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言霊 (下)  作者: 島津 至
1/1

ー無邪気な殺人者たちー

                 

                 

     

      言 霊(下)

    

           ―無邪気な殺人者たち―

          

                    島津 至 

          

            第二章

 

         一、母親の進化


 朋美は、学校の指導室で河相教師と対峙していた。相当な覚悟をして来たその赤味をおびた顔は、厳しいものだった。彩夏のほかに、同じ団地に住む男子生徒とその友人からもいじめの事実を引き出して来たのだが、いじめの事実を主張する朋美にたいして、教師はそれを否定するばかりだった。今度もまた、和也の不登校を家庭問題とすり替えようとする教師の態度に怒りが湧き上がっていた。前と同様、いや、前にもまして軽くあしらわれている屈辱感はどうしようもなかった。いまは弁護士かその道のプロを立てるのが常識と言われたが、

―やはり結衣の言った通りだった・・・―

 朋美は、とうてい一人で立ち向かえる問題ではないことを、痛感していた。

 河相教師は、事務員らしい女性が呼びに来て、たったいま出て行ったばかりである。朋美はなす術もなく窓外に眼を放っている。二階から見える校舎裏には野球グラウンドやテニスコートが広がり、周囲は葉桜の大木が林立している。人影はなかったが、太った三毛ネコが一匹、思索の散歩でもしているかのような足取りで、消えていった。

―こういう時、結衣ならどうするだろう・・・―

 結衣を連れて来るべきだった。

 正直、夫がここにいてくれたらと思う。自分が女だから、それも結衣とは違って無能だから軽く見られるのだと、悔しさが込み上げてくる。もしここに夫という男性がいたら、こうまで軽くあしらわれることはなかっただろう。

 だが、あれ以来、夫からは何の連絡もない。不仲とはいえ、子供が重大な危機に陥っているのである。ふつうなら、その後どうだといったくらいの電話があってとうぜんである。声を聞きたくないなら、電報並みのメールでもいいではないかと、朋美の愚痴は尽きない。

 朋美は、あの夜、夫が家を飛び出していった本当の理由を知らない。和也が父親の浮気をなじったことも、その一言で父親の威厳を粉々に砕かれて飛び出したことも、知らなかった。だから夫が一泊もせずに飛び出して行ったのは、母親失格の朋美にたいする決別の意思表示と受け止めている。

 

 結局、教師との覚悟の対決も無残な敗北におわった。朋美はその足で図書館に向かった。高校時代部活にすべてを注いでいた朋美には、ほとんど無縁にちかい建物で、期末試験のとき二三度入った記憶があるくらいである。で、建物も大きく建て替えられて一層、どこをどう探せばいいかと子供の迷子みたいに戸惑っていると、

「どのような本をお探しですか」

 と、ちょうど通りかかった女性司書は、五十年配である。

「いじめの本を探しているのですが・・・」

 朋美の姿に、はじめての来館者と判断したらしかった。ニコニコと気さくな感じで案内される。

「いじめと申しましてもいろいろありまして、女子のいじめと男子のいじめとはまた違いますからね」

 と、棚を見回す。深く追求してこない態度に好感がもて、じつはうちの中二の息子がいじめで不登校になっている。いじめの証言者もいる。それなのに先生は認めようとしないと、朋美はありのままを語った。

「不登校になってどれくらいになるのですか。また、いつからいじめがはじまったのですか」

 司書はこっちから訊かなければ寡黙だが、質問には的確な言葉が返ってくる。

「これは、学校側と話し合う場合に役立つでしょう」

 と、まずは一冊取り出され、いじめを受けている生徒と不登校になっている生徒の心理状態などが書かれた本が二冊、最後に、母親体験記が一冊、計四冊借りた。

 この日から朋美は、少しの時間にもページを開き、常にメモ用紙とペンを離すことはなくなった。本を読んでいない時でも、ふと思いだしたことはメモした。和也の言動も記録するようになった。

 買い物も近くの店で済ませ、家事も最小限にとどめ、問題の和也もほとんど無視して読書の時間を確保した。何を言ったところでどうせ、

「うるせえ、クソババア!」

 と激昂するのだから無視もよかろうと思っていたが、無視されればされたでまた癇に障るらしく、下りて来て、

「オレなんかいねえほうがいいんだろ」

 と、床を踏み鳴らし、壁を蹴る

 その日も買い物から帰り、カレーにきめてジャガイモの皮むきをしていると下りてきた。前は台所に立っているうちはぜったい下りてくることはなかったから、よほど気になるのだろう。無視して以来、これで三度目である。

 冷蔵庫から牛乳を取り出し、喉をゴクゴクと、荒々しい音を響かせて飲む。そのいきり立つ雰囲気だけで、難癖をつけてくることが分かる。難癖というべきか爆発というべきか、

「オレなんかいねえほうがいいんだろ!」

 案の定、叫びながら壁を蹴った。

「・・・」

 朋美は、夕餉の支度に徹する。

「分かってるさ。オレみたいな役立たずは死んだほうがいいのだ」

 拳で壁を叩き、頭突きをした。

「何を言ってるの!」

 思わず朋美は、包丁を握ったまま和也を凝視した。これまで数々の悪口を吐いても、死ぬとか役立たずとか、自分を卑下する言葉はいちどもなかった。死という言葉だけで、言い知れぬ不安が湧き上がった。

 近所のM青年は、不登校になった当初は和也のように部屋にこもっているだけの状態だったそうだ。やがて罵詈雑言をわめいて暴力をふるうようになった。そいうことを、つい先日、M青年の隣の奥さんから聞いた。いまはもう、和也の不登校は団地じゅうに知れ渡っている。だからこそ、親しくもない奥さんがわざわざやって来て、M青年のことを話してくれたのだ。じっさい、彼女の真意のほどはわからないが、たとえ悦子と同類であったとしても、朋美はもう、この期に及んで世間体など気にしている余裕はなかった。役に立つ情報を得るためなら、何処へでもいくつもりだった。

―このままでは夫ばかりか和也まで失ってしまう―

 その恐怖が、強制的に朋美を変えようとしていた。

「何だよ、その眼は。オレを殺す気か。オレのように生きている価値のない人間なんて、死んだほうがいいのだ。殺したいんだろ、一気にやれよ! オレもその方がせいせいする」

「馬鹿なことを言うもんじゃありません!」

 朋美は、思わず怒鳴った。包丁を握った母親の気迫に圧されたのか、

「ヘッ・・・」

 と和也は、ふて腐れた棘のある笑みを洩らして二階へ上がる。

「閉じこもっているから、変な妄想に取りつかれるのよ。そんな暇があったら、学校へ行く準備でもしなさい!」

 朋美は、いつもの小言を和也の背中に向かって叫んだ。

 死ぬとはどういうことだろう、価値のない人間とはどういうことかと考えながら、和也が吐き捨てた言葉を掻き集めて記した。ましてすこしでも死に対する思いがあるのなら、聞き流すわけにはいかない。それにしても、無価値とはどういう意味なのかまったくわからなかった。おまえなど死んでしまえとか、生きている価値のない人間などと言ったおぼえは、いちどもない。夫だって、そこまで非情な言葉を投げつけるわけがない。やはり価値のない人間と思わせるだけの、何かがあったということだろう。それがいじめの本質だとしたら・・・。

 M青年は、不登校になって暴力的になるまでどれくらいの期間があったのか、訊ねなかった。いまになってもっと詳しく訊くべきだったと思うが、そこまでの知識は、朋美にはまだなかった。もし和也も凶暴な闇の世界へ進んでいるとしたら・・・。

 今日まで急いで読んで来た本の中で、それらしきことがなかったわけではない。また、不登校になったからといって、すべてが家庭内暴力に走るわけでもなさそうだが、にわか仕込みの知識ではどうとも判断できない状態だった。

 朋美の不安のうねりが伝わったかのように、結衣から電話が来た。学校での様子を語ると、

「私が言った通りでしょ」

 と、冷たい響きの声が返って来て、「だから、私が一緒に付いてってあげると言ったでしょ。朋美一人で行ったって、とても太刀打ちできないわ」

「うん。そのことがよく分かった。結衣の言うとおりだった」

 結衣の冷たい物言いにも、今回ばかりは素直になれた。

「それで、弁護士でも立てるつもり。その道のプロ、もしくは知り合いに議員がいたらいいんだけどね。あの人たちは、ある種の権力には弱いのよ」

「議員でもそういうことをやってくれるの?」

「議員にもよるけど、頼まれればやってくれるわ。弁護士ならお金かかるけど、政治家は票が目当てだからね」

「票が目当てなら敵を作るようなことはしないんじゃない?」

「だから、そこは政党しだいよ」

「夫なら議員に知り合いがいるかも知れないけど、ほんと言うと、和也の将来を考えればそこまではしたくない」

「だからトモは甘いのよ。幸穂の時、こんなことがあったのよ―」

 と、結衣は語った。

 まだ自傷行為に走る前だった。いじめのことでしつこく担任に食い下がると、いじめらしきことはあったかもしれないと、はじめて認めた。ところが、その後が凄かった。いじめと判断するかどうかは、本人の受け止め方しだいである。自己主張の苦手な幸穂の性格にも問題がある。自己主張も出来ない軟弱な性格では、いまの厳しい時代では人並みの人生を送ることもできないと、逆に説教された。

「そんなことを、教師ともあろう知識人が平気で言うのよ。たしかに幸穂は気弱で、人を押しのけるタイプではない。でもそれで幸穂に責任があるとしたら、どんないじめも正当化されるじゃない。私は、この時からいじめの勉強をはじめた。それでも娘を救えなかった。もっと早く気づいて勉強していればと、後悔した。

 トモ、いじめはハシカや反抗期とは違うのよ。そのうちおさまるだろうと安閑と構えていたら、和也君も幸穂の二の舞になりかねない。だから、トモののんびりしている声を聞くたびに、苛々してしまうのよ」

「有難う。結衣には心から感謝している。私もいま、図書館からいじめの本を借りて勉強している。だから、もうすこし時間をくれない。自分なりにしっかりした対策を練る。きっと結衣にほめてもらえる結果を出す」

「だからさ、私にはそれが不安なのよ。もっと危機感をもって行動しなさい。幸穂のような奇跡は、そうそう起こるもんじゃないわ。幸穂は幸運以外のなにものでもなかった。ね、明日行かない? 三人ものいじめの証言者をみつけたんでしょ。私ならぜったい、いじめの真実を暴いてみせる!」

「そこまで河相先生を追いつめたくないのよ」

「和也君に悪いから?」

「たしかにそれもある。でも、私にはどうしても河相先生がそれほど悪い先生には思えない。和也の不登校はあくまでも家庭の不和、夫の浮気が原因だと思い込んでいるだけだと思う。たしかに和也は先生のことを見せ掛けだけの先生だって言うし、良く思っていないことはわかるけど、和也の偏見ってこともあるでしょ。私たちだってそういう経験あるじゃない。自分にとって気に入らなければ、それだけで悪い先生の烙印を押す」

「私は、和也君の感想のほうが正しいと思うけどな。たしかに、みながみな冷たくて保身のかたまりのような教師だけではないわ。しかし、学校の体質そのものにも、大きな問題がある」

「うん。いまそういう学校の問題のところを読んでいる最中なの。この歳になってはじめて、教育委員会は何をする所かを学んでいる。私って、ほんと、馬鹿よね」

「そんなこと言わないで。人は殆ど、自分が何が分からないかも気づかずに生きているものなのよ。

 それにね、教育委員会というと何かしら公明正大な特別な機関のような感じがするけど、安易に信じちゃダメ。私に言わせれば、失礼かもしれないけど、学校の親玉としか思えない。だってそうでしょ、自殺者が出るたびに、自殺といじめの因果関係は確認できなかったとかなんとか言って、幕引きばかり画策する。生徒の遺書にはいじめも名前も書かれているのに、生徒の命なんて虫けらと同じよ。眼中にない。弱いから負けたのだ。勝手に死んで甚だ迷惑しているぐらいにしか思ってないんじゃない。生徒たちの命は自分の飼っているペットの命よりも軽いのよ」

