12話 変調の風、すなはち嵐
「ごきげんよう閣下、王国府魔術戦闘特別顧問がまいりました。お加減はいかがで?」
変則的な魔獣の襲撃による混乱も落ち着いた夕方、前例のない魔獣を調べ始めた調査チームへの所見を伝え終えたアウレーシャは、一度着替えてから出撃報告書を携えてヒサール領主執務室を訪れた。
入れ、と言った部屋の主もまた身綺麗にして、今はソファに腰かけてシャツを大いに肌蹴させ、肩の傷を診せているようだった。
「……入ってよかったんです?」
「構わん、ちょうど彼のことも紹介したかったのでな。魔女殿、こちらが我がヒサール唯一の回復術師、モーナ医師だ」
言われて、青年領主の古傷の見える厚い肩に包帯を巻いていた小柄な中年男性がペコリと頭を下げた。眼鏡をかけ、口元に茶色いひげを生やした優しげな顔立ちである。
「初めまして、モーナ医師。どうぞそのままお座りに、治療を続けてください」
「それではお言葉に甘えまして。改めて、アウレーシャ嬢、私がヒサール城の主任医師モーナです。閣下の腕ですが、熱が出たり炎症が起きないように薬を処方しましたので、この分なら3日ほどでよくなります。傷は残るかもしれませんが」
そこまで言って、ヒサール所主任医師はため息をつく。
「先代もそうでしたが、アドラフェル様も無茶ばかりなさいます。ま、それはあなたも同じみたいですが」
眼鏡越しの目がギロリと魔女を睨みつける。確かにあれは少々無茶だったかもしれない、とも思って左腕をさすりつつ「すみません」と頭を下げた。
「それにしても、閣下、その上腕の古傷は切断痕ですか?」
「そのまさかだ!」
あっはっはっは、と声を上げて笑うアドラフェルの左上腕には横に白い痕が走っている。呵々大笑する城主の横で主治医は派手にため息をついて笑っている場合ですか、と苦言を呈する。
「医師が良い腕だったのでな。回復魔法ですっかり綺麗に元通り、だ」
「褒めてくださるのは嬉しいですが、回復魔法は完璧な魔法には程遠いんですよ。回復魔法だけで腕をくっつけたり破裂した内臓を修復した、なんてマネができるのはあの伝説の勇者一行の回復術師だけ。それだって体内の魔力を極限まで練って濃度を上げて、瘴気と呼ぶレベルにまで引き上げてようやくできた無茶だというから」
医師はため息をついて、領主のシャツのボタンを留める。治療は終わったらしい。ソファの背に引っ掛けていたジャケットを羽織りながらアドラフェルは「無理もないことだ」と言う。
「そもそも魔法は魔界の生き物を撃退するために人間が魔界の生き物から盗んで発展させた戦闘技術だからな。回復なんてその真逆だろう」
「私の胸の傷も回復術師が治してくれましたが痕は残りましたからね」
アウレーシャは己の胸元を撫でて喋る。
「日常でも使える便利な魔法なんてものが出てきたのはここ最近の話ですし。通信の高速化を図る、とか中央《王国府》は言ってますけど結局今だに魔獣から交配を重ねて作った天馬に頼りきりで」
領主の正面のソファに座ったアウレーシャが言うと、アドラフェルが喉を震わせて笑う。
「それは事実だが、ここ最近と言っても100年ほど前だろう。さすがに旧き家系はスケールが違う」
「あら嫌だ、ヒサール家はそれよりもっと由緒があるでしょう」
軽口をたたいて笑う“血濡れの氷冷公”に、城勤めのモーナ医師と、茶器一式を携えてやってきた秘書官ザマンがぽかんとする。年相応の、おそらく久々に見る、アドラフェル・ヒサール・ユリスナ公爵の笑い顔だった。
「さて、私はそろそろ医務室に戻ります。閣下、お体に不調を感じたらすぐ周囲の者に仰るように。アウレーシャ嬢もどうぞ無茶はなさいませんよう。それでは」
モーナ医師がぺこりと頭を下げて執務室からさがると、ザマン秘書官がローテーブルに茶器を広げていく。それに礼を言いながら魔女は出撃報告書をヒサール領主に差し出す。アイスブルーの鋭い目は受け取った紙面の真ん中あたりの『出現した魔獣』の項目に留まった。
