5.第二の容疑者
丸眼鏡を掛けた飯田千代子の袖口からはみだした色白の腕は、日焼けのせいで真っ赤に膨らんでいた。彼女は女性にしては背が高めだが、見た感じからは、運動とは無縁な文科系女子の匂いがプンプンと漂ってくる。
「飯田千代子と申します。NS大学薬学部に所属しており、将来は薬剤師の資格を取りたいと考えています。たしかに私は、小和田さんが行方不明になった日に、いっしょに登山をしていたグループの一人ですけど、私が思いますに、あれはただの事故ではなかったのでしょうか?」
玄関口のドア越しに、飯田が小さな声で訊ねてきた。明らかに突然の警察官の訪問に戸惑いを隠せない様子で、彼女の肩口は不安でぶるぶると震えていた。
「あれは絶対に事故でしたよね?」
飯田はもう一度同じ台詞を繰り返した。その様子を見て、警察手帳をかざした千田警部補は、穏やかな笑顔に表情を切り替えて、質問を続けた。
「おそらく滑落事故だと思われますが、我々警察は、一応それ以外の可能性も視野に入れて捜査を行わなければなりません。どうか、ご協力をお願いいたします」
「それ以外の可能性とは?」
「殺人です!」
千田はきっぱりと答えた。
「殺人ですって?」
飯田の瞳が丸く広がった。
「はい。まあ、あくまでも可能性に過ぎませんので、お気楽に答えてください」
と、なだめるように、形式的な言葉を千田は並べた。
飯田は千田の後ろにいる刑事たちに目をやった。一人は体格の良い髭づらの大男だ。さっきから飯田の顔をじーっと凝視している。もう一人はTシャツ姿のまだ幼い少年のような雰囲気の小男である。こっちは、あまり関心がなさそうに後ろ手を組みながら、ぼーっと外の景色を眺めていた。
「あの日のことをできるだけ詳しくお話しできませんか」
千田が再度うながした。
「はい。私たちが山登りに出かけたのは六月十一日です。週末の金曜日でしたわ。
私はあの時のグループメンバーでは、佐久間阿智夢しか知りませんでした。もっとも、阿智夢とも、今年のはじめに知り合って、付き合っていたばかりで、それ以前の彼のことはなにも分かりません。阿智夢と高遠君がサークルの仲間ということでつながっていて、小和田さんは高遠君と付き合っているお相手ということで、四人で登山をしようと、急に計画が決まってしまったのです。私は見ての通り、屋外活動や運動が苦手ですから、反対したかったのですけど、どうにも阿智夢が乗り気で、流れで行くこととなってしまいました」
飯田はうつむきながら語り始めた。
「車で登山口へ到着したのは正午ちかくでした。高遠君が予定よりも遅いと、ちょっとだけぼやいていました。それから山へ登りましたけど、とにかく苦行の一言でしたね。私がばててしまうと、その度に休憩を取ってくれましたが、休んでも休んでも、すぐにへばってしまいます。あれだけの運動をしたのは、生まれて初めてだったように思います。仲間にはとことん迷惑をかけたような気がしますわ。
頂上へ着いた時刻は、午後二時の十分前でした。つまり、かれこれ二時間近くも登っていたんですね。まあ、そのほとんどが、私の休憩時間に費やされたわけですけど」
飯田千代子はここで一息入れた。
「私はもともと運動が嫌いでして、ましてや、登山はずぶの素人です。阿智夢も登山は本格的に体験したことがない、といっていましたけど、彼の場合は なんでも、四国の谷底にたたずむ無人駅から、最寄りの県道へ脱出するルートを三つも見つけたと、かつて自慢をしていたことがあります。私にはいまだにその意味が分からないですけど」
飯田がいい終わると、うしろで無関心をよそおっていた小柄な刑事が、突如ふっと顔をあげたので、飯田はビクッとした。
「そいつは、坪尻駅だな……」
小柄な刑事が、小声でたしかにそうつぶやいたように、飯田には聞こえた。
