4.第一の容疑者
(一)
名古屋市天白区の相生山。そこに平山明神山にのぼった四人のうちの一人、高遠竜一が住んでいる団地があった。呼び鈴を鳴らすと、直接本人が姿を現わした。
「どなたですか?」
スーツ姿の二人組を見て、高遠は少々驚いた顔をした。
「ああ、私は新城警察署の者でして……」
千田が右手で警察手帳をかざした。
「しんしろ警察署? そんなところありましたっけ」
「ご存じないのも無理もありませんが、私たちは三河地区に所属する警察官です。
ところで話は変わりますが、先日あなたは、三人のお友達と一緒に三河の山へ登山をなされていますよね」
「そうですか。やっぱり、あのことですよね。でも、わざわざ警察が出てくるようなことなんでしょうか?」
顔色を変えずに、高遠が自然に応対した。
「一応、おひとりお亡くなりになっていますからねえ」
逆に、ばつが悪そうに千田が答えた。
「桜子のことですね。彼女は僕の最愛の人でした。でも、あれは単なる滑落事故でしたよ」
なんの恥じらいもなく、小和田のことを最愛の人と口ずさんだ高遠に、千田は少々戸惑いを隠せなかった。ちなみに、千田はまだ独身である。
「状況を冷静にかんがみるに、九十九パーセント、ただの事故に過ぎないでしょうね。しかし、我々の職業はしがないものでして、たとえ一パーセントでも事故以外の可能性がある場合には、とことんそいつを調べなければならないのですよ」
古い刑事ドラマに出て来そうなお決まりのセリフを、千田が淡々と告げた。
「そうですか。刑事さん。それで僕にいったい何を訊きたいのですか?」
単刀直入に、高遠竜一が訊ねてきた。
「ご協力感謝いたします。それでは、まず……」
そういって、千田警部補は内ポケットから使い古したボールペンを取り出した。
「佐久間とは大学に入ってからの仲間です。最近になってあいつ、付き合っている彼女ができた、とはしゃいでいたので、それなら四人組でダブルデートをしようと、僕の方から今回の登山を持ちかけました。でも、今にして思えば、実に忌まわしい企画となってしまいましたよね。
その話をしていた時に、あいつの彼女の飯田さんもいっしょにいて、僕は彼女とはその時に初めて会ったわけですが、意外だったのは、佐久間は以前から細身で小柄な女性がタイプといい続けていましたが、飯田さんはどちらかというとぽっちゃり系でした。ああ、もちろん可愛らしい女性ですよ。でも、佐久間は女性観にはかなりこだわっていましたからね。どちらかといえば、僕の彼女である桜子の方が、あいつのタイプだったんじゃないかな」
そのあと、高遠竜一の説明は、事件当日六月十一日の核心部分へと移行した。
「あいつの運転は、とにかく乱暴でね。車体に傷一つないことを、あいつはいつも自慢していましたけど、助手席に乗せられた側としては、正直、災難としかいいようがありませんね。あの日、家の車が使えていたら、迷わず自分の運転で行きましたけどね」
「まあ、平山明神といえば、電車では行くことができない山ですからねえ。それで、お家の車はどうして使えなかったのですか」
「平日だから、親が普通に仕事で使うんですよ。まあ、僕の車じゃありませんから、仕方ないのですけどね」
さも悔しそうに、高遠竜一はぼやいていた。
「頂上の手前に分かれ道がありましてね。T字の矢印で西の覗きと平山明神山頂の方向を標した木の看板が立っています。そこから頂上までは、すぐなんですよ」
高遠の説明は、いよいよ頂上近辺で起こった事件の佳境へと入ってきた。
「僕たちは、そのT字分岐の地点で自由行動にしました。僕は桜子といっしょに、まず西の覗きへ行きました。西の覗きというのは、T字分岐からすぐのところにある展望の良い場所です。左手には、すぐ隣にたたずむ大鈴山が見え、正面には、かなたに茶臼山や恵那山が、そして右手には、白い雪をかぶった雄大な南アルプス大山系が見えるんです。まあ、とにもかくにも、平山明神の展望地は、どれもこれもが切り立った断崖の上にありましてね。西の覗きも例外に漏れず、下を見ると目が眩んでしまいそうな圧巻の絶壁です。僕は慣れているからいいけど、桜子は足がすくむと嘆いていましたよ。もともと高所恐怖症らしいんです。ボルダリングが趣味なのに、おかしいでしょう?」