「魔女殿。今日の魔獣、どう見た」
「アレらは魔獣、というよりもかつて魔王が引き連れていた配下の軍隊の構成する魔族に近いかもしれません。その場合、魔族の中でも下級に分類されるかと。魔界の住人の中でも上級魔族や悪魔といった上位存在は人間のような姿をしていると言いますから」
そこまで言って、魔女は「ただ」と首をひねる。
「アレらは過去に見た本に書かれていた下級魔族よりももっとずっと魔獣じみた姿をしていたのが気になります」
「今日出た個体を分類するなら、魔獣と下級魔族の間の存在、ということか。……ふむ、そのあたりは俺も同感だ。詳しいことは勇者一行のメモを元に書かれた本と照らし合わせて要検討、というところだな。アレらの出所として考えられるのは?」
ヒサール領主に問われて、新任の魔女はよどみなく答える。
「あれらの魔獣が純正の魔界の生き物の類型から外れるのなら、天馬がそういう生き物であるように、何者かによって捕獲・改造された個体の可能性があります。これは対処のしようがあります、実行者を捕まえればいいだけですから。魔獣をかくまう土地と実験のための資金と知識、この3点で犯人のアタリが付けられるかと」
領主は黙って続きを促す。
「魔獣の突然変異体も考えられます。もしそうであった場合にはこちらにできることはありません。いかに迅速に出動して撃退するかを検討するだけです」
「まったくだ。他には?」
「……そうでないことを祈るばかりですが、誰かが何らかの方法で魔界にアクセスして勇者一行ですら確認できなかった魔獣なり魔族なりを連れてきたか、悪魔と契約して使い魔を貰った、という可能性も」
以上です、と魔女は言い、カップを傾けのどを潤す。ソファに深く腰掛けていたアドラフェルは首をかしげる。
「後者2つだった場合はもう手のつけようもないな」
困ったものだ、と呟いたヒサール領主は空にしたカップを秘書官に差し出すと、2杯目が注がれる。
「ひとまずは最初に出た改造の線で調べるのがいいか。実はヒサール城の魔獣調査メンバーから魔女殿にも調査に加わってもらいたいと話があったが、構わんか」
「喜んで。私もそのお話をしようと思っていたところです。遺体が腐る前に解体して内臓も調べるのなら人手はいくらあっても足りないですし」
貴族令嬢はニコリと笑う。無理をしているという感じもなく、虚勢を張っているという感じもなく自然体だったので、アドラフェルは苦笑する。やりすぎのきらいはあるが、腕1本失う覚悟で魔獣を相手取り、返り血を浴びることを厭わない娘だ。ならば魔獣の解体と臓腑の調査などさしたる負担も嫌悪もないのだろうと思った。
何食わぬ顔で2杯目の茶を飲むアウレーシャを見てアドラフェルは言った。
「実は、もう一つ頼みたいことがあってな」
「閣下のご要望とあれば」
「正確には我がヒサール騎士団からの要望なのだが、王国府魔術戦闘特別顧問殿に対魔法訓練の指導をしてもらいたいのだ。魔法を使っていかに効率よく戦うか教えてほしい、とのことでな」
こちらは彼女が予想だにしていないことであった。目をまん丸くして、あわただしくカップとソーサーを机に置くいた彼女は「無茶ですよ!」と声を張った。
この新任の魔女が初めて見せた戸惑いであった。
「私、誰かにものを教えたことなんてありません! それに対魔法訓練なんて実践あるのみでほんとに教えることなんてないんですよ」
言いながら、元修道女は自分の10年間の魔法訓練を思い出す。生まれつき巨大な魔力を持ち合わせていた彼女には座学などほとんど必要なかった。忙しい修道院での生活の中、毎日限られた時間の中でひたすらに修道院長を相手に実戦訓練を繰り返した。かつては狩猟王の座を連破し続けていたという老淑女の戦いぶりを何とか真似てやってきただけだ。
「それで構わん。魔女殿の魔法を相手に戦うだけでも魔力での身体強化も魔法の使い方も精度は上がるはずだ」
