8.捜査陣営会議
(一)
「鑑識からの報告によりますと……」
報告書を手にした熊のようなガタイの沢渡巡査部長が、狐のような千田警部補と、栗鼠のような如月恭助を前にして、内容の説明を始めた。
「死因は、転落が原因と推測される、主に後頭部に受けた強い打撲による、多発外傷性ショック死です」
「後頭部の打撲?」
すかさず恭助が反応する。
「はい、転落時に岩にぶつけるとか、どうとかしたのでしょうね」
沢渡が淡々と答えた。
「もしかしてさ、何者かから後頭部を鈍器で殴られたという可能性は、ないのかな?」
「その可能性は完全には否定できませんけど、遺体には、骨折など、それ以外の外傷も多数見つかっております。中には転落時に受けたとしか説明が付かないものもいくつかありました」
「ふーん、そうか……。じゃあ、続けてよ」
恭助はあっさり引き下がって、沢渡をうながした。
「遺体の胃の中に残留していたサンドウィッチの消化具合から、死亡時刻はほぼ間違いなく、食後から二時間までの間であったと推定されます。さらに、遺体の硬直していた度合いからの見解も、死亡したのは、学生たちが登山をした六月十一日の午後で、日が暮れた時刻よりも遅いことはまずあり得ない、とのことです」
「つまり、せいぜい五時まで、ということですね」
千田が確認を取った。
「もっとも、被害者が真夜中に山道を歩いて、崖から転落したなんて、通常では考えられませんから、この鑑識の報告は、我々に特別な情報を提供してくれるものではありませんけどね」
沢渡が不服そうにぼやきを入れた。
「夜になると、野生の熊や猪が本格的に活動を始めますし、足場が見えない場合には、平山明神のような登山道があいまいな山は、想像以上に危険です。ゆえに、この山での夜間の単独登山は、常識的にあり得ません」
千田がコメントを入れた。
「それにしてもさ、よく解剖の許可が下りたね、殺人と断定できないのにさ。遺族が解剖に同意するとは思えないけど……」
恭助が目を丸くした。というのも、今回の事件は、公には、滑落事故ということで話が進められていたからだ。
「いえ、解剖したのではありません。検視官が胃カメラを入れて直接調べたそうです。
残念ながら本件においては、遺族からの解剖の同意がとても得られそうにありませんので、死因報告書は、あくまでも検視レベルでの報告とご理解ください。
とはいっても、死亡推定時刻に関しては、確実に信頼してよいかと思います」
「そういうことなら、とどのつまり、小和田桜子がサンドウィッチをいつ食べたのか、が問題となるってことだね」
恭助が口笛を吹いた。
「学生たちの話を総合すると、彼らが頂上へ着いた時刻は、午後一時五十分で、それから高遠と小和田が二人で西の覗きへ行きました。小和田がサンドウィッチを食べたとすれば、必然的にそこで食べたこととなります。高遠竜一の証言とも一致しますしね。
つまり、小和田がサンドウィッチを食べた時刻は、二時と断定しておそらく間違いないでしょう」
千田が冷静に分析した。
「ということは、死亡推定時刻はそれから二時間後までだから、二時から四時までの間、ということになるよね」
恭助がうなずいた。
「その通りです。さらに、小和田桜子の生きている姿が、ほかの三人の学生たちから、午後二時十五分にはっきりと確認されていますから、すなわち、彼女の死亡推定時刻は、午後二時十五分から午後四時までである、と断定してよろしいですかね」
千田と恭助に順番に目を配ってから、沢渡巡査部長が結論をまとめた。
「そういうことですね」
千田も同意した。それを聞いて安心したように、沢渡がさらに説明を続けた。
「学生たちが下山を始めたのが午後三時半でした。そして、その直前にナイフリッジで遺体は見なかった、と彼らは口をそろえて証言しています。これが本当なら、小和田桜子は学生たちが下山してから、三十分と経たぬ間に、ナイフリッジへ登って、そこで足を滑らせたことになります」
「まあ、それが普通の解釈だな……」
千田が満足していない様子でつぶやいた。
「問題は、高所恐怖症の小和田桜子が、なぜ、仲間がいなくなるまでじっと隠れていて、それからわざわざ危険なナイフリッジへ登り、そこで転落したのか。
それがうまく説明できなきゃ、絵に描いた餅だよね」
恭助がからかうように付け足した。
「でも、ほかに合理的な説明など、あり得ませんよ!」
沢渡が首を傾げた。
「そいつを結論付ける前に、もう少し手掛かりが欲しいな。
報告書には、ほかに何か書かれていなかったの?」
恭助が沢渡に注文した。
「はい、それ以外に書かれてあったことはですね。ああ、ありました。
遺体の顔面には、山蛭が血を吸った痕が数カ所見つかったそうです。さらに、蛭が血を吸ったところを強引に引き剥がした痕跡も、同じく皮膚に残っていたそうです」
恭助の肩がピクリと動いた。
「あのさ、蛭が血を吸ったところを強引に引き剥がした痕なんて、そんなの判別できるものなの?」
「それなら、おそらく可能だと思います」
千田が代わって、恭助の問いかけに答えた。
「山蛭の吸着力たるや相当なものです。しかも、ゴムのように身体が伸び縮みしますから、引き剥がすのは至難の業なんですよ。道具もなしに無理やり剥がそうとすれば、必然的に爪を立てることとなります。だから、皮膚に爪でひっかいた痕がどうしても残ってしまうわけです。食塩とか、撃退用スプレーとかを持参していれば、話は別ですけどね」