そういって高遠はくすくす笑い出した。
「そうですか。小和田さんのご趣味はボルダリングだったのですね。でも、室内のボルダリングだと、高さがせいぜい数メートルでしょうからね。さすがに、数百メートルの山の断崖に立った時に感じるものとは違うと思いますよ」
納得するように、千田がうなずくと、
「その通りです。トレーニングジムの中で、安全が保障されているボルダリングと、野外の岩登りとは、全く別物ですからねえ」
と、茶化すように、高遠がほくそ笑んだ。
「それから僕たちは、西の覗きで桜子が持参したサンドウィッチを食べました。そのあとで、T字分岐まで戻ると、ちょうど佐久間と飯田さんが頂上から戻って来たところでした。桜子が、突然、東の覗きも見たい、といい出したので、飯田さんが、いっしょに行きましょう、と女性二人だけで東の覗きを見に行ったようです。ただこれを最後に、僕は桜子の姿を見ることはありませんでした……」
そういうと、一瞬、高遠は言葉を詰まらせた。
「申し訳ありません。ちょっと、思い出してしまいましてね……」
「無理もありませんよ。落ち着いてから、お話を続けてください」
「ああ、もう大丈夫です。
東の覗きは、頂上へ向かう道を少し歩くとすぐに道がY字に分かれるので、そこを左に進んだ先にあります。桜子と飯田さんがいなくなると、佐久間は西の覗きに行くと一言告げて、一人で立ち去りました。やることがなくなった僕は、時間つぶしにナイフリッジへ行くことにしたのです。ナイフリッジは下山する方向に戻りまして、大神田登山道へ向かう分岐で、逆に大鈴山へ向かう道を進んで、すぐのところにあります。
平山明神の数ある展望の中でも、このナイフリッジは別格ですよ。一歩間違うと奈落の底へ転落死してしまうスリルは、とにかく最高です。高い山がない愛知県でこれほどの景勝地は、さすがにほかには見当たらないですね」
高遠が得意げに断言した。
「ナイフリッジにいらした時刻は?」
「そうですね。二時は過ぎていたように思いますけど、まあ、二時から二時半の間といったところですかね。ええ、そいつは間違いありませんよ。
刑事さん。正直な話、山登りで起こった出来事の一つ一つの時刻なんか、正確には覚えていませんよ」
「山登り用のアプリとかは利用されなかったのですか?」
「ああ、地図はダウンロードして、いちおう準備はしておきましたけどね。僕の場合は、平山明神なら道を十分に知り尽くしていますから、アプリは最後まで使うことはありませんでした。だから、時刻のログ(記録)も、何も残っていないというわけですよ」
高遠は悪びれずにいいわけをした。
「そうですか。それで、ナイフリッジにお一人でいる間は、何をされていたのですか」
「そうですねえ……、十五分くらいかな、いや、三十分かもしれない。とにかく一人でボーっとしていましたよ」
「つまり、二時半過ぎまで、ナイフリッジにお一人でいらしたということになりますね……」
「ええ。そのあとでT字分岐まで戻ると、佐久間と飯田さんがいて、さっきから桜子の居場所が分からない、と途方に暮れていました。
その瞬間はさほど深刻に受け取らずにいましたが、辺りを隈なく探しましたけれど、結局彼女は見つかりません」
「隈なくとおっしゃいましたけど、具体的にはどこを探されたのですか?」
「ええと、T字分岐からは、西の覗きと、東の覗きと、頂上、それと下山方向への四つの道があります。先ほど申しましたように、僕は下山方向からやって来ましたが、途中で桜子の姿は見ませんでした。そこで、飯田さんをT字分岐に残したまま、というのも道が複数ありますから、一方を探しているうちに、別な道から現れた桜子とすれ違ってしまう危険がありましたからね。平山明神の山頂では、どこかへ行こうとすれば必ずこのT字分岐を通らなければなりませんから、そこに一人を待機させることが肝要と判断したからです」