「・・・」

 朋美は、こんなにも激しい結衣の怒りは初めてだったので言葉を失ってしまった。が、結衣の言葉に異論はなかった。

「だからさ、私のような経験者が必要だということも納得したでしょ」

「でも結衣、いつまでもあなたにおんぶしていたら、私はいつまでたっても強くなれないと思うの。和也のためにも、強い母親になりたい。そうでなければ、夫ばかりか和也まで失ってしまうようで、怖いの」

 そう決心したからこそ朋美は、本気で勉強しようと図書館へ行った。

「おどろいた・・・」

 結衣の吐息を吐く音がして、「ついこの間までの朋美とは思えない。そこまで進化していたとは思わなかった。でもあなた、隆嗣さんを諦めてはいけないよ。和也君のためにも、ぜったい家庭に戻る日が来ると信じるのよ。私も努力する」

「努力・・・! 何を考えているの。あの人はもう、ふつうの父親とは違うのよ」

「トモは和也君のことだけでも大変なんだから、そのことだけに集中しなさい。もし隆嗣さんが帰って来ても、嫌味なことは言わないこと。それともう一つ、約束して」

「何・・・?」

「何かあったらすぐ私に報告する。それと、何がなんでも一人で解決しようとは思わないこと。三人寄れば文殊の知恵っていうように、私だって時には良い知恵が浮かぶかもしれない。一人で背負いこむのだけは、やめて。いつでも私がいることを忘れないで」

「約束する」

 朋美の胸に熱いものが込み上げた。これまで幾人かの友人をつくったが、結衣ほどの友人ははじめてだった。ふと、悦子の姿と重なった。

 悦子とはあれ以来、言葉を交わしていない。同じ団地だから、その姿を見かけたことは何度もある。が、道でみかけてもスーパーでみかけても、どこか後ろめたい翳を引きずりながら姿を消してしまう。明らかに朋美を避けているのだが、その理由がわからなかった。朋美がとうとう若い女に夫を奪われて離婚したとか、和也が毎晩暴れ回っているとか、そうしたおそろしい噂が聞こえてくるほどだから、二重苦を背負った朋美にたいする同情など、まずあり得ない。正直、悦子が何を言いふらそうといまの朋美には悦子のことをあれこれ詮索する余裕はなかったし、たとえ反撃を試みたとしても、彼女の口に戸は立てられないことは分かっている。

 こうまで悦子の口撃が執拗なのには、それなりの理由があった。部下が上司の不倫を暴くとはどういうことか。しかも遠い被災地からケータイでつぶさに送っている。これだけで判断するなら隆嗣は部下に嫌われている厄介な上司ということになるが、嫌われ者かどうかはさておき、悦子たちの嫌がらせの原因は複雑なものではなかった。悦子の夫、田島英助と隆嗣は同じ高校の先輩後輩で、隆嗣が三年違いの後輩だった。それだけのことである。


          二、挑戦


 半月後、朋美は、再び学校で河相教師と対峙した。

「お忙しいところ、いつも申し訳ありません」

 朋美は、深々と一礼した。

「気になさらないで下さい」

 担任は穏やかな口調で応じたが、朋美にとってその表情は快いものではなかった。同じことを何度言わせるのかと、迷惑そうな色が漂っている。思った通り、

「あくまでも和也君のいじめを疑っているようですが」

 と、教師はきりだし「いつも、そして今朝も電話で話した通り、私の教室ではいじめのような卑劣な行為はありません。自己本位な歪んだ視界を改めないかぎり真実は見えませんよ、おかあさん」

「はい」

 と、朋美はこたえた。その態度は、前回までとは違ってかなり落ち着いたものだった。

「和也君は、いじめに遭っていると仰っているのですか。そのようなことは一言もないと言いましたね。いまでもそうでしょう」

「はい。いまもいじめのことは語りません。ですけど、否定もしません。どうしてその事実を言わないのか、言えないのか、そこのところを先生なら、お察し頂けるのではないでしょうか」

 結衣は、悪い芽は早く摘み取れ、これは普遍であると語った。朋美はそれをねがうのだが、眼の前の教師にはまるで緊迫感はなかった。

「子を思うおかあさんのお気持ちはよくわかります。しかし、いじめにばかり気を取られて、最も大事なことを見落としてはいませんか。これまでもお話をうかがいましたが、いじめの痕跡はなかったということですよね。男子のいじめは女子とは違って、いじめの主流は暴力です。それからしましても・・・」

「たしかに―」

 と朋美は、教師の言葉を毅然とした面持ちで遮った。「服が破れているとか汚れているとか、そのようなことはありませんでした。でも、あれからよくよく考えてみて、見落としていたかも知れない、と気づいたのです」

 見落としていたのは、和也にかぎってケンカなどありえないと思っていたからだが、それは和也の、喧嘩らしいケンカの記憶もない穏やかな性格によるものだった。そして朋美の頭の中が四六時中、夫と若い女性で騒然としていたからである。いじめでうけた少々の傷ぐらい、若い肉体の活発な細胞はたちまち修復してしまうだろう。制服のちぎれたボタンくらい、和也でも付けられる。その繰り返しだったにちがいない。だが煮え立つ坩堝の中で狂気の如く悶え狂う朋美は、そうした事実に気づかなかったとしても、とうぜんである。

「不躾な質問と思われそうですが、もう一度お訊ねします。家庭環境に何か変化はありませんか。おかあさんがいじめに固執なさるものですから、敢えて申し上げざるを得ません。ご両親の不仲は、たとえ眼には見えなくても、子供に悪影響をおよぼすものです。しかも、おとうさんは被災地で働いておられるわけでしょ。休みが取れないほど、お忙しいのですか」

「・・・」

 朋美の堪えていたものが、切れた。父親がいちども顔を見せていないことを指しているのだ。

「先生・・・!」

 朋美の声に思わず知らず力が入った。「先生がいじめを認めたくないお気持ちは、よく分かります」

「何を仰ってるんですか。いじめの事実も何も、まったく根拠のないことじゃありませんか。おかあさん、冷静に判断してください」

「いえ。私は冷静ですし、事実を申し上げているだけです。いじめを認めれば教師としての力量が問われ、評価も下がるということでしょう。和也がどうして黙秘をつづけるか、そこのところを考えて頂きたいのです。いじめられていることを話せば倍返しが待っている。もしくは、いじめられている自分が恥ずかしくて言えないのかもしれない。中には、自分が悪いからいじめられても仕方ないと思い込んでいる生徒もいるそうです。

 先生、私は先生がどうのこうのじゃありません。心の底から子供がかわいいのです。心配なのです。いじめの根拠と申しますが、証言者が三人もいるのです。それでもまだ数が不足していると仰るのなら、十人でも二十人でも集めます。その自信もあります。クラスで知らないのは、もしかして先生お一人じゃありませんか。そこまで否定なさるのなら、おおごとにはしたくないのですが、すぐにもアンケートを実施して下さることをお願いします。その結果に私は、従います」

 朋美には、自信があった。

「待ってください、おかあさん!」

 朋美の予想外の辛辣な言葉に、教師の顔がこわばった。前回までの朋美と違うことを悟ったようだ。「証言者といっても、名前を出さないのでは、信憑性が問われます。こんな状態でアンケートを実施したら、疑心暗鬼に取りつかれた生徒たちは、いたく動揺するでしょう」

「どうしても、名前を明かせということですか」

「まず、それが第一でしょう。その生徒たちは、チクリの仕返しが怖いから名前を出さないでくれということですが・・・」

「はい。その通りです」

 と、またしても朋美は教師の言葉を遮った。やはり、これまでの朋美とは違った。込み上がる激情を抑えることが出来なくなっている。「先生なら、チクリがどんなものか、おわかりでしょ」

「もちろん、承知しています。だからこそ私ら教師は、そうならないために万全の配慮と対策を講じています。このことは、生徒たちも良く知っている筈です。それなのに、先生にも名前を明かすなとは、腑に落ちない証言としか言いようがありません」

「私が嘘を語っているということですか」

「どのような解釈もご自由ですが、アンケートの実施はできかねます。申し訳ありませんが、もういちどじっくりと和也君と話されてみてはいかがでしょう。和也君さえよかったら、私はいつでもお伺いします。その時は是非、おとうさんともお会いしたい」

 河相教師の表情はうんざり顔である。不登校の根源は父親であり、その父親と対決したい気持ちが伝わってくる。

「わかりました」

 と、朋美は言った。

「やっとご理解いただけましたか」

 ほっと安堵のため息でも洩れそうな表情で、河相教師は頷いた。いじめを隠そうとする卑劣な思惑など、微塵も感じられない顔だった。しかし、朋美はあきらめたわけではなかった。

「どんないじめも、いじめは先生の眼の届かないところでやるものでしょ。そして生徒たちにも、いじめられていることを隠す生徒もいる」

「どうしても、いじめを認めろと仰るのですか」

 一瞬なごんだ教師の顔が、また曇った。

「いまのところは、かならずしもそういうことではありません」

「では、どうしろと・・・」

 教師は、硬い表情で口をむすんだ。

「いじめがあるかないかを、どうかお手数でも、調べてほしいのです。先生のお気持ちはよくわかりましたが、私のほうはいまひとつ納得できません。先生が承知しないというのであれば、私がうごかざるをえません。そうなるとおおごとになります。ですので、調べるにしても、今回だけは、できるだけ和也の名前を伏せて頂きたい」

「うごくとは、どういうことですか」

 教師は、不安げな眼で小首を傾げた。

「はい。私は、強い母親にならなければと決心しました」

 朋美の短い言葉が効果的だった。

「わかりました。そこまで仰るのなら、一応、調査してみましょう」

 不承不承だった。しつこさに根負けした感じだが、一歩踏み込んだことは間違いなかった。

 帰りは図書館に寄った。いつもの年配の司書は、いつものように物静かな笑みで迎えてくれる。読みおわった本を返し、いつものコーナーへ向かった。司書の助言で選んだのは最初の時だけで、いまは朋美ひとりで探して選んだ。いじめに関する本の多さには驚くが、それはそのままいじめの解決の難しさの証明でもあろうと、やっと朋美にもわかりかけている段階である。

 スーパーで買い物をして帰ると、二時過ぎだった。出かける前に用意しておいた昼食は、きれいに食べられていた。旺盛な食欲だけは変わらないばかりか、むしろ、学校へ行っていたころよりも食べているのは正直、何かしら動物的で、人間を失ってゆくようでこわかった。

 逆に朋美のほうは、いまも食欲がない。コーヒーで菓子パンを齧っていると、和也が下りてきた。食べて寝ているだけだからぶくぶく太ってしまいそうだが、体型に変化はない。むしろ、日に当たらない分、白い顔に病弱の翳さえみえる。その白い翳もまた、いよいよ日常をはなれてゆくようで希望の光の一粒も見いだせなかった。

 背後で冷蔵庫を開ける音がして、間もなく、ドアが壊れそうな勢いで閉まる。水道水を流す音。顔でも洗っているような音。すべてがギザギザした音である。朋美は振り向かずにコーヒーをすする。前回のときと同じ行動である。学校での話を聞きたいのだ。でも、前回は学校へ行くことを伝えて出かけたが、今回は何も言わなかった。それなのに、母親が何処へ行って来たのかを知っている。

―どうしてわかったのかしら・・・―

 朋美は、菓子パンを齧りながら、振り向いた。二人の眼がかち合った。一瞬うろたえた和也の眼が、たちまち敵意に変わる。照れ隠しとわかりながらも、男の迫力がある。

「何処へ行って来たんだよ」

 一言もなく出かけるとは何事かと怒っているのだろうか・・・。

「かあさんに何か用事でもあったの?」

 朋美は、とぼける。どんな文句が帰って来るかと待ち構えたが、

「あるわけねえだろ」

 和也は吐き捨てた。が、二階へ上がる様子もなくうろうろする。

「メロンパン食べない。これ、とても美味しいのよ」

 和也には、担任とのやりとりもいじめのことも一切、話すつもりはなかった。いま読んでいるいじめの本も、和也には内密にしている。和也にたいして、どう向き合っていいのか、朋美はいまだ模索中だった。

