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11話 愛してるって言っていた

 空に駆け上がったアウレーシャの見下ろす地上は混乱のさなかにあった。

「おい、どういうことだ! 魔獣が出たのに空からじゃなかった」

「瘴気が沸き立つ様子もなかったぞ」

「一体何が起きてる」

「絶対に街に下ろすな、ここで食い止めるぞ!」

「なあおい、あれってほんとに魔獣か? あれじゃあむしろ……」


 這いずり回る魔獣を前に隊列を組んだヒサール騎士団の若者グラッドがソレを指さした。そのいびつな姿にアウレーシャもぞくりと背を震わせる。


 異様なのはその頭部。身体に反して頭部があまりに大きく、その重さを支えきれないのか首は下がり、顎を地面に付けんばかりにノシノシと歩いている。

 クマのように見える顔面だが、口周りは犬やオオカミのように前に突き出ており、ガパリと開けば人間をそのまま食べてしまえるようなその大きな口に、びっしりと生えた牙という牙。そして、通常の魔獣が纏うよりももっと密度の濃い魔力。


(あれじゃあまるで、魔王が従えていた魔族)

 修道院にいたころに読んだ魔王時代の本の挿絵を思い出す。動物に類似した姿の魔獣より不可解で歪な姿をした、魔界の住人達。それが魔族。

(でも、なぜ)


 しかし、ゆっくり考えている暇もない。

「おい、来るぞ! 隊列を整えなおせ!」

 ヒサール城の城門から街に続く坂道で這いずり回る魔獣を相手に、ヒサール騎士団はなんとか動揺を乗り切ろうと声を上げて隊列を組み、長槍を地面と水平に構えて突撃の準備をする。


 アウレーシャが上空からの攻撃で突撃の援護を試みた瞬間、空に絶叫が響いた。

 どこからか現れた巨大なバッタのような生き物が天馬を襲っている。あの戦闘服を預けた騎手は手綱を握り、なんとか馬を鎮めようとしながらも逃げたい気持ちが混ざり合い、動けずにいるようだった。


 アウレーシャはとっさに準備していた火炎をそちらに差し向ける。バッタのはねの端がわずかに焦げてバランスが崩れる。そのスキをついて天馬は本能に従って敵から逃げようと翼をはためかせて遠く遠くへ飛んでいく。


 すぐさま地上から声がした。

「魔女様はあちらの早馬を守ってください!」

「王国府からの早馬に傷がついたらヒサール公の名誉も傷がつくってもんです!」

「どうぞ魔女さま」

 行ってください、とひときわ大きな声でグラッドが言った。槍を握る手が震えるのもごまかせないままそう言い切った騎士に、魔女もまた己の胸元に手を当てて堂々たる声で返した。


「このヒサールの魔女にまかせなさい!」

 ゴウと魔女の杖が火を噴き、青空に赤く線を引きながら加速する。前方に伸ばした左腕の先、中指と人差し指を揃えた先から続けざまに巨大なバッタに炎を打ち込む。虫……否、魔獣は執拗に天馬を追いかけようとしていたものの、妨害があってはたまらないと背後から迫る人間に意識を向けた。


 僅かに緑がかった黒いバッタ魔獣の顔面を目の当たりにして、アウレーシャの背に悪寒が走った。自身をなだめるように心臓のあたりを撫でる。

(人間みたいな顔だなんて、これじゃ本当に魔獣じゃなくて魔族、あるいは下級悪魔……いや、それより)


 足元にはヒサールの街の屋根が広がっている。

「おい、魔女様が出てきてるぞ」

「戦うのか、あのお嬢ちゃんが」

「それより今日は魔獣が出る予兆がなかったぞ、何があったんだよ」

「いいから今のうちに子供らを避難させろ!」


 街の人々はいつもと違う状態に戸惑いながらもなんとかいつも通り動こうとしている。向こうの方で天馬に乗った騎手はなるべく早くここから離れようとしている。


(この魔獣は必ずここで仕留める、アディの名誉にひとつだって傷などつけるものか!)

