2.ナイフリッジ
六月十一日の金曜日は、午前中が雲一つない晴天だったが、同時にとても蒸し暑い一日であった。柘榴石色がひときわ鮮やかなマツダ・デミオが、時速百二十㎞の猛スピードで軽快に走行車線を突っ切っていった。いくら高速道路とはいえこのスピードで走っていると、スピード違反で覆面パトカーから検挙されないかと、通常は危ぶむものだが、ここ第二東名高速道路に至っては、最高速度が時速百二十㎞に設定されているから、どうやらその心配は杞憂で済みそうだ。とはいっても、すべての車が必ずしもこのスピードで走っているわけでもないので、運転は往々にして急ブレーキが発動する荒っぽいものであった。
この車を運転していたのが、佐久間阿智夢である。そして、同時に車の所有者でもあった。内装が少々窮屈なのが玉にキズではあるが、まあ、かえってこのくらいの方が、狭い田舎道を走る際には、むしろ運転がしやすそうに思われた。
「おい、あんまり調子に乗ってすっ飛ばすなよ。お前、まだ免許取り立てだろう?」
助手席に座っている高遠が、我慢できずに悲鳴を上げた。
「ふん、若葉マークなんかとっくに取れてるぜ。それに俺はまだ事故ったことがないんだよ」
どこ吹く風とばかりに、佐久間は高遠の忠告を聞き流した。
「それにしても、きれいな色の車よねえ……」
後部座席左側に座っている小和田桜子が、さりげなく佐久間の愛車をほめた。高遠の彼女ということで今回の登山に参加した小和田は、小柄で引き締まったキュートな体型の持ち主で、コケティッシュな美人女子大生であった。
「ほんと、阿智夢ったら車への愛情が半端じゃないのよ。この車もしょっちゅう洗車しているんだから」
小和田のとなりに座っている飯田千代子が、あきれ顔で会話に加わった。今さらながら、派手な小和田と比べると、飯田は目立つ要素がなにも見つからない、地味な女性だ。
「たしかに、さっき見た時は、車体にキズひとつ無かったけど、まあ、こんな運転をしているようじゃ、そうでなくなるのも時間の問題だな……」
たっぷりと皮肉を盛り込んだ文句を、高遠が投げかけるが、
「はははっ、ぜってえに、それはねえよ」
と、佐久間阿智夢は最後まで自信満々で動じなかった。
新城インターチェンジの紫色で表示されたETCゲートをくぐり抜けた深紅のデミオは、国道257号線へ出ると、ひたすら北上を続けた。途中で右に折れて、今度は県道32号線へ入る。高遠の話によれば、こちらの道の方が走りやすくて、ずっと近道だということだ。それに、県道32号線沿いには、愛知を代表する名峰がずらりと立ち並んでいるのであった。
まず右手に鳳来寺山が見え、さらに進むと宇連山が現れるが、そのたびごとに、助手席に座っている高遠の饒舌がさえわたった。
「鳳来寺山は標高こそ682メートルしかないけど、低山のテーマパークともいうべき、さまざまな天然のアトラクションが用意されている山だよ。登山の出だしは、鳳来山東照宮へ向かう長い石段が続くんだ」
「東照宮って?」
小和田桜子が訊ねた。
「天下人徳川家康を祀った全国に多数点在する神社のことさ。鳳来山東照宮は、静岡県駿河区の久能山東照宮と、栃木県の日光東照宮と並んで、三大東照宮の一つとされている。
国の重要文化財に指定された仁王門を抜けて、荘厳な雰囲気の杉林の中、1425段もの石段を登り切って、ようやく、本堂へ到着できる。そこから先は、周回コースの登山道となっていてね。鷹打場、天狗岩、瑠璃山頂、奥ノ院、馬の背岩など、切り立った岩場がごろごろと点在していて、それぞれの場所で美しい眺望が楽しめるんだ」
高遠のうんちくはとどまることを知らなかった。
「それに対して、宇連山は、距離が長くてアップダウンの多い愛知県屈指の本格的な山だ。東尾根、北尾根、西尾根、滝尾根、国体尾根など、とにかくコースバリエーションが豊富で、どのルートも、山頂が見えているのになかなか頂上へたどり着けない、過酷な登山道となっている。本当に堪える山だね」
稲目トンネルを抜けると、真正面に笹頭山が見え、そのすぐ先で、道路は先ほど分かれた国道257号線と、再度合流する。
「この辺りにもいろいろな名山があるんだよ。東には、風光明媚な四谷千枚田の真上にそびえる、三角にとがった美しい峰を持つ鞍掛山があって、西には、大竜頭、小竜頭の二つの断崖絶壁を有する龍頭山がある。
ただ、どちらの山も、道が不明瞭な箇所がいくらかあって、初心者には向かない山だね。うっかりすると、遭難したり、滑落で命を落とすことだってある」
「お前、さっきもいっていたけど、千メートル程度の低山で、実際に遭難することなんてあるのかよ?」
皮肉めいた口調で、佐久間阿智夢が訊ねた。
「ああ。どんな山でも登山道から外れてしまえば、遭難の危険は常にあるよ。