「和也、学校のことが気になるのなら、そろそろ登校したらどうなの。いつまでもズル休みしてたら、みんな和也のことを忘れてしまうわ。そんなことになったら、悲しいでしょ」

「うるせえ! 説教なんか聞きたくね」

 和也は怒声を浴びせて二階へ駆け上がってしまった。

 学校へ行けと言われることが何よりも嫌いなのだ。それをわかっていながら朋美のほうは、顔を見るたびに学校へ行けと言ってしまう。意地悪のつもりはない。母親として当然の願いだった。夫は朝はやく出勤し、子供が登校する。何事もなく日が暮れて、夕餉の団欒を迎える。そうした日々の平凡なしあわせは、いまはない。失ってはじめて気づいたしあわせの青い鳥が、切々と胸に迫ってくる。

 荒々しくドアが閉まる音が響いた。朋美は、その音にハタと気づいた。和也は、いつも母親の動静に聞き耳を立てているのではないか。ドアを開けておけば、和也の若い聴覚なら電話で話す母親の会話も聞こえるだろう。出かけそうな気配を感じた時は、カーテンの隙間からそっと覗けば、買い物かどうかも判断がつく。そういう時の眼は、きっとさもしい灰色の眼をしているのだろう。今朝、担任に電話したひそかな声も、聞いていたにちがいない。紺のスーツ姿で車を出す姿も見ていただろう。

―きっと、そうだわ・・・―

 そう気づいて、身体中がざわめいた。親に逆らったことのなかった素直な子の、そこまで堕ちてしまった陰湿な行為よりも、そうさせている苦悩の深さが衝撃だった。

 ―このままではいけない―

 焦りが込み上げて来る。一見ぶらぶらと、好き勝手に食べて寝ているだけに見えるが、じっさいは孤独と破壊と狂気のなかでもだえ苦しんでいるのかもしれない。だからいくら食べても身にならないのだ。そしてその先で待ち受けているのは、M青年とおなじ本物の破壊と狂気の世界かもしれない。


         三、無邪気な殺人者たち

 

 それから四日後、いじめらしきことはあったが、いじめと断定できるものではなかったと、担任から電話報告が入った。朋美は、いじめらしい行為とはどのようなものか、詳しく教えてほしいと頼んだ。が、いじめと呼べるものではないので、そこまで突っ込んだ調査は控えたと言う。彩夏たちから引き出した首謀者の名前もひた隠すだけで、朋美は苛々して電話を切った。

―とにかく、いじめらしいという曖昧な表現でも、いじめを認めたことに変わりはない!―

 翌日、朋美は学校へ急いだ。滅多に着ることのなかった紺のスーツは、最近は洋服ダンスで眠っている暇もない忙しさになっている。和也の卒業式のときに新調したスーツで、もちろんその時はぴったりのサイズだったが、いまは下着を重ねるほどになっている。

 もうこれ以上、担任に任せるつもりはなかった。これまでは和也の将来を考えて、担任に対する敬意に配慮してきたが、

「もう、限界です」

 と、朋美は切りだした。

「限界とは、どういうことですか」

 河相教師は、いぶかし気な緊迫の表情で朋美をみつめた。

「先生のお子さんは、おいくつですか」

「私の子供ですか」

 意外な質問に、教師の表情に波紋が広がった。

「先生にもお子さんはいらっしゃいますよね」

「もちろんです。二人とも男子で、上は高校二年、下は小学三年です。それが、どうかしましたか」

 教師は、依然として朋美の質問の意図がわからないまま、何かしら不穏な予感がしたらしかった。

「先生はいつだったか、生徒はみな自分の子供と思い、分け隔てなく接していると言いました」

「はい。いまだって変わりありませんよ」

「果たしてそうでしょうか。先生のお子さんがうちの和也と同じ目に遭ったとしても、やはりこの程度の対応しかしないのでしょうか。ご自分の子供だったら先生はどうなさるだろうと最近、よく考えてしまいます」

「考え違いをなさっているのではないですか。私は、いじめらしいことはあったと申しているだけです。決していじめを確認したわけではありませんので、誤解なさらないで下さい」

「その、らしいとはどの程度のものかと昨日も訊いたのですが、先生は、いじめではないのでそこまで突っ込むことはしなかったと言いました。冷淡ですね」

 憤りが無意識に投げつけた言葉だった。堪えていた怒りに火がついた。このままではいじめの真相も和也の救済もできない! どのような調査かその内容はわからないが、調査の対象は和也であることは生徒たちも気づいたろう。

「冷淡とは酷い! 誤解です。それらしいことは確認できたが、いじめと断定するほどのことではなかったと言いました。いつものように遊んでいて、あるいはふざけていてつい夢中になって手が触れるということは、よくあることです。子供というものは活発ですから、それぐらいのことは珍しくはないでしょう。いじめとごっこは紙一重。それにたいして和也君が過剰反応をおこした。むしろ、和也君のほうにこそ問題があるのではないですか」

 冷淡と言われたせいか、河相教師も敵意剥きだしの様相を呈した。

「こそ、ですか・・・!」

 この、こそが一層、朋美の怒りを煽り、語尾が一気に跳ね上がった。「和也がわるいと言うのですね。遊びであれおふざけであれ、和也は現実に学校に来れなくなっています。これがいじめでなくてなんでしょう。先生は家庭の問題に固執なさっていますが、違います。和也の幼なじみが、和也のいじめを心配して、わざわざ向こうからやって来て、私に教えてくれたほどです。私は、その時はじめていじめを知りました。

 あくどいいじめほど、教師の眼の届かないところで秘密裏に行うものでしょう。先生が気づかなかったとしても、当然です。ですので、先生を責めるつもりは毛頭ございません。怒りを感じるのは、あたまからいじめを否定して、被害者にその責任を転嫁しようとなさっていることです。火のない所に煙は立たぬといいますが、火のない所に煙が立ち、しまいには再起不能な大火になるのがいじめの怖さではないのですか。和也がそうなる前に助けたい! それのみです。悪い芽は早く摘み取れと、いじめで苦しんだ娘さんを持つ友人に言われました」

 朋美は一気にまくしたて、本格的なアンケートの実施と生徒の名前を公表するように迫った。和也が望んでいるのは犯罪者に刑事罰を科すように、首謀者に懲罰を与えることである。その時こそ和也は蘇えると、朋美は確信する。

「そこまでやるのはどうでしょう。将来のある生徒たちが可哀想です。彼らはいつも、無邪気にふざけ回っているだけなのです。悪意はないと断言します。この程度のことで名前を公表すれば深く傷つき、場合によっては、立ち直れなくなってしまう恐れもあります。ですので、常に慎重にならざるを得ないのです。そこのところをご理解ください」

「これは酷い! 開いた口がふさがらないとはこのことです」

 やはり和也の名前は出ていたのだ。

「藤村さん、冷静に話し合いましょう。話がこじれるばかりです」

「こじれて結構です。こじらせているのは、先生の責任です。こんな酷い話ってありますか。傷ついて苦しんでいる被害者を見捨て、加害者だけを擁護しているのですよ。教師として無責任も甚だしい。私はいままで我慢してきました。失礼かもしれませんが、今日ははっきりと言わせてもらいます」

 朋美は一呼吸おき、「いまの先生の言葉は、生徒たちへの思い遣りよりもむしろ、ご自身の保身にしか聞こえません。このような弱腰な態度は一層、生徒たちの信頼を失い、こうして延々といじめがくり返されてきた原因じゃないですか。大事なことは、善悪のけじめを厳しく躾けることにあると思いますが、いかがでしょう。先生は、子供たちのいじめに悪意はないと仰る。でも、悪意のない無邪気なごっこで幾人もの自殺者が出ています。夥しい人生の落伍者が出ています。無邪気な殺人は罪にはならないと仰るのですか? 悪意のない行為は犯罪でないということですか? 善悪のけじめも知らず、悪の認識もないまま指導も懲罰も受けずに大人になった社会こそが、今日の世相ではないのですか」

「・・・!」

 教師は、唖然とした面持ちで、みつめる。最初会ったときは、口答えなど一言もできなかった母親の、この逞しい豹変ぶりにおどろいている。これは一筋縄ではいかないぞ、と思ったに違いない。

「ほんとうに子供たちの未来を思うなら、不正に眼をつぶらず、いま何が必要かを考えるべきです。工場の流れ作業のような感覚で、卒業してはい終わりでは嘆かわしいばかりです」

「そこまで私たち教師を侮辱なさるのですか」

 教師は、怒りを露わにした。何か言おうとするその口を遮り、朋美はとどめを刺した。

「正直に申しただけです。これが最後です。至急アンケートを実施してください。取り返しのつかない事件が起こった後で騒いでも、命を絶った生徒たちは救われません。うちの子にもしものことがあったなら、先生はどうなさるおつもりですか。どうしてもアンケートがとれないというのでしたら、仕方ありません、これから教育委員会へ行きます」

「エッ・・・! どういうつもりですか、ちょっとお待ちください」

 まさかそこまでするとは予想もしていなかった教師は、あたふたと部屋を飛び出し、校長と副校長、それに生活指導主任を連れてきた。しかし、飛びだしてすぐ連れて来たわけではない。朋美は三十分以上も待たされたのだった。

 三人とも揃って硬い表情で一揖した。朋美は、立ち上がって深々とお辞儀をする。校長の定年退職は、来年と聞いている。いまでも女性にもてそうなほど整った顔立ちで、そのうえ頭髪はカツラの噂が立つほどふさふさしている。朋美よりずっと若い生活指導主任は細身で体育会系とは無縁にみえるが、和也によれば、先生のなかではもっとも怖い教師らしい。

 こうして朋美と学校側の攻防がはじまった。四人を前にしてはじめて、学校と交渉するときは弁護士かその道のプロを立てるのだと言った結衣の言葉を、納得した。いじめの本にも、まったくおなじことが書いてあった。いまはそういう時代らしい。それはそのまま学校側のガードの固さを意味するものだった。もちろん、すべての学校が、そして教師がそうとは限らないだろう。だが、眼の前の教師たちもいじめの本に登場するような不穏な印象である。

 一人対四人はあきらかに多勢に無勢である。いつもの朋美なら萎縮してしまったに違いないが、冷静だった。そればかりか滑稽にさえ思った。何が滑稽かといえば、一人を囲んで集団でいじめる構図にそっくりだったからだ。なぜ四人も必要なのかと、疑問に思う。ありていに言えば、これは間違いなくリンチである。いい大人が、しかも優秀な学歴と知識を身に着けた教師たちが束になってか弱い母親を追い払おうとしている構図は、醜悪でさえあった。

―この人たちは、そのことに気づかないのだろうか。恥ずかしいとは思わないのだろうか。教師でさえも同じことをしているのに、どうしていじめをなくせるだろう―

 朋美は不信感とともに絶望を感じたが、いじめの真相を公にしないかぎり和也を救うことはできないのだと、気をひきしめた。

 朋美は、教育とはどうあるべきかなどと考えたことは、いちどもない。今回はじめていじめの本を読んだだけで、これといった知識も無に等しかった。朋美はひたすら親としての思いをぶつけ、最後に悲惨な大津事件を持ち出して訴えた。こうして、朋美の要求するアンケート実施の約束を取り付けた。学校側が朋美の気迫と脅しにしぶしぶ折れた形だった。べつに脅すつもりはなかったが、大津事件のように警察云々が効果的だった。

 

 ちょうど一週間後の夕方、アンケートの結果が出たと河相教師がやって来た。

「先日はたいへん失礼なことをしました。お詫びいたします」

 教師は謝り、結果報告は直接、和也にしたいと言う。これまでにない神妙な表情である。

「たぶん無理でしょう。あれ以来、荒れようが酷くなってますので」

 朋美は、言いながら二階に眼を走らせる。

「ええ。そうだろうと思っていました」

 教師は、おどろいたことに自分からさっさと階段を上がり、和也の部屋の前に立った。

「・・・」

 その強引さに、朋美は言葉もなく見守る。

「いますよね」

 と、教師は小声で言った。三十分ほど前にバナナをわしづかみにして駆け上がっていったので、いることは間違いない。しかし、室内からは物音はなかった。河相教師が来たことを察知して、あのギザギザな眼をして聴覚を研ぎ澄ましているのだろうか。

