18話 呪わしい事実
(……ひとまずここまでは予定通り、か)
静かな自室にいたナーヒヤール・ボーカードは自身の羽織っているベストのポケットに突っ込まれていた紙片を見てため息をつく。小さな紙に記されている象形文字のような文章は一種の暗号で、これを読み解くことなど彼にとっては造作もないことだった。
(えーと? はあ、なるほどね、さすがはあの方々だ。アドラフェル卿やナフル伯の真面目さ、それぞれの領の魔獣調査班の技術力も計算に入れて今回の本当の計画を組んでるのか)
自嘲気味に笑って身を起こし、小さな机の上に置いてあるマッチに火を灯し紙片を窓辺で燃やす。吹き込んだ風に乗って、昼時の青い空に僅かな灰が飛んでいく。ついでにその火で煙草の先端を焦がした。
紫煙を吐き出しながらハ、と短く声を上げて秘書官見習いは笑った。
「その辺の木ッ端貴族や子供なんて敵いやしない」
ぐしゃぐしゃと頭を掻いて、そのまま椅子の上に放り投げられていた小さなケースから煙草を取り出して火をつける。
(今から全部を台無しにするか? 今から僕が動いたとして……)
ため息の代わりに煙を吐き出しながら目を細めて脳内でシミュレーションをする。煙も灰も風にさらわれて何も残らない窓辺を見つめてナーヒヤールはゆっくりと首を横に振る。
(……ダメだな。今動いたら全部終わった後にあの人たちの評判が落ちる、それこそ僕が一番避けたいことだ)
ナーヒヤール・ボーカードは顔を上げる。風に吹かれてくすんだ金髪が揺れて、眼帯を外したその顔が太陽の下にさらされる。
左目の金目の隣、普段は眼帯に隠れた右の目には透明な魔法石が輝いていた。
「何にしろ、あと数日。もうあと数日でこれまでの僕の全部が報われるんだ。……それが叶うなら何がめちゃくちゃになっても良い」
ナーヒヤール・ボーカードは地上に視線を落としてうっそりと目を細める。強く風が吹いて、煽られた前髪が魔法石の右目を隠した。視線の先では魔女アウレーシャ・バルワがヒサール公爵の手を引いて走っていた。
***
「これ、この本が役に立つかもしれません! あとついでにアドラフェル卿もつれてきました!」
右手に本を、左手にヒサール公爵の手を握った魔女アウレーシャが肩で息をしながら言った。
「天下のヒサール公爵の手をひっつかんで連れてこられる人なんてこの世にただ一人、魔女様だけですネ」
リィスが笑って軽口をたたくと、アウレーシャはけらけら笑って首を横に振る。
「もう一人います! ねぇ、閣下」
盟友の視線を受け、アドラフェルは無邪気に笑って肯定した。共にあの黒髪に金目のナーヒャを思い出しているのだと手に取るように互いにわかってアウレーシャは妙に愉快な気持ちになる。
生真面目な城主が見せた子供のような顔にリィスは目をぱちくりさせた。
「あらま、お熱いんですネ」
茶化してみせるが当人たちは照れもせずに笑うばかりである。年齢不詳の女技術者は目を細めて呆れたようにほほ笑む。
「ま、それを置いておいても随分な度胸ですヨ。ちょっと前まで若い面子なんて騎士でも執政官でも雑務係でも閣下に遠慮してお声がけにずいぶん戸惑っていたのに、魔女様がいらっしてからみんな随分平気になったみたいで」
リィスの言葉に当のヒサール領主は照れたようになり、新任の魔女は誇らしげに笑った。
「おかえりなさいませ、閣下。その様子だとしっかりお休みになれたようで何より」
会話が途切れたのを見計らって、魔獣調査班長ネリネが仮眠室から出てきた上司に頭を下げた。
「おかげさまでな、充分休めた」
魔女に手を引かれたてやってきたアドラフェルは飾り気のないシャツの上にコートを引っかけたラフな恰好で、アウレーシャに声をかけられるまで眠っていたのだろうというのが手に取るようにわかった。老秘書官ザマンにも秘書官見習いナーヒヤール・ボーカードにも休みを言い渡していたため、自領内とはいえど供もつけずに歩き回るという珍しい状況であった。
「それは良かった。では仕事の話を」
「閣下、お話はどれくらい聞いていますか? とりあえずこれ見てくださいナ」
