都とは比べ物にならない高濃度の魔力が漂っているのだ。そのうえで青年領主のこの妙な存在感。
それらの圧迫感に脂汗を滲ませながらも使者は努めて平坦な声で言った。
「返答の期限は24時間後。これを超えて返答がない場合は既にナフル領に留まっておられる防衛局大臣とヒサール領においでの王国府魔術戦闘特別顧問のご協力を得て強制的に閣下を王国府にお連れし、同時にヒサール領での調査を開始いたします。それと同時にヒサール騎士団以下兵士たちは武装を完全に解除していただきます」
「拒否した場合は?」
氷柱のような目で問われて使者はきゅっと唇を結んでから一息に言った。
「返答がない場合と同じ対応を致します」
「そうか」
「……ここからはただの雑談になりますが」
そう言って使者は王国府の紋章のついた腕章を外し、目の前に置かれたティーカップを持ち上げた。
「陛下はヒサール公爵閣下のことを大変心配し、少なくとも先代ヒサール領主であるアディニプト卿が王国府に対して対立的な行動をとるわけがない、と仰せでした」
カップに注がれた茶を一口飲んで使者は雑談を続ける。
「閣下がかつて王国府預かりになったのも、旧き家系の報復から閣下を守るため、アディニプト卿が陛下に提案したことだそうです。アディニプト卿が陛下に反乱のたくらみを密告したことで東方独立事件は未遂に終わり、旧き家系は痛手を負いましたから」
初めて聞く話にアドラフェルは目を見張る。その隣で老秘書官ザマンは静かにうなずいている。
「旦那様は詳しいことは何もお話になりませんでしたが、あの当時は随分と悩んでおられたようでした。坊ちゃまが王国府へお発ちになったその晩には、我が子を守るのが親としての義務だとそのように仰せでした」
「だが……」
年若い領主は顔をしかめた。
「はい、それで今回の一連の襲撃に関するヒサール領の疑惑が晴れたわけではありません。どうかこれ以上悪いことが起きないように祈るばかりです」
使者は茶を飲み干すと深く一礼して膝の上の帽子をかぶり、腕章を取り付けて立ち上がった。次に使者は女中頭のメイヤに案内されて城内にある魔女の執務室に向かった。使者は王国府魔術戦闘特別顧問に王国府宰相局からの命令書を差し出すと、そのまま城内の賓客用の部屋に留まった。
城主の招集を受け、アウレーシャを含むヒサール城のスタッフたちは再び会議室にすみやかに集合した。街の盛り場も今夜ばかりは大人しく、しかし民家には明りが絶えず、誰もが緊張した面持ちである。
「と、いうことで王国府に出頭するよう要請があった。俺がヒサール領を出たら直ちに防衛府大臣閣下が連れてきた調査員たちが領内に入り、同時に兵士は全員解除せよとのことだ」
若き領主の言葉に、会議室に集まった者たちは口々に言い合う。
「おそらく今、ほぼ同時にイダ領でも同じことが行われているのだろうが、あっちで魔獣改造実験の痕跡が見つかればヒサールでの調査は取りやめになるはずだ」
「じゃあそれまで交渉を長引かせるか?」
「独立未遂事件の対応を思い出しなさい。徹底して旧き家系をけん制した陛下がそんな中途半端なことをなさると思う?」
「そうじゃな、おそらく陛下は捜査線上にヒサールが上がった時点で、むしろ周囲に対してヒサールの潔白を証明するために調査は敢行するはず。とはいえ、交渉次第で武装解除は免除してもらえるかもしれん」
「そもそも本当にイダ家が主犯かわかんないだろ。先代アディニプト卿みたいに魔力を貸してくれって言われただけかもしれんし」
「待て、先代領主閣下がナナマン子爵家夫妻に請われてミスリルの箱に魔力を付与してあの分霊箱を作った。そこまでは良い。だがナナマン家が持って帰ったそれがなぜ今こうして改造魔獣の操縦に使われている? 一番怪しいのはナナマン家だろう。閣下、そのあたりについては?」