「和也君、先ず何よりも先に先生は、君に謝る。この通り謝る」

 教師は、廊下に端座するや、ドアに向かって声を発しながら床に額をこすり付けた。

 想像もしていなかった教師の姿に朋美は一瞬、息をのんだ。そして、おぞましい疑惑がふくらんだ。非を認める潔さも、逆に朋美には、教師の尊厳をみずから踏みにじる卑屈な姿に映った。

―あいつはみせかけだけだ!―

 と、叫んだ和也の言葉が、脳裡にこびりついている。

「何を謝るんですか」

 朋美も廊下に正座して訊ねる。

「はい。何一つ気づかなかったことです。和也君に申し訳ない。和也君も、私に相談してくれたらと、残念でなりません。仕返しが怖くて書けなかったんだと思うけど、勇気を出して学級通信に書いてほしかった」

 教師の声は、ドアの向こうの和也に向かっている。

「でも三人とも、君がそんなに辛い思いをしているとは知らなかったと、驚いている。三人は誰かを知っているね。みな反省して、君に会って話しがしたい、謝りたいと言っている。どうだろう、会ってくれないか。

 ねえ、和也君。ドアを開けてくれないかな。君の顔がみたい。いろいろ話がしたい。ドア越しに話しても、空回りしているようで、スムーズに言葉が出ない」

 今度三人を連れて来るから会ってくれと、三十分ほどねばったが、室内はコトリともしなかった。

 それでも居間に戻った教師は、ほっとしたように額の汗をぬぐい、麦茶を流し込んだ。その胸中はわからないが、教師なりにかなり緊張していた様子がうかがえる。やがて教師は語りはじめた。

 和也をいじめていた三人の名前がはっきりした。彩夏たちが言った通りの三人だった。首謀者もまちがいなかった。ただ、殴る蹴るの暴力現場を目撃した者はなく、小突く程度のものだったそうだ。三人もふざけていただけで、いじめではないと言ったそうだ。しかし登校できなくなっているほどの重症なのだから、暴力をうけていたろうし、ウザイ、キモイ、死ねといった言葉の暴力は洪水のように浴びに違いない。

「おかあさんにも言い分はあるでしょう。三人と会って話したいのでしたら、お気の済むようになさってください。三人も和也君に会って謝りたいと言ってるし、おかあさんと会うことにも異存はないと思います」

「会って、どうなるのですか」

 朋美の心中は穏やかではなかった。すべてが釈然としなかった。

いじめではないと言う生徒たちの言葉を鵜呑みにしていることもそうだが、ドア越しに潔く謝って清々しているような表情にも腹が立った。

「とに角、三人を連れてきます。和也君が会ってくれるかどうか、それを確かめておいてください」

 教師は帰った。

 夕食時、和也が下りて来てテーブルに掛けた。無言の全身から殺気のようなものが迸っている。気が昂ぶっているのだ。青白い顔に血の色が浮いている。

 朋美は、カレーライスを出しながら言葉を待ったが、まだまだあどけなさの残る赤い唇は、言葉を発しなかった。迂闊なことを言えば爆発しそうな雰囲気である。だけど、和也は何かを言いたいから下りて来たことはわかっている。いつもは朋美のいない時をねらって下りて来て、ノラネコのようにガバガバと掻き込んで駆け上がってしまうのに・・・。

―何を考えているのかしら・・・―

 無言で食べつづける和也を見下ろしながら、朋美は、和也の心の中をみたいと思った。そのような神業ができたら感情のもつれも親子の対立もなくなるのにと、途方もない空想が湧く。この子はまちがいなく私が産んだ子である。この子の身体に流れている血も細胞も、その半分は私である。分身であるはずの子供が、こんなに身近にいながら途方もない隔たりを感じる苛立ちは、おなかを痛めて産んだ母親だけのものかも知れなかった。

「ね、すこし辛くない?」

 朋美は、コップに麦茶を注ぎ足しながら訊く。辛いはずはない。父親は辛党だが、和也は大の苦手である。それでいつも甘口にしている。

「・・・」

 和也のこめかみの辺りがピクッと震えたが、言葉はなかった。

 和也の身体の中で、夥しい感情が渦巻いている。それを処理できずに苛立っている。担任の言葉は聞いていたはずだ。担任が廊下に額をこすり付けて謝罪した浅ましい姿も、感じていたと思う。三人組が謝りに来たいと言う言葉をどのように受け止めたのか。彼らを赦すのか赦さないのか、この無言の姿をみるかぎりまだ何も解決していない様子だ。心の整理がつかないまま、自分でもどうしていいかわからずに煩悶しているのかも知れない。

―もしかして、和也の怒りは、私とおなじものかもしれない―

 と、朋美は気づいた。それならやはり、三人にきっちり謝ってもらったほうがいい。和也の心にけじめが付けば、すべてが解決するはずだ。だがそう思っても、言葉が出ない。

 いつもならとっくに平らげているカレーライスは、まだ半分も減っていなかった。ぼーっとしているわけではない。せわしなく皿を掻き回しては苛立たし気にスプーンを運んでいるのだが、いっこうに減る様子はなかった。待っているのだと、朋美は確信した。自分から言い出せなくて、きっかけを待っているのだ。

「ね、和也、先生の言葉を聞いていたよね。三人が来て、和也に謝りたいと言ってるけど、どう・・・? 和也が決めることだから、会いたくないなら無理して会うこともないけどね」

 答を待った。

「・・・」

 和也の表情に変化はなかった。まるで母親の言葉も聞こえていないかのような表情である。だがその時、

「オレは、だれにも会いたくねえ。会うつもりもねえ」

 立ち上がって吐き捨てた。が、いつもの凶暴な気配はなく、ある意味、虚脱感さえ感じられてこれまでの和也の陰影ではなかった。和也はユラユラと階段を上がって消えた。ドアを閉める荒々しい音さえもなかった。

 朋美は、予想もしなかった和也の反応に、それまでの緊張感を砕かれてしまった。言葉づかいはいつもとおなじ破壊的だが、それとは裏腹な態度は、牙を抜かれた狼だった。狼がいきなりヒツジに変わったとは考えられないが、もともとは気立ての優しい子なのだ。どう判断したものかと迷った挙句、朋美は担任に電話した。謝りに来たいという三人を受け入れるかどうか、それを訊いておいてくれと言われたので、和也の意外な反応を語った。

「そうですか・・・」

 教師も意外だったらしい。「牙を抜かれた狼の表現は正しいかもしれないし、良い反応かもしれませんね」

「それで、これからどう向き合えばよいのですか」

「しばらく様子をみましょう」

「しばらく、ですか」

 何を悠長なことを言ってるのかと、また腹が立った。これ以上休んだら、和也の学力では追い付けなくなってしまう。家庭教師でも付けなければどうしようもなかろうと、不安をぶつけた。

「おかあさんのお気持ちはごもっともですが、焦ったりしないで下さい。和也君を急き立てるようなことだけはしないように。勉強はその気にならなければどうにもならないものです。本人がその気にさえなれば、一気に追いつけます。それが向上心です。向上心には夢が必要です。ですが、いまはそれどころじゃないですね。とに角、いまがもっとも大事な時かもしれませんので、焦らないで下さい。私もできるだけ伺います」

 しばらく様子をみようということになった。

「・・・」

 勉強は本人がその気にならなければどうにもならないと言うけど、その気になれない生徒をその気にさせるのが教師の大事な仕事ではないかと一層、不安と焦りが渦巻いた。

 無意識にケータイを握りしめて裏庭に出ていた。

「ああ、トモ。その後どんな具合?」

 結衣とはあれ以来、話していなかった。結衣がどうして掛けてこないか、朋美にはわかっている。だが、電話を待っていた筈なのにそのようなことは露ほども感じさせない物言いは、朋美の昂ぶった心をやわらげてくれた。

 朋美は、今日の出来事と和也の変化の様子を語った。幸穂といういじめの娘を持つ結衣なら、適切な指針を与えてくれるだろうと期待したのだった。

「よくそこまで一人でやれたわね。本音を言えば不安だった。どうしているかと苛々してた。でも、トモが自分でやると覚悟した以上、邪魔したくなかった」

「わかってたよ、結衣の気持ち。でも、これからどうすべきかまったくわからないの」

「このままでいいのよ」

 結衣は、意外なことを言った。

「何よそれ・・・? ほっとけってこと・・・」

「そういうことね。あとは和也君の気持ちがおさまるのを待つしかないわ」

 結衣の言葉は、邪険そのものに聞こえたが、「意地悪を言っているんじゃないから、誤解しないで」

「ほっとけと言われたって、できるわけないでしょ。私は母親よ」

「母親だからこそ、それが必要なのよ」

「あなたも幸穂ちゃんにたいして、そうしたの?」

 朋美は、不安を感じながら訊いた。

「そんな悠長なことできなかった。どんどん堕ちてゆく娘を前にして、冷静な判断力をなくした私は、責めてばかりいた。親というものは、えてして自分を重ねるものよね。私がそうしたように、負けちゃあだめだ。勇気をだして学校へいきなさい。勉強しなさいと責めてばかりの毎日だった。そのことが一層、幸穂を追い詰めることになるとも知らないでね。自分の間違いに気づいたのは、遠野に移ってすこし落ち着きを取り戻してからだった。だから幸穂には、二重の苦しみを与えてしまったと後悔している。申し訳なく思っている」

「訊くけどね、結衣。ほっといて解決するの」

「わからない」

「わからないってどういうこと?」

「いじめで傷ついた心の傷を治す特効薬なんて、ないのよ」

「だからこそ、経験者の結衣に訊いてるじゃない。助けてよ、結衣」

 朋美の切迫した声は、思わず知らず高くなる。そのことに気づいて二階の窓へ眼を走らせたが、和也の影はなかった。だが、聞き耳を立てている気配が消えない。その何ともいえないおぞましい姿が、確実に未来へ繋がっていくような気がしてやりきれなかった。

「トモ、あなたはいまとても焦っているわね。冷静になってよく聞いてちょうだい。焦っちゃダメ! トモは今日まで隆嗣さんの協力なしで独りでやってきた。それは凄いことだよ。大いに自信を持ちなさい。

 和也君は、頭の中ではもう、三人を赦していると思う。あなたが考えている通りだと思う。でも、頭では赦しても心のけじめがつかなくて苦しんでいる。けじめがつかないのは、心が傷んでいるからよ。いじめで深く突き刺さった毒矢は、いじめ側がいくら謝ったところで抜けないのよ。いじめた者は忘れてもいじめられた者は一生忘れられないように、毒矢を抜けるのはあくまでも突き刺された本人にしかできないことを忘れないで。幸穂がそうだった。だけど幸穂がそうだったからといって、和也君の傷もおなじ傷とはかぎらない。幸穂は偶然のボランティア活動で回復したけど、和也君も同じことをして心の傷が癒えるとはかぎらない。心の世界は無限だから十人十色、百人百色。心の病は、外科手術のようにスパッと切り取るわけにはいかない。このことを肝に銘じて、和也君に何がいいかを、じっくり観察するしかないと思う。きっとあるはずよ。登校や勉強を強制することは、和也君を苦しめるだけで、何の益にもならない。このさい、一年でも二年でも休学させる覚悟でかかるべきよ」

「待ってよ、結衣。もう、そんな悠長なことできないわ」

「そんなことないよ。和也君はいま何歳ですか」

「十四歳」

「私たちは四十三歳。それでもその先にまだ四十年もある。それを考えれば和也君たちはまだピヨピヨ鳴いている雛でしょ。男性だっていまは八十歳まで生きる時代ですもの、先の長い道のりを考えたら一年や二年のブランクなど取るに足らないと思わない。長期休学イコール人生の落伍者とは限らない。力ずくで強引に学校へ行かせて無事に卒業した例はあるけど、その場合、社会人になってから落伍する人が多いと聞いている。たとえば反抗期」