「私の魔法はただひたすらに壊し殺すためのものです。ですが、あのヒサール騎士団相手に私も手加減は難しい」
「構わん、手加減をしたのでは意味がない。彼らを前線復帰不能にさえしなければ良い。修道院長の愛弟子殿」
言われて、アウレーシャは己の胸元に触れて考え込む。聖職者よりも戦士の方が向いていたあの修道院長相手に実戦訓練を重ねた彼女は大怪我を負いながらも死なずに今ここにいる。そしてあの訓練があったからこそ彼女は今ここにいるのだ。
「わかりました。このお話、お受けします」
「助かる。……しかし、アウレーシャ嬢は魔界に関する知識に明るいな。旧き家系といえど、今時代では必須知識でもなかろう」
「修道院の仕事のひとつは本の活版印刷。魔王時代やそれより前に書かれた魔導書の類は危険なので対象外ですけど、一般的な辞典や歴史書、医学書、勇者一行の記録などを印刷しますから。私も手伝いでさんざん目を通しました。ちなみに私のお気に入りは勇者一行最後の旅日記、魔界旅行記です」
爽やかに笑う元修道女に、勇者の末裔は目を伏せ声を上げて笑った。心底リラックスして、面白がる時の笑い方だ。
「今時流行らんがあれは傑作だな。第4階層フレーゲトーナ火炎河畔の戦いや、最終第9階層ジュデッカ氷園での決戦は俺も手に汗握って読んだものだ」
そう言って満足な顔をすると、傍に立っていた老秘書官の名を呼ぶ。ぴしりと背を正したザマンは主人の意を受けてアドラフェルの隣のソファに腰かけた。それで場の空気が変わったことを感じ、アウレーシャは目をぱちくりさせる。当のアドラフェルは視線をわずかにさ迷わせ、しかし意を決したように彼女の名を呼んだ。
「アウリー」
「うん、アディ」
プライベートの話をしたい、という意図に正しく答える。
「……さっき決めたことなのだが、ナーヒヤール・ボーカードのここ数年の様子ついて調べることにした」
強張り、ひそめられた声だった。
あのくすんだ金髪に眼帯、金目の優しい顔立ちの秘書官見習いナーヒヤール・ボーカード。物腰柔らかだが、どこかひょうひょうとしたあの青年。その彼を、調べる。
否、それよりも。
「……イダ家を疑っておいでで?」
鋭さを秘めた声でアウレーシャがその意図を問うた。
「そういうわけではない。むしろ、かのイダ家からの紹介状であれば十分信用に値する」
「ではなぜ」
旧き家系バルワ家の令嬢は問いかけながら、昔なじみで世話焼きのカレーナ・イダとレパーサ・イダを思い出す。独立未遂事件以来シャマル王国では肩身の狭い旧き家系に属しながらも貴族らしいふるまいを忘れず明朗快活、好人物のあの2人だ。
紹介状は、紹介する人物の身元を証明するものである。それを添えてやってきた人物を疑うことは紹介状を書いた者そのものを疑うことになる。逆に、紹介した人物がその先で不祥事を起こした場合、紹介状を書いた者も不名誉をこうむることになる。故にシャマル王国の貴族たちは紹介状を書くことに最大限慎重になる。
「いや、もっと単純な話で」
視線を逸らしたヒサール公爵はばつの悪そうな顔をして言った。
「彼の行動をたどればナーヒャの居場所が分かるかもしれない、と」
すねた子供のような口ぶりに、アウレーシャは毒気を抜かれてハァ、と返事した。10年前に失踪したというナーヒヤール・ナナマン、癖のある黒い髪に金の瞳の子供、懐かしい思い出であり、彼らの盟友。
その所在はアウレーシャも気にしているところであった。
「まあ、それは私も思いました」
「別に本格的な調査でもない。ザマンが仕事の合間程度に調べるくらいのものだ」
「そもそも、ボーカード家のことは紳士録には載ってませんの?」
「どうやら平民の出らしい。念のために紳士録は見たが載っていなかったな」
「紳士録は出版側に言えば自分の情報を取り下げられるものですしね。しかし、そうなると調べるのは困難ですよ」
言いながらアウレーシャがチラと視線を動かすと、ヒサール領の名物秘書官は呆れたように、けれど面白がるように音もなく笑っている。
