いつも彷徨い続けた、私の心 01
元妻の由子が、がんを患っているらしい。
先週、息子の貴文から連絡があった。
「母さん、もう長くないんだよ。」
電話の向こうで、涙をこらえている。息子は息子で、大変だったのだろうに、何一つ顧みることなく過ごしてきた自分に、狼狽えた。
私は、5年前、由子と離婚していた。貴文が大学4年の時だった。就職が決まって、そろそろお役御免でもいいだろうと、由子と息子に離婚したいと告げた。まったくのわがままだと判っていた。由子は、本当に良く尽くしてくれていた。でも、それだけだった。ずっと、もやもやとしていたことだが、彼女が、いつも、どこか遠い所にいるように感じていた。だから、無邪気に愛してくれる女性とこれからの人生を共に暮らしたいと切望したのだ。由子だって、私との未来よりもきっと幸せな人生があると、都合の良いことを勝手に思っていた。
息子は、握りこぶしをブルブルとさせながら黙っていた。それまでの両親たちに、自分を入れた家族に、こんな形で終わりが来るとは思っていなかっただろうから、気分を害することも、ショックを受けることも、仕方ないことだと思ったが、いつかは許してもらいたいと、貴文に目をやったが、貴文は、何も言わず、リビングを出ていった。
なのに、由子は、感情を表に出さずに聞いていたが、話しを聞き終わるとにっこりと笑って言った。
「わかったわ。」
私は、彼女からののしられたほうが良かった。そうでなければ、泣かれたほうが良かった。それが、にっこり笑っているのだ。思わず、聞いた。
「お前は、本当にいいのか?」
「私?」
「私のことは、大丈夫。なんとかやっていくから。」
さばさばと、何の感情も見せずに笑っている由子に、自分勝手さを忘れて、
―ほら、その顔だよ。お前は、本当に私の妻だったのか?―
悪態をつきたくなったその言葉を、ぐっと、飲み込んだ。
―ここで、修羅場にして、どうするんだ。―
23年間、夫婦としてやってきて、一度も喧嘩をしたことが無かった。それはそのはずだ。彼女はいつも私との距離をとって、にっこりとほほ笑んでいた。どこか遠くを見たままだ。そんな彼女に物寂しさを感じながら、何も言えずここまで来てしまっていた。
気付いた時、彼女からも、家族からも離れたいと、それだけを考えるようになっていた。
―まだ、人生をやり直す時間はあるはずだ。―
そう、思ってしまっていた。
あの後、彼女は、私のものすべてをきちんと整理して、引っ越しの段ボールへ詰めてくれた。他にも事務的なことが沢山あったが、仕事が忙しい私の代わりに、ほとんどのことを始末してくれて、最後の作業が、離婚届への署名となった。一文字一文字、丁寧に書いていた彼女が言った。
「婚姻届けを書いた時、なんかソワソワして、うまく書けなかったから、ちょっぴり悔やんでたの。だから、今日は、落ち着いてしっかり書きたかったわ。」
そう言って、晴れ晴れとしていた。
「けっこう、さばさばしているんだな。」
私のわがままで離婚することにしたくせに、こう、あっけらかんとされると、ぎゃくに釈然としないものが生まれていた。勝手なものだ。
それでも、住んでいたマンションは、妻名義にした。預金も半分は彼女の名義とした。それなりの誠意は見せたつもりだったから、息子は、あれから口も聞いてくれていなかったけど、円満離婚と言うことになっただろう。
「長い間、ありがとうございました。」
それが、由子の最後の言葉だった。
彼女は、深々とお辞儀をして、玄関のドアを閉め、私は、大きく息を吐いて、長年住んで、愛着を感じていた家を一度振り返ってから、駅への道を歩き出した。
そして、5年がたった今、私は、まだ、一人のままだ。離婚したら、自由だ。恋人を作ろうと思っていたのに、現実は、そう甘くない。それでも、愛されたい。中年の男が、不器用にもがいていたそんな時、貴文から連絡をもらったのだ。