「ネリネもリィスも顔色は悪いが……ご苦労である。魔女殿から話は全て聞いている。それが件の、爪が入った魔力の宿るミスリル鉱の箱か?」
屈みこもうとする領主に、ネリネは素早く立ち上がって若草色の光をまとうミスリルの箱を手渡す。その中身を見て青年領主は露骨に顔をしかめた。
「爪のこの黒っぽい汚れは……土ではなく血か?」
「そう思います。だいぶ古いものですネ」
「ならば拷問によって引きはがされたものか?」
「おそらくは。多分1人の人間から取られた爪で、形や大きさを見るにちょうど両手10枚分揃っています。成長期が来る直前の子供か、小柄な女性か、どちらかのものだと思われますが……この辺りはモーナ医師に聞いてみなければ何とも」
「なるほど。それで、魔女殿が持っている本は?」
声をかけられて、草地の上に座り込んでいた魔女は周囲の調査班員と眺めていた本を掲げる。
「書庫にあった呪術の本を持ってきました! ヒサールに来て2日目の城内の案内で書庫に寄ったときに見かけました!」
どういうルートで作られたのかは不明だが『呪術について』と書かれたシンプルな表紙には著者名すらない。私家版だとしても随分質素、もっと言えば不十分な作りである。あまりに地味な背表紙だから気まぐれに引き抜いたのがこの本だった、とアウレーシャは言う。
「呪術、は確か魔法とは異なるものだったな?」
そう言いながらアドラフェルは本をめくって首をひねる。現領主にも覚えのない書籍らしい。
「呪術ですか……」
「魔法技術史の中じゃ一瞬流行って廃れたけど」
「本とか出てたのか」
魔術調査班のスタッフたちが半ば戸惑ったように言いながら本をのぞき込む。
魔力とともに生きてきた旧き家系の娘は末尾の索引を開きながら言った。
「呪術とは魔王時代が終わった後、魔法ありきで生まれた技術ですがその根本的なコンセプトにはアンチ魔法的な側面を大きく持ちます。呪術の最大の特徴は発動に魔力をほとんど必要としないことです。その代わり、髪の毛や爪、場合によっては体の一部などの代償を必要としますが」
言いながら魔女は肩をすくめる。その言葉を継いで、魔獣調査班長ネリネが言った。
「代償、つまり生贄を必要とするのは魔王時代、あるいはそれより前の時代の大規模な魔法から着想を得たのでしょう。便利そうな呪術にはそれなりに重い代償が必要ってことでけっきょく大衆受けせず廃れていきました」
貴族学校の呪術研究部門が閉鎖されて随分長い、などと言ってネリネは呆れたように息を吐く。その横でリィスはそれで良いと吐き捨てる。
「呪術は運命を操るとか相手を死なせるとか、本当に効果があるのか正確な観測が難しいモノも多いですからネ。それに、催眠の類は乱用されると社会秩序が乱れるものも多い」
「いずれにせよ呪術は魔王なき平和な時代に作られた技術ですから、その内容は戦闘とは大きくかけ離れた方向に傾きました」
「……詳しいな、魔女殿」
半ば呆れた様なアドラフェルの物言いに、旧き家系の娘は当然です、と皮肉っぽく笑う。
「旧き家系にとって、呪術は魔法や魔力に対する侮辱にも等しかったのです」
索引で確認すべきページを見つけたらしいバルワ家の娘はそう言いながら、当該の項目を求めて紙を繰る。
「古き家系にとって魔法とは戦闘技術であり、その身体にたたえた魔力は連綿と続いた血脈の研鑽の証。魔力を使用せず戦いにも使えない呪術はそれに真っ向から否定を突き付ける技術、気に食わないものなのです。バルワ家当主は、呪術が使われなくなった今でもあれを大いに嫌っていて、だからこそしっかりと教え込まれたものですよ」
苦笑した古き家系の娘は目的のページを開いて言った。『分霊箱』と書かれた項目である。
皆がズイとそれをのぞき込んだ。
「……魔力を封じ込めた箱、魔力袋みたいなものか?」
「色々な呪術に使える汎用性の高い代物、『分霊箱』。なるほどね」
「中に入れる代償によって効果が強くなる、のか」
「今回の場合はこの魔獣の改造を完成させるのに使ったの?」