「いや、分かっている。なんとなく気になっただけだ。あのナーヒャの足取りが分かればいい、と。ザマンも調査は適当なところで切り上げてくれ」
言われて、優秀な秘書官はただ「かしこまりました」とだけ答えた。
2杯目の茶を飲み干してそろそろ、と魔女が立ち上がろうとしたが、それより早く正面に座っていたアドラフェルが身を乗り出して彼女の手を掴んだ。
「……実は、まだもう1つ話があってだな、アウリー」
仕事の話をするときには一つも戸惑わないヒサール公爵が言い淀む。(事実ではあるが悪し様に)魔王城の主だの血濡れの氷冷公だの言われるこの貴公子は、その実ただの青年だった。
「その、これも俺からの個人の頼みごとなのだが」
それにしてもいやにもったいぶる。握る手に力が入り、よほど言いたくないことなのかとアウレーシャはいぶかしがりながらもソファに座りなおしてきっぱりと言った。
「私で力になれるなら最大限そうする。約束したからね」
個人的なことでも公的なことでも、盟友たるアドラフェルが戸惑い困っているのなら、力になりたい。彼女の気持ちに変わりはない。
「そう言ってもらえると助かる」
そう言って、青年は一つ息をした。
「実は、隣のナフル領の領主が主催する週末のパーティーに誘いを受けているのだが……アウリーにはそれに同行してほしい」
ナーヒヤールにも供をしてもらうつもりだ、と言って、アドラフェルは秘書官見習いを呼び出す。駆け足でやってきた眼帯の青年はくすんだ金髪を揺らして一礼してからアウレーシャの隣に腰かけた。
ヒサール公爵は新人2人に白い封筒を差し出した。差出人を確認し、封の切られたそれに入っていた紙片を広げると、アウレーシャは気の抜けたような声で言った。
「ナフル領主は閣下の血縁の方なのですか。先方が魔女殿もぜひ、というのならありがたくお受けしますが」
「パーティーには参加する人数と同じだけ供を連れてきて良いとありますけど、なぜ僕のような新人をご指名に?」
秘書官見習いナーヒヤール・ボーカードはポカンとしている。女性には女性の供がいる方が良いのも事実だ。しかし、彼の上司にあたる秘書官ザマンは首を横に振った。
「今回はナーヒヤール殿に経験を積んでいただくという意味もありますので、ぜひに」
「そういうことなら、謹んでお受けいたします」
彼が丁寧に頭を下げると、若きヒサール公爵はホッとしたように息をついた。
「うむ、断るわけにもいかないのでな、せめて2人がいてくれると心強い……」
そう言ってうつむいて顔を覆ってしまう。
「そう言っていただけるのは嬉しいのですが、そんなにお嫌なのですか? 晩餐会ならともかく舞踏会ですし、それなりに人も集まるなら気楽なものでしょう?」
招待状に添えられた会の次第に目を通したバルワ伯爵家令嬢は首をひねった。
主催によって席順が決められ、食事の際の会話が第1目的となる晩餐会は参加人数も少なく逃げ場もないが、舞踏会は別だ。
そもそも舞踏会は参加人数が多く、歓談のためバルコニーや中庭、温室、メイン会場の隣の休憩室などが解放され、人と関わらずにいる方法もある。何より日付も変わるころになると度数の高い酒も出て、皆少し理性のタガを外して気楽に楽しめる。
「まさか、閣下がパーティー嫌いというわけではないでしょう。人見知りというわけでもなさそうですし」
無遠慮に秘書官見習いが言うのを領主は咎めもしない。
「立場ゆえ所領を離れることは少ないが、そういうわけでもない」
「では、よほど主催者に会いたくない?」
問われて、青年は首を横に振った。
「主催者ではない」
「……では、ここに名前が出ているエリエッタ嬢?」
アウレーシャは手紙を持っていたヒラつかせる。娘のエリエッタも貴公に会えることを楽しみにしている、という1文が妙に目立つと思っていたのだ。
正解、らしい。公爵は重々しく首を縦に振った。
