変態の話。
前にも出したか、出してないかは忘れてしまった人がヒョンと出てきたのですが……正直どの口が言えた事かと……
例えばあの人に支配されたいと願うのは間違いでしょうか。いいえ、間違いである筈がないのです。僕はあの人に支配されたいと思う。願っている。
あの人は内に熱いまでの欲を隠し持っている。それは何となく分かる。時折僕を見る目が捕食者のソレになっているからだ。本人はその度に紅茶を口に含むが、しかし僕に知られていないと思わない所が美徳である。
今だって。
「ねぇ、竹内君。本当にキミは逃げないで大丈夫なのかい?」
「今更アンタから逃げられるとでも? アンタ、追って来るくせに」
「違いない」
そう言って甘味を口にするアンタは、チラチラと瞳の奥にその欲を見え隠れさせている。本当に、早くそれに素直になってしまえば良いのに、とは僕自身の感想だろう。恐らくは。自信が無いのはいつもの事。
甘味があの人の欲の抑制になっているようで、衝動を抱えた後はいつだっていつもより多い砂糖を――いつも酷い量を摂取すると言うのに――消費しやがる。紅茶にギリギリ溶ける量の砂糖と、それからガムシロップをカップに入れて、ミルクティー入り糖分を味わいながらあの人――雨宮さんは言う。
「全く以て人の身と言うのは厭なものだね。抱きたくない要らないアレソレも付随してくるんだからさ。本当に今の内だぜ?」
「僕は別に構わないって言ってるじゃないですか。アンタの養分になれるなら、それはそれで最高だ。前に言いましたよね?」
「アタシは桜じゃねぇっての」
軽口に軽口が返って来る。
本当にこの人に支配されたいという欲がある。別に性的な方向だけではなく、この人が持っている全身全霊を僕にぶつけてほしいってだけの話だ。この人は時折自分を人間と称するが、僕にはどうもそうは思えない。
その白と黒しか持ち合わせていない色彩。その黒い髪と、瞳と、服は……果たして何を隠しているのか。気になるのだ。
この人の全身全霊とは、僕にとっては支配される程度の、強大な物であろうという予感がある。だからこの人に支配されたいと思うのだが。
自分で自分を<悪夢>と謳う、その本領を発揮してほしい。忘れられない悪夢を刻み付けてほしい。そう思うのはダメなのだろうか。
でもこの人は外見だけで言うなら子供だ。聞いた所、十年くらいは余裕で同じ姿を保っているという。つまりこの人は純粋な人間ではないのだと思う。十年一度も姿が変わらないとか、本当に……もう。
――ならばその正体が知りたい。その正体を知るにあたって、この命を落とすことがあったとしても、後悔はしない自信しかない。よく自信喪失を起こす僕だけど、それに関する自信を失った事が無かった。
そんな最中、僕はとある人と出会った。燃え上がるような赤い髪。美しい森のような緑色の瞳。白色人種の肌の色(雨宮さんは、彼女よりも肌が白い)……。お嬢様然とした、上品な、クラシックな装い。そんな女性が僕に話しかけてきた。
「もし。アナタが竹内さんですの?」
「え、ええ。あなたが探している竹内が僕なら合っているかと……」
道路の真ん中で急に話しかけられ、僕は驚く。雨宮さんにはこんな曖昧な返答は出来ないが、それでも曖昧な言葉を投げられたために曖昧な事しか返せないのは仕方ないと思う。
日本人ではないと思った。それなのに流暢な日本語を話す彼女は、嬉しそうに小さく手を叩いた。胸元の高そうな緑の宝石が輝いている……。
「まぁ、良かったですわぁ! あの悪夢と言いましたらあなたの事を大分気に入ってらっしゃるのか、尻尾も影も掴ませてくれないんですもの。酷いと思いません?」
「し、知りませんよ……それより、気に入られているのを始めて知ったくらいで……?」
首を傾げて言えば、彼女は上品に驚いた顔をした。
