人夢桜
『都市伝説』と聞いて、キミは何を思い浮かべる?
有名どころなら、口裂け女とかこっくりさんとかかな。知らないけど。
え? こっくりさんは都市伝説じゃなくて怪談? 物知りだね。でもまあ、これはボクの話の枕だから、そういう不躾なことは言いっこなしでお願いしたい。
さて、それじゃあボクの話をさせてもらうよ。ボクが都市伝説と聞いて思い浮かべるのは、一本の桜の木の話だ。
咲いているところを誰一人として見たことがない、儚桜。一夜の内にその花弁を全て散らす、一夢桜。
少し不思議なだけの話だけど、どうか覚えて帰ってほしい。
◆◇◆◇◆
ボクが母方の実家に帰省するのは、決まって春休みの時期だった。
……帰省先が古ぼけた大きな屋敷でね。空調が効き辛いせいで、家族全員が夏も冬も避けたがったんだ。
だから、祖母からその桜の話を聞けたのはタイミングが良かったんだろう。夏に行っても冬に行っても、桜の季節じゃあないもの。
ああ。我が物顔で話し始めたけど、元は祖母から聞いた話なんだ。屋敷にはそこそこ広い庭とか、私有地の小さな山とかもあったんだけど、ボクはインドア派だからね。家で祖母に「何か面白い話してよ」って、我ながら最低なフリをして聞き出したわけだ。
山頂付近の一本桜は、誰も咲いているところを見たことがないってね。
それはおばあちゃんが見たことないだけじゃないの? って、ボクも聞いてみたんだけど、そういうことでもないようでね。——別にいいだろ。ボクが祖母のことをなんて呼んでいようが。——祖母が見たことないだけじゃなくて、本当に誰も見たことがないんだと。そろそろ咲きそうだと思った翌日の朝には、全ての花弁が地に落ちているらしい。いつ植えられたのかもわからない桜が、数十年間ずっと。
その桜の名前は、人夢桜。人間が見る夢の桜と書いて、人夢桜。
祖母が言うには、すぐに散る『儚桜』の字が崩れたか、一夜で散る『一夢桜』の字が変わったかしたんだろうってさ。ボクは人夢桜は最初から『人夢桜』だったと思うんだけど。
ん? 話は終わりかって? いやいやまさか。こんなもので終わる話なら、ボクはわざわざこんな大層な語り方をしていないよ。
祖母から人夢桜の話を聞いたボクは当然こう思ったわけだ。ボクが満開の桜を見れたら、前人未到の快挙なんじゃないかってね。まあ、いわゆるマウンティングというやつだよ。おばあちゃんマウンティングだ。
そしてボクはインドア派だが、やると決めたらやる人間だからね。そろそろ咲きそうだと祖母に言われたその日の晩、倉庫にあった簡易テントを持って山籠りを決行したんだ。——アクティブすぎる? よく言うじゃないか。女は度胸、男は愛嬌ってね。……逆だっけ? 気にしないでくれ。ボクはインドア派のアクティブ系女子なんだよ。
それでボクは、桜の木のすぐそばで意気揚々とテントの設営をして、徹夜で見張ろうとしたわけだが……当然、桜の花を拝むことはできなかったよ。もし見れていたら、不思議な話ではなくなってしまうし、わざわざキミに聞かせてはいないからね。
さて、それじゃあどうして桜の花が見れなかったのかの話をしようか。
テントから顔だけを出すように人夢桜を見張っていたボクは——気付いたら、目を覚ましていたんだ。
待ってくれ。帰ろうとしないでくれ。単に眠っていただけじゃないかみたいな反応を返さないでくれ。
確かにボクは目を覚ましたんだが、これだけは断言できる。ボクは、眠っていない。少なくとも、自発的には。
当然だろう? 興味深い観察対象を前にして、ボクがおちおちと眠っていられると思うか? 三徹くらいは余裕でするぞ?
……ふむ、何を言っても眠ってしまったことには変わりないか。いいだろう。認めようじゃないか。確かにボクは眠っていたらしい。だが、この話は眠っていて開花を見逃したなんてマヌケな話で終わるものじゃあないぞ。それで終わるだけの話なら、ボクは誰にも語らずに墓まで持って行くだろうよ。
不覚にも目を覚ましてしまったボクが見たのは、白み始めた空に浮かぶ、全ての花弁を散らした人夢桜の姿——ではなかったんだ。かと言って、まだ咲いていない蕾を付けたままだったというわけでもない。
人夢桜は、枯れていたんだ。
◆◇◆◇◆
どうだい? 少しは先が気になり始めたんじゃあないかい?
