3.滑落死亡事故
(一)
田口地区は設楽町の中心市街地である。その街並みを通り過ぎて、大きな三叉路交差点を右へ曲がると、道路はいたって広くなる。急に走りやすくなったのだが、ここまで来るのに、新城インターを降りてからかれこれ一時間が経過していた。さらにそこからちょっと進むと、岩古谷トンネルがあって、それを抜けた左手に、ようやく目的地である大神田の集落がポツリと現れた。
高遠の指示で左へ曲がると、対向車とすれ違うのも困難な急なのぼり坂が、くねくねとしばらく続く。やがて、集落の一番高いところへ出ると、その道路沿いに、目指す大神田登山口の石碑が見つかった。付近に整備された駐車場はなく、必然的に、カーブのところにできた路側帯に車を停めることとなる。ここからの登山者は、いつもこの場所に無断駐車をしていくのだ。本来ならば、駐車違反の切符を切られても仕方がないところであるが、車の往来が皆無に等しいこの界隈で、だれかれに迷惑をかけるような行為でないことも、明らかだった。
車から降りると、四人は登山の準備を始めた。まず靴だ。高遠の強い指示のもと、今回は全員が登山靴を用意していた。登山靴は、通常の靴と比べると、履き口が高くなっていて、足首全体を保護する構造になっている。さらに、靴底が厚くて硬くなっているおかげで、岩場を歩く時に滑りにくく、安定した歩行が可能となる。飯田と小和田の女性二人に関していえば、登山靴とリュックサックがともに新品だ。それに対して、高遠と佐久間の靴は、ある程度使い古されていて、少々色あせている。しかしながら、とりわけ衣装に至っては、女性二人の間で明暗がはっきりと分かれた。小和田桜子のファッションは、帽子からリュック、インナーにトレッキングスカートまで、すべてがピンク色をベースにあでやかにコーディネイトされていて、どこにいようが、彼女の姿はひときわ目立っていた。一方で、飯田千代子はというと、帽子やジャケット、リュックサックが、コーヒー色や抹茶色をベースに地味にまとまっていて、まるで軍隊の迷彩服のようだった。気が付けば、存在が忘れられていそうなファッションともいえよう。
登山道に入ると、しばらく暗くて静かな森の中を歩くこととなる。今日は雲一つない晴天だったのに、このあたりでは、樹木に閉ざされて直射日光がまったく入って来ない。森とはいっても、植林された杉林に過ぎないのだが、その雰囲気たるや、まるで黄泉の国へと続く漆黒の洞窟を思わせた。間もなく、『山の神様』と手書きで書かれた簡素な立て札が立っていて、それに従って左手へ進むと、小さな祠が静かにたたずんでいて、まだ登山口に入ってすぐなのに、休憩用の丸太ベンチもしっかり設置されてあった。
しかしこのあとで、道は一変して急傾斜となり、一気に疲労感が押し寄せてきた。最初に悲鳴を上げたのが、予想通り、飯田千代子だ。ほかの三人は軽くおしゃべりを交わしながら楽しそうに登っているのに、飯田がひとり集団から遅れるから、そのたびに三人が立ち止まって、彼女が追いつくのを待っていた。
高遠の説明では、大神田登山口からのルートはいたって初心者向けコースで、一時間ちょっとで簡単に登れてしまうとのことであったが、飯田千代子がいたので、一行が頂上近くにやって来たのは、登り始めて二時間近くが経過していた。しかし、そこで四人を待ち受けていたのは、平山明神山が誇る風光明媚な絶景だ。その素晴らしさたるや、ここまでの疲労を忘れさせてくれるのに十分なものとなった。さらに今日が平日だったおかげか、頂上には四人以外に誰もおらず、まさに山頂は四人の貸し切り状態でもあった。四人はそこで休息を取り、散策を始めた。誰もが、今日ここへ来て本当に良かったと、心から満足していた。
ところがこの日、平山明神山から無事に帰還できたのは、四人のうちのたった三人だけであったのである――。
(二)
新城警察署に勤務する千田衛警部補は、茶渋がこびりついた私物のマグカップに、電気ポットからたっぷりとそそいだお湯がぬるすぎたのか、インスタントコーヒーの顆粒がなかなか溶けてくれなくて、少々イラついたあげく、意を決して粉っぽい流体を口に含んで、ようやく部下から手渡された書類に目を通した。そこには、設楽町のとある山で滑落事故が起こり、女子大生一人が死亡した、と記されてあった。
「で……、よりによって、なんでここに報告されたんだ?」
千田が直属部下の沢渡巡査部長へ問いかける。というのも、彼が担当する部署は、主に凶悪犯罪事件を取り扱う、捜査一課だったからである。
「はい、去る六月十一日の、ええと、金曜日ですね。男女四人の学生が平山明神山を登山したのですが、一人が途中ではぐれてしまい、ほかの三人で日が暮れるまで探したけど、結局見つからなくて、やむを得ず下山をしてから、三人は警察へ通報したらしいのです。翌日の十二日になって、地元の消防団で構成された捜索隊が四方八方を探索したところ、切れ落ちた崖下に行方不明の女子大生が死んでいるのを、発見したそうです」
「平山明神か……。たしかあそこは、ナイフリッジがあったっけ。事故が起こった場所も、もしかしたらそこなのかな?」
ナイフリッジは、別名『馬の背』とも呼ばれる、両側が切れ落ちてナイフの刃のようになった尾根のことである。千田は学生時代に登山をかじったことがあり、地元の平山明神山にも何度か登ったことがあった。平山明神山といえば、和市登山口に、『豊富な登山経験と、きちんとした装備を持ち合わせていない人は、足を踏み入れないように――』、とわざわざ警告された看板が立つほど、愛知県内でも随一の危険な山である。
しかし、報告書によれば、この四人は大神田登山口から登ったと書かれてある。鹿島山、大鈴山、平山明神山の三峰をめぐる『周回コース』なら、どうしてもナイフリッジを避けては通れないのだが、『大神田コース』だったら、ナイフリッジを通過することなく、平山明神山頂まで、わりとすんなり行けたはずだ。
「いちおう死亡事故ということで、事情聴取は取っておくよう、上からの指示がありました」
申し訳なさそうに頭を下げる部下を見つめながら、千田警部補はふーっと大きくため息を吐いた。
「しかたないよね。とりあえず、生還した三人から話を訊いてみるとするか……」