「反抗期・・・? やはり反抗期と関係あるの」

朋美は訊く。

「たとえばのことを言ってるの。反抗期ってだれにでもあるわね」

「そう聞いている。和也の場合、反抗期と重なったことで一層、酷くなっているんじゃないかと最近、考えたりする。ね、関係ないのかしら」

「それは正直わからないし、考えたこともなかった。でも、朋美はやはり成長してるね」

「成長してるかどうか自分ではわからないし自信もないけど、もし反抗期と重なったことでより複雑になっているとしたら・・・」

 朋美の語尾が、込み上がる不安でとぎれた。

「ありうるだろうね。中二って多感な時期だから、反抗期も特別なものかもしれない。だから、意味はちがうようだけど、ネットでも中二病ってはやっている。だけど、反抗期のない子もいるんだってよ。反抗期もなく成長した人間はえてして、大人になって問題が生じる場合があるらしい。和也君の場合もそれとおなじことが懸念されるの」

 反抗期は必然的な心の脱皮だと、結衣は語る。脱皮をくり返して成長する生物たちは、脱皮に失敗すれば古い殻に閉じ込められて死ぬ。人間の反抗期も、成長段階における避けては通れないもので、心の古い殻を突き破る手段でもあると結衣は語った。

「いじめで傷ついた心の傷もおなじようなものだと思う。だから力づくで学校へ引きずってゆくようなことは、賛成しない。一時的な解決になっても、心の傷は癒えてないから、いずれは破綻を招く」

「そういうものなの・・・? 私は、結衣ほど複雑に考えたことはなかった。相手が謝ればそれで解決すると思っていた」

 じっさい朋美は、まだまだ結衣の言葉を咀嚼できる段階にはなかった。

「心の世界は無限で複雑なのよ。だから心の傷も単純なものではない。和也君はたしかに一つ目のハードルを超えたと思うけど、それで心の傷まで癒えたとはかぎらない。幸穂の経験でよくわかるの。幸穂だっていまは外見上は心身ともに健康体にみえるけど、じっさいの中身はわからない。何かのきっかけでまた殻に閉じこもりはしないかと正直、いまでも不安なの。

 和也君も固い殻に閉じ込められている状態なのよ。閉じこもりながら逃げる場所を求め、逃げられる場所を模索している。そんな和也君の気持ちを理解してあげなさい。そうすればあたまから勉強しろとか学校へ行けなんて言えなくなる」

 そのうち実家に用事があって行くことになっているの。そのとき寄りたいけど、どう・・・?」

 と、結衣は訊く。

 朋美は、会いたいとこたえて電話を切った。


           三、メール作戦


 あれから十日経ったが、依然として登校の気配すらなかった。閉じこもって何をしているのか、壁を蹴っているのか叩いているのか時折、ドンドンとヒステリックな音がするだけである。部屋はどうなっているのか気になる。夜こっそりコンビニへ出かけるときも鍵を掛けるほどである。まさに殻に閉じこもった状態だった。

 それでも時々、朋美が寝た後、烏の行水のように身体を洗っている。洗濯物もゴミ袋も出してくれる。そうした行為は、まだ正常な日常を失っていないと判断してもいるが、もともときれい好きなタイプだから理性とは無関係な習慣ともとれる。

 河相教師は、あれから二度やって来た。来ると必ず和也の部屋の前でいろいろ語りかけ、そして最後に、いじめに気づけなかった先生が悪いと、ドアに向かって頭を下げるその態度は、朋美の心からいつしか不信感を拭い去った。いじめを隠す卑劣な教師と思っていたが、教師は心底、和也の不登校の原因は家庭環境と信じきっていたようなのだ。

 三日前は、三人が書いた手紙を持参して来た。朋美も眼を通した。みな一様にいじめているつもりはなかった、ふざけていただけで和也君が辛い思いをしていることにも気づかず、ほんとに反省している、ごめんなさい、二度とこんなことはしないなどとあり、最後は、早く学校に来てほしいと結んであった。和也が会おうとしないので、教師が三人に書かせたものだろう。

 そして、教師は言った。

「ウザイ、キモイ、死ね、お前なんか生きている価値もない、といった言葉は、和也君もさんざん言われたようです。それは三人も認めていますが、悪意があったわけではないとも言っている。彼らにすれば悪意のないはやし言葉であり、定型文みたいなものでしょうが、悪意があろうとなかろうと、言葉の凶器であることに変わりないので、そのことを滾々と言い聞かせました。でも、それだけでは不十分です。そこで、提案しました」

「提案ですか・・・?」

 何を提案したのかと、朋美の心は前のめりになった。

「はい。メール作戦です。いまの子供たちは、私等の時代とは違って手紙は苦手でもメールは日常会話のように自在です。三人に毎日、学校の出来事を送信するように申し渡しました」

 なるほど、朋美も良い考えだと思った。

 三人からのメールはその日から始まったらしいが、和也からは何も聞けずにいる。時折りトイレに来るときチラッと見かけるだけで、依然として話のできる状態ではなかった。何が不満なのか気に障るのか、あのアンケート以来、極端なまでに朋美を避けている。結衣の言葉を借りれば、頭で出す答と感情が噛み合わずに揺れている状態なのだろう。だから、逃げる和也を追いかけて小言を浴びせることだけは、しないことにした。これは忍苦である。しかし、いつまでこの状態がつづくのかと思うと、さすがにふつふつと焦りが込み上げてくる。

 結衣には、一二年休学させる覚悟でかかるようにと言われた。その時は他人のことだからそんなのんきなことが言えるのだと腹立たしく思ったが、いまになって結衣の真意がわかるのだった。それぐらいの覚悟でないと朋美自身がこわれる。母親がこわれたら子供もこわれてしまう。結衣は家庭崩壊を懸念してそういう表現をしたのだと気づき、じっと堪えて静観している。でも、そうは思ってもじっさいいつまで続くのかと思うと、やはりいつものようにじりじりしてくるのも事実だった。それはそのまま覚悟が定まっていない証拠であり、朋美も和也も揺れ動いている状態はおなじだった。

 そんなある日、朋美はふと、夫の浮気のことを忘れていることに気づいてハッとした。あの熾烈な苦しみが消えて、和也ひとりに向かっている自分に気づいた。思えば、夫の薄情を恨む感情もたまに浮かび上がって消える程度になっていた。

―どうしているのかしら・・・―

 夫からはあれ以来、連絡はなかった。まさに薄情な父親になってしまったと久しぶりに愚痴を吐いたが、以前のように激情が迸るような苦悶はなく、いつの間にか和也のことを考えている。夫に未練がないわけではない。正直、以前の夫婦関係に戻りたかった。しかしいまは、夫を失っても和也だけは失いたくないと思う気持ちのほうが強くなっている。子供への一途な思いが、いまの朋美の唯一の支えになっていた。

 入念に付けているメモ帳を取り出した。

―オレなんか生きている価値もない。死ねばいいと思ってるんだろ。死んでやるさ!―

 と、ゴンゴンと壁に頭をぶつけた時のメモには、赤のマーカーペンをいれている。何処からそのような恐ろしい言葉が出て来るのかと、あまりの衝撃にメモしたのだが、いつどんな言葉を言ったかはもちろん、部屋の物音、入浴の時間、夜こっそりコンビニに出てゆく日時など事細かく記入されている。洗濯物もゴミ袋の中身も調べている。何かの役に立つとは思っていなかった。最愛の息子との無意識な接触行為かもしれなかった。

―これって、どういうこと・・・―

 読み返していて、あることに気づいた。普段、コンビニに出かける時間は十時頃に出て十一時に帰っている。それが土日と祝日には九時半頃出ている。帰りも十一時を過ぎたりしている。

 

 結衣がやって来て、いつもの喫茶店に入った。さっそくそのことを訊ねると、

「わかるわかる」

 と、結衣は頷き、「そういうことってあるらしいわよ」

「だから、どんな意味よ。休みの日は羽を伸ばすという風にしかとれないけど」

「その通りよ。いつもは休んでいることに気が咎めるけど、公の休みの日はサボっていることにはならないでしょ。少しは気になるだろうけど、それでもいつもとは違うから、気持ち的に楽ってことでしょうね」

「そういうことか・・・。コンビニはいまの和也にとって唯一の癒しの場所であり、避難所ということか・・・」

「和也君はまだ健全性を保っている証拠でもあると思う。好き好んで閉じこもっているわけじゃないことがわかったでしょ。だからガミガミ怒鳴ったりしちゃだめよ」

「でも、健全っていえるかしら」

「ぜんぜん健全よ。きっかけさえあれば、一気に立ち直ると思う」

「じゃあ、幸穂ちゃんの場合はどうだったの」

「うちの幸穂は年中めそめそしていて、自分から行動を起こそうなんて気はまったくなかった。だから死に向かって走るしかなかったのよ」

「それと、訊きたいんだけど・・・」

 朋美の語尾が濁った。

「どうしたの? 女の子と男の子の違いはあっても、いじめに変わりないのだから、参考になると思う。何が聞きたいの?」

「下着のこと」

「下着って・・・和也君の性の問題?」

「さすがは結衣、鋭いわね。どうしてわかったの」

「何言ってるの! トモがパンツ被ったような顔をするからよ。そんなフケツな顔をすると却っていやらしいわよ。我が子なのよ。で、どうしたの」

「パンツだけがなくなっているの」

 毎晩風呂に入るわけではないが、いつ入ってもいいように下着類は風呂場に揃えて置くのだが、パンツだけがたびたびなくなっている。年頃としてはパンツが汚れてもふしぎはないのだろうが、度々のことに不安が募り、ある晩、コンビニに出かける和也の後をつけた。コンビニの入口で、ちいさな包みをゴミ箱に投入した。それが何かを確認するには、店の前まで行ってゴミ箱に手を突っ込まなければならず、たぶん汚れたパンツだろうと思いながら、かなり離れたところから店内を窺がった。数人の客たちの中に少年は和也だけだった。閉じこもっている少年とは思えないほど、店内ではごく普通の少年に見えた。万引きでもしているのではないかと危惧していたが、胡乱なそぶりもなく雑誌コーナーで立読みを始めた。それが大人の本かふつうの漫画本か確かめようもないが、小一時立ち読みの後、雑誌とスナック菓子をカゴに入れてレジに向かった。それを確認してから、朋美は一足早く家に帰った。

「そういうこともしているの。やはり前のトモじゃないのね。なんだかトモは、和也君のお蔭で成長してるみたい」

 口許は笑っているが、結衣の顔には深刻な翳が浮き上がった。

「成長なんてとんでもない。一日一日生きるのが精いっぱい。いまは何でもいいから話してくれたらと思うけど、私の影を見ただけで姿を消すような状態で心底、悲しい」

「怖いからよ」

 結衣は言った。「あなたに学校へ行けと言われるのが怖いから、逃げているのよ」

「そうかしら。私にたいする憎しみをつよく感じるけど」

「違うわ。幸穂もそうだった」

「みなそういうものかな・・・。同じ屋根の下にいるのに会話がないから、まるで幽霊といるみたいな感じがする時があって、いまにも殺されそうなおそろしい想像もする。闇に潜んでいるモンスターみたいだから、あれこれ想像が膨らむのも当然でしょ」

「怖い・・・?」

「怖いわよ」

 と、朋美は本音を吐いた。

「それでもトモは、隆嗣さんに救いを求めるような弱音を吐かなかった。ほんとうは心細いんでしょ」

「・・・」

 朋美はこたえられなかった。一言では言えない複雑な思いが渦巻く。

 結衣はしかし、朋美が母として成長していることを認めながら、妻としてのつよさは感じなかった。むしろ、いつこわれるかもしれないボーダーラインぎりぎりにいる危うさを感じていた。そのゆれうごく危うさは、夫にたいする未練だろうと、結衣は分析する。

「お小遣いはどうなっているの。コンビニに行くことは良いことだから、万引きだけはさせないようにしないとね」

「閉じこもってからは上げてないけど、万引きするほど困ってはいないはずよ。通帳にはまだかなり入っていると思うし、必要なときはコンビニのATMでも引き出せる」

「でもお金って幾らあっても満足できるものでもないから、つい出来心で手が伸びてしまうということもある。気をつけてね。でも大変だね、トモ」

「幸穂ちゃんはどうだった? 洗濯物や部屋の掃除は自分でしたの」

「そういう点では、みな自分でしていたから、和也君に較べて楽だった。ただ、初潮の時期がかなり遅くて、いまも生理が不順なの。それだけが心配だけど、お医者さんにいじめのことを話したら、心配することはないだろう、心の傷が癒えたら正常になるだろうという診断だった」