「夕方の緊急会議前に王国府に提出した報告にその旨も記してある。おそらくそれを読み次第ナナマン家への聞き取り調査があるはずだ」
「皆さま、話が逸れていますよ!」
鋭い声を上げて秘書官見習いナーヒヤール・ボーカードがくすんだ金髪を揺らして立ち上がった。右の拳を強く握っているものの、眼帯に覆われた顔は穏やかに微笑んだまま穏やかな声で領主に進言した。
「秘書官見習いナーヒヤール・ボーカードがヒサール公爵閣下に申し上げます。閣下、ここは王国府からの要請に疾く従うのがよろしいでしょう。周囲に黒いと疑われる自らの腹を割り開いて見せることこそ身の潔白の証明に他なりません。使者殿の言を鑑みても、陛下がヒサールを悪く扱うはずはございません」
言いながら秘書官見習いの青年は数時間前に届いた暗号の指令書を思い出す。とにかくヒサールの統合の象徴でありヒサール民の士気を上げるこの若い領主をここ魔王城から遠ざけることが彼の第一の役目であった。
しかし、とっさに深紅の髪が立ち上がって声を上げた。
「いいえ、いいえ、それは早計というものです!」
皆の視線が魔女アウレーシャ・バルワに集中した。秘書官見習いならず、その場の誰もが目を丸くして彼女を見つめる。
「魔女殿は王国府の所属だろう? なぜその王国府の意に背くようなことを」
「王国府を裏切るおつもりなのですか?」
「そんなことをすれば魔女様はフレイヤ様みたいに……」
もう二度と魔女の称号を帯びた者を不当な中傷にさらしたくはないと、年長者たちが顔を青くする。それに同調するように現ヒサール領主もまた言った。
「王国府魔術戦闘特別顧問殿、貴官には防衛府大臣閣下と共に俺の説得に励むように宰相局から指令が来ているはずだが?」
貴官はそういう役目だろうと顔をしかめるヒサール領主に、王国府の官吏は言ってのける。
「まさか、今の状態でヒサールの象徴たるアドラフェル・ヒサール・ユリスナ公爵閣下がこの魔王城を離れることがどれほど危ういかお分かりになっていないと?」
その物言いは質問や詰問、というよりも煽りに近い。
「中央からの要請書に添えられた報告には、王宮襲撃に際して魔導書『魔王城大全』が奪われたとあったのですよ。襲撃者が山とある本の中からたった1冊を持ち出したのはなぜ? 修道院時代に見た資料曰く、ヒサールから宮廷に移管された本はあれだけではないのです。ただ単にヒサールを貶めたいだけならあの図書館にはもっとふさわしい本があったはずです。それなのに、なぜ厳重に保管され持ち出すのも厄介なあの『魔王城大全』を選んだのか?」
領主アドラフェルや魔獣調査班のネリネとリィス、あるいは老秘書官ザマン、ヒサール騎士団長バンダック、女中頭のメイヤまでもが顔をしかめた。アウレーシャの物言いが不快だったからではない。気づきながらも指摘したくないことを彼女が言ったからだった。
ナーヒヤールは笑みを張り付けた顔面をわずかに強張らせる。だがそれに気づく者はいない。長らくの訓練が彼に完璧な演技をさせていた。
「今回の一連の襲撃事件の首謀者はこの城そのものを狙っています。おそらくは、魔王城大全に記された魔法を利用するために。だからこそ、再びこの地への魔獣、あるいは何者かの襲撃に備えて閣下がこの地にお留まりになるのが最善です」
アウレーシャの言葉にヒサール騎士団長バンダックが反論する。
「魔女様のご指摘はもっともですが、我々騎士団は対魔獣戦での経験を十分に重ねております、いかなる魔獣にも十分対応できるかと」
「そうです。それに城内にいる者は皆ことごとく高い魔力を保有しています。万が一、ありえないことではありますが、場内に侵入されたとしても彼らが止めるはずです」