否、と声を上げたのは魔獣調査班長ネリネであった。
「魔獣は急ごしらえの感はあるがある程度完成していると見て良いだろう。このミスリル鉱の箱に宿っている魔力についてもう少し調べなければ……」
アウレーシャは人々の輪から少し離れ、アドラフェルの顔を見て問いかける。その色白の大きな手の中にあるミスリル鉱の分霊箱は若草色の魔力光をまとっている。
「閣下、そのミスリル鉱の魔力に覚えはありませんか?」
「……あいにくと」
アドラフェルは首を横に振り、盟友に問う。
「そちらこそどうなのだ」
アイスブルーの目に見つめられて、アウレーシャはぐっと何かをこらえる時の顔をして眉間に深い皺を刻み、ぎゅっと目とつぶるとその紅玉の瞳を見開いて言った。
「あの箱に宿る若草色の魔力の雰囲気、イダ家のカレーナお姉さまとレパーサお兄様に似ています」
けれど、と一拍置いて古き家系の娘は語調を強める。
「あくまでもお2人の血縁の方の魔力かと。決してご本人たちのものではありません。あのお2人に何度も抱きしめて貰って手も握って貰っていますから、それは確かです」
絶対に、と断言すると赤い瞳にピカリと光が宿る。その熱っぽさが彼女の発言に嘘偽りがないことを語っていた。
「……あい分かった」
アドラフェルは一つうなずく。
「イダ家ご姉弟の魔力の光は共にもっと深い緑色だ。アウリー、俺は5年前の狩猟会で見たので良く知っている」
そう言って僅かに目を細めれば静かな微笑が浮かんで、アウレーシャはようやく全身の緊張を解いて首を縦に振った。
「閣下、私はこれからここまでで分かったことを急ぎ纏めて遅くならないうちに王国府へ調査報告書の第2弾を送ります」
「よろしい。抜かりなく頼むぞ、魔女殿」
ハイ、と返事したところで周囲を警備していた兵士がヒサール公爵に声をかけた。
「閣下、ザマン秘書官が」
おいでになっています、まで兵士の口に上ることは無かった。
岩でできた鹿が真っすぐに駆けてくるのだ。とっさに兵士たちが武器を構えてヒサール公爵の前に壁となって立ち並ぶが、ゴツゴツとした鹿の首元に括りつけられたものに、ザマン秘書官が焦ったように声を上げる。
「こちらはナフル伯爵夫人の先駆けです、武器を収めて!」
警戒を解くと、鹿もまた歩を緩めて従順なしぐさで公爵の前で膝を折った。その首を飾るのはナフル家の金色の紋章のついたリボンで、紙が一緒にくくりつけられている。それをほどいたザマンは白い封筒を主人に見せた。表には女文字で「アドラフェル様へ」と書かれている。
「……エリエッタ嬢か」
秘書官がベストに吊り下げたペーパーナイフで手紙の封を切るのを見ながら公爵は問う。
「ザマン、今日は休みと伝えたはずだが」
「メイヤが、呪術の本を抱えた魔女殿を見かけたと言っていたのを聞いて、つい」
「ほう?」
「……申し訳ありません。重要なことではないと怠慢をしておりました。閣下が仮眠を取られる前にお伝えしておけばよかった」
「何が分かった」
老秘書官は僅かに目をさ迷わせ、しかしまっすぐに年若い青年に向き直った。
「パーティーの参加客の方から聞いた話です」
そう前置きする声は努めて穏やかである。
「南方に居を構えるボーカード家は平民ですが、今の時代にあっても独自に呪術を研究する家だそうです。ボーカード家は代々イダ家と親しく、話を聞かせてくださった方曰く、ボーカード家には片目の少年の養子がいたそうです。行き倒れていたのを拾い、体質なのか魔法は使えないが利発な子だとか」
アドラフェルはアウレーシャと顔を見合わせた。互いの顔には驚愕の色が広がり、もはや言葉も出なかった。
「そして魔女様がお持ちになったその本は、9年前、王都に赴かれたアドラフェル坊ちゃまのお父上……先代領主アディニプト様が帰り際に南方でお買い上げになった本です。私家版として記念に作った本を、珍しい内容だからと製本工房に頼み込んで大枚をはたいてお買い上げになりました」
