表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

十月

9/17 添削等を行いました。

1


 『モリタ』の小説を発見したときから俺の何かは大きく変化した。生活の中では本を読むようになった程度で、大きな変化が現れたわけではない。それに、その「何か」が何なのかも分からなかったが。

 とにかく、俺は『モリタ』の小説のみならず、本屋に並ぶ小説なども読むようになった。家に帰っても、リビングで過ごすことに変わりはないが、テレビを見るよりも本を読む時間のほうが増えた。


 気が付けば九月はもう終わっていて、十月も終わりに差し掛かっている。夏の空気はすっかりと、涼しく乾燥した秋の空気に吹き飛ばされてしまったようだ。

 夏の間は、死ぬほど暑いだとか、早く涼しくなればいいのにだとか思うにも関わらず、夏が終わり秋になって冬が迫ってくると、その今までうっとおしく思っていたものが急に恋しくなるから、人間は随分とわがままなものだと思う。

 秋の風を頬に受けながら、そういえば今年の夏は何をしたっけな、と思い出そうとしてみる。ところどころを思い出すことは出来るが、出てくる思い出の一つ一つに大きな思い入れはなかった。乾燥した空気を含んだ風でそれに気づかされ、少しだけ寂しくなった。そういえば、美香と学校以外で会うことも減ってしまったような気がする。


 朝の教室では、みんな思い思いの過ごし方をしている。友達と机の上に座って雑談する奴らもいるし、今日提出の宿題を必死になってやっている奴らもいる。そして、一人でスマホを眺めている奴もいれば、教室の隅で雑誌を読んでいる奴らもいる。

 学校というのはどうにも酷いものだと思う。知らぬ間に「いけている奴」と「いけていない奴」に分けられ、「いけている奴」であれば学校で何をしても許されるような風潮がある。そして「いけていない奴」であれば何をしても溜息混じりで見られる。目に見える境界線があるわけでもないのに、そこには確かな境界線がある。それは誰にも言語化も定義も出来ない。ただ、「見えない境界線」によって「見えている人間」が分けられるというのは、どうにも心地の悪いものな気がしている。

「おいどうしたんだよ結城、そんな暗い顔してー、最近元気ないぞー」

 歩きながら考え事に耽っていた俺に声を掛けてきたのは智弘だった。1年生の頃クラスが一緒で、向こうから突然話かけてきたことがきっかけで友達になった。それから俺はこいつのことをトモと呼んでいる。

「逆になんでトモはそんなに元気なんだよ、羨ましい限りだわ」

 教室に入るなり早速俺の机の上に座ったトモに対して、俺は「こういうのがいけている奴なんだ」と思う。パーマの掛かった茶色い髪と、絶妙な塩梅で気崩した制服に身を包んだ身長が高くスタイルの良い男。そして、そんなトモと仲の良い俺も周りから「いけている奴」と思われていることを改めて認識する。

 それは喜ばしいことである一方、どこか悲しいことでもある気がした。学校の中にある無意識のカースト制度の中で上位にいることは、自分の身を批難の視線から逃れさせることになるから、上位層にいるというのは嬉しいし楽だ。しかし一方で、森田のような「カースト下位層」の人々の考えていることに触れることが難しいというのは悲しいことだ。

 トモと話しているのは楽しいし、時間があっという間に過ぎる。しかし、彼が「カースト上位層」であるということを認識し、森田が「カースト下位層」であることを認識してからというものの、なんだかトモという存在そのものが「差別の権化」のように映ってしまう。

 彼とくだらない話をしながらそんなことを考えていると、知らぬ間に時間が経っていたようで、一時間目の授業が始まるチャイムが鳴った。

 一時間目は現代文の授業だ。最近は現代文の授業が『モリタ』のおかげで楽しくなってきている。


2


 授業合間の休み時間にはトモと話をして、現代文以外の授業時間にはぼーっとしたり教材を読んでる振りをしながらスマホを弄ったりしていると、あっという間に四時間目までの授業は終わりを迎え、昼休みの時間になった。

