17話 昏き朝、来る
ナフルの街の人々は、避難先から、あるいは混乱した街中から熱心に街の外を眺めていた。恐れからではなく期待と祈りから、あの人間のような姿をした巨大な魔獣に立ち向かう3人の若者を見つめているのだ。
ナフルの街の手前、行く手を阻まれた巨大魔獣は戸惑いながらも進行ではなく目の前の人間たちに応戦することを選んでいた。
魔獣が足止めの氷を力づくで逃れて振り下ろすと、その五指の手に魔女アウレーシャが炎をけしかける。迫る高温に魔獣は本能的に怯み、その間隙を縫ってアドラフェルとナーヒヤールが斧を振るい、あるいは拳を振り上げる。
(そういえば、秘書官見習い殿は魔法を使わないな。身体強化の精度が凄まじいのであまり意識していなかった……)
ふとアウレーシャはそんなことを思いながら、体内で魔力を練り上げ、体内の魔力濃度を上げていく。
「そろそろかな」
呟いた彼女は氷の柱の上に立ち、炎の鳥を飛ばした。彼女の発した「合図」にアドラフェルとナーヒヤールは互いの顔を見合わせ、鳥の援護を受けながらアウレーシャの隣まで退避した。
「アウリー、いけるか?」
「時間稼ぎありがとう!」
魔女はさわやかに笑い、ミスリルの杖を高く掲げた。そのてっぺんで炎の鳥が羽を休めると燭台のような形のそこがゴウと火を噴いた。鳥は翼を広げて噴き上がる火を己の内に取り込み、火の粉を散らしながら巨大化していく。
その場にいるアドラフェルとナーヒヤールだけでなく、避難中の領民も、そして魔獣さえもが炎の輝きに目を奪われた。
今まさにナフルの街を破壊せんとする人型魔獣と同じだけの大きさの炎の翼が、夜の闇を赤々と染め、明々と照らしている。
「炎よ」
アウレーシャは唱え、手にした杖で強く足元を叩いた。
「不死鳥の抱擁!」
魔女の詠唱が響き渡る。その瞬間、炎の鳥、否、不死鳥は翼をひとつはためかせてそのまま真っすぐに人型魔獣に突っ込む。燃え盛る巨大な翼は魔獣をすっぽりと包み込んだ。
「ギ、ギエェェァァァッァァッ!」
魔獣の悶絶の声が夜空をつんざいた。もんどりうって逃げようとし、人間のような形の頭部から垂れ下がる長い髪の毛が木々に引っかかっているのをほどこうとして、しかしその髪の毛自体にも引火し、混乱した魔獣は泣きわめいて地に伏せた。ズドン……という音と共に大地が揺れる。
街中からわぁっと歓声が上がった。貴族も平民も兵士も、互いに肩を抱き合い窮地を逃れたと3人の若者たちをほめたたえる。
しかし、当の本人たちは不快感を示しながらも油断しなかった。
火災にならないようにアウレーシャが炎をかき消した途端、魔獣の体に変化があった。
「ッ、来るぞ! 氷よ!」
アドラフェルがとっさに警告して氷で巨大な壁を作る。しかし分厚い氷塊を破ってまっすぐに殺到する黒。
黒という黒。
「炎よ!」
すかさず炎が舞い踊って、周囲の黒を燃やす。視界が開けると、地面を見下ろたナーヒヤールはため息をついた。
地面に倒れ伏した魔獣の頭から伸びる長い髪がひとりでに、蛇のように動き、彼らを狙っているのだ。
「あれだけ燃やして無事な髪の毛って何よ!」
アウレーシャが悪態つきながら杖の先端にもう一度炎を灯した。
「俺が行くか」
「お供します。アウレーシャ嬢、あの髪の毛をこっちに誘導できますか?」
任せて、と魔女は杖の先端に再び炎を灯した。炎が今度は3話の小鳥になって、術者の指示に従って魔獣の方へ飛んでいく。鳥たちに気づくと、魔獣の髪はそれを狙ってうねうねと動きだした。術者の指揮で大きく旋回する小鳥たちの動きにつられて魔獣の黒々とした髪もあっちこっちと複雑に動いて次第に絡み合い、不格好な三つ編みが出来上がる。