「まあ、そのような痕があっても、別段、不思議ではありませんよ。誰だって、そんな気味の悪い生き物に顔面の血を吸われていると気付いたら、反射的に引き剥がそうとしますからねえ」
軽く笑いながら沢渡が断言した。
「まあ、そうだよね……」
釈然としない様子で、恭助はうなずいた。
会議室の大きな白板に、千田がまとめあげた事件のあらましが記されてある。
場所: 平山明神山
被害者: 小和田桜子
容疑者: 高遠竜一、飯田千代子、佐久間阿智夢
事件当日、6月11日(金曜日)
11:50 四人が大神田登山口を出発。
13:50 T字分岐に四人が到着。
高遠と小和田は西の覗きへ。飯田と佐久間は頂上へ。
14:15 四人がT字分岐で合流。
小和田と飯田が東の覗きへ。佐久間は西の覗きへ。
高遠はナイフリッジへ。
14:20 小和田が東の覗きからいなくなる。
14:40 飯田がT字分岐へ戻る。そこに佐久間がいる。
14:45 高遠がT字分岐へ戻る。三人で小和田を探す。
飯田はT字分岐で待機。
佐久間は頂上を探し、高遠が東の覗きを探す。
その後、高遠も頂上へ行き、佐久間と合流する。
15:05 三人が西の覗きを調べる。
ほぼ、同時刻に大田切夫妻がナイフリッジを通過する。
15:20 三人が、ナイフリッジ付近を調べる。
15:30 飯田と佐久間が大神田ルートで下山する。
高遠は周回ルートで下山する。
15:50 佐久間が高遠に電話を掛けたが、通じなかった。
16:00 飯田と佐久間が、大田切夫妻と剣が峰付近で合流。
17:00 下山した飯田と佐久間が、車で和市登山口へ移動。
17:10 高遠が和市登山口へ下山する。
19:40 警察の聴取を終えた三人が帰宅する。
事件翌日、6月12日(土曜日)
6:00 地元消防隊員による捜索開始。
大神田登山口から2名。
和市登山口から堤石峠経由で2名。
和市登山口から鹿島山、大鈴山経由で2名。
8:00 ナイフリッジにて、小和田の遺体が見つかる。
「そもそも容疑者のうち、高遠を除くふたりは、被害者とは初対面だったわけですよねえ」
沢渡巡査部長が最初に口火を切った。
「殺人となれば、それなりの動機があるはずです。逆手に取れば、動機がない佐久間と飯田は、犯人ではあり得ないことになってしまいますけど」
そのまま沢渡巡査部長は個人的な見解を述べる。
「たしかに、推理小説では動機の有無が重要だよ。でもさ、四人の美男美女が限られた空間に閉じ込められれば、動機なんていくらでも考えられるんじゃないの。
たとえば、高遠と小和田は仲がよさそうに振舞っていたけど、実はすでに破局していたとか、佐久間が小和田に一目惚れをしたのを飯田が嫉妬したとか、佐久間自身が小和田に告ったら、あっさり拒否られて、そこで逆切れして殺してしまったとかさ」
恭助が軽く反論した。
「そうですね。恭助さんのおっしゃる通りで、この際、状況証拠に基づいて推理を進めるべきです。動機からの推論はやめておきましょう」
千田が恭助を指示した。
「いずれにせよ、事故で決着してしまいますよ。なぜなら、それですべての事実を説明できてしまうからです」
沢渡がふたたび見解を展開した。
「恭助さんは、何かご意見がありませんか?」
困ったように、千田は恭助に目を向けた。
「まあね。俺なりに確かめてみたいことはあるんだけど、その前に千田ちゃんの意見も聞いてみたいな。
正直、もう分かっちゃっているんじゃないの? 優秀な警部補さんにはさ、今回の事件の全貌が……」
突然の恭助からの挑発に、千田が苦笑いをした。
「恭助さんからお褒めの言葉がいただけるとは、光栄ですね。
たしかに、もし今回の事件が、単なる事故ではなく殺人事件であるとすれば、三人の容疑者のうち犯人であり得る人物は、たった一人に絞られてしまいます。さらには、その人物が犯人であるという確固たる証拠を得ようとすれば、どこを捜査すれば良いのか、私にはおおむね目途が立っております」
「そうかい。やっぱりね……。
じゃあ、千田ちゃんの方針で真犯人を突き止めてやろうじゃないの」
恭助が楽しそうに後押しした。
「では、恭助さん。明日は天気も良さそうですから、平山明神山へいっしょに登ってみますか……」
(二)
翌日になって、千田と沢渡、それに如月恭助の三人は、大神田登山口から平山明神山を目指した。登山道にはかなりの蛭が湧いていた。事件があってから二週間ほどが経過しているから、学生たちが登山をした時より、大量の蛭が繁殖しているのはまぎれもなかった。千田が用意した蛭の撃退用スプレーがなければ、相当に苦戦を強いられていたはずだ。
恭助が大いに足手まといとなることは、当初から予測できていたのだが、案の定、捜索は恭助が駄々をこねるから、予定よりも大幅に遅れた。それでもどうにか頂上付近も調べ終えて、三人はいよいよナイフリッジの前までやって来た。
このナイフリッジを越えた先には、周回コースと大鈴山への登山道がある。さっそく恭助が大岩を見て尻込みするのを、笑いながら千田がいさめた。
「恭助さん。音を上げるのはまだ早いですよ。なにしろ、今回の事件の真相を解く鍵は、このナイフリッジの向こう側にあるのですからね――」