「おい結城行くぞ!!」

 授業終わりのチャイムが鳴ったその瞬間にトモは財布を片手に教室を飛び出していく。俺も慌てながら財布をリュックから取り出して彼の後を追う。

「いつもあの二人元気だよねー。あまり騒がないでよー」

 飛び出した教室からそんな女子たちの声が聞こえた。あの甲高い声は美香たちを含めた「カースト上位層」のものだろう。

 教室を抜け、授業終わりの生徒たちが溢れる廊下を走る。なるべくぶつからないように。

 階段の踊り場に差し掛かり、角を曲がろうとすると、俯きながら一人歩く女子生徒に軽くぶつかってしまった。

「あ、ごめんなさいっ」

 ぶつかった拍子に俺は財布を、彼女は手に持っていたファイルを落とし、そのファイルの中身に入っていた紙が何枚か床に落ちる。

「いや、こっちこそごめん!」

 床に落ちた紙を彼女と一緒に慌てて拾う。その紙には、彼女が書いたものであろう絵が描かれていた。綺麗なものから少しグロテスクなものまで、デフォルメされたものではなく写実的な絵だ。

「これで全部?」

 俺は床に落ちた彼女の『作品』を拾い集めて、彼女に手渡す。自分の胸くらいまでしかない身長で、少しだけ小太りの彼女は俯きながら、

「ありがとうございます」

 そう小さな声で呟くと、小走りで曲がり角の向こう側へ消えていった。三つ編みにした長い黒髪をたなびかせながら消えていった。

 美香だったら三つ編みの彼女を見てなんて言うだろうか。いまどき三つ編みとかめっちゃ時代遅れじゃない?とか言うのだろうか。それとも、結構アノ子太いよねー、とかだろうか。

 そんなことを考えながら自分の財布を拾い、トモの後を追った。


 購買に並ぶ生徒たちの群れの中でも、比較的身長が高いトモはすぐに見つけることが出来た。なにより、彼の髪は他の黒髪の生徒とは違い、茶色くパーマが掛かっているから一瞬で分かる。

「わり、待たせた」

「せっかく俺早く着いたのにこれじゃ走った意味ねえじゃんかよー」

 軽く息を切らしている俺を見ながら彼はそう冗談交じりに毒づく。

 トモは「カースト上位層」だが、他の生徒より上に立つようなことはしないことにふと気付いた。だから購買の列に先に並んで、俺を途中から入れるようなことはせずに、中庭で立ちながらスマホを弄って待っていてくれる。

「早くしないとサンドイッチ売り切れるぜ」

 ここの高校の購買で一番人気なのは日替わりサンド。どんな具材でも美味しいし、なにより安いため、弁当を持ち込む生徒以外はこのサンドイッチを目当てに購買に並ぶことがほとんどだ。

「このあと体育だっけか」

 ああそうだよ、とトモの質問に答えながら、俺は購買の列に一人並ぶ森田の姿を見つけた。そしてその前では美香たちのグループが並んでいる。

「ごめーんお待たせ!!」

 校舎の中から出てきた一人の派手めな女子生徒が、その美香たちのグループに加わる。その後ろにいた森田は気迫されたのか、一歩だけ後ろに下がり、彼女たちのグループに見つからないように俯いた。

「相変わらず美香たちのグループってなんか派手だよなー」

 トモもさっきの様子を見ていたのだろう。大きなあくびをした彼は、パーマの掛かった茶色い髪の毛先をくるくると指先で弄る。

「そうだよなー、てかあのスカートの短さやばいでしょ。露出狂じゃん」

 美香もスカートを短くするタイプだが、彼女のグループにいる女子たちはもっとスカートが短い。正直俺はそういったものが、男に媚びているようで、そして自分たちの華やかな姿を、いわゆる女子高生ブランドを自慢しているようで、あまり良くは思えない。