「心の傷ってほんとうに根が深くて、複雑なんだね・・・」

 朋美は、あらためて考え込んだ。

「和也君の場合だけど、自慰行為とはかぎらないわよ。男性の夢精って知ってるよね」

「それぐらい知ってるわ」

「和也君もそうだと思う。みなそうかどうかはわからないけど、男性って強いストレスでも夢精現象が起こるそうよ。これ、うちの主人が会社へ入った頃に体験した話だから、嘘じゃないと思う。和也君も同じなんじゃないかな。つまり、うんちやオシッコとおなじ生理現象と思えばいい。過酷なストレスで悲鳴をあげている心が一時の安らぎを求めていると思えば、フケツな思いなど消し飛んでしまう。わかるでしょ。和也君が深刻に悩んでいる証よ」

「やはり結衣に会ってよかった。でも、よくそういうことまで聞けたものね。うちなんか絶対に話さないと思うし、話せないと思う」

「エッチな話なんかしなかったの」

「しないわよ。するもんですか」

「何を怒ってるの。トモもトモなら、隆嗣さんも隆嗣さんね。あなたたち二人は、その方面では潔癖というか淡泊なんだ。でも夫婦関係があったから和也君は誕生した」

「もういいよ、こんな話」

「うちだってしょっちゅうエッチな話をしているわけじゃないわよ。幸穂がいじめに遭ってからというもの、滅多に抱き合うこともなかった。夢精の話は幸穂の生理のことからはじまって、男子と女子のちがいを話しているうちに出たことなの。職場放棄を真剣に考えたほどのパワハラの攻撃を受けたことも、その時はじめて知った」

「でもいいわね、あなたたちは何でも話せるんでしょ、羨ましい。それとね、いまさら言うのもなんだけど、女の子をつくっておけばよかったって思うの」

「その気持ちわかるけど、女の子って男の子より難しいと思うよ」

「よくそのような話を聞くけど、結衣にもそうしたケイケンあるわけね。たとえばどんなふうな?」

「子供って親に愛されたい一心でいい子になろうとするじゃない。そのような行動特性を【いい子症候群】というんだって。それを知ったのは、幸穂が不登校になってからだから、私も母親失格のひとりよね」

「何いってるの。あなただからこそ、幸穂ちゃんを救えたんじゃない。私にたいするイヤミにしか聞こえない」

「トモが大変なときに、イヤミなんか言えるものですか。

 イイコ症候群の危険性は、イイコを演じつづけることで自主性とか精神的自立が損なわれると書いてある。幸穂を見ていて、ああ、この子もそうだったのかと気づいた。担任にも指摘されたように、幸穂は自己主張が苦手な子だった。苦手というよりも、殆どできなかった。できないのは自分に自信が持てないからで、自信が持てないのは自立に必要な我という核が未熟だったからだと思う。あの子はイイコになりたいがためにハイハイと迎合していたにすぎなかった。結局、そのことに気づけなかった母親の私がそのように育ててしまったということよ」

「うちの和也だって素直なイイコだったわよ」

「でもね、男性は元々攻撃型にできているし、闘争本能なんて女性にはかなわない。つまり、男の子と女の子は体のつくりだけじゃなくて、精神性もちがうのよ」

「だからおなじいじめでも、男の子と女の子では違うってことね。難しいものだねえ・・・。和也が少しでも話してくれたらと、いまはそれが喫緊のねがい。正直いうとね、結衣の話を聞いてるとますます怖くなる」

「いまさら弱音を吐いてどうするの。あなた母親じゃない。子供を育てるって生半可な気持ちじゃできないってことよ。私だっておなじ修羅場をくぐり抜けてきた」

「でも、くじけてしまいそう」

「焦ってはだめ! 和也君も心配だけど、私にはあなたが心配、トモの神経がこわれはしないかと」

「だから長期戦の覚悟を決めろと言ったんでしょ」

「確かにそうよ。でも、河相先生って想像していたよりも根は純真なんだね」

「純真ね・・・」

 朋美は、思わず考え込んでしまった。それから、どうしてそんなふうに思うのかと、訊ねた。純真という言葉には、はっきり言って違和感があった。

「毎週一度は訪ねて来るんでしょ」

「ええ」

「ひと月に一度来るか来ないかといった教師が多いなかで、河相先生はちゃんと様子をみに来てくれる。それだけでもありがたいじゃない。でもねえ、土下座する教師って心許ないわね」

「そう言われればたしかにそうかも知れないけど、でも、何度来たって和也を救えないんじゃねえ・・・」

「だから焦っちゃだめだって、言ってるのよ」

 その後、二人はステーキ専門の店に入った。これは結衣のおごりだった


          四、教師の苦悩


 期待していたメール作戦も、一週間たっても変化はなかった。和也が相変わらず朋美を避けているので、メールが届いているのかどうかさえ知ることが出来なかった。そんな中、河相教師も和也の変化を期待してやって来た。話によると、メール作戦に賛同した生徒の何人かが加わったそうだ。

「いま始まったばかりですから、じっくり待ちましょう。メールを送っている生徒たちも、返信はないけど、和也君も嫌がっている様子でもないと言うので、期待しましょう。でも、だれがどのようなメールを送っているのか知りたいですね。特にリーダーの高石浩太がほんとうに送っているのかどうか・・・」

 教師が高石浩太を気にしているのは、彼こそが和也を不登校まで追い詰めた張本人だからだ。和也たちはもともと三人組だった。そこへ強引に割り込んだ浩太は、和也をいじめのターゲットにした。リーダーの権力を握るためによくやる手段である。他の二人は元々の仲良し三人組だから和也には不満も憎しみもないが、浩太の腕力が怖くて従わざるを得なかった。そのようなことを教師は、三人を個別に呼んで話を聞くことで、知った。だから藤原海人と斉藤昭義の反省は信用できるが、浩太の本心だけはいまもって気になっているのだった。

 この日も教師は、和也の部屋の前でいろいろ話して帰った。

 朋美は、じっくり待ちましょうと言われても、荏苒と日を送るわけにはいかなかった。殊にもメール作戦に参加した生徒たちの優しさは、それがたとえ一人であっても和也にたいする思いが伝わってきて、うれしかった。部外者の応援に感動した朋美は、自分も何かしなければと試案の挙句、メールにヒントを得て手紙作戦をはじめた。

―かあさんは、何があっても和也の味方です。信じてちょうだい―

 次はかなり迷った末、

―学校へ行くのが辛いのなら、好きなだけ休んでちょうだい。かあさんは和也の味方だから、さいごまで応援する。安心して休みなさい―

 和也の重荷を解いてあげたい一心だった。

 一日に一度、食卓に短文をしたためて置く。手紙というよりもメモである。短文だから一目で内容を理解できるはずだが、和也に変化はなかった。ただし、メモはそのままテーブルの上にあることに、朋美は、一抹の希望を感じた。もしクチャクチャに丸めて捨てられていたら、こんなもの目障りだという怒りのメッセージである。捨てもせずにテーブルの上にあるということは、一応、眼を通したというメッセージと受け取れる。ちいさな光でも、その一点にすべてを集中させるように心がけて、おぞましい想念は努力して打ち払うようにした。

 たしかに朋美は母親として成長しているが、結衣の言うようにこの冷戦が二年もつづいたとして、果してそこまで頑張れるかどうか自信は持てなかった。というよりも、いまは悲観的な思いは排除して、ひたすらポジティブな考え方で一日一日を過ごすことに努力し

ている。この一日一日の積み重ねの果てに何があろうとも、たとえ刃物や金属バットを振り回すようになったとしても、その時は、一緒に死んであげようという覚悟だけはしておきたかった。それが母性愛という覚悟だと思った。もちろんこの覚悟は結衣の話に触発されたものだが、覚悟のほどはさておき、無智な朋美をここまで成長させたものはひとえに、子を思う母親の執念と言っていいだろう。

 しかし、和也にはまったく変化はなかった。夜のコンビニ行きもいつもどおりだった。時折りチラリと見える影にも、変化はなかった。

 そうした折、週に一度は様子を見に来ていた河相先生は、急に姿を見せなくなった。

―どうしたのかしら・・・―

 来てくれてもいつもの儀式を執り行って帰るだけだから、いまは何ほどの期待もしていないが、来なければ来ないで和也が見捨てられたようで気がもめる。

 ほんとうに捨てられたんだと思っていた梅雨明け間近の蒸し暑い中、河相教師はやって来た。七月に入っていた。

「どうなさったのですか・・・!」

 玄関先で思わず声をあげたほど、河相教師のやつれた姿は病後を思わせるものだった。

「ええ・・・。そのまえに和也君と話したいので」

 と教師は、汗を拭きながら階段を上がった。

「和也君、元気でいるかい。今日は少々きついことを言うけど、これも君の未来を思ってのことだから、しっかり聞いてほしい」

 いつもとはだいぶ違う言い方だった。雰囲気も違った。部屋の中は真夜中のように森閑としている。コトリともしない。それでも教師の語り口は、和也と対座しているかのようだ。

「君の辛さはわかる。だが、それを乗り越えるのは、君自身の力だけなのだ。闇の底に沈んでしまった君の心を引き揚げる力は、残念ながら、私にはない。すまない! せめて勇気と希望を与えたいと思って努力してきたが、いまは教師の資格さえもないと思っている。もし君の担任が私でなかったなら、こうまで君を追い込むことはなかったかも知れない―」

 きついことを言うとはっきり仰っていながら、それとは逆に、いつにも増しての謝罪であり、おまけにいまにも教職を辞するかのような悲愴感すら感じられる。

―どうなさったのだろう・・・―

 と朋美は、張りつめた教師の横顔をみつめる。

 先生は来るたびに、まず真っ先に和也のところに直行してあれこれ語りかける。和也が教室の雰囲気を忘れないためか、教室内の光景を語りかけることもある。三人からの言づけであったりもする。そして最後に、これも定型文のようにいじめに気づかなかった教師の責任を詫びた。それは教師の姿よりも誓いを破った修行僧の悔恨の姿勢であり、目の当たりにしている朋美が辛くなるほどだった。和也が、みせかけだけのセンコーだと言い放った言葉の意味が、いまになって理解している朋美である。

 和也は、いじめに苦しんでいる自分に気づいてほしかったのであろう。助けを求めて毎日叫んでいたのに、少しも気づいてくれなかったことにたいする評価だったのだろうと、朋美は推理した。

 教師としての評価は朋美にはできないが、人間性の評価はむしろ信頼できると思っている。たしかに、和也の不登校の原因をあたまから家庭の不和と決めつけた失点はあるが、未曾有の巨大津波で家族を奪われた若い未亡人との浮気は、だれにとってもインパクトの強いものにちがいない。職員室でも夫と洋子の情事は、被災地という特異な舞台だけに大いに沸騰したことだろう。ただし、実際に被災地に入ってその惨状に接した者たちは違う。情報だけでしか把握していない者たちは、映像や活字だけではそれがどんなに凄惨なものであっても所詮、情報にすぎないのである。

―おまえに、あのヘドロの感触がわかるか。あの臭い、そしてこの長靴の下に死体が眠っているかも知れないという不安やおそれは、じっさいに入ってみた者にしかわからないのだ・・・―

 と言った夫の言葉は真実だろう。

 

「何かあったのですか・・・」

 居間に入って冷たい麦茶を出しながら、朋美は訊いた。

 人間性はそれなりに評価できるが、正直、教師としては物足りなかった。今日もきついことを語ると言うので、和也がドアを蹴破って出てくるかと身構えていたが、結局、謝罪で終始した。ほんとうは厳しいことを言うつもりで来たのだろうが、言えなかったようだ。教師なら教師らしく凛としてほしいと、朋美はねがう。ところが、