 街が襲われでもしたら、あるいは王国府からの早馬に傷が付けば、それもまたヒサール領主たるアドラフェルの名誉を傷つける。それは彼女のあの日の誓いに反することだ。


 アウレーシャは詠唱コールする。

「炎よ!」

 魔女の指がはるか頭上を指してなぞる。青い空に小さな赤い魔方陣が列をなす。

 アウレーシャが下ろした指先に新たに生まれた炎が鳥の形になって、目前のバッタにとびかかる。しかし赤いくちばしが襲い掛かるよりも早く魔獣の足にグ、と力が入り、次の瞬間にはバネのようにその体が跳び上がった。


 地上にいた人々が空を仰ぎ「あぁッ」と声を上げる。もう終わりだ、と言いたげだった声はそのたった数音であれを見ろ、に変わる。


 バッタが跳び上がった先、そこに並んでいた魔方陣の列が光る。

「食らい尽くせ!」

 魔女が叫んだ。同時に、陣から現れた小さな鳥たちが赤々と燃えながら目前の敵に突撃した。


「見たか、魔法を同時に……」

「しかもあの威力の技を簡略詠唱で2つで」

「あのお嬢ちゃん、やっぱりフレイヤ様と同じ魔女なんだな」


 己を見上げてポカンとする人々に、当代の魔女は頭上高くにかざした手をぎゅっと握った拳を下に振り下ろし、叫んだ。

「みんな、屈んでーッ!」

 手の動きに合わせるように、小さな鳥たちは集まり螺旋を描き、落ちる火柱となって魔獣の腹を貫いた。


 ギィ、と巨大なバッタがひと声鳴く。絶命の声だった。そのまま地面に落ちる魔獣に、街の人々はざっとその場を退いた。アウレーシャは杖の高度をぐっと下げ、彼らに声をかける。


「騎士団を呼んで、この魔獣を城に運んでください!」

 え、と街の人々が戸惑った様子を見せたが、当代の魔女は言った。

「見覚えのない魔獣に対してはフレイヤ様もそうなさっていたはずです!」

 そうだ、そうだった、と年かさの者たちが言い、若い者が騎士を呼びに行くのを確認すると、アウレーシャは再び高度を上げて移動する。


 目指すはヒサール城手前、先ほど騎士たちの戦っていた場所。彼らに加勢をするのだ。

(でも、どうやってアレを倒す? さっきの魔獣は装甲が薄かったみたいだけど、次の相手は多分違う。あの剛毛は魔力を纏い、魔獣にとっての鎧そのもの。私の残りの魔力で焼き尽くせる? せめて毛の薄いところを狙わないと……)


 いざその魔獣と戦っているはずの戦場は、一言でいえば異様だった。

 アウレーシャが空から見下ろしてまず目を引くのは、人の身の丈の倍はあろうかという高く分厚い氷の壁。4枚の壁に四角く閉ざされたその中にいるのは、魔獣と人間。


 その外ではケガをした騎士たちが、震えて逃げようとする己の馬をなだめすかしている。

「くそ、騎士団なんて名乗っておいて、オレ達なんてザマだ」

「閣下に庇われるなんて騎士の恥だ」

「馬は後方に下げろ、不測の事態に備えて壁の四方を囲って警戒!」

 そうして、なんとか動こうとする。


 一方で、氷の壁の中に立つのは大戦斧を携えたアドラフェル・ヒサール・ユリスナ公爵。その肩にかけたコートは左肩口を中心に血で汚れ、輝く白銀の髪も土埃にまみれ、色白の頬に汗を滴らせてせわしなく息をし、血に濡れ痛みに震える腕でそれでもなおアイスブルーの瞳は眼光鋭く武器を手放そうとはしない。

 対する魔獣もまた、氷に貫かれた足を引きずり片目をつぶされ牙をいくらか折られながらも闘争の意思をみなぎらせたままでいる。


 魔獣が轟々と吠えながらアドラフェルに向かって突進する。黒い毛に覆われた身体のなか、血で汚れた口の肉色が、アウレーシャの目に鮮やかに映った。

 瞬間、彼女の紅玉の瞳がギラリと光をみなぎらせる。長い剛毛に覆われた魔獣の巨体に向けて、自分が足をかけている燭台の先端から真っすぐに炎を放った。排出する炎と魔力の勢いで魔女の杖はぐんと高度を上げる。