毎年多くの人が訪れる百名山なら、登山道がしっかりと踏み固められていて、危険な分かれ道には必ず標識が掲げられている。登山者も常時たくさんいるから、少しくらい本道から外れてしまっても、大声をあげれば誰かに届いて、きっと助けてもらえるだろう。
ところが、マイナーな低山だと、登山者数が圧倒的に少ない。平日となれば、登山者がいない山だってざらにある。足をくじいて動けなくなると、誰も助けに来てはくれないし、十分に踏み固められていなくて進路がはっきりしない道もあれば、分岐の要所なのに道案内の標識がなかったり、標識が朽ちてしまって意味をなさない箇所も頻繁にある。そこでは、唯一の信頼できる道案内がピンク色のテープだ。上級の登山者はところどころの木の幹に巻かれたピンク色のテープを頼りに、登山道を確認するけど、それを見失えばいつ遭難してもおかしくないんだよ。
見方を換えれば、そういう山にはルートファインディングの楽しみがあるってことになるね。まあ、今日は僕がいるから、大船に乗ったつもりでいいよ」
高遠竜一は軽く宣言した。
「平山明神山って、いったいどんな山なの?」
心配そうに小声で、飯田千代子が訊ねた。
「そうだな。鳳来寺山や竜頭山で見られる切り立った岩場の絶景と、鞍掛山のルートファインディングの楽しみの両方を兼ね備えた、愛知県屈指の山といっても過言ではないね。中でも極めつけが、平山明神山のナイフリッジだ。
でも、僕たちが今日登るルートは、その危険なナイフリッジを避けた初心者向けの大神田コースだから、安心していいよ」
高遠は飯田を落ち着かせるように説明した。
「ふん、なんか、つまんねーな。どうせならそのナイフリッジとやらも体験してみたいぜ」
佐久間が会話に割り込んできた。
「ああ、別にナイフリッジに行きたければ、大神田コースからでもすぐに行けるよ。挑戦してみればいいじゃないか。まあ、せいぜい、腰を抜かさないことだね」
高遠が挑発的に返した。
「そもそも、ナイフリッジってなんなの?」
さほど関心無さそうに、小和田桜子が訊ねた。
「とんがった岩のてっぺんにできた、馬の背のような狭い登山路のことだよ。平山明神山のナイフリッジは、僕たち山岳愛好家たちの間では、千曳岩、と呼ばれている」
「千曳岩?」
「そう。生きている人間が住む地上の世界と、死者が住む黄泉の国との間を閉ざした伝説の大岩のことだね。
古事記伝説によれば、日本列島の島々を作ったのは、イザナギとイザナミという二人の神様だった。イザナギが男神で、イザナミが女神だ。二人は結婚をし、やがてイザナミはたくさんの神々を産んでいくけど、最後に火の神カグツチを産んだ時、陰部に大やけどを負って、それが原因で命を落としてしまう。
死んでしまった妻のイザナミのことが忘れられないイザナギは、死者が住む黄泉の国までみずから出向いて、妻を取り戻そうとした。地の底へと続く長くて暗い坂道を下りて行き、ようやく黄泉の国へたどり着く。イザナギはとびらの前に立って、妻に、自分といっしょに地上へ帰ってくれるよう呼びかけた。すると、扉の向こうからイザナミの声が聞こえてくる。それによれば、わたしは、黄泉の国の食べ物を食べてしまったために、もう地上へ戻ることができません。でも、なにか手立てがないか、今一度黄泉の神様に訊いてみますから、どうぞおとなしくそこで待っていてください。ただその間、私の姿を絶対に見ないでくださいね、とだけ告げて、彼女の声は消えていった。
しかし、いつまで待っても返事はなかった。しびれを切らせたイザナギは、妻との約束を破って黄泉の国へ忍び込み、ついにイザナミの姿を見てしまう。ところが、そこで目にしたのは世にもおぞましき光景であった。
美しかった女神の顔は腐ってウジ虫がわいており、女神から生まれたきたならしい小鬼が、いっぱい彼女の周りを憑り囲んでいた。イザナミは髪を逆立てて怒りだした。あれほど覗かないでと頼んだのに、とうとうあなたは私の恥ずかしい姿を見てしまいましたね。
イザナミは悪霊たちにイザナギを殺すよう命じた。イザナギは悪霊たちの追撃をかわして、地上と黄泉の国との境界である黄泉平坂まで逃げて来ると、そこにあった千人がかりでないと動かせない大岩を引っ張ってきて、それで黄泉の国と地上との間をふさいでしまった。
そして、その岩こそが、かくあろう、千曳岩ってことさ。
それからというもの、地上の世界と黄泉の国は、千曳岩に阻まれて永久に行き来できなくなってしまった、ということだね」
「つまり、平山明神山のナイフリッジは、この世とあの世の境界にまたがる大岩ってことか?」
運転席の佐久間がぶるっと肩を震わせた。
「そうだよ。そこは一歩間違えれば死に至るとても危険な地点なのさ。実際に滑落死亡事故も頻繁に起こっているみたいだしね」
助手席の高遠がすまし顔で答えた。