「頂上の少し手前にT字の分かれ道があって、そこに立て看板がありました。ああ、木で作られた簡素なものですけど。それによれば、左側が『西の覗き』で、右側が『山頂』となっていました。高遠君と小和田さんが西の覗きを見てくるといって、左の道を進んでいきましたから、私と阿智夢は右の道から頂上を目指しました。頂上はそこからすぐだといわれましたけど、最後の坂がとても急で、私はそこでも相当に疲労しました。
ところが、散々苦労した挙句にようやくたどり着いた頂上は、何の見晴らしもない、うっそうと木々が生い茂るだけの暗くて狭い空き地で、木の立て看板で、平山明神山970M、と書かれているだけなんですよ。いったいなんなの、これ、って、思わず私は愚痴をこぼしてしまいました。阿智夢は笑いながら辺りを勝手に散策し始めましたから、私は石にぐったりと座り込んで、ずっとそこで休んでいました。
しばらくして阿智夢が、見晴らしがいい場所を見つけたから来い、というので渋々ついていくと、ちょっとしたスペースができていて、岩場の合間に造られた祠に、神さまが祀られてありました。こんなところに神さまを祀ってもあまり参拝者がいないのではと勘ぐりましたけど、そこからの眺めがそれは素晴らしいものでした。正直、ここで初めて私は癒されましたね。正面に雄大な山が見えましたけど、阿智夢も何の山かは分からない、といっていました。でも、足元の岩の下は切り立った崖となっていて、落ちてしまえば命はありません。私は思わず足がすくんでしまいました。
ちょっとの間そこにたたずんでから、先ほどの看板があった分かれ道まで戻りました。ほどなく、西の覗きへ行っていた小和田さんと高遠君も戻ってきました。小和田さんがとにかく上機嫌で、西の覗きは最高に景色が良かった、と興奮気味にはしゃいでいました。高遠君が、それなら今度は東の覗きへ行こうか、と提案しました。私も行きたいな、と何気なくいってみたら、小和田さんが、じゃあ、女同士で行きましょう、と申し出たので、高遠君はあきらめて、私たち二人をおとなしく見送ってくれました。
その時、私は偶然にも時計に目を通したのですけど、時刻は二時十五分でした――。
それから東の覗きへ、私と小和田さんは向かいました。東の覗きは、立て看板のある分かれ道から頂上への道をちょっとだけ歩いて、途中で左側へ折れます。そこからは、すぐでした。こちらは急坂もなかったので、私は疲れずに済みました。
東の覗きも先が切り立った崖となった岩場で、とっても展望が素晴らしかったです。こちらも正面に大きな山が見えました。先ほどの山とはすこし違っているように思いましたが、やはり山の名前は分かりませんでした。私が、素敵ねえ、とこぼすと、小和田さんは突然、すぐに戻るからちょっとここで待っていて、と一言だけ告げて、そのまま来た道を引き返してしまいました。あんなに東の覗きを見たいといっていたわりに、絶景には目もくれずに行ってしまったので、私は少し拍子抜けしてしまいました。
ところが、すぐに戻るといったわりに、いくら待っても小和田さんは戻ってきません。とうとう、私はしびれを切らせてしまい、立て看板のあるT字の分かれ道まで戻ってみました。すると、そこに阿智夢が一人でたたずんでいて、西の覗きからいま戻ってきたところだ、と告げました。小和田さんを見なかったか訊ねましたけど、阿智夢は、見なかった、とだけ答えました」
「その時の時刻も分かりませんか?」
「さあ、細かい時間までは……。でも、私は東の覗きで少なくとも二十分は小和田さんを待ち続けたように思います」
「ということは、だいたい、二時四十分くらいと見積もってよろしいですかね」
千田が身を乗り出して確認を求めた。
「そうですね。おそらくそのくらいだったと思います」
飯田千代子は少し考え込んでから肯定した。
「それから、私は阿智夢と相談していると、向こうから高遠君がのんびりとした顔で、こちらへやってきました。小和田さんの行方を訊ねてみましたけど、首をかしげるだけでした。