「まあ眼福ものだしいいんじゃん?おーこれで午後の授業も頑張れますわー」

「俺の彼女そんな目で見んなよ」

 トモはこういうときにふざけてくれる。だからこそ気持ちが楽になるし、そしてどこか彼が少し羨ましくもなる。

 自分が他人より優位にあるというのに、それに甘んじないしそれを利用しない。自分より「下位」の人に対しても特別悪いことを言うわけでもない。「差別の権化」になって楽に学校生活を送ることが出来るのに、それをしない。

 そんなトモが羨ましくもあり、そして十月に入ってからは妬ましくも思うようになってきた。

 トモは、自分がカースト上位にいるということに気が付いているのだろうか。それとも、そもそもそういった感覚がないのだろうか。


3


 昼休み後の体育は脇腹がぎゅっと痛くなるからあまり好きではない。

 ここの高校には各学年八組ずつあり、体育は奇数と偶数の組が合同で行うことになっている。つまり、一組の俺は森田のいる二組と一緒に体育の授業をする。

 十月から男子の体育では、すっかり涼しくなってきたグラウンドにて野球をするカリキュラムになっている。ちなみに女子はグラウンド横の体育館でバレーだ。

「おっしゃ今日から野球じゃん俺めっちゃ野球好きなんだよねー」

 体育着に着替えたトモはバットを振るモーションをする。彼は制服も体育着も、うまい具合に着崩すことができる。

 俺がトモと一緒に更衣室で遊んでいると、暗い顔をした森田が入ってきた。彼は気だるげに、少し太くてサイズの合っていない制服から体育着に着替え、シャツを短パンにいれて更衣室を出て行った。

 一応体育着はシャツをズボンに入れなければいけないというルールがあるが、わざわざそれを守っているのはごく少数だ。

 制服はもっと細いやつでいいし、体育着のシャツを短パンに入れる必要もないし、なんだったらトモや俺のように髪にパーマを当ててもいいんだ。そう森田にアドバイスをしたくなった。

 いくつも小説を完結させて、自分がやりたいことをやれてるお前はもっと自信を持ったっていいんだって、俺はそう伝えたくなった。


4


「なんか最近結城変わったよな」

 体を温めるためのジョギングの最中、横を走っていたトモに突然そんなことを言われた。

「いやそんなことはないでしょ」

 さっきまで順調に体が温まって、少しばかり汗ばんできていた俺の体から、運動からのとは別のいやな汗が少しだけ出る。

「いや変わったよ。なんていうか、少し暗くなった?なんか悩みごとでもあんの?」

まあ、お前みたいな何も考えていないやつにはないよなー、と暢気に伸びをしながら笑うトモに合わせて、彼の脇腹に軽く肘打ちを入れてやる。


 つい昨日のことだ。『モリタ』が書いていた『空っぽ』という小説が完結したのは。彼の書いていた群像劇の最後の主人公は『何をすることもなくただ今を生きている高校生』だった。

 その主人公の名前は「祐樹」といい、今まで『空っぽ』で書かれていたほかの高校生と一緒に高校生活を送っていた。彼は、他の主人公たちが頑張る姿を見ながら、どこか不安を感じながらも、「そんなに頑張ってどうするんだよ」と自分に言い聞かせて過ごしていた。

 他の主人公たちが夢を追いかけて色々なことに挑戦し、成功したり失敗したりする中で、彼だけが部活に打ち込むこともなく、ただ友達と遊んでなあなあに生きている。そして彼は卒業式のときに心の中で呟いていた。