「なるほど、賢明なご判断と思います」
千田がうなずいた。
「飯田さんを分岐に残して、僕と佐久間は探索を始めました。佐久間が頂上を見てくるといったので、僕はもう一つの可能性である東の覗きへ行きました。東の覗きには隠れていられそうな場所もなく、まさかとは思いつつ崖下も覗きましたけど、別に異変はありませんでした。
あきらめて引き返してから、頂上へ向かう道を進みました。平山明神山の頂上は簡素な木の看板が立っているだけですが、スペース的にはちょっとだけ奥行きがあります。念のため、そちらも調べましたが、特に異常はありませんでした。するとその時、小鷹大明神から佐久間が戻ってきて、誰もいなかった、とあっさり告げました。
ええと、説明していませんでしたよね。頂上を通過してすこし下ったところに小鷹大明神と称する謎の祠があるんです。大明神とは名ばかりで、まあ、ちっぽけな祠ですけどね。でも、そこも切り立った断崖になっていて、実際、展望がとても良い場所なんです。念を入れて、佐久間に崖下もきちんと確認したのか訊ねましたけど、もちろんだ、とぶっきらぼうな返事がただ返されただけでしたね」
そういって、高遠は苦笑いをした。
「それから僕たちはT字分岐へ戻り、今度は三人いっしょに西の覗きへ行きました。そこにも桜子の姿はありませんでした。最初は桜子がすぐに姿を現わすと思っていた僕も、さすがにこの辺りでだんだん心配になってきましたね。でも時間も押し迫っていましたから、やむを得ず、下山方向へ足を向けました」
「その時刻は?」
「ええと、三時は確実に過ぎていたと思います」
千田の質問に、高遠は少し考えて答えた。
「佐久間が、桜子はナイフリッジへ向かったのではないか、というので、僕は、まさか、とその瞬間は反発しました。というのも、さっきまで自分はナイフリッジにいましたが、桜子はやって来ませんでしたからね。
いちおう佐久間にもその事情を説明はしましたけど、佐久間は、念のため確認すべきだ、と一向に引き下がらないので、僕たちはナイフリッジまで行きました。高所恐怖症の桜子が、このナイフリッジを超えて先へ行くなんて、僕には皆目想像できませんでしたけどね。
それからナイフリッジの近辺を隈なく探索しました。しまいには、僕がナイフリッジに登って、両サイドの崖下を覗いてみましたが、桜子の姿はありませんでした。
佐久間もナイフリッジへ登ろうとしましたが、途中で足がすくんで、すごすごと引き返してきました。あはは……。本当に口先だけの奴ですよ。あいつは――。しまいに佐久間は、俺が先へ進めないくらいだから、彼女がここを通ったはずはねえ、と負け惜しみとも取れる捨て台詞を吐いていましたね。
それからは、下山をしながら彼女を探すことで話がまとまりました。僕はその時の思い付きで、単独でナイフリッジの先の周回コースから下山をすることにしました。たしかに僕自身、桜子がナイフリッジを越えていったとは想像できませんでしたが、とにもかくにも、万が一ということがありますからね。
佐久間と飯田さんは、やって来た道の大神田コースから下山をしました。僕たちは日が暮れる前に和市登山口のところで合流をしましたが、どちらのルートからも桜子は見つかりませんでした。そこで、地元警察へ桜子の捜索願を出してから、その日はやむなく帰宅をしたのです。
翌日になって、捜索隊によって、ナイフリッジの真下に落ちている桜子の姿が発見されたそうです。
でもね、刑事さん。僕がナイフリッジの下を見た時には、たしかに桜子の姿はありませんでしたよ。はい、そうです。絶対に、それは間違いありません!」
高遠は、自らにいい聞かせるように、真顔で答えた。
「しかしですねえ。仮にあなたの話が正しいとすると、小和田桜子さんは、あなたたちが下山する時にはどこかに隠れていて、あなたたちが下山をした後で、なぜかナイフリッジに近づいてきて、そこから転落をしたことになってしまいますね……」
千田がふっと首をかしげる。