「引き寄せます!」
アウレーシャが鳥たちを呼び寄せると、魔獣の髪はもつれあいながらもそれを追いかけ、彼女らの方へと近づいてくる。すかさずアドラフェルが斧を構えて飛び出した。振りかざした刃が持ち主の魔力を宿してほのかに輝く。
その瞬間、魔獣の髪の標的が切り替わった。アドラフェルの胴をめがけてブォンと髪の毛が唸る。その勢いで炎で作られた小鳥たちは掻き消えて、アウレーシャの身体が硬直する。
「閣下!」
ナーヒヤールが間一髪でアドラフェルを引き寄せ、地面に着地した。標的を見失い混乱する黒髪の群れにアウレーシャは素早く炎を差し向ける。そのほんの短い時間の間にアドラフェルは大戦斧を握りなおし、小山のごとき魔獣の体に登りあげた。腕に乗り、肩甲骨を辿ってそのままうつぶせになった人間のような魔獣の首筋まで言葉もなく駆けていく。
「閣下、何をなさるおつもりで!」
先端の焦げた魔獣の黒髪を掴んで引きちぎり、主の背を守りながら秘書官見習いが焦りも露わに問いかける。
「どう、も、こうも!」
血濡れの氷冷公は答えながら脊椎を登り、魔獣の頭を踏みしめ頭頂へと向かう。
「大元からつぶすだけだ!」
振り返った彼の秀麗な顔は苦しげに歪み、大戦斧を握る手がかすかに震えている。それでも大戦斧に氷を付与することで刃を巨大化させ、足元にある魔獣の脳に照準を合わせて構える。
「お手伝いします」
ナーヒヤールが涼やかな声で言い、アドラフェルの震える手に己の手を添えた。
その一連の流れを見守っていたアウレーシャは盟友の意図を理解して顔を青くするが、胸の傷を撫でると目を見開き、魔女の杖を握りこんで小さく詠唱した。
「燃え落ちる流星」
ボッと音を立てて彼女の全身を炎が包む。そのまま、魔女は氷の柱から飛び降りた。杖の先端、鋭い石突が狙うのは魔獣の心臓部。
大戦斧が振り下ろされる。同時に巨大な氷柱が立ち、巨大人型魔獣の脳髄を貫く。
杖が燃え落ちる。同時に巨大な火柱が立ち、巨大人型魔獣の胸部を焼き尽くす。
一瞬の静寂の後、鮮血が吹きあがった。噴水のように飛び散った血が雨のように降りかかり、戦場の徒を濡らしていく。
今度こそ魔獣は動かなくなった。戦いに出ていた3人の動きがなくなったからだろう、一部始終を見守っていた避難所の人々が今度こそわぁっと歓声を上げた。
「魔女様は狩猟会からさらに腕を上げておられるようですな」
「当然ですわ、私を負かせたのだからそれくらいやっていただかないと」
ほっとしながら感心するナフル伯爵と冷たく言いながらもどこか嬉しそうなエリエッタの隣で、イダ家の双子はそわそわと落ち着かない様子である。
「アウレーシャってば大丈夫かしら、随分高いところから飛び降りていたけれど怪我しているかもしれないわ」
「全身に炎をまとっていたし、火傷も心配だ」
平素は落ち着き、鷹揚で、イダ家当主として領主の業務も稼業もそつなくこなしてみせるカレーナとレパーサの動揺を見て、ナフル伯は暖かい茶を差し出してやる。
「一児の父として私もお気持ちはよくわかりますが、アウレーシャ嬢は魔女の称号を帯びた方ですよ。……そんなに心配なのですか?」
旧き家系の子らは瞼を伏せ、カップを受け取りながら言う。
「心配だ。天才という言葉の擬人化のようなご母堂の元に生まれて、まあそんなだから魔法の扱いもあまりよく教われず、膨大な魔力が負担になってよく寝込んで、魔力コントロールができずに泣いていたあの顔をボクは今でも思い出せる」
カップを傾け、視線を熱心に窓の外に向けるカレーナもまた低い声で述懐した。