ナーヒヤール・ボーカードが騎士団長に同調するが、ザマンが首を横に振った。
「それは過大評価です。確かにヒサール城内の勤め人は魔力の高い者ばかりですが、別に専門的な戦闘訓練を受けているわけではありません」
老秘書官の指摘に女中頭メイヤは神妙な顔で同意した。その隣で、喧嘩最強のメリルの恋人であるバンダックは愕然とした顔で彼女を見つめている。数年前、歓楽街で喧嘩騒ぎが起きていると聞いた彼が現場に駆け付けると、すでに酔漢たちは倒れており、ただ一人拳を構えたメイヤだけが死屍累々の中で涼しい顔をして立っていたのだ。
「何にしろ、このヒサール領に対して事件の首謀者たちからのアクションがあるのは疑いようもありません。ナフル領に現れたのと同じ魔獣が来ないとも限らない」
魔女は額を抑えて苦々しい表情を浮かべたが、語ることはやめなかった。
「そうなれば、撃退にヒサール公爵閣下のお力は必須かと」
「閣下。『魔王城大全』に収録されている魔法は厄介なものばかりです」
立ち上がって言ったのは魔獣調査班長のネリネだった。しがらみの多い実家や王都貴族学校から逃げるように縁もゆかりもないヒサールの地にやってきた彼が、ヒサール城に馴染もうとした新人時代の涙ぐましい努力の一つがかつて魔王の活動拠点、瘴気の補給源としたこの魔王城について知ることだった。
「休みの日ごとに王宮図書館に通って魔導書の閲覧申請書類を山ほど書いたのが……報われない方が良かったですね。魔王城大全に収録されているのは、悪魔の召喚・契約、魔界の門を開く魔法、周囲の生き物を魔獣に変える魔法、そして一番恐ろしいのが、魔界の任意の1階層をこちらの世界にそのまま召喚する魔法です」
「まあいずれにしてもですヨ、悪魔が召喚されたら対応できるのはハッキリ言って公爵閣下や魔女様くらいでしょうネ」
魔獣調査班副班長のリィスは呆れというより諦観をにじませた声で続けた。
「魔界の門が開いた時にはおそらく魔物や魔獣が出てくるわけで、騎士団を統率し街の混乱を抑えるためにはヒサールの輝ける極星こと公爵閣下の存在が不可欠でしょう。……ま、アタシらがみーんな魔獣になったり魔界が召喚されたらもうどうしようもないわけですケド」
お手上げ、とリィスは手をひらつかせた。
「ナフル領に駐留しているという防衛局大臣と調査員のご一行もある程度の戦力を率いているはずです。領の防衛はそちらに任せるというのは」
ナーヒヤール・ボーカードの発言に対する返事は無慈悲だった。
「期待する甲斐もない。使者殿の言は真実らしい。陛下はヒサールとの関係を悪くするおつもりも、事を荒立てるおつもりもない。故に、率いている戦力は常識的な護衛程度だそうだ。魔獣に対する防衛戦は荷が重かろう」
ナフル領主の縁者たる青年はそう言って一通の手紙を取り出した。表には女文字でアドラフェル様へ、と宛名書きがされている。
「先ほど新たに送られてきたナフル伯爵家エリエッタ嬢からの私信の内容とも矛盾しない」
「防衛局大臣閣下ご自身も随分な魔法の使い手だと聞きますが」
「あの方は攻撃よりも防護が得意だが、うむ、それは事実だ。しかし個人の武勇ではひっくりかえせない局面もある、分かるだろう、バンダック」
言われて、ヒサール騎士団長は苦々しく肯定する。人海戦術に対しては個人の力はあまりに無力だ。例えばそれは、数日前の訓練で個人の武勇を誇るアウレーシャが騎士団員たちとの模擬戦闘で敗れたように。
しかし、とナーヒヤール・ボーカードが立ち上がる。