ああ、ごめんって。帰ろうとしないでくれ。本題はこれからなんだ。
枯れた人夢桜を前にしたボクは、当然のように驚いた。感覚的にはついさっきまで、いつ咲くかと言わんばかりの膨らんだ蕾を付けていた桜が、一瞬にして様変わりしたわけだからね。
すぐに駆け寄ってみたけど、桜の状態は変わらないまま。木が立っている場所だけ真冬になったようだったよ。
でも人夢桜に近付いたことで、一つだけ気付けたことがあった。木の下にはなんと、ボク以外の女の子がいたんだ! 驚きだろう? そうでもない? ああそう。
まあ、ボクも実際はそんなに驚いてなかったね。歳は当時十二だったボクよりも少し下くらいの可愛らしい子だったし、同じ考えで人夢桜を見張りに来たんだろうって、さほど気にせず話しかけたよ。
お嬢さんお嬢さん、桜の花を見に来たのかい? ってね。——若干の誇張は許してくれよ。ボクがなんて呼びかけようが大差無いだろう? へーいかーのじょーと呼びかけていないことだけ伝わればいいんだから。
そうしたら、女の子はこう返したんだ。私には花が見れないから、花を見に来た人を見に来るの、ってさ。
ボクはそれを聞いて、なるほどと手を打ったんだ。だってそうだろう? きっと彼女は、ボクよりも前に一度、同じことをしたんだ。そしてボクと同じように、何故か桜の開花を見逃した。これが人夢桜を見張っていたせいなら、人夢桜を見張る人間の方を見張れば、自分に何が起こったのかを突き止められるって寸法だね。少なくとも、この時のボクはそう考えたわけだ。
それじゃあボクを見に来たってことになるのかい? と訊ねると、彼女は小さく頷いた。
それならきっと、ボクよりも現状に詳しいはずだと期待して、彼女に色々と訊ねてみたんだ。
ボクは眠ってしまったのかい?
彼女は首を縦に振る。
どうして人夢桜がこんな姿になったのかわかるかい?
彼女は首を縦に振る。
それじゃあ、どうしてこんな姿になったんだい?
彼女は言う。私があなたに会いに来たから。私は夢の中でしか、人に会えないから。
さあ、どういうことだろう。ボクには彼女の言葉の意味がさっぱりわからなかった。当然だろう。ボクはずっと、ボクが起きていると思って話していたんだから。
◆◇◆◇◆
不思議そうな顔をしているね。それでいい。これはそういう、不思議な話なんだから。
そうだな、一度当たり前な話をしようか。いまボクはキミに語りかけているわけだが、果たしてボクは起きているだろうか?
寝ぼけた質問だなんて、上手い返しをするもんだね。そう、当然ボクはいま起きている。
だけど、枯れた人夢桜の下で少女と話すボクは、目覚めただけで起きてはいなかった。それだけの話なんだよ。
つまり、ここは夢の世界? とボクが訊けば、少女はまた小さく頷くんだ。同じ会話を今キミとしてもボクは確実に信じないけど、実際に夢見心地だったせいか、不思議と彼女の言葉は信じられたんだよね。これが人徳というやつだろう。
ただ目の前の少女が、ボクが夢に描いた妄想の産物だったのかと言えば、どうやらそれも違うらしくてね。
それじゃあお嬢さんは、ボクの夢の中にしか存在しないのかい? と訊ねたら、彼女は首を横に振るんだ。あなたの夢の中に私がいるんじゃない。私の夢の中に、あなたがいるの、ってね。
なかなかどうして、哲学的な話じゃあないかい? そういえば、似たような話が童話にあったね。夢を見ていたのは私? それとも赤の王? ってなやつがさ。ご存じない? まあいいさ。
話が少し逸れたね。だんだんと荒唐無稽になってきて申し訳ないが、もう少し我慢してくれ。夢を見ていたのがどっちであろうと——あるいは両方であっても、そこはさして重要じゃあないんだ。
少女が夢の世界でボクの前に現れたのは、人夢桜について話したいことがあったからだそうでね。そこからはずっと彼女の話を聞いていたんだよ。
曰く、人夢桜は『忘れ去られる桜』なんだそうだ。
咲き誇った花を誰に見られることもなく、人が知るのは散った花弁と、知らぬ間に咲いていたという事実だけ。何年もそれを続けたことで、人々はいつしか、人夢桜が咲くということすら忘れてしまう。
そんな話を我が事のように悲しそうに語る彼女に、ボクは何も言えなかったよ。彼女の話が飛躍しすぎているとは、どうしても思えなかったからね。
◆◇◆◇◆
記憶とは、意識の残留である。なんてのは誰の言葉だったっけ? まあ誰の言葉でも構わないんだが、ボクに言わせればこれは、記憶とは意識の残留でしかない、になるわけだ。
人は意識を向けていないものを憶えられない。これは完全記憶能力なんてけったいなものを持っている人間だって、例外じゃないよ。
よくわからないって? そうだな、簡単な譬え話をしようか。キミの家の近くに桜の木はあるかい? ある? それは重畳。それじゃあ、夏から冬までにかけて——つまり、桜が咲いていない季節に、キミはその木を桜の木と認識することはあるかい? ある? じゃあこの譬えは失敗だったね。忘れてくれ。
いやなに、ボクが言いたかったのは、桜を桜と認識できるのは、桜の花を意識する季節だけだということなんだよ。夏に緑の葉を付けようが、冬に裸体を曝け出そうが、それを見た人間の認識はあくまでも木であって、桜ではないんだ。そして意識できなければ、記憶にも残らない。
そう考えると、どうだろう。桜が桜であると主張する機会を逸し続ける人夢桜は、確かに忘れ去られる桜と言えるんじゃあないかい?