「教師を辞めようと思っているんです」

 麦茶で喉を潤して、河相教師は、くぐもった声でとんでもないことを言ったのだ。

「・・・」

 朋美は、和也のことでそこまで苦しんでいたのかと、言葉を失った。

「誤解なさらないで下さい。和也君のことが原因じゃありません。クラスの女子生徒が、リストカットして入院しているのです」

「何かあったのではと気になっていましたが、そういうことだったとは・・・」

「幸い発見が早くて事なきを得ましたが、遅れていたらたいへんなことになっていたでしょう」

 教師はやつれた肩を落として吐息を洩らし、二度もいじめに気づかなかった非を認め、おのれの非力を恥じた。

「でも先生、女子のいじめはより陰湿で表には出にくいというじゃありませんか。そんなにご自身を責めないで、これも飛躍の試練と受け止めて、教師を辞めるなんて言わないで下さい。和也のためにも先生は必要です。和也を中途で放り出すようなことだけは、ぜったいに、してほしくはありません」

 朋美としては、精いっぱいの慰めのつもりだった。そして、先日のアンケートで女子生徒へのいじめは出なかったのだろうかと、疑問が湧いた。もしかして、出ていたのにそれすら気づけなかったのではないか。

「ありがとうございます。おかあさんからそのようなお言葉を頂けるとは思いもしませんでした。しかしもう、私を必要としている生徒も父兄の方々もいないでしょう」

 教師は、いよいよ肩を落として憔悴の有様である。教師としての責任感から教職を辞する覚悟をしたというよりも、和也と女子生徒のWショックで心神喪失状態のようだ。

「教師をしていればいろいろあるでしょう。あまり根を詰めず、もっと教師としての自信を持っていただきたいです」

 朋美は、いまはじめて河相教師の素顔をみているのだった。

 たぶん教師は、これまでずっと平穏無事を第一として通して来たのであろう。和也にたいするへりくだった態度でもそれはわかる。だから悪評もないがずば抜けた評価もないことになる。きつい言い方をすればご機嫌取りである。事なかれ主義ともいえる。自ら嵐の中に飛び込む勇気がないから結局、自分を卑下して謝るしかないのである。そのような生き方では必然的に抵抗力も付かず、和也と自死行為のWショックで脆くも挫折してしまった。ふだんから逃げず、常に真正面から立ち向かっていれば、結果は違うものになっていただろう。そして、女子生徒へのいじめも見抜いていただろう。

―でも、このまま辞められては困る。ひとりサッサと逃げるなんて卑怯―

 だと、朋美は少なからず憤りを感じた。

「私の力不足は認めます」

 と教師は重い口をうごかした。「ですが、弁解するようですが、教師の仕事が多すぎて、自分のめざす教育ができないのが、いまの学校の実態なのです」

 うつ病などで病気休暇の教師が増えているのは、必ずしもトラブルだけが原因ではなく、一種の過労ともいえる。土日を含めた時間外勤務は、全教の調査結果で七十二時間五十六分という数字が出ている。それに自宅に持ち帰る仕事を加えると、九十五時間三十二分にもなる。部活指導の多い中学校になると、百十四時間二十五分にもなる。厚労省が定めた過労死ライン月八十時間を大幅に越えるのが実態である。(二0一二年十月調査)

「しかも、本業以外の諸々の仕事も混じっていて、正直、生徒たちとじっくり話し合う時間もないのです。子供は未来の国造りの担い手です。原石です。原石を光り輝く宝石に磨くのが教育です。

 ほんとうのゆとり教育とは、生徒一人ひとりに眼が届く少人数学級で、せめて本業以外の仕事量を減らして教師にも時間的ゆとりを与えるべきです」

 と、そこまで語った河相教師は、麦茶を飲み干してその眼を宙に放った。何かを追い求めているような眼の色だった。

「たいへんなんですね・・・」

 朋美は麦茶を注ぎ足す。数字を示されても、それがどのように大変なのかピンとこない朋美である。朋美が抱いて来た教師像と、河相教師が語る裏事情は合致しなかった。朋美にとって先生という職業は、ある種の自由業に近いものだった。

 朋美が幼稚園児の頃、よく家に先生が来て父親と酒を飲んでいた。何処でどう知り合ったのか、小学校教師だった。父は当時、金物店を営んでいて、夕方近くになると先生はやって来て、酒を酌み交わす雰囲気は親友そのものだった。夏休みや冬休みになると、昼ごろにはやって来た。もしかしたら二人は級友だったのかも知れない。ともあれ、朋美は先生って暇な職業なのだという印象を持った。その子供の頃の印象のまま、朋美は成長した。しかし河相教師の話によると、現在の教師は繁忙で複雑なものらしい。

「むかしのような分校があったら、いますぐにも移りたいですね。あのような分校こそが、私にとっての理想の学校です。少子化社会になってやっと三十二人学級になりましたが、何も変わりません。私が望むのは、多くても十数人学級。そうでないと一人ひとりに眼が届かない。ほんとうの意味でのゆとり教育はできません。特にマンモス校はいけません。いまの先生方はみな疲れきっています。せめて副担任でもいればいいのですが」

 教師は、そのような愚痴をこぼして帰った。

 以前の言葉と甚だしく矛盾する点も多々あるし、いじめ問題の言い訳にも取れるが、その憔悴の姿をみていると何も言えずに見送った。結局、朋美は河相教師の弱さを知っただけであり、弱さを人間的信頼性と混同していたのだと気づいた。

           

           五、修復


 無為に過ぎる焦燥に翻弄されているうちに、夏休みが迫っていた。猛暑がつづいている。和也の部屋にはクーラーがあるので熱中症の心配はないが、相変わらず母を避けている状態がつづいている。手紙にたいする反応もまったくなかった。それでも朋美は、根気よく書いている。しかし、熱気のなかで一日いちにちが進展もなく悶々と過ぎてゆくのは、まさに焦熱地獄だった。こうして地獄の引きこもりは果てしなくつづくのかと思うと、かつての覚悟は何処へやら、熱気の中で身震いする朋美だった。

 河相教師によると、他のクラスの何人かもメール作戦に加わっているらしい。和也の小学校のころの仲間らしいが、その中に唯一の女子生徒、あの彩夏がいた。朋美がそのことを知っていたら、少しは勇気を与えられただろうが、朋美も河相教師もその事実を知らなかった。 

 そんなある日の夕方、夫が前触れもなく帰って来たのだ。帰って来るとも思っていなかったから、好物の枝豆も切らしていた。夫は無言で入って来て、

「暑いな・・・」

 と、呟いた。

「連絡してくれたら、枝豆を用意していたのに・・・」

 何しに来たのだろうと、まずそのことが気になった。うすれていた離婚届の用紙が眼窩で舞い上がった。

「何もいらない。冷たいビールがほしい」

 麦茶には手も触れず、煙草に火を点ける。その表情は硬く、複雑で、何も読み取れない。素直に受け取れば、気まずさとも取れる。その気まずさが、朋美の不安をあおる。ついさっきまで和也のことだけで夫は圏外になっていたが、新たな不安が一気に押し寄せて来て、朋美は、狼狽えてしまった。だが、コップに注いだビールを一息に飲み干した夫は、

「おまえは、良い友達を持ったな」

 と、言った。

「友達って、だれですか」

 離婚の文字しか頭になかった朋美は、あまりにも意外な言葉に一瞬、思考力を失った。友達といえば、いまは結衣しかいない。やっとそのことに気づいて、「結衣のことですか」

 と、訊いた。

 しかし夫は結衣と会ったことはないし、朋美も結衣のことを話した記憶はない。知らないはずだ。

「あれほど篤い友情の持ち主は、男にだってそうはいない」

「だから、結衣のことですか」

 と訊くが、やはりそれには応えず、

「これからは毎週帰って来る」

 と、ぶっきらぼうに言い、一気にビールを呷ると、和也と話しがしたいと二階へ上がってしまった。

 朋美は、夫の後ろ姿を眼で追いながら、呆然としてしまった。一時には処理できない思考のなかで、和也の名を呼ぶくぐもった声が聞こえる。

「おい、和也、開けてくれ」

 ドアのノブを握るが、その声には以前のような威圧的なひびきはなかった。それでもドアは、間もなく開いた。

 父と息子の眼が合った。それも一瞬だった。二人ともたがいに眼をそらしながら父親はベッドに、和也は机の椅子に掛けた。前と同じ位置である。違うのは澱んだ空気とかすかな異臭。そして壁の傷だった。

「窓を開けたことあるのか。一日に一度は開けて空気を入れ替えたほうがいい」

 父は言いながら息子に眼をやるが、息子のほうはそっぽを向いている。ほとんど俯いたままだった以前の息子は、もう眼の前にはいなかった。

「今日はおまえに謝りに来た」

 その言葉に息子は、ぎらりと光る眼を向けた。だが何も言わない。父親の謝罪の意味を探しているのだろうか。

「かあさんを苦しめてしまったことだ。おまえもゆるせない父親だと怒っているだろう。この通り謝る」

 と父親は、しっかりと息子の眼を見すえながら頭を下げた。それでも息子は何も言わずに、眼をそらした。おだやかな表情ではないが、いまにも爆発しそうな憤怒の顔色でもなかった。が、話し次第では対決も辞さない気配が伝わってくる。やはり変わった・・・と父は思う。

「いまさら謝ってどうなるものかと思っているだろう。しかし、おまえが大人になっていろいろ体験した時、すこしはこの俺の気持ちを理解できるかもしれない。そのためにも、一度この俺と被災地へ行ってもらいたい。被災地の惨状といまなお苦しみ、辛い思いをしている人たちの姿を、いましか体験できない被災地の空気を自分の眼で感覚でしっかりと確かめてほしい。テレビや新聞だけでは、被災地の人々の現実はわからない。地獄とはどのようなものか、おまえの眼でしっかりと見てほしい。和也、約束してくれ、夏休みになったら行こう」

 促すが、息子は無言だった。

「いますぐ返事をくれとは言わない。考えておいてくれ。これからは以前と同じように、毎週帰って来る」

 父親は、それだけ言うと部屋を出た。

 居間に戻るとテーブルに、買い物に行ってきます、とメモが残されていた。

 その頃、朋美は、スーパー前の片隅でケータイを見つめていた。

結衣が被災地の大槌に行って夫に会ったことは間違いない。そこで結衣が何を話し、夫がどう答えたのか、知りたかった。何も知らないのでは、対応のしようがなかった。めずらしく長いコール音がつづいた。

「ああ、ごめん。いま車の中なの」

「じゃあ、あぶないじゃない」

「だいじょうぶ。いまトンネル抜けて駐車したから。それで何・・・! 変わったことでもあったの。いま夕食の支度でいそがしい時間帯でしょ」

「あなた、いつ家の人と会ったの」

「ああ・・・そのことか」

「いつ会って何を話したの」

 朋美は、たたみかける。

「ということは、隆嗣さん帰ってるのね」

「とつぜん帰って来て、あなたの友情のあつさを褒めるので、びっくりした。でも結衣の名前は言わないの」

「照れくさいだけでしょ。私はべつに特別なことは言わなかったわよ。あなたの現実を伝えたかっただけで、家へ帰れなんて一言も言ってない」

「でもとつぜん帰って来て、これからは毎週帰るとまで言うのよ。何か相当きついことを言われたように感じたけど、どうなの」

「とにかくよかったじゃない。詳しいことは後でゆっくり話す。あなたは隆嗣さんが居心地良い週末を過ごせるように努力しなさい。まちがっても噛みついたりしないことよ。いま大槌のトンネルを抜けてマストの前なの。じゃあね」

 電話は切れた。大槌にいるということは、夫がいると思って出かけたのだろうか。《マスト》とは、この町いちばんのショッピングセンターで、一階部分は壊滅状態だったが、いまは再開している。

 買い物をして急ぐ朋美の足取りは、昨日までとはまるで違った。その軽い足取りはまちがいなく、肩の重荷が半分に減った軽さだった。帰って来たからといって夫への不信感が消えたわけではないから、もし和也の問題がなければこうまで静かに迎え入れることはなかった。それは間違いない。しかしそうは思っても、先生が何度来ようが開かずの間だったドアを夫は苦もなく開かせる。父にたいするおそれなのか、それとも和也に何か思惑があってのことなのか分からないが、朋美は母親にはない父親の強さを認めざるを得なかった。