あの血濡れの氷冷公などと呼ばれていた貴公子がここまで苦手とする令嬢とはいかほどの人物なのか。彼女は隣に座るナーヒヤール・ボーカードと互いの顔を見合わせ、ニィと口元に弧を描き、いたずらをする前の子供の顔をしている。
「会ってみたいです公爵。ええ、ええ、気になってきましたわ、エリエッタ嬢とやらが!」
2人は手紙を返して楽しげに拳を振り上げる。
「どんな方なんですか? エリエッタ嬢は」
ぐっと身を乗り出した正面の2人の様子に、これは言ってやらねば納得しないと判断したらしい。うなだれたアドラフェルはぼそぼそと言葉を選ぶ。
「俺の母方の血縁で、来年社交界デビューの予定の17歳。本人が貴族教育を一通り終わらせているのと、主催者の娘ということで今回のパーティーには社交界デビュー前の慣らしの場として参加するらしい。ラベンダー色の髪に銀灰の瞳で……そうだな、意外とアウレーシャ嬢とは気が合うかもしれん」
「それは嬉しいですね!」
「それから……」
グ、とエリエッタ嬢の遠戚の青年が黙り込む。しびれを切らしたように、それまで沈黙を貫いていた有能な老秘書官がきっぱりと言った。
「アドラフェル坊ちゃまにそういう気があります」
勢いよく顔を上げたアドラフェルが苦虫を嚙み潰したような顔をする。一方でアウレーシャとナーヒヤールはポカンとしながら言った。
「そういう気って」
「……そういう?」
素っ頓狂な声を上げたナーヒヤールの正面で、ヒサール領主とその秘書官は静かに首を縦に振った。
「そういう、だ」
「そういう、ですなぁ。大真面目な話、このままいけば来年か再来年にはお父上からエリエッタ嬢との見合いの申し込みがあるでしょうね」
涼しい顔で言う老秘書官に、アドラフェルは頭を抱えて「ザマン!」と叫ぶ。
「勘弁してくれ、俺にその気はない。第一、10歳近く年下の子供だぞ」
「あと10年もすれば些細な問題になることですよ、坊ちゃん」
「坊ちゃんはやめろ。……そもそも俺に結婚の意思がない。貴族の、まして辺境領主の結婚ともなればそれは政治そのものだからな」
面倒ごとを自ら増やす気はない、と言い切ってアドラフェルはため息とともに姿勢を崩してソファに沈み込む。
しかし思い返せば、この立派な地位を持った美丈夫が未婚というのは少々不思議なことでもある。旧い時代が過ぎたとはいえ、貴族にとって結婚というのはごく一般的に誰もが通る人生のステージであるし、親がそのための御膳立てをすることも珍しくない。
「閣下に婚約者はおりませんの?」
旧き家系の娘が尋ねた。その横でナーヒヤールがそうだそうだと首を縦に振っている。
「いない。見合いもしたことはあるが、先方もその気がない形だけのものだったしな」
「……でも、正直珍しい気がします。公爵家ともなればだいたいは親が早々に婚約者を用意するものですよね」
平民出身らしい秘書官見習いに、アドラフェルは苦笑して言った。
「その親が、王国府に喧嘩を売るような恋愛結婚を敢行した人だったのでな。無理に好きでもない相手と夫婦になる必要はない、と両親とも生前に言っていた」
すかさずザマンが「旦那様と奥様は王国府でも有名なおしどり夫婦でして」と付け足す。
「今は亡き旦那様はアドラフェル様が15歳ごろの折りにはご自分のような苦労をさせまいと許嫁を探そうとしておられたのですが」
「ま、息子の婚約者探しよりも魔獣討伐と領地運営の方が重要課題だからな。それに、俺自身すぐに王国府預かりの身になった」
ささやかに鼻で笑ってから「話は戻るが」とヒサール公爵は言った。
「エリエッタ嬢に出くわしたら彼女との会話を2人に頼みたい。特にアウリー、多分、気が合うから……」
もはや意地を張っているのではないかと言いたくなるような断固たる拒否の姿勢から繰り出される念を押すような言葉に、指名された令嬢は声を上げて笑った。何より、この盟友に頼って貰えるというのは嬉しいことだった。
「そういうことなら頼まれます、アディ」