雨宮さんも仕草は貴族的だけど、この人も仕草がそうしたモノだ。僕だって一応出身は名家だけど、こうした仕草にであると途端に居心地が悪くなる……。雨宮さん以外は。
気まずくなって視線を反らせば、その向こうで何かが走って来るのが見えた。人間を超した速さに見えるが、本当にあの人は人間なのだろうか。
咄嗟に防御姿勢に入れば、予想通りにそれは僕に飛び蹴りをしてきた。
「浮気、とは感心しないねぇ……?」
「浮気!?」
思っても居なかった単語が出て来て、僕は呆然とする。浮気。浮気。あまりにも酷い言い草なのではなかろうか。
呆然とする僕の上にそのまま乗った雨宮さんは、僕の髪をまるで手綱か何かのように掴み引っ張る。
「こんな女なんかとはさっさと離れるに限るのです。ほら、さっさと行くよ。何か嫌な予感がして出てみれば、こんなクレイジーに捕まってるなんて、間抜けにも程があるんじゃあないかね?」
「し、知らんて……!」
失礼します、と彼女に声をかけようと思ったら、その時には彼女の姿は見えなかった。
代わりに雨宮さんの罵倒が耳に刺さる。
「キミは変態だ変態だと思ってたけど、まさか相手が居るバカに手を出すとは思ってなかった。淫獣が」
「僕、話しかけられただけですけど!?」
「八つ当たりだ」
簡潔的に自らの非を認める雨宮さん。そう言えば今、雨宮さんを肩車している状況で。それを考えると大分犯罪的な事を考えてしまいそうな自分が居た。
落ち着け僕、と自制を促しても一度始まれば抑制は難しく。察した雨宮さんが僕の頭に拳骨を落としてきた。
「変態、ここに極まれり。だな。何で私もこんな男を気に入ったのやら……」
「あ、気に入られてるのは本当だったんです?」
僕の素朴な感心に、雨宮さんはもう一度拳骨を落としてきた。今度はやや本気の一撃で、僕はその場に蹲ってしまう。
僕の肩から降りながら、雨宮さんは言う。
「気に入って無かったら、そもそも論飛び蹴りからの肩車強制なんてする訳が無いだろう。キミの中でオレはそんなに変態だったのか? あ?」
「ぼ、暴力はんたーい!」
抗議をしながらも、しかし僕らは本気で無い事を知っている。
そうしたのがひどく愉しく感じられて、僕らは自然と笑みを浮かべていた。
「今回の彼は非虐趣味でも持っていらっしゃいますの?」
「言うな、止めろ」
「アナタは加虐趣味をお持ちですからねぇ。お似合いでは」
「言うな、止めろ。実にキミ好みだろうが、<たけうち>君に手を出したらマジいてまうかんな」
「ついに方言にも手を出されたので?」
「日本語ってのは本当に難しいよね」
「ええ。例えばおか――」「一応良家のお嬢様なのだから口にするなよ……!」
「ドイッチュランド出身に何を今更」
「キミにそこいらの自制を求めた私が莫迦だった……」
「ドイッチュランドだけでなく、世界中には色々な性癖をお持ちの方がいらっしゃいますわ。それらが総て、興味深くて。……でも、彼、被支配欲と言うよりは――」
「皆まで言うな、皆まで」
悪夢は何処か投げやりに女に答える。
「彼は私に支配されたいよりは、俺の『永遠に一緒に幸せになりたい』欲求に興味があるだけだ。だから、どちらかと言うと彼は私に監禁されたい、と言った方が正確な表現になる。本人はソレを自覚していないのが本当に面倒な話だがな」
「人は心のどこかに、必ず何かしらの大罪を抱えていますわぁ。もちろんアナタだって例外ではありませんことよ」
女はクスリと笑みを浮かべてそのチーズタルトにフォークを突き刺す。形を崩すことなく突き刺さったそれを見て、笑みを深めた。
「ですからわたくしは特殊な恋物語を書くのではありませんか。現実で行っては犯罪でも、それは物語上では問題ない。それが思想の自由なのでは無くて?」
「それを現実に持ち込んでいるキミが、堂々と言えた義理かね」
呆れたような悪夢の一言に女は答えた。
「ええ。だってわたくしは犯罪を一つたりとも犯していないので」