私たちは手分けして小和田さんを探そうということで意見がまとまりまして、阿智夢と高遠君が頂上への道を探しに行きました。高遠君の指示で、私は分かれ道に居残って待機しました。表向きの口実は、一人がここで待っていれば、小和田さんが通り過ぎようとしても見逃さないはずだ、ということでしたけど、私が息を切らせてゼイゼイいっていたので、単に足手まといになると思われたのかもしれません。とにかく、私はほっとして、そこでじっとしていました。でも、その間、小和田さんの姿を見かけることはありませんでした」
「あなたたち以外に、登山していた人はいませんでしたか?」
千田が思い付いたように訊ねた。
「いいえ、頂上付近では私たち以外の登山者は見ませんでした」
飯田は首を振った。
「間もなく、二人が戻ってきて、相変わらず小和田さんは見つからなかったそうですが、それから、三人で西の覗きにも行きました。小和田さんが興奮したのも納得できますが、西の覗きからの景色が、一番良かったですね。私は思わず絶景に見とれてしまいました。ここも切り立った岩場なのですが、正面に大きな岩が立ちはだかって、その後ろから景色を覗くことができるので、怖さをさほど感じずに、風景に集中して楽しむことができました。私が景色を楽しんでいる間も、高遠君は辺りを歩き回りながら、小和田さんがいないか確認していたようです。
結局、西の覗きでも小和田さんの姿は見つからず、私たちはすごすごと引き返しました。やむなく、T字の分岐から下山の道へと進み、登山口へ向かう道に行こうとすると、阿智夢が、小和田さんはもしかしたらナイフリッジへ行ったんじゃないか、と提案したので、念のため、私たちはそのナイフリッジなる場所にも行ってみることにしました。
少し坂を登ったところで、大きな岩が私たちの行く手をさえぎりました。どうやら、ここがそのナイフリッジという場所らしいのです。私はとっさに無理と悟りました。阿智夢は面白がってその大岩を登ろうとしましたが、少し登ったところで足がすくんでしまったらしく、後戻りをしたいけどどうしたらいいのか、と岩の上から泣き声をあげてきました。高遠君が、岩にまたがった状態だから、そう簡単に滑落することはない。まず三点支持を守って、落ち着いて降りてこい、とアドバイスをしました。三点支持とは、後から聞いたことですが、移動する時、両手と両足の四肢のうちの三肢を、必ず岩に設置させておいて、身体の安定を保ちながら、残りの一肢を動かして、進路を探る方法だそうです。
高遠君の的確な指示のおかげで、阿智夢はどうにか下まで降りてくることができました。岩場の下に何か見えなかったか、と高遠君が問いかけましたが、阿智夢が返したのは、そんなものを見ている余裕はなかった、の一言でした。
次に高遠君が大岩に登って、両側の崖下を注意しながらのぞいていましたけど、何も異常はなかったそうです」
「その時の時刻も分かりませんか?」
「ええと、三時二十分でした。今度は、私は日暮れが心配になって時計を見ましたから、間違いありません」
「そうですか。あなたは崖下をのぞかれましたか?」
「ええ。私も大岩に手を掛けながら、もちろん岩には登らずにですけども、崖下をそっとのぞいてみました。でも、なにも見えませんでした。
そういえば、後から聞いた話では、小和田さんの遺体が発見されたのはその崖下だったそうですね」
「その通りです。あなたたちが居た場所からだと、大岩の右側の崖下に当たります。本当にその時、小和田さんの遺体は、崖下になかったのですね。もしかして、小和田さんは転落をしていて、遺体がそこにあったんだけど、あなたたちがそれをうっかり見過ごしてしまっていたという可能性はありませんか?」
肝心なポイントなので、千田はしつこく食い下がった。
「すみません。正直なところ、私は怖くて漠然としか下を見ることができませんでした。絶対に遺体を見なかったかと問われれば、自信はありません……」
飯田は申し訳なさそうに頭を下げた。
「そうですか。続けてください」
「それから、私たちはやむを得ず下山をすることにしました。でも、高遠君が急に思いついたように、自分はナイフリッジを越えたルートで降りる。桜子はボルダリングをしているから、もしかしたらこのナイフリッジを越えて、先へ行っているかもしれない、と主張したので、私たちとはそこで別れました」