「恐れながら秘書官見習いナーヒヤール・ボーカードが改めて閣下に進言いたします。王国府の要請にいち早く従うことが最善と存じます。もし要請を断り防衛局大臣閣下ご一行がヒサール領内に乗り込んだとあっては領内が混乱するのは明らか。国王陛下がヒサールに同情的であったとしても、中央のその他のお歴々がそれに倣うわけではありません。今後またこの地が中央からの批判にさらされるのは明白です。そしてこの状況で王国府の要請に従い領内を調べさせることは自らの潔白を信じる者にしかできぬ行為です」
眼帯に覆われた顔の中で金色の隻眼が明けの明星のように光った。
彼が座ると今度は老秘書官ザマンが腰を上げて年若い領主に頭を下げた。
「秘書官ザマンが領主閣下に提言いたします。ここは王国府の使者殿、防衛局大臣閣下と交渉し、解答までの期限を伸ばすのがよろしいかと。イダ領かナナマン家、どちらかの調査で新たな情報が上がれば中央はヒサールに対する方針を変えるはずです。それまで時間を稼ぎ、閣下がこの地を離れないようにするのが最善と存じます」
ヒサール領主は卓上に肘をつき、手を組む。その上に額を乗せてうつむき黙り込んだ。10年ほど前、今は亡き彼の父が良くやっていた仕草だったことを老秘書官ザマンは思い出した。
(……思えば旦那様も奥様も一番肝心なことは私に話してくださらなかったし、私も遠慮して聞きもしなかった。一度こうとお決めになったことは頑としても曲げないお姿には鋭い気高さすらあった。そして、お互いのそういう性分が分かっていたからこそ旦那様と奥様は互いを想い合いながらも相手のやり方に口出しなさらなかったし、私もそうだった)
老秘書官がまだ中年であった時分、魔女フレイヤが身重でありながら戦場を駆る姿にまだ少女時分のメイヤと共に魅入っていた。フレイヤの夫は彼女の負担をなるべく軽減するように大剣を振り回して魔獣を狩っていた。街の安全が確認されれば2人は役目を果たせたと心底嬉しそうに笑い、そんな2人が少しでも休めるようにフレイヤ付きメイドだったメイヤと共に動き回ることもまた当時のザマンにとっては誇らしい仕事だった。
(しかし、そういうことの一つ一つが奥様や旦那様を死に追いやった……)
けれど、最後の決断は結局いつも総責任者が一人で下さねばならない。主従の誓いを立てたザマンではこの年若い主人を真の意味で守り支えることはできないのだ。
「ヒサール領主アドラフェル・ヒサール・ユリスナ公爵閣下」
沈黙に支配された円卓に、赤く輝く声が投げかけられた。声の主は深紅の髪をなびかせて立ち上がる。
アドラフェルが顔を上げる。その視線の先で、王国府魔術戦闘特別顧問は口元に穏やかな笑みを浮かべて言った。
「私は王国府から派遣された官吏ではありますが、国王陛下から何よりもまず民を守るように申し付けられていて、私はそれを第一義に掲げて行動しているつもりです」
アドラフェルの脳裏にひらめくのは狩猟館の一室でのことだった。魔女の任務は民を守ること、と国王はこの新任の魔女に念押ししていた。
魔女は己の心臓を撫でるように胸元に手を置き、「ですから」と続けた。
「その意味で私と、領民を守ることを責務とする閣下の立ち位置に何一つ違いはないのです。その閣下がヒサールの民にとって最も良いと思って行動なさることを、私は私なりのやり方でお手伝いしたいと思っています」
アドラフェルのアイスブルーの瞳の中を、赤い流星が駆けていく。同時に彼の張り詰めた様な眉間の皺がほどかれる。それを間近で見つめながらザマンは悟る。
(坊ちゃんもまた奥様や旦那様のように私に決して何も言わない。言わないが、お2人とは、そして3年前とはもう違うのだ。頼り、支えとし、忠告に耳を傾けるべき同志がいる)
年若いヒサール領主は目を閉じて深呼吸をし、ゆっくりと立ち上がった。背筋の伸びたその立ち姿はしなやかな気高さが滲む。