『僕は大人になれた気がしない。そしてこれからも。僕はきっと空っぽなままだ』


 主人公の名前が一緒なのはたまたまだろうか。それとも『モリタ』は密かに俺のことを見てモデルにしていたのだろうか。

 もし森田が勝手に俺をモデルにしていても、悲しいことに何も言い返すことはできない。彼の書くとおり、俺は何もすることが出来ない。そして、これから先もきっと。

 脇腹がぎゅっと痛くなる。昼飯を食ったすぐあとだから、というのと別の原因の痛みだ。

「ってかもう走るのよくね?これならカリキュラム名ランニングに変えろよー」

 横でトモが冗談交じりに愚痴っているのが耳に入ってきた。


5


 体育の授業は最後の局面に差し掛かっていた。一組と二組でチーム分けされて始まった試合は、二組が一点リードしたまま、満塁の状況になっている。そしてそのまま、最後のバッターである俺に回ってきた。

 こうしてバットを持つと、中学生のときのことを思い出す。とりあえず運動部に入らなければクラスから浮いてしまうと考えて入った野球部。そこで俺は、いつも「きちんと練習しないこと」で逃げていた。

 野球部を選んだのも、中学の野球部が弱かったからだ。強い部活に入ってしまったら、自分が誰かに負けていることが分かってしまう。真正面から、自分が否定されることになる。

 中学野球部での最後の試合で、それまで通りボロ負けしたのを覚えている。俺以外の野球部員にとってそれは「本気で挑んだ試合」だったから、みんな泣いていた。嗚咽混じりに泣いていた。しかし俺にとっては「適当に挑んだ試合」だった。だからこそ泣かなかったし、悔しくも無かった。


『何かに本気で挑んで負けるのが怖いから何もしない』


 そうなってしまったのはいつからだろうか。

「おい結城ぼーっとしてんじゃねー!ちゃんとボール見ろよー」

 トモのその声で現実世界に引き戻される。ピッチャーも準備が出来たのだろう、軽く一息つくと、振りかぶってボールを投げる。

 ストレートに投げられたボールに合わせて、俺はバットを振った。

 少し芯から外れたところに当たってしまい、ボールはグラウンドの上にふわっと浮いてしまう。宙に浮いたボールの下にいるのは、森田だ。

 これを取れば二組の勝ちで綺麗に試合が終わる。しかし取れなければランナーがホームに帰ってきて一組の勝ちになるだろう。

 学校という閉じられた狭い世界において、体育というのは大人が思うよりも大きな存在だ。そしてその中でどういった立ち回りをしたのかは、悲しいまでにその人物の評価に直結する。そして、評価に直結する体育の授業という時間において、一番不当な扱いを受けるのは「カースト下位層」だ。

 俺の打ったボールは、綺麗なまでに森田の上に落ちていく。なんとなく、そこから先の光景は予想できたし、そして実際その通りになってしまった。

 森田はボールを取りこぼした。それを見て一組の生徒たちは喜び、二組の生徒は溜息をつく。

 ランナー二人がホームベースに帰ってきたのと同時に、チャイムが体育の授業の終わりを告げた。

 しかし、チャイムの音はグラウンドに残った溜息を消し飛ばしてはくれない。秋の涼しい風が俺の背中に流れた嫌な汗を冷やしてくる。

 脇腹がぎゅっと痛んだ。


6


「いやー良い汗かいたわー」

 体育が終わり、男子生徒たちは雑談しながら、あるいは一人でとぼとぼ歩きながら更衣室へ戻ってくる。トモは気崩した体育着を脱ぐと、爽やかな柑橘系の香りのするシートで体を拭いた。

「体育で野球やるのっていつまでだっけ?」

 俺はふとそんなことをトモに聞いてみる。えー、知らねえけど十月中とかじゃね、と気だるそうにトモが答える。

「そういえば結城って中学のとき野球部だったっけ?」

 制服に着替えなおしたトモが、なんの気無しに尋ねてきた。あまり野球の話はしたくない。そんなオーラが伝わってしまったのだろうか、トモは

「この後古文だっけか。俺絶対寝るわ。てか今寝そう」

 そう笑いながら、先に更衣室から出て行った。多分、俺が少しだけ暗い気分なのを察してくれたのかもしれない。

 トモは、さっきの森田の失敗をどう思っているのだろうか。恐らくだが、なにも気にしていないだろう。

 そしてもし俺が打ったボールが拾われて一組が負けても、なにも気にしないだろう。

 根っからのカースト上位層は、多分そんな細かいことは気にしない。細かいことに気づいて、カースト下位層と上位層との間に境界線を設けるのは、「本当はどちらにもなれない奴」なのかもしれない。