「その時刻も、三時二十分ということで、よろしいですね」
「いえ、もう少し遅かったと思います。三時半くらいですね。
というのも、その……、お恥ずかしい話ですけど、私、その時に尿意をもよおしまして、阿智夢が向こうの草むらでして来いよ、とさりげなくポケットティッシュを手渡してくれました。用を足している時間で十分ほどが経過しましたから、下山を始めたのは三時半だったと思います」
「そうですか。登山は楽しいですけど、女性の場合はトイレが悩ましいですよねえ」
「私と阿智夢は行きと同じルートで下山をしました。途中で、夫婦岩と書かれたわき道がありました。もしかしたら小和田さんがいるかもしれない、と私が心配すると、阿智夢が、じゃあ確認をしてくる、といって、私を待たせて一人で調べに行きました。五分ほどで阿智夢は戻ってきましたけど、何も異常はなかったそうです。
そこで阿智夢は高遠君に電話を掛けてみたそうです。でも、高遠君はスマホの電源を切っていたらしく、つながらなかったみたいでした。
さらに少し下ると、丸太で作られたベンチが置いてあって、そこに剣が峰への分岐がありました。阿智夢が入ろうとすると、折よく向こうから夫婦の二人ずれがやって来ました。誰かいなかったかと訊ねてみましたが、夫婦はキョトンとして、何もなかったよ、と告げてくれました。それから私と阿智夢は、このご夫婦といっしょに、大神田登山口まで下山をしました。
車のそばで登山靴を脱いで、靴下も履き替えましたが、驚いたことに、靴下の止めゴムの周りが血だらけになって、茶色くにじんでいました。私は思わず悲鳴を挙げちゃいました。阿智夢の話によれば、原因は山にいる蛭だそうです。本当に気持ち悪い……。私、もう二度と登山はしませんわ!」
「蛭は気候が暖かになると出てきます。六月のはじめだとまだ数はさほどいないと思われますが、七月を過ぎれば、蛭が多いことで有名な平山明神山は、絶対に登らない方が身のためですね」
登山経験が豊富な千田が苦笑いをした。山蛭は、足を止めている人物の靴底にへばりついてから、はい上がって来る。かまれても痛みがないので、血を吸われていることに気付きにくい上に、すぐに立ち止まってしまう飯田千代子は、蛭たちの格好の獲物だったというわけだ。
「それから、私たちは車に乗って、高遠君が下りてくるはずの和市登山口まで移動しました。私たちが和市登山口に着いた時には、時刻は五時になっていました。高遠君はまだ戻っていませんでしたが、阿智夢は地図を見ながら、高遠の脚力ならそろそろ着いていてもおかしくないが、いろいろと探しているのかな、と首をかしげていました。それから十分ほど経って、高遠君が姿を現わしました。
高遠君の話では、周回ルートでも小和田さんの姿は見つからなかったそうです。私たちはその場で地元警察へ遭難届を出しました。それからしばらくすると警察官二人がパトカーに乗ってやって来て、その場で事情を聞かれました。ようやく私たちが解放されたのは、七時半を過ぎていました。
最後に年配の警察官から、今日は日が暮れてしまい、捜索ができないけど、明日、地元住民に頼んで、陽が登ると同時に捜索してもらうから、心配しないでお帰りなさい、と慰めていただきました」
千田が帰ろうとした時に、飯田千代子がポツリとこぼした。
「小和田さんに会ったのは、あの日が初めてでしたけど、本当にお気の毒に思います。事故があった三日後に、小和田さんのご葬儀が行われたそうですが、私と阿智夢は参加しなかったんです。私は葬儀には行った方がいいよね、と提案したのですが、阿智夢は、初対面だったし、別に行く義理もないよ、といったので、そうかもしれないと勝手に決めつけてしまいました。今では後悔しています……」
「大丈夫です。あなたのお気持ちは、きっと天国の小和田さんまで届いていることでしょうよ」
飯田の懺悔の言葉を、千田警部補は形式的に受け流した。