「ヒサール領主アドラフェル・ヒサール・ユリスナは秘書官ザマンの提言を受け入れる。王国府からの使者と王国府防衛局大臣を交渉し、要請受け入れの時間を引き延ばす。上手くいけば、今回の一連の事件の首謀者がヒサールに来たところを防衛局大臣の眼前で一網打尽にできる。交渉には魔女殿にも参加していただく」
指名され、王国府魔術戦闘特別顧問は立ち上がり叩頭してから言った。
「拝命いたします。旧き家系の一員ということで防衛大臣閣下には良く思われていない我が身ですが……最善を尽くします」
「それも織り込み済みだ。その他の交渉メンバーは……」
***
一時解散となった会議室にはアドラフェルとアウレーシャだけが残っていた。
「アディ、良いの? ナーヒヤール・ボーカードを放置して。今回の一件、多分」
アウレーシャは中途半端なところで言葉を切って、アドラフェルの隣に異動してイスに座ると胸の傷をなぞるようにしながら極めて小さな声を零した。
「イダ家が事件の中枢にいる」
カレーナ・イダとレパーサ・イダの妹分はため息をついた。アドラフェルは何も言わずに続きを促す。
「イダ家も分家と合わせるとそれなりに構成員がいるのでその中で誰が、というのは分かりませんが」
バルワ家の娘は言い訳じみた前置きをしてから推測を並べる。
「正直、呪術を使っているという点でイダ家がこの件にどの程度関与しているのか疑っていたのですが、王宮図書館から閲覧困難の書籍を持ち出せたことを考えればもう言い逃れはできないでしょう。イダ家当主は今でこそほとんど表には出ていませんが、独立未遂事件が起きるまで宮廷図書館長を務めておられました。厳重な魔法によるロックの解除には館長としての知識は必須のはずです」
そうだな、とアドラフェルは旧き家系の娘を見やって言う。
「そのイダ家から紹介されたナーヒヤール・ボーカードは疑わしい。あのパーティーの日から俺たちが抱えていた懸念だ」
アウレーシャは首を縦に振る。ナフル領のパーティー会場の隅のバルコニーでアドラフェルが考察したことから、2人の中で魔獣改造の拠点候補はいくつかに絞られていた。その候補地の1つがイダ家の所領だった。そこから引きずられるようにして2人はそれとなくナーヒヤール・ボーカードを注意して見ていた。
「だが、それにしてはナーヒヤール・ボーカードの動きは鈍い。少なくともザマンは彼に対してほとんど違和感を覚えていないようだ」
言われて、アウレーシャは考えながらうなづく。
「確かに、あの秘書官見習い殿がヒサールの情報を引き出すためのスパイかと思っていたのですが、まあ実際この状況は良くないとはいえ、なんとか対応できそうではあります」
「それに、違和感がある」
「違和感?」
「アウリー、考えてみろ。彼が秘書官見習いとしてこの城に潜入したとして、例えばあのナフル領の戦いでナーヒャの名前を挙げてまで俺たちを喜ばせる必要があったか? そこまでする理由があるか?」
もちろん円滑な人間関係を築くためには必要なことだが、あそこまでする必要はないはずだ。それに先の会議の場で公爵自身の潔白を示してほしいと行った時の明けの明星のような瞳の輝きは本物だった。感情の高ぶりによる光を、魔力の扱いに長けたアウレーシャが見間違えるはずもない。
「それからイダ家のご姉弟のことだが」
自身の昔なじみの名を出されてバルワ家の娘は肩を緊張させる。
「……分からんが、あのお二人がアウリーのことを心配して一緒にいたいと思っていたのは本気だろう」
はじかれたように顔を上げてアドラフェルを見つめて、アウレーシャはさわやかに笑みを浮かべる。
「ありがとう。……じゃ、交渉メンバーと最終確認して、まずは大使殿に交渉、だよね」
「ああ、行くぞ」