「バルワ家は旧き家系の中でも純粋な戦闘技術としての魔力の扱いに特化した家ですわ。そんな家で魔力コントロールできないことがどんな意味を持つか、お分かりになるでしょう」
「旧き家系というのは、色々後ろ暗いこともある。あの頃の彼女がうまく魔力のコントロールができなかったのは呪いや病のようなものです」
「呪いや病ですか」
レパーサの言葉を受け、ナフル伯爵が首をひねる。旧き家系の双子は手を温めるようにカップを握りしめた。
「アウレーシャは生まれた時から今と同じだけの魔力を持っていましたわ。普通、魔力量は成長と共に増えるものでしょう?」
「だけど彼女は違った。その異様な生まれの原因は、旧き家系の過去の所業の報いです」
だから心配で、と苦笑したイダ家の子供たちのカップに、年かさのメイドが2杯目の茶を注いだ。それを飲みながら二人は窓の外を見つめて黙り込んでしまった。
さて、とナフル領主が声を張り、周囲の集中を引き付ける。
「魔獣が動かなくなったのならここからは我らナフル家の仕事だ。お前さんや、商工会議所の安全確認を頼む。医療班を連れて行って、怪我をしている者、ショックを受けている者を診せるように。私は屋敷内の確認を」
領主の言葉にナフル夫人は担当の者たちに声をかけはじめる。幸い死人は出ていないようだったが、突然のことに混乱した街中で怪我をしたものがそれなりにいるようだった。
「エリエッタや、お前は魔獣調査班とザマン殿と一緒にアドラフェル卿たちの迎えに行って差し上げてくれ」
「それなら何か食べ物とアルコール以外の飲み物をもって行きますわ」
「王都への第1報は……ウム、既に出したのなら良い。調査班は魔獣の調査を。あそこで戦っておられたお三方にも話を聞くように。ナフル騎士団は逃げ遅れた者たちの安全確認を。私が続けて後始末を仕切る」
急げよ!とナフル領主が言うと、ナフル領の人々は凛々しい声で返事をした。
街の外、動かなくなった魔獣の上に座ってアドラフェルはため息をついた。彼の傍に座り込むナーヒヤールとアウレーシャも無言を貫いている。顔色が悪く見えるのは夜闇のせいでも返り血の性でもないだろう。
「ヒサールが心配だ」
長い沈黙を破ったのはヒサール領主のつぶやきだった。
「人型に近い魔獣など、改造魔獣だとすれば趣味が悪い」
魔女が自身をなだめるように自身の心臓の上を撫でつつ顔をしかめ、その隣でナーヒヤールが黙ったまま拳を強く握った。アドラフェルはぎこちなく体を動かし、両隣に座り込む年下たちの手をそっと撫でた。
「すまんな、ナーヒヤール。ろくでもないことを手伝わせた。アウリーにも嫌なことをさせた」
宥めるような手つきに秘書官見習いは首を横に振って平気です、と笑って見せる。アウレーシャも軽い調子で返り血塗れの互いの姿をからかった。
「みんな揃ってひどい恰好。せっかくもドレスがぐちゃぐちゃ」
「まったくだ。しかし、ナフル伯ならもう王都にこのことを速報しているだろうから……明日にでも緊急の御前会議がありそうだな。頭の痛いことだ。俺たちへの呼び出しもあるかもしれん」
「帰ったら少し休んですぐにこの間の魔獣の解体をして……」
微妙にかみ合っていない会話をするアウレーシャとアドラフェルは平気だと振舞っているものの疲労の色が滲む。何せ、夜通し遊んでいたところにこの騒ぎである。そのうえアウレーシャは今までやらなかったような魔法の使い方を試した反動が出ている。アドラフェルもまた、身体強化を駆使した飛行補助がそれなりに負担になっていたらしい。挙句の果てに、この巨大な人間のような姿をした道の魔獣の存在。