 校内でのカーストで上位に位置する人々はきっと、今まで「何かに本気で打ち込んできた人たち」な気がする。トモは中学のときから本気でサッカーをやっていると、以前そう言っていたし、今でも高校のサッカー部で活躍している。

 そして下位に位置すると思われている人たちも、俺たちのような中途半端な人の知らないどこかで「何かに本気で打ち込んでいる人たち」なのかもしれない。例えば森田のように。あるいは、今日廊下でぶつかった女子生徒のように。

 校内でのカースト「程度」に気を取られて、その境界線にこだわる「暇」のある人たちは『きっと空っぽ』なのだろう。

 変なことを考えすぎて少し頭が疲れてきた。恐らくこの後の古文の授業ではトモと同様俺も寝てしまうだろう。


 汗と制汗剤の混じった臭いの篭る更衣室から一人で出ると、廊下の少し先を美香やその友達たちが歩いていた。彼女たちは「本当のカースト上位層」なのだろうか。それとも「中途半端な存在」なのだろうか。

 運よく彼女たちは俺の存在に気づいていない。そして彼女たちは、俺にとってして欲しくない話をし始めた。

「ていうかあの森田だっけ?あいつマジでなくない?あそこで取れないとかありえないよねー」

「マジで分かるわー。なんか色白で身長低くて気持ち悪いし。なんかオタクって感じ」

「うわそれー。絶対家帰ってアイドルとか聴いてるよね。しかもライブとかいって貢いでそう」

「ていうか美香の彼氏の結城君ってやっぱかっこいいよねー」

「そうそう、それと仲良い智弘君とかもかっこいいー、お洒落だよねー」

「分かるー!二人とも身長高いし顔カッコ良いし、なんか男子高校生って感じー」

 恐らくバレーをしながら見ていたのだろう。美香たちのキャピキャピとした甲高い声が嫌でも耳に突き刺さる。前までだったら気にも留めず美香に話掛けていたかもしれない。しかし今は何故だろう、手のひらに爪が食い込んで痛いほど、こぶしを握り締めていた。