「そうですね。極めて納得がたい推論ですけど、それしか合理的な説明がないですね……」
そう告げると、高遠竜一は両手で頭を抱え込んだ。
(二)
「あれれれ、人違いだったら悪いんだけど、ひょっとして、あんた、千田ちゃんじゃないの?」
高遠竜一の聞き込みを終えて、ホッと一息入れつつ団地の階段を下りていく千田警部補を、ちょうど下からのぼってきた小柄なTシャツ姿の若い男が、すれ違いざまに突然千田を指差したかと思うと、幼稚園児のような奇声を張り上げた。年配者に対しても馴れ馴れしい口調で話しかける、どこか聞き覚えがある声。その声の主は、如月恭助であった。それにしても、晴れて警部補にまで昇進して、しかも、直属の部下がすぐ目の前にいる自分に向かって、よりによって、千田ちゃん、の呼びかけはないだろう、と腹の中では思いながらも、平静を装って、千田は大人の振舞いで応対した。
「ああ、恭助さんじゃないですか。お元気そうで、何よりです。でも、どうしてこんなところに?」
「こんなところって、俺、団地の住民だよ。ほら、ここの五階が俺んちってわけ」
高遠の家の二つ上に如月親子の家があったとは、さすがの千田もちょっと驚いた。
「そういえばさ、この前、千桜に会って来たよ」
千田の当惑に気付く様子もなく、如月恭助はべらべらとマイペースで話を続ける。
「蓮見家のお嬢さまにですか?」
蓮見千桜――。五年前に新城市で起こった前代未聞の残忍な連続殺人事件の被害者となった医師の一人娘だ。まだ高校生のはずだが、なにしろ絶世の美少女なのである。
「いや、今は紅谷千桜と名乗っているよ。もっとも、蓮見家と完全に縁を切っているわけではなくて、将来医者になることができたら、細川診療所に勤めて、その時は蓮見家の財産をめでたく受け継ぐことができるらしいよ。まあ、美味しい話さ」
恭助が調子よく答えた。
「その分、気苦労も多いのではないでしょうか。蓮見家は、今や誰も跡取りがいないわけですから。当主だった悠人先生の遠いいとこに当たるお医者さんを呼び寄せて、蓮見家の豪邸に住まわせて細川診療所で働かせているようですよ。評判はまあまあで、どうにかやっているみたいですね。なにしろ、悠人先生のあとに着いていたあの若い先生が、とんでもなくひどいやぶ医者だったみたいですからねえ」
「にしてもさ、よく着任できたよね。よそ者なのに」
「はい。これがまた相当にゴネたみたいなんです。最終的には、蓮見家の鶴のひと声といったところでしょうか。それに千桜お嬢さまも医師を目指して頑張ってみえるようですが、なかなかなること自体が大変な職業ですからねえ」
「まあそっちの方は、青葉でもなれるんだから、千桜だったらきっとなれるよ」
恭助があっさりと断言した。
「青葉さん?」
「ああ、俺の知り合いの研修生。将来は女医さんを目指しているんだ。そして、俺は将来、彼女のヒモになることを目指している、っていったところかな。はははっ」
この軽々しくていいかげん極まりなさそうな如月恭助という男、何を隠そう、地元警察がさじを投げた蓮見家の難事件を、突如現れたかと思うと、わずか一週間で解決して、何ごともなかったかのように去ってしまった名探偵なのである。そしてその時の事件の担当者であったのが、当時の千田巡査部長であり、その時の功績が評価されて、彼は巡査部長から晴れて警部補へ昇格するおこぼれにも預かったということだ。
「ところで、毎日退屈過ぎで困ってるんだけど、何か面白いことはないかなあ?」
唐突に、恭助が千田の手帳をのぞき込む。公務執行妨害に取られても致し方ない行為だが、千田は寛容にそれを見過ごした。
「面白いかどうかは分かりませんが、奥三河の山に登山した四人の若者のうち一人が滑落事故で亡くなりましてね。今、そいつの捜査をしていたところに、ちょうど恭助さんが現れたというわけです」
千田は簡単に説明した。
「へー、ジャスト・タイミングじゃない。やっぱ、俺って持っているよな……」
人が一人死んでいるのに不謹慎極まりない発言。しかし、これこそがまさに、如月恭助という男の真骨頂ともいえるのだ。