人間、ないしはそれに近い形をした生命を殺すなどこれが初めてのことであった。それはまた、ナーヒヤールも同じで、深く息を吐いた彼はアドラフェルの手に触れたことを思い出し、くすんだ金髪をかき回しながら思案顔になる。けれど彼が何か言うよりも前に向こうから聞きなれた声がした。
「皆さま、大変なご活躍ぶりでございましたな」
「ヒサール公爵閣下、王国府魔術戦闘特別顧問殿、秘書官見習い殿、先の戦いぶり拝見しました。我が領のためにお力を振るってくださったこと、ナフル領を上げてお礼申し上げます」
「アドラフェル様、アウレーシャ様、そちらの見習いさんもお疲れでしょう。元気の出るものを持ってきましたわ」
ナフル伯爵家エリエッタとザマン秘書官と共にナフル領の魔獣調査班がやってきたのだ。エリエッタが掲げたバスケットの中にはジュースやパイ、サンドイッチやキッシュが入っている。パーティーの休憩室に置いてあったものを詰めて持ってきたのだろう。
「まずはこちらでお顔と手をお拭きになってください」
老秘書官ザマンが清潔な湿ったタオルを差し出し、彼らが返り血をぬぐう間にバスケットから茶器を取り出す。
「暖かいお飲み物もございます」
ザマンはいつも通りに穏やかに笑った。
「ひとまず茶を1杯ずつ頼む」
ふう、と息をついた若き領主の顔には安堵が浮かんでいた。
魔獣調査班が早速この大地に寝そべった魔獣の皮膚や燃え残った髪の毛などを採取し始める。それを眺めながら、エリエッタとザマンが状況の報告をする。
「後で交戦の際の所感などを彼らに伝えて欲しいんですの。……我がナフル領、と言わずどの領の魔獣調査班もヒサール領ほど人員も知識も経験も充実しておりませんが、皆アドラフェル様たちの戦いぶりを見てやる気に満ちておりますの」
ナフル領主の娘に、ヒサール領の人々は首を縦に振った。調査班員たちのキビキビとした動きも、未知の魔獣に果敢に手を伸ばす姿も、責任感と誇りに満ちている。
「それから、ナフル伯爵から伝言です。王国府に提出する調書を作るために後で取り調べを行いたいそうです。なるべく早く済ませるので、魔獣調査班の質問に答えたら館まで戻ってきてほしい、とのことでした」
紅茶をすすり、サンドイッチを飲み込んだヒサール領主は首を縦に振る。
「ヒサールは大丈夫ですかね。バルコニーから出た時に御者のミゲルさんにヒサール領の様子を見てくるように頼んでいたのですが」
秘書官見習いが眉をハの字にして問うと、老秘書官は首をひねる。
「そうですね、そろそろ戻ってくる頃ですが」
「それはそうとレディ・エリエッタ、このパイもキッシュもとても美味しいです」
「ありがとう、見習いさん。厨房係に伝えておきますの」
にこりと伯爵令嬢がほほ笑んだ時んだ。
涼しい風が吹き抜けて、ふ、と視界にまぶしい光が入り込む。誰もが自ずと顔を上げて深く息を吐く。
「……日が昇るな」
遥か東の空から太陽が昇り始めている。
「ええ、長い一日でした」
太陽は空に夜の青と朝の赤が隣り合う中に紫やオレンジ、黄色の美しいグラデーションを作り出し、大地をも染め上げて彼らを照らし輝いている。アウレーシャが呟く。
「綺麗な朝焼けですね」
「ああ」
「僕、この時間帯が一番好きです」
その光を見つめてナーヒヤールが目を細める。長く混沌とした夜が明けて、新しい一日がやって来るのだ。
「ヒサール公爵閣下、ミゲルが戻りました! 緊急、緊急事態です!」
たとえ、それがどんな一日になろうとも。
「ナフル領への魔獣襲撃とほぼ同タイミングで、王都シャマル王宮が魔獣に襲撃されたようです!」