そう思ってしまったからこそ、ボクも下手な言葉をかけられなくてね。ボクは忘れないよ、なんて大層なことが言えるほどに、ボクはボクの記憶力に自信を持っていないから。
だからボクは、彼女を慰めなかった。口で言うだけなら簡単な言葉も、彼女には伝えなかった。
非道い奴だと思うかい? それは解釈が分かれるところだとボクは思うけどね。実の伴わない慰めは、時に残酷な事実よりも心を傷つけるものなんだよ。
でもまあ、ボクにも最低限の人情というものはあるからね。慰めの代わりに、一つ提案してみたわけだ。——提案というよりも、転換かな? あるいは妥協とも言うけど、とにかくボクは彼女に言ったんだ。
別に普通の桜として記憶される必要は無いんじゃないかな?
人に花を見せない桜として記憶されることはきっと、悪いことじゃあないよ、ってね。
どうして? と彼女は返した。ボクは、だってと続けて理由を語った。
普通の桜としては記憶に残らなくても、人夢桜としてなら記憶に残るからね。少なくとも、ボクの記憶には。
たとえここが夢の中で、目覚めたボクがお嬢さんとの会話を何一つ憶えていなかったとしても問題無いよ。花を見れない桜の話なんて聞けば、ボクは絶対にまたここに来るから。それだけは断言しようじゃないか。
なんて、少しだけ格好付けて言ったら、彼女もわかってくれたみたいでね。花が開いたような笑顔を返してくれたんだ。
実際、ボクの言葉に嘘は無いからね。そんな興味深い桜の話を聞けば、何度だって同じことを繰り返す自信がある。それが伝わったんだと、ボクは信じているよ。
さあ、話も佳境だ。薄明るく白んでいた空は、気付けば日の出を迎えていて、枯れた人夢桜を照らし始めていた。彼女は何も言わなかったけれど、ボクはなんとなく夢の終わりが近づいてきたことを悟ったよ。
お別れの時間かな? ボクが聞くと、彼女は小さく頷いた。そしてすぐに、こう訊いてくれたんだ。
また、会いに来てくれる?
もちろん。来年も、再来年も。いつか友達だって連れてくるさ。
そして、最後に彼女が一言告げたところで、ボクはテントの中で目覚めたんだ。
◆◇◆◇◆
果たして少女の存在はボクの妄想の産物だったのか、それはわからないまま。それでもボクは、夢でした彼女との会話を、夢で見た彼女の笑顔を、しっかりと憶えていた。
そしてテントの外には何食わぬ顔で花弁を全て散らした人夢桜の姿があったよ。結局ボクは、人夢桜の開花を見損ねたわけだ。少し悔しかったよ。
だからボクはそれ以来、毎年のように人夢桜の許を訪ねているんだ。彼女との約束もあることだしね。——まあ、あれから一度も夢で彼女には会えていないし、人夢桜の開花も見れていないんだけれども。
……ん? 彼女の最後の言葉? 知りたいかい?
いつかきっと、満開の私を見てね。彼女は最後に、そう言ったんだよ。
さあ、彼女の——人に会う夢を見る桜の話は、これにておしまいだ。
さて、どうだろう? キミは今度の春休みに、何か予定は入っているのかな?