 さしもの魔獣も一瞬怯み、突進に待ったがかかる。


「ナーヒャ、アディを回収!」

 空高くに上昇しながらアウレーシャが叫ぶ。


 街中に響くかというその大音声。

 四方を壁に囲まれて、決死の戦いに臨んでいたアドラフェルは空を仰ぎ見て……そこに、見た。


 魔女……否、アウレーシャ・バルワ。あの日約束をした少女が。


 真っ青な真昼の空、降り注ぐ陽光に深紅の髪を輝かせ、四肢にまとったミスリル鉱の防具に魔力を通して仄赤くきらめかせ、紅玉の瞳から炎のごとき眼差しを投げかけながら。

 空からまっすぐに降りて、否、落ちてくる。


 杖から足を外し、重力に任せ、ただまっすぐに輝いて落ちる。

 それはさながら、一筋の流星。己をも焦がす勢いで行く手を阻むもの全てを焦がすひと群れの炎。


「閣下、魔法を解いてください!」

 そう叫んで、もう一つの人影が現れた。ナーヒヤールである。黄金の隻眼を輝かせ、その驚異的な身体能力で氷の壁を飛び越え、アドラフェルの傍に現れたかと思うと彼をひょいと横抱きにして素早く騎士団たちの背後に撤退する。


 突然の大声、突然の闖入者ちんにゅうしゃ、突然消えた氷の壁。そのどれもに動揺したらしい魔獣は巨大な口を開けたまま重い首をわずかに持ち上げて上を見た。

 そこに、燃え上がる流星が激突する。魔獣の抵抗で軌道はわずかに逸れて、目標は下顎。


 重力にしたがって振り下ろされた魔女の杖の石突が、魔力を通したミスリル鉱のヒールが、魔獣の下顎を貫通した。砕けた牙と血が一緒に飛び散る。鮮血に身を染めながら魔女は杖を握って衝撃をこらえ、身体を支えた。

 大きく開いた魔獣の口の奥から轟く咆哮。侵入者を食い殺そうと閉ざされようとする口。


 しかし。

 アウレーシャはむしろ体を前に傾けその真っ赤な喉奥に向けて左腕を伸ばして呟いた。

「炎よ」


 その場にいた者すべてが彼女の死を悟る。

「やめろ、アウリー!」

 背後のアドラフェルが張り裂けるような声で叫ぶのが聞こえる。


(……分かってる)

 最悪、死。そうでなくても腕を失うかもしれない。アウレーシャ自身もそれを分かっている。それでも退けない。

 魔女に立候補した時のように。

 昨日の夜ナーヒヤール・ボーカードが言っていたように。

 頭よりも心よりも、体がもっと早くに動くのだ。

(あの約束を守るんだ、そのためならこの腕だって命だって惜しくはない!)


 その場にとどまり、己の体内の魔力を練ることでその濃度を上げ、第2詠唱(2コール目)の準備をする。


 魔法を使用するにあたって、一般的には腕や指、杖を補助的に使うことでその発動や命中をより確実なものにする。決闘などにおいてはその動きと視線でこちらが次に行うことを相手に見破られる可能性が上がるということでこの補助動作を嫌う者もいる上、昨今はこういった大仰な身振りは優雅でないと特に淑女に嫌われがちだが、魔法を向けたい場所と補助道具の示す先が一致した時、確実性が上がるだけでなく技の威力もわずかに上昇するという検証結果がある。


 今、アウレーシャは己の腕を敵の体内に向けて伸ばしている。


「焼き尽くせッ!」


 魔獣の咆哮よりも猛々しく、唱える(コールする)のと同時に、その腕を伝いゴウといて発せられる螺旋の紅炎。魔獣を(装甲)に覆われていない内側から焼き尽くす炎の赤々とした色が彼女の頬を照らし、周囲の温度を上げていく。


 臓腑を直に焼かれた魔獣の巨体がもんどりうつより先に動いたのはアドラフェル。

「アウリー、頭を守れ!」

 そう叫んだかと思うと、ミスリル鉱の大戦斧を振るい魔獣の頭部を叩き落とす。毛むくじゃらの身体だけが大きく空を仰いで前足は宙を掻いて倒れこむ。切り落とされた頭部と一緒に身体を放り出されたアウレーシャに駆け寄ったナーヒヤールが彼女を受け止めた。


 肩で息をした彼女は目を白黒させながら呟いた。

「……今、何が起きたの?」

「魔獣と一緒に地面にたたきつけられて死ぬ前に公爵があなたを助けた感じです。杖も無事です」


 ナーヒヤール・ボーカードに言われて、魔女はほっと息をついた。そしてゆっくりと立ち上がり、立ち尽くすアドラフェル・ヒサール・ユリスナに歩み寄った。


「……なぜ来たのだ」

 口を開いたのはアドラフェルが先だった。

「なぜ来た、こんなところに。こんな、方々《ほうぼう》から猜疑さいぎを向けられて比べられて傷つくばかりの戦いのちまたに」

 伏せた顔は、白銀の髪に隠れて表情が見えない。


「来なくても良かったんだ、覚えていなくてよかったんだ」

 アウリー、と低い声が懐かしい愛称を呼ぶ。泣き出しそうな響きだった。


「あなたこそ、忘れていてもよかったのに」

 答える声もまた、こらえようとしてそうできなかったものが滲む。

 