7


 体育終の古典の授業は、ほとんどの生徒にとって睡眠時間に過ぎない。そして当然俺にとっても。

 6時間目の授業の終わりを告げるチャイムで目を覚ますと、古典の先生は「もうこの光景には慣れましたよ」と背中で語りながら教室からそそくさと出て行った。

 それと入れ違いで担任が教室に入ってくる。四十代にも関わらず随分と精悍な担任は、ちょっとした鬼教師として噂で、実際噂通り、いやそれ以上に厳しいような人だ。

「帰る前にいくつか業務連絡をする」

 担任は席の列の先頭に座っている生徒たちにプリントを配る。

「まず今配ってるのは進路希望調査のためのプリントだ。第三希望まで欄があるから全て記入するように」

 淡々と概要を話し、プリントを配り終えた担任は、黒板のタスク欄に「進路希望調査表、提出期限10/24」と赤いチョークで書いた。

 俺の元にも例外なくプリントが配られる。わざわざ三つも記入欄を用意してもらって申し訳ないが、今の俺はまだその欄を埋めることが出来ない。

 クラスにいる真面目そうな人たちは貰った瞬間に記入を始めているにも関わらず、俺はシャーペンを握ることすら出来ない。いや、シャーペンを握ることをしない。

 将来を直視し、それに向けて本気で挑むことが怖い。本気で挑んで負けること、失敗することが怖い。

 森田ならどうするだろうか。とある大学の文学部と書くかもしれないし、専門学校と書くかもしれない。

 しかし、俺は『モリタ』に、『小説家』と書いて欲しい。自信を持って、周りの目を見にすることなく。そんなことを勝手に、一人の読者として思っていた。


8


「美香は進路どうするん?」

 夕日が照らす中途半端に長い橋を美香と一緒に渡りながら、俺はなるべく明るく、軽い感じで尋ねてみる。

 んー、と彼女は少しだけ唸ると

「ウチは大学かなー。ほら、そっちの方が高校卒業した後も遊べるし、将来への潰しも効きそうじゃん?」

 彼女はそういうと、俺にも答えを求めるように目を見つめてきた。

 そんな軽い気持ちで自分の将来を考えるな、そんな奴が俺に答えを求めるな。そう言いたかったが、俺も同様であることに気づき、酷く悲しい気持ちになった。

「俺もそんな感じかなー。受験勉強始めなきゃな」

 さっきまで『空っぽ』だと馬鹿にしていた美香と、将来を真面目に直視していないという点では同じであることに気づいた俺は、彼女と同じ答えをしておく。

 答えながら俺は、自分の中に生まれた黒い感情に気が付く。


 仲間が居た。


 そう考えて、俺は今彼女を馬鹿にしながらも、心のどこかで安心していた。

「まあそうだよねー、何したいかなんて今分かるわけ無いもん」

 パッチリとした二重、地毛にも関わらず少し茶色いセミロングの髪、嫌らしさのない程度に、しかしダサくもない程度に短くしたスカート、可愛らしいキャラクターものの缶バッジが付いたスクールバッグ。

 全てが「可愛らしい女子高生」として完成されている。しかし「それだけ」でしかない。

 そして俺も同じだ。軽くパーマを掛けた黒髪、太すぎないサイズの制服、ネクタイはわざと少し緩めに締めておく。

 多分全てが「いけている男子高校生」として完成されているだろう。しかし「それだけ」でしかない。

 俺や美香はこのままで行けば『きっと空っぽなまま』だ。

「ていうか今日の野球、結城君すごかったよ!」

 また野球の話か、また体育の話か、また学校の話か。今までであれば何とも思わなかったことに俺はイラついてしまう。しかし、それを彼女にばれないように必死に隠す。

「でもあの森田だっけ?酷かったよねー」

 まあ、そのおかげでウチのクラスが勝てたんだけどねー、と彼女は俺の手を握る。

 また野球の話か、また体育の話か、また学校の話か。

 森田はこんな形で評価されて良いはずがない。体育なんかで評価されて良いはずがない。何も成し遂げることが出来ていない俺とも美香とも違い、いくつもの小説を完結させ作り上げた『モリタ』は、俺たちとは完全に違うところにいる。

 そして俺や美香は、こうして無意識の内に引かれた境界線に気を取られている限り、『きっと空っぽなまま』だ。

 しかし、そう思っていることを俺は彼女に伝えることは出来ない。いや、伝えることをしない。

 もし、ここで俺が今思っている本当のことを伝えたら、多分彼女と喧嘩になるだろう。そしてもしかしたら別れるだろう。

 一応カースト上位層にいる彼女と喧嘩をし別れたら、俺はカースト上位層から下位層へ、境界線のこっち側からあっち側へ追い出されるかもしれない。

 それが怖くて、俺は彼女に本心を伝えない。

 俺も美香も、「境界線のこっち側にいるための手段」としてお互い付き合っているのだろう。


 いつも渡る中途半端な長さの橋は、先月よりも濃い橙色に染められている。橋の向こう側にずっと広がっている地平線では、夕日の橙色が夜の暗闇に押しつぶされそうになっていた。

 『モリタ』ならこの風景をどうやって表現するだろうか。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