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作者: 大舞茸師

 「うん、大丈夫だよ」

 そう言ってうつむいた僕は、少し汚れたスニーカーがだんだんぼやけていくのを見た。

 彼女の方を見ることができない。顔を上げることができない。

 「だから、大丈夫だって」

 何とか普段通りの明るい声を出そうとしたが、どうしても声が震えてしまう。


 彼女は、あと半年しか生きられない。


 「ねえ、どうしたの?」

 彼女は、白く堅いベッドの上に横になって、立ちすくむ僕に心配そうに声をかける。

 顔を上げられない僕は、彼女がどんな顔をしているのか、知るはずもない。

 まさか、自分があと半年で死ぬなんて、これっぽっちも思ってないんだろうなあ......。

 「飲み物、買ってこようか」

 こぼれ落ちる涙を何とか堪えて、僕は顔を上げた。

 彼女はいつも通りの笑顔だった。

 「じゃあ、あったかいお茶買ってきてちょうだい」

 「わかった」

 僕は急いで病室を出た。彼女に泣き顔を見られないように。

 病室のドアを閉めた瞬間に、僕は崩れ落ちた。廊下にはたくさんの人が歩いていたが、そんなことを気にかける余裕は全く無かった。両の掌を思いっきり口に押し付けて、嗚咽が漏れないようにした。ドアの向こうにいる彼女に聞こえないように。


 売店で温かいお茶を買い、彼女の病室のドアを開けると、彼女は少し開いたカーテンの隙間から、外の風景を見つめている。

 木々の葉が赤や黄色に色づき、鮮やかな風景を見せていたが、空はどんよりと曇り、そんな鮮やかな風景を台無しにしているようであった。

 病室のドアはだいぶ大きな音を立てて開いたはずなのだが、彼女はまるで引き込まれるように、窓の外を見つめていた。

 「お茶、買ってきたよ」

 「あ、ありがとう」

 少し袖の余った薄青色の病衣から覗かせた手で僕の手からお茶を受け取ると、彼女はペットボトルのふたを開けて、重そうに口もとへ運んだ。

 お茶をすする彼女の顔を見て、僕は息が止まりそうになった。

 彼女の顔は、先ほどまでの色を完全に失っていた。


 「大変申し上げにくいのですが......」

 病院の2階の長い廊下の突き当たりにある一室で、僕は医師と面会をしていた。

 がらんとした部屋。その真ん中に置かれた白く無機質なテーブルを挟んで座る2人。

 「彼女の病気は、200万人にひとりの割合で発症する難病でして......」

 医者の白衣が、この部屋が薄暗いせいか、僕の目にはとてつもなくどんよりとしたグレーに見えた。

 「私たちには、病気の進行を遅らせることしかできず......」

 僕の心臓の鼓動がありえないほど早くなる。医師の額には尋常じゃない量の大粒の汗が浮かんでいる。

 「彼女の余命は、もってあと半年です」

 僕は何もすることができなかった。返事をすることも、こぶしを握ることも、少し首を動かすことすらできなかった。

 医師が、その病気について詳しく説明してくれているが、一生懸命耳を傾けようとしても、何かがそれを拒絶して、全く耳に入ってこない。

 それを察したらしく、医師は「では、もう少し落ち着いたら、再度お話しさせていただきます」と言って、部屋を出ていった。

 その途端、涙が堰を切って流れ出した。抑えようと思っても、もう無理だった。

 「なんで、よりによってあいつが。200万人にひとりなんだろ」

 「なんで、他の人じゃなくてあいつなんだよ......」

 しばらく僕は、椅子から立ち上がることができなかった。


 いつものように彼女の病室に行くと、彼女は驚くほど明るい顔をしていた。

 そしてその横には、あの時の医師が立っていた。

 「ああ、来ましたか」

 真っ白な白衣に、血色の良い顔で、彼は僕を見てきた。

 「いやあ、われわれも驚きましたよ。まさかこの病気がすっかり治ってしまうなんて」

 「え?」

 僕は、食い気味に聞き返した。

 「いや、だから病気が治っているんですよ」

 彼女には病気のことを詳しく伝えていなかったので、なぜふたりがこんなに喜んでいるのか、さぞかし不思議だっただろう。

 「3日後には退院できそうですよ」

 「ありがとうございます」

 そう言って僕は深々と医師にお辞儀をし、それから彼女のもとに駆け寄り、強く手を握り締めた。

 「良かった、ほんとに、良かった」

 思わず涙をこぼしてしまった。

 「何泣いてんのよ、これくらいで」

 また、今まで通り彼女と過ごせることを考えると、嬉しくて嬉しくて、涙を流さずにはいられなかった。


 身支度を整え、荷物を整理し、お世話になった医師や看護師に挨拶をする。病院を出ると、空は抜けるように青かった。

 「じゃあ、帰ろうか」

 「うん」

 僕らは手をつないで、病院を後にした。

 しばらく歩いていると、道路を挟んで向こう側に、ものすごい人だかりができている。

 「だれか、救急車呼んで、はやく!」

 男の焦る声が耳に突き刺さってきた。

 よく見ると、人だかりの真ん中に、倒れている女と、その横で真っ青な顔をして座り込んでしまっている男の姿が見えた。

 「誰か倒れてない?大丈夫かな?」

 彼女は心配そうに向こうの様子を見ている。

 「大丈夫かな、心配だね。でも、あんなに人いっぱいいるし、病院も近いし、大丈夫でしょ」

 そう言って、僕たちは駅へとまた歩を進めた。

 

 あそこで倒れていた女と、横に座り込む男の様子が、2か月前の僕たちの姿と全く同じだったことを、僕は彼女に言うことができなかった。

 

 

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