「忘れられるわけないだろう」

 囁くような声でアドラフェルが言う。

「ずっと、ずっとあの約束が頼りだった。誰が俺を貶めて疑おうと、どれだけ悲しくても、家門も名誉も関係なく俺を選び出してくれた2人がこの世にいる。それだけで母の死も、王国府の人質になることも、父の死も、領主の責務にも耐えられた。……それだけで充分だったんだ」

 来なくても良かったんだ、と絞り出すような声。


 アウレーシャは静かにほほ笑む。

「……行くに決まってる、だってあなた、もうずっと困ってた。そうでしょう?」

「俺はアウリーが困ってるときに助けられなかったのに?」


 ねぇアディ、と静かに名を呼んで彼の頬にそっと触れた。

「もう助けてもらったよ」

 アドラフェルは黙って、僅かに顔を上げた。迷子の子供の顔をしている。


「魔力が大きいばかりでうまくコントロールもできない、旧き家系(バルワ家)にふさわしくないなんて言われた私を信じてあなたたちが約束してくれたのが誇りだった。血族も家名も関係ない、私だけの約束、私だけの誇り……私の希望」


 その顔を見つめて、アウレーシャは彼の手を握る。握り返す手の熱さに、見上げる紅玉の目が潤む。


 修道院に送られてから、毎日が綱渡りの心地だった。いつ時世が変わり、国王の一声で自分への殊遇が変化するか分からない。王にはその権限がある。東方独立未遂事件の後処理で首謀者の12歳の息子を処刑した老獪な君主の実績を考えれば、10年間一日だって気の休まる日はなかった。


 そんな修道院にきて間もない日々の中、何度も鐘楼に上った。てっぺんから見下ろしたはるかな地上。一歩踏み出すか踏み出すまいか戸惑い、二の足を踏み、結局はどうしようもなくて座り込んで一人ですすり泣いていた。


 そんな時ふと目に留まった、誰かが置き忘れた官報。拾い上げた時の衝撃。

 ようやく見つけた盟友たちとの約束は、そこから10年間に及ぶ彼女の綱渡りの日々を支える確かなよすがになった。


「あのとき飛び降りないでよかった」

 ひきつったようなアウレーシャの言葉に、アドラフェルははじかれたように目を見開き、そして眉間にしわができるほどきつく目をつぶり、目の前に立つ少女の背に腕を回した。


「助けに来てくれてありがとう、アウリー、俺の盟友……」

 噛みしめたような声に、彼女もまた18年越しの友人の背の低いところに腕を回す。降り注ぐ光が、滲んだ視界にまぶしかった。


「……ずっと待たせてごめんね」

「良い、アウリーもナーヒャも、生きていてくれるならそれだけで良い」

 泣きぬれた声も、抱擁の腕も、こぼれる涙も、どれもこれもが熱い。


(ああ、本当になんて幸運、なんて奇跡。あの10年の報いとして余りある……)

 この熱にもう一度会えるだなんて、アウレーシャは思っていなかった。

(何だか、今なら何でもできそう)

 心底胸の弾むようなその心地を伝えようと、回す腕に力を籠める。


「……あったかいねぇ」

「ああ、暖かいな」

「……ナーヒャくんが元気でいてくれるといいんだけど」

「そうだな」

 僅かにほほ笑む気配を伴って、ヒサール領主は盟友の背をポンポンと軽く叩いて抱擁を解く。


 そんな2人のやり取りを見守っていた秘書官見習いナーヒヤール・ボーカードが彼らに一歩近づく。

「あの、アドラフェル様、アウレーシャ様」 


 神妙な顔をした隻眼の青年が、2人に見つめられて……目をそらした。僅かに口元をまごつかせている。らしくない(・・・・・)とアウレーシャがいぶかしがっていると、アドラフェルが大股で彼に近寄ってその背を抱き寄せ、少し腰を折って頭を近づけて低い声で柔らかに気遣う。