老秘書官の口から告げられる事実が何を示すのか考えあぐね、黙り込んだヒサール領主は僅かに震える手でエリエッタからの手紙を開く。黙り込んで文面を追い、次第にその顔から表情が失われる。
見開かれた目の中でアイスブルーの瞳が光を失い、白銀の髪は心なしか薄汚れたような色になる。
長い沈黙があった。
「……今、一体このヒサールで、否、この国で何が起きている?」
ようやく出てきた言葉はそれだった。
「失礼」
アウレーシャはアドラフェルの手から手紙を奪い去り、そこに書かれた内容に「は」と音をこぼす。バカバカしい、と笑う声の最初の一音であり、意味が分からない、と怒る声の最初の一音であった。
『アドラフェル様、緊急時ゆえの文面をお許し下さい。そしてこれはナフル領もヒサール領もシャマル王国も関係ない、ただのエリーからアドラフェル様への私信です』
そう始まった文字列は、以下のように続く。
『昨晩出現したあの人型の大型魔獣をアウレーシャ様のアドバイスに従い、中身を調べましたところ、金色の瞳の目玉が入った、薄青い魔力をまとうミスリルの箱が出てまいりました。その箱の魔力はアドラフェル様のお父上であるアディニプトおじ様の魔力ではないか、と私は感じました。アドラフェル様によく似た魔力であるのは確かで、我が父もそのように言っておりました』
アウレーシャはわずかによろめきながら手紙をザマンに託す。その内容に目を通し、冷静沈着な老秘書官もさすがに苦々しい表情をし、けれど次には静かな声で言った。
「ナフル領に魔力解析の技術が無いゆえ既に王国府に現物を送り解析を任せたというのなら、我々ヒサールもいち早く王国府に報告を送るのみです」
いつもと変わらぬその口ぶりに、青年領主は顔を伏せて唇をかむ。
ヒサール領に現れた改造魔獣とナフル領に現れた改造魔獣が同一犯の手によるものであることはすでに確定したに等しい。そのうえでナフル領の人型魔獣とほぼ同タイミングで現れて王宮を襲撃したサル型魔獣も、改造魔獣の作り手の影響を受けている、と考えるのが無難である。
(そしてナフル領を襲った魔獣には前ヒサール領主アディニプト卿の魔力が使われていた。……これらの一連の事実を見れば、誰もが『各地を騒がせた挙句の王宮襲撃の主犯にヒサール領主が協力している』と解釈する)
王国府魔術戦闘特別顧問の脳内では最悪のシナリオがシミュレートされている。ヒサール領赴任前にさんざん言われていた不本意な命令が下るのはそう遠くない未来のはずだ。
「……ヒサールが国賊の汚名を着せられるのも時間の問題か」
現領主の青年はそうつぶやき、合わさった肌が白く変色するほど強く拳を握る。それを目の当たりにして、途端にアウレーシャの心臓は強く脈打ち始め、身体は無意識に動き出す。
「大丈夫、アディ。私がいる」
握りすぎた拳に触れ、勇ましく微笑んで良く通る声で宣言する。その熱と声に撃たれて顔を上げたアドラフェルに、盟友はなおも語りかける。
「約束したもん」
「……ああ」
アドラフェルの顔におのずと笑みが浮かんだ。
「今はやれることをやるのみだ。魔獣調査班長ネリネ、急ぎ調査報告書を仕上げよ。分霊箱の魔力の解析は17時までに終わった分だけまとめろ。俺の報告書と箱の現物と併せて王国府に送る」
「はい、すぐに!」
「ザマン、本日17時より城の大会議室に各部署の責任者を集めよ。緊急会議を開く」
「かしこまりました」
「王国府魔術戦闘特別顧問殿、報告書を仕上げて王国府に送ってくれ。17時からの会議では書記を務めてもらいたい。議事録は写しを作り、原本は王国府に送る」
頼めるか、と問われてアウレーシャは頭を下げる。
「お引き受けします」
落ち着いた仕草と声であった。
(大丈夫、私がすること、したいことは何も変わらない。10年間私の心に火を灯し続けたアディに、ナーヒャに、必ず報いる。あの約束を果たして、いつでも味方でいて、困ったら助ける。そのためにだったら私は腕の1本、命の1つ投げ出したって構わない)
顔を上げたアウレーシャの深紅の髪が、紅玉の瞳が光を上げる。
(彼らの命も名誉も、傷つけさせるものか!)




