02. 異世界に行く前にまず地図読みの練習を推奨します。
俺の妹の口癖というか座右の銘は「挑戦こそは人生だ」である。
彼女曰く、挑戦を辞めるくらいなら死んだ方がマシらしい。
そこにリスクというものがあるとしたらそれは挑戦しないことであり、リスクの分散をするにしてもそれは数パーセントの挑戦を伴って初めて効力を発揮するものだという考えだそうだ。
この話を知り合いにすると何言ってるか分からないという反応をされるが、大丈夫だ。俺にも何言ってるか分からない。
自分の妹のことを悪く言うつもりはないが、彼女は良くも悪くもかなり変わっている。その結果、学校で浮いてしまって不登校になってしまったとしても、それはまあ仕方がないことだと思う。
しかし、今のこの状況。訳も分からないうちに異世界に連れてこられた俺はどうすればいい?
張り出した絶壁から見渡すと、下は新緑に満ちた緑。そこに地平線まで続く果てしない川が流れ、見上げると遮るものが何もなく一面が青空であった。空の高いところを見たこともない大型鳥が優雅に飛びまわり、その空気の新鮮さは深呼吸するだけで感動を覚えるほどだ。世界はこんなにも美しく、そして広かったのかと、感嘆の声が漏れてしまう。
「今回はご飯食べに来ただけだから裏口からこっそりと来たけど、本当は入国審査とかあるからね? バレると逮捕されるか、下手すると殺されちゃうから、たとえ変な人に絡まれたとしても大人しくしておいてね」
横で妹が何か言っているようだが、感動に身を包んでいる今の俺には何も聞こえなった。
「ところで、あおい」
「なんだい?」
名前を呼ばれた妹は小首をかしげた。
「ここらには豊かな自然があるだけで人工物など何もないように思うが、街はどこかな?」
「お兄ちゃん、お金持ってるの?」
俺はポケットから財布を取りだし所持金を数えた。中学生の時からずっと使っている財布なので、俺の心身と同じくらいにはボロボロだ。
「1034円持ってる」
「いや、日本円なんて使えるわけないでしょ」
「じゃあドルと交換してくれ」
「いや、ドルもユーロもお兄ちゃんが大好きなトルコリラもここじゃ使えないから」
「マジか」
「マジです」
妹は人差し指をピンと立てた。
「今日は私もお金を持ってきていないのでサバイバルをします。何か動物を狩って、それを今夜のご飯とします」
「は?」
「日本じゃ猟なんて中々やれないと思うけど、ここでは猟で生計を立てるなんて当たり前。ていうか、猟が結構儲かるんです」
妹は何故か得意げにそう言うが、そんなこと一言も聞いていないし、準備も何もしていない俺からしたらまさに寝耳に水である。
「はい、これ刀ね」
妹が指をパチンとはじくと、まるで魔法のように刀が現れた。
刃渡り30cmほどの短刀であるが、柄を握るとずっしりと重量感がある。光を怪しく反射するその刀身はそれが本物であることを物語っていた。
「これでその辺を飛んでるドラゴンとかをザクっとやっちゃってください」
「まずはお前をザクっとやりたいところだけどな」
「やだなー。冗談よしてよ、お兄ちゃん」
妹はケタケタと楽しそうに笑っているが、俺は本気である。
「ちなみに、この世界の時間って今何時なんだ?」
晩飯を食べにきたつもりだったが、妙に空が明るいので聞いてみた。
「来た時が午後7時くらいだったでしょ? となると、この世界は日本と丁度反転してるから午前7時くらいだと思う」
俺が「へー」と頷くと、妹がまたペラペラと聞いてもいないことを喋りだした。
「あ、お兄ちゃん。今こっちの世界では時間をどう表してるんだ、と疑問に思ったでしょ?向こうの世界と同じで、時間の計算には12進数や60進数がこっちの世界でも採用されているみたい。不思議だよねー、使いにくくないのかな? 私、未だに時間の計算って苦手なんだよね。人間の指は10本なんだし、やっぱり10進数がいいな」
「知らねーよ」
俺はぶっきらぼうに答えた。
「そんなことより、マジで俺がハントするのかよ」
「お兄ちゃん。派遣社員やるくらいならハンターになってみたいって、この前言ってたじゃん」
「言ってねーよ」
「でも、お兄ちゃん魚釣りとか大好きじゃん。あれと同じだよ」
「同じなわけあるか」
「でも大丈夫。女をハントすることよりは簡単だから。お兄ちゃんにとっては」
これ以上言い合ってもらちが明かないと思い、俺は鹿でも狩ろうかと考え始めた。生き物をこの手で殺すのは嫌であるが、普段から生き物を食べている手前、今更嫌というのも失礼な気がした。