「何かあったか? 遠慮なく言ってくれ……言いにくいことなら小声でもいい」


 あの、とナーヒヤール・ボーカードが声を発したが、その続きが語られるよりも早く向こうの方からヒサール騎士団長の声が響いた。

「ヒサール公にご報告いたします! 魔獣の全滅を確認、砦内部の安全も確認されました! 魔女さまが戦った魔獣も運搬完了しています」


 その言葉にヒサール領主は秘書官見習いからパッと離れ、鋭い目で騎士団長に応えて凛々しい声を上げる。

「了解した、街の損害を調べて報告せよ。領民への避難終了の知らせも忘れるなよ! 魔女殿、貴官もここに至るまでの報告を頼む」


 ナーヒヤール・ボーカードがぐっと唇を噛んで顔を伏せたかと思うと、勢いよく頭を上げて大きな声で言った。

「あの、ヒサール公爵閣下、まずは怪我の手当てからです! 報告を聞きながらで構いません、そこに座ってください」

 ヒサール城の新任スタッフはいうが早いか、傷んでいない方の領主の腕をぐっと掴んで陽の光に温められた青草の上に座らせた。一瞬ポカンとしていたヒサール公爵は途端にうつむきおずおずと言った。


「す、すまない。それからその、昨晩のことも……言い過ぎた」

 上司の謝罪に秘書官見習いはわざとらしくため息をつく。

「昨日の閣下のお言葉が僕を心配してのものだったのは重々承知していますし、実際問題、斧を振り回す人間の間合いに飛び込むのは愚か者のすることですので気にしていません。アウレーシャ嬢に対してのお言葉も、休みなく動こうとする彼女を心配してのことでしょう」

 その言葉を受けて、新任の魔女は意地悪く笑う。

「それに、ヒサール領主からのパワハラに耐えかねた、という理由であれば魔女に志願した私が王国府にとんぼ返りするのも許されるでしょうからね」


 ナーヒヤールが肩を強張らせたヒサール領主からマントやジャケットを引っぺがしていくと、青草の上に「離任許可証」と書かれた紙片が落ちた。

「アディ、あなたは私がいつでもこの任を降りてヒサールを出られるようにしていたみたいだけれど、私にそのつもりはないから」

「……ヒサールの地も魔女の任も厄介だぞ」

「全て承知の上」

 王国府魔術戦闘特別顧問はそう言って優雅に笑うと手にした紙片を炎で燃やした。白いそれは一瞬で黒い塵に代わり、風に紛れて飛んでいった。

 青い空を背に、アウレーシャが手を差し出す。

「改めて、これからよろしくお願いします、ヒサール公」

「ああ、こちらこそよろしく頼む。王国府魔術戦闘特別顧問殿」

 アドラフェルもまた腕を伸ばしてその手を握り返す。ぎゅっと力を込めると双方がおのずと笑みを浮かべた。

 

「さ、話が終わったなら患部を見せてください。騎士団の方たちもさっきから医療道具もって戸惑ってるんですよ!」

 和んだその場に、空気を切り替えるようなナーヒヤールの言葉が飛び込んだ。アドラフェルが周囲に目をやると、包帯や傷薬を持った騎士団たちがぺこりと頭を下げた。魔女との会話が終わるまで口出しするのを待っていてくれたらしい。


「お2人に色々あって再会できて嬉しいのは分かりますが、僕だって嬉しいですけど、お体を第一にしてください。そもそも閣下はあれこれと気負いすぎです!」

 言いながら、ナーヒヤールは手渡された清潔なタオルを水に浸し、魔獣に噛まれた肩をぬぐって清潔にする。その次に腕。マントが派手に汚れていたのは魔獣の返り血もあるのだと分かり、その場にいたグラッドたち騎士団はほっとして口々に主君に言った。


「そうですよ、閣下が俺たち騎士団を気遣ってくださったのはとてもうれしいです。臣下としてこれほどの幸福はありません。けれど我々は騎士団なんです、この砦の街のヒサールと閣下をお守りするのが役目なんです!」

「閣下から見れば我々など取るに足らぬ戦力かもしれません。実際、閣下との手合わせで勝てた者などほとんどおりません。ですが、ですが我々は騎士団なんです!」

「お父上の招聘で王国府からヒサールにお戻りになってから今日まで、絶えず最前線に立たれるあなたほどこのヒサール領主に相応しい御仁はおりますまい。けれど私たちはあなたに前線を投げ出したいのではなくて、あなたと前線を駆けたいのです」