「アウレーシャ嬢、僕もお手伝いします。閣下も……」
ナーヒヤール・ボーカードは静かにほほ笑んで2人を見つめる。
「あなた方のナーヒャの変わりなんて傲慢は言いませんが、それくらいは僕も力になりたいですから」
その言葉に、盟友たちは彼の金色の隻眼を見つめて暖かな声で言った。
「ありがとう」
さて、と領主が立ち上がり、それぞれが仕事に戻ろうとする。終業までまだもう少し時間がある。部屋を出ようとしたアウレーシャだったが、「あッ」と声を上げた。魔獣を相手に吠えるような腹式発声に、その場にいた者がビクリと肩を震わせる。
「ど、どうした、アウレーシャ嬢」
やや顔を青くした元修道女はぎこちなく振り返って答えた。
「……閣下、よく考えたら私、ドレスなんて1着も持ってません」
***
「ほんとに良かった、あの仕立屋さんに感謝……」
真夜中、自分の寝室に戻って寝間着に着替えたアウレーシャはベッドに突っ伏してほっと息を吐いた。部屋に備えられた空きの多い衣装棚を見つめて「そうよねぇ」と呟く。
「最低限の着替えしか持ってなかったものね」
本当に、それだけで良いと思っていたのだ。
パーティーには最悪、官服を着ていくという手もあった。王宮に出仕するための礼服なのだから主催者に対して礼を欠くということはないのだが、半ばあきらめに近い彼女のそういう発想を思いとどまらせたのはナーヒヤールの言葉だった。
「アウレーシャ嬢はご自身で魔女に立候補なさって、ご自身の力で今の立場になられた。ならそれになぞらえてご自分が選んだ新しいドレスを持っておくのも良いのではないですか?」
どうせこれから着る機会は増える一方なんですから、と言った。
結局、終業まで仕事をしてから急いでヒサールの砦の中にある仕立屋に向かった。お店を閉めようとしているところで駆けこんできた噂の魔女に驚いたのか、店主はポカンとして彼女を中に入れた。
初来店の客が差し出した手紙を見ると、布に囲まれた老店主は嬉しそうにして採寸から始めた。あの官服や戦闘服を仕立てた女職人の師匠がこの店主であった。
なんとかデザインや素材の打ち合わせを終える頃にはすっかり深夜になっていた。途中で近くの食堂に夕飯を食べに行ったが、その間じゅう老店主は弟子のことを嬉しそうに語っていた。周囲の客は貴族令嬢の魔女が何食わぬ顔で大衆食堂にいることに驚いているようだったが、別段何を言うでもなくそれを見守っていた。
「……今日は大変だったけど、嬉しかったなぁ」
そう呟いて、窓の外を眺める。
「アディと会えてたくさん喋れて、騎士団や魔獣調査隊の人にも信頼してもらえて、ナーヒヤール殿にもああ言ってもらえて、素敵なドレスも作ることになって……」
嬉しいなぁ、ともう一度つぶやく。ベランダに出ると、砦に囲まれたヒサールの街が良く見えた。北の端の方の区画は今日も盛り上がってるらしい。ほほ笑んで、まどろむように目を閉じる。春の夜、暖かい風が強く吹いて深紅の髪がなびいた。
その城下、人気のない領地の森に集う人々がいた。強い風にローブをはためかせ、フードを目深にかぶり、巡礼者のような姿をしている。
「魔獣たち、あっさり倒されたわね」
「さすがにヒサールは練度が違うね。やっぱりあの領主と魔女が凄まじい。……ま、とにかくこれで予行練習も終わりだ。全ての魔獣を回収しろ」
「最後の準備に取り掛かるぞ。我らがこのシャマル王国をひっくり返す」
「ヒサール公爵にも、目にもの見せてやるんだから」
「……ところで」
ローブ姿の人々は、輪を少し離れて黙って立っていた青年に目を向ける。
「どうだい、ヒサール領主殿と魔女殿の反応は。骨が折れるだろう? あの氷冷公と、こうと決めたら頑として動かない魔女殿が相手だ」
問われて、青年は金色の隻眼と口を三日月のようにして言った。
「上々ですよ。ナナマン家の息子の名前を出したら面白いくらいに騙されて僕を信じてくれましたよ」