「鹿っているのか?」
「いるよー」
「どこ?」
「それを探すのがプロのハンターでしょ」
「だから俺はプロでもハンターでもねーよ」
「モンハン得意じゃん」
「モンハンに鹿なんか出てこねーよ」
と言ったものの、そういえば鹿いたなーと思い出した。
「さあ! 行くんだお兄ちゃん。これが本当のハンター試験だ!」
「はいはい……」
俺は渋々森の方に向かって歩き出す。
森とはいっても日本でも見慣れたような穏やかな森だった。ツキノワグマくらいならいるかもしれないが、虎や象がいるような感じではない。
振り返ると妹が楽しそうに手を振っている。俺は少し腹が立って叫んだ。
「俺が猟をしている間、お前は何するんだよ」
「火でも起こしてるね」
「どうやって!」
「魔法」
妹は「ん」と小さく声を漏らすと、人差し指を突き立てた。すると、その指先から火が灯る。小さな炎だったが、風が吹いた程度では消えなかった。
「まじかよ、お前スゲーな」
「でしょ? 私、実はすごいんだよ!」
褒められたのがそんなに嬉しかったのか分からないが、妹は飛び跳ねながら喜んでいる。そんな妹のことは置いて、俺は森に入っていった。
森に入って3分くらいしたくらいだろうか。
俺は自分が遭難したことに気づいた。
いや、そんなに深いところまで行くつもりはなかったし、迷ったら引き返すだけの簡単なお仕事だと思っていたのが間違いだった。360度同じような景色の森の中では、引き返すということができない。身体を180度回転させたところで、果たしてそれが本当に180度なのかが分からないのだ。そもそも木々の間を抜けてきたので、つねに直進していたわけではない。何度か身体の向きを変え、ジグザグに歩を進めてきたのだ。
「詰んだ」
都会育ちの俺にサバイバルなど無理な話だったのだ。
俺は冷静を取り戻すためにラップでも刻もうかと思ったが、さすがに意味が分からないので辞めておいた。
地面に腰を下ろそうかと思い立ったところで、奥の方で何かの気配がした。
ぞくりと背筋に悪寒が走る。
ふと、斜め右の方向を見やると、小型のイノシシがいた。
なんだイノシシか、俺は安堵のため息をついた。熊だったら死んでいたところだが、イノシシなら警戒する必要はないだろう。
俺はイノシシに構わず、腰を下ろそうとした。その矢先、イノシシは唐突に俺の方に目掛けて突進してきた。俺はとっさに短刀を構えるが、すっかり腰が引けており、刀を振るう間もなくそのままイノシシに突き上げられた。
イノシシの頭がみぞおちに入り込み、俺は呼吸を失う。俺に突進した後もイノシシは走り続け、数十メートル先まで走り切ったところで俺はついにイノシシに投げ飛ばされた。
地面に突っ伏した状態で、必死に呼吸を整えていると、横で妹が笑っているのが聞こえた。
「アハハ! お兄ちゃん、本当に面白い!」
まさに抱腹絶倒といった感じで、むしろ俺よりも過呼吸気味になっており、地面に倒れこんでむせていた。
「イノシシにやられるなんて! うふふふ……。しかもまだ子供のイノシシじゃん! まさか遭難とかしてなかったでしょうね、あの短時間で」
妹はうつ伏せになったり仰向けになったりを繰り返して、ひたすら笑い続けている。
イノシシはというと、俺を突き飛ばしたことに満足したのか、踵を返してそのまま森に消えていった。
「お兄ちゃん。お疲れ様です!」
妹は自分の気が済むまで笑った後、俺に手を貸すでもなく、真面目な顔で俺に敬礼した。
「森の様子はいかがだったでしょうか?」
「もう二度と森には行かん」
俺がそういうと、妹は再び大声で笑い出した。
人の不幸を笑う妹に育てた覚えはないのだが、妹の声を聞けて少し安心する。少なくとも、遭難の心配はしなくて済んだのだ。
だが、その安心を一瞬で消え去ることになる。
「誰だ、こいつら」
足音に気づいてふと見上げると、この世で一番危険な動物。人間がいたのだ。
細く痩せた高身長の若い男と、背中に太刀を背負った偉そうな中年の男。二人とも鎧に身を包み、武装をしている。若い方は大したことなさそうに思えたが、中年の方の男は違った。
その威圧的な瞳が絶対に敵には回していけない人物だと物語っている。そんな雰囲気だった。
若い男ははっきりとした大きな声で、中年の男に言った。
「ハリス中将! こいつら殺しておきましょうか!」
「まあ、そうだな。それが一番、無難だろう」
中年の男は面倒くさそうに言った。
「責任は取りたくないからな。殺して、その辺に埋めておくとするか。事なかれ主義というやつだ」