「どうか強敵を前に我々をその背に庇ってお独りで戦って死に急ぐようなことはおやめください。我々も最大限の努力をしますゆえ」


 目をぱちくりさせてどうしたものか、とヒサール領主は傍に座り込む盟友を見るが、彼女は騎士団の言葉に首を縦に振るばかりである。

「私も思いましたよ、この人なんでこんな見たことない明らかに危険度の高い魔獣に対して一人で戦ってるんだって。せっかく人材がそろっているのに」

 

「アウレーシャ様のおっしゃる通りです。坊ちゃんはあの死に急ぐように一人で戦っておられた旦那様や奥様の背ばかり見ておいででしたから無理ないことかもしれませんが、信じて背中を任せるのも主君の器かと」

 ぬ、と顔を出した老秘書官ザマンが穏やかな声で言った。先代領主に仕えていた祖父代わりの男の言い草に、若い領主は不貞腐れたようにただ一言。


「……坊ちゃんはやめろ」

 と言った。

 皆が笑いをこらえるが、当の領主に促されて騎士団たちは立ち上がる。銀の甲冑を太陽に光らせながら後処理のために駆けていく彼らを見つめながら、ナーヒヤール・ボーカードは静かな声で言った。


「何にしても、アドラフェル様とアウレーシャ様が再会の喜びを分かち合ったこと、我が事のように嬉しく思います」

 そうして、簡易な出撃報告を口頭で行った魔女と、それを受けたヒサール領主が傍に座り込む隻眼の青年に目を向ける。眼帯に覆われた優しげな顔は寂しげに微笑んで、くすんだ金髪がその目元に僅かに影を作っている。


 その顔をまじまじと見つめて、当人たちは口を閉ざすことで続きを促す。

 ナーヒヤール・ボーカードは僅かに口を開いて、けれど一度閉じて、それでも意を決したような顔で言った。

「お2人の話はナーヒヤール・ナナマンから聞いていましたから」


 突然出てきた名前に、18年前の子供たちはびくりと肩を震わせ、彼の肩や腕をつかむ。

「ナーヒャって、あの?」

「真っ黒い髪に金の瞳の、あの子?」

「一体どこで」

「彼、失踪したって聞いて」 

 狩猟会の時と変わらず食らいつくようなその勢いに、ナーヒヤール・ボーカードは苦笑して彼らの手や腕にそっと己の手を添える。


「そのナーヒヤール・ナナマンです。……そうか、貴族の子だったんですね。彼とは数年前に、ほんの2時間ほど話しただけですが。ナーヒヤールという同じ名前だということで盛り上がって」

「それで、どうして私たちのことを」

 アウレーシャに問われ、秘書官見習いは一つだけの目でほほ笑む。その寂しげな笑みと共に、噛みしめるように言った。


「お2人のこと、酒に酔った彼に散々聞かされましたよ。……炎みたいな真っ赤な髪に紅玉みたいに真っ赤な瞳のアウリーに、雪みたいな銀の髪に氷河の氷みたいな薄青色の瞳のアディ。どこにいてももう二度と会えなくても、世界で一番大事で愛してる、盟友だって」

 添えられた手に力がこもる。陽に照らされて、どこもかしこも目が眩むほどに輝いて、伝わる体温が熱かった。


「彼、今も生きてるの?」

「今どこにいるか分かるか?」

 また泣き出しそうになる4つの目に見つめられ、ナーヒヤール・ボーカードはゆっくりと目を伏せ首を横に振って「その後のことは」と低い声で言う。その肩や腕を掴む手がかすかに緊張した。


「でも、どんな暗い場所でもどんな苦しい時でも、いつもお2人のことを想ってるはずです。……だって、実際そうだったんですよ。あの2人は酒を飲むだろうか、音楽は何が好きで踊るのは好きだろうか、あれが綺麗だから見せたいとか、そんな話ばっかりで」

 惚気のろけでも聞かされてるのかと思いましたよ、と苦笑する。その青年を、あの日の子供たちは強く抱きしめた。


「教えてくれてありがとう。……本当に、覚えていなくてよかったのに、ナーヒャといいアウリーといい」

「私たちに会いに来てくれてありがとう……なんだかこれって、奇跡みたいだね」

 ナーヒヤール・ボーカードは涙声の2人の背に腕を回そうとして、けれどぐっと拳を握って下ろす。そして、しみじみとした声で言った。

「僕の方こそ、お2人にお会いできたことはこの上ない幸福です」


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