 その夜、二人の間に何ほどの会話もなく、それぞれの布団に入った。布団に入ってもいつもはなかなか寝つけないのに、この夜は布団に入ったとたん眠りの底に落ちてそのまま朝を迎えた。

 眼が覚めると夫の姿はなく、不安の面持ちで辺りを見回すと、庭のほうで音がする。窓から覗くと、草むしりをしていた。

 朋美も手早く朝餉の用意をして庭に出た。その顔の薄化粧は、隆嗣が注意深く見なければ気づかない程度のものだが、それでもじゅうぶんだった。朝霧に濡れる草花のように、しっとりと生気がもどっている。

「おはよう。早いのね」

 朋美のぎこちない言葉に隆嗣はチラリと顔を向けただけだった。何を植えるにしてもいまからでは遅すぎるが、夫の草取り作業は意思表示なのだろうと朋美は思いながら、新婚当時を思いだしていた。もはや清新な息吹もときめきもないが、それに近い心模様が仄かに揺れている。

 庭は会社の重機を借りて来て、見ようみまねで夫が一人で造った。築山を中心に巨石を配し、松の木やカエデを植えた。石はうごくことも育つこともないが、苔むす様は確かな年輪と風格を醸している。木々も見上げるほどに枝葉を茂らせ、それはそのまま和也の成長であり、家族の歴史だった。  

「三人は謝ったそうじゃないか」

 と、隆嗣は言った。

「いじめの三人組のことですか」

 結衣はそのようなことまで話したということだろう。

「ああ」

 隆嗣は、こんどは手を休めて朋美をみながら、「それでも学校に行こうとしないのは、どういうことだ。おまえはどう思う? 先生は何と言ってる」

「心のけじめがつかないのだろうからもう少し様子をみようと言って、いまメール作戦をやってるの」

「メール作戦って何だ」

「三人組に毎日、和也に謝罪と激励を送っているそうで、それに賛同した生徒たち何人かも加わっているんだって」

「みんなから嫌われていたわけじゃないんだな」

「ええ。ありがたいことよね。でも和也の反応がぜんぜんわからないの。ゆうべ何か言ってなかった?」

「何も言わないし、俺もよけいなことは訊かなかった。しばらくそっとしておこう。ただ俺は、被災地へ行こうとすすめた。いまのうちに、被災地をみせてやりたい」

「・・・」

 昨日帰って来たばかりで、その口から被災地の言葉を聞くとは思わなかった。まして和也を連れて行きたいとはどういうことだろうと、朋美の心につめたいさざ波が走り、若い洋子の顔がうかんだ。

 朋美は、洋子と三度会っている。いや、会ったという表現はまちがっている。浮気相手を確かめるために結衣と仮設のスーパーに入って観察しただけだが、ひとめ見たその時、花壇の隅で咲く薄紫のオダマキと重なった。伏し目がちな姿はともすると暗い印象を与えるものだが、彼女の場合は逆に、ひかえめな魅力を際立たせていた。どうしてこのような女性が夫と恋仲になったのかと、その時、朋美はふしぎに思ったほどの衝撃をうけた。被災地を語る夫の胸にもとうぜん、俯いて咲くオダマキの洋子もいるだろうと思うと、朋美の心はいっそう激しく波立った。が、この時、二階のカーテンが微かに揺れるのに気づいて我に返った。聞こえて来たのは和也の声ではなくて、噛みついたりしないのよ、と言っている結衣の声だった。

「いまも毎晩コンビニに行ってるのか」

 と、夫は訊く。どうやらカーテンの隙間から覗く視線には気づいていないようだ。

「ゆうべはどうだったかしら。私は布団に入ったとたん眠ってしまったからわからないけど、あなた気づかなかった」

「俺は十二時ごろまで眠れなかったが、いちどトイレに入る音はしたが、玄関は開けなかったと思う。おまえ、結構な鼾をしてたぞ」

「・・・!」

 何も言えずに顔を染めている朋美に、

「疲れているんだな・・・」

 一呼吸おいて、「小遣いを渡しているのか」と、話題を変えた。

「買い物といってもスナック菓子と漫画本ぐらいだから、まだじゅうぶん残っていると思うの。だけど万引きされたら困るから、適当な金額を渡したほうがいいかしら。結衣にも万引きだけはさせないようにと言われている。どう思いますか」

「そういうことは、本人に確かめたらいい・・・。そうか、話も出来ないのか」

「夕方発つんでしょ。それまで訊いておいてくれない。ああ、いいわ。私がする」

「するって、何をするんだ」

「私、生徒たちがメール作戦をしているように、私はわたしで手紙作戦をしているの。一方通行の、ほんの短いメモを毎日食卓に載せておくだけで、いまはまだ片想い」

「どんなことを書くんだ」

「何があってもかあさんは和也の味方とか、何も気にしないで好きなだけ休んでいいとか。最近は、必ずありがとうで結ぶようにしているんです。手紙の結語ね」

「例えば?」

「生きていてくれてありがとう。今日も無事でありがとう、とかね」

「親不孝者の息子にありがとうはないだろ。それにしても、どうしてありがとうなんだ。」

「幸穂ちゃんからヒントを得たの。結局、幸穂ちゃんは、みんなから感謝され、褒められることで勇気という力を取り戻したんだと思う。どう思います」

「べつに反対はしないが、和也はちゃんと読んでいるのだろうか」

「返事はないけど、丸めたり破いたりしたことは一度もないから、読んでいるとは思う」

「そうか・・・」

 隆嗣は、草をむしりながら呟くように言った。


         六、被災者の心の傷


 夏休みになったとたん和也は、母の付添いを拒否して病院通いをはじめた。最初は胃の調子がわるいと言い、次は頭が痛いと病名が変わった。明らかに様子がおかしい。食欲もふつうだし、被災地へ行こうと言った父の言葉を避けているとしか思えない行動だった。

 理由は何であれ、病院へ行くには保険証もお金も要る。そのたびに最低限の言葉が必要になる。まだ口を利くことに慣れない感じで金をくれ、保険証くれと言うだけだが、それだけでも有難かった。帰って来た時は、どんな具合かと訊けば、明日も行くと応える。何よりもありがたいのは、昼間の外出だった。こうして学校へ行けるようになるかもしれないと、朋美の期待は膨らむ。坂田医院は朋美たちの家庭医である。朋美も和也の問題が起こる前までは睡眠導入剤を貰いに行っていたが、和也が不登校になって以来、どんなに眠れなくても薬を飲めなくなった。夫と洋子の煩悶であれほど熟睡を求めていたものが、いまは逆に、熟睡が怖かった。

 和也が病院通いをはじめて四日目である。夫が帰って来た。さっそく和也のことを話すと、

「いいことじゃないか」

 と、ビールを呷った。

「それはそうだけど・・・」

「何か心配なことでもあるのか。病院へ行くと言いながらゲームセンターに入り浸っているとか、悪い仲間をつくったとか」

「何もないから、心配なんです」

「おかしな心配だな」

 隆嗣はビールを運ぶ。だいぶ笑顔がもどった。朋美にも笑顔がふえた。だが、朋美はまだ夫に甘えることはできなかった。隆嗣のほうでも、それはおなじだった。

「そんなに心配なら、何処がどう悪いのか坂田先生に訊いたらどうだ」

「そう思うけど、たぶん病気じゃないと思うから、訊けないの」

「またおかしな言い方をする」

「和也の目的は病気を治すことではなくて、病院へ行くことだと思うんです」

「学校へ行くためのトレーニングと考えているわけか」

「そこまで意識しているかどうかは分かりませんけど、方向としてはおなじだから、期待しているんです」

「そうか。いろいろ考えているんだな。だが、焦るな。二年ぐらい休ませる覚悟をしろと、結衣さんにも言われたんだろ。俺もその考え方には賛成だ。和也にプレッシャーをかけないように、気をつけて見守ろう。おまえも心配ばかりせずに、たまにはどうだ」

 と隆嗣は、めずらしく朋美にビールをすすめた。言われるままに朋美は、コップを手にした。

「そうそう。小遣い渡したのか?」

「そのことだけどね、お小遣い必要なら使っていいのよと、病院へ行くとき少し多めに渡すんだけど、まだ使ったことないの」

「なら、まだ通帳にあるということだろ」

「そう思う。とに角、万引きだけは気をつけないと」

 一応夫婦としての形は整ったが、深く走った亀裂はいまやっと修復がはじまったばかりだろう。はたして完全な修復が可能かどうかわからないが、亀裂は亀裂のままのこったとしても、それはそれで価値ある遺産になるのかもしれない。

 たとえば被災地の大槌町では、津波の怖さを後世に伝えるために、無残な庁舎をそのまま遺そうとしている。活字や映像よりもはるかに効果的だが、こわしてくれと訴える者とこわすことに反対する者とで紛糾している様子が、度々テレビニュースで流れる。大槌役場では、町長をはじめ四十人もの職員が犠牲になった。建物のなかで家族を喪った遺族にとっては、見るに堪えがたい慟哭の象徴でしかない。この建物をみるたびに心が張り裂ける、一刻もはやく解体してくれとその苦しみを訴える。一方では、ここへ来て手を合わせて冥福を祈ることだけが唯一の生きがいだからこわさないでくれと訴える。どちらも切実な訴えであることに変わりはない。霊魂の存在を信じていればこその痛みであり、慰藉ともなる。ただしかし、跡形もなく破壊すれば犠牲者たちの尊い命も忽ち忘れ去られてしまうことは間違いない。それでは尊い命も無駄死にとならないか。つらいだろうが、慰霊の館として悲惨な姿をそのまま後世に遺してこそ、犠牲者たちの魂も救われるのではなかろうか。百聞は一見にしかず、である。

「和也は部屋で何をしているんだろう」

 隆嗣は、天井に眼を走らせながら言った。

夏休みになってから、二階から静かな物音が聞こえるようになった。だが、何の音かはわからない。

「お掃除したいけど、まだ鍵を掛けて出かけるのでどうしようもないわ」

「いまはどうか知らないが、窓を閉め切っているので不快な臭いはしていたな」

「そうでしょう」

 不快な臭いとはどのような臭いかと、朋美は極端なまでに眉をひそめた。

「夏休みが終わっても学校へ行かなかったら、その時は、何か考えないといかんな。一応こうして病院へ行ってるんだ。この流れに乗って手を打たないと」

「私も同じことを考えていました」

「カウンセラーはどうだ」

「不登校をはじめたばかりの頃、河相先生にも言われたんです。まだ少し会話ができるころだったから和也に言うと、オレは病気じゃねえと怒鳴られた」

「そういうこともあったのか」

 隆嗣は、枝豆をつまみながら言った。

 朋美は、眼の前に積み上げられた枝豆の殻をみながら、ビールを取りに立ち上がる。毎週帰って来るようになってから、夫の酒量は増した。健康を思えばほどほどにしてもらいたいが、酒なしでは向き合っていられない気まずさのせいだと思うから、言いたい一言を堪えている。

 結衣は、夫に会うために三度も行ったそうだ。そこで夫は、洋子のことを話したそうだ。その話を聞いて洋子にたいする嫉妬や憎しみが解消したわけではないが、かなり軽くなったことは事実で、いまでは朋美のほうから、夏休み中に是非とも和也を連れて行ってほしいと頼んでいるほどである。

 夫と洋子が知り合ったのは、子供の遺体がみつかった河原だった。営業所は河口からおよそ三キロ上流にあり、その背後に川が流れている。毎日そこへ来て泣いている若い女性が洋子だった。そしていつしか二人は話すようになった。洋子の悲しみは子を奪われた涙よりも、子供を助けてあげられなかった自責の念で苦しんでいるそうだ。

 洋子たちの自宅は市街地の山際で、これまで津波被害の経験のない地域だった。チリ地震津波はもちろん、明治・昭和の三陸大津波でも被害はなかった。そうした経験値は無意識に津波の限界を設定していたのである。あれ以上の津波はないものと誰もが思った。まして街を満杯にする津波を想像することは、天と地が逆転するのに等しいものだった。結果、海辺で暮らす住民よも安全と言い伝えられていた地域住民により多くの犠牲者が出る結果になった。

 洋子も逃げなかった。家具は倒れ、冷蔵庫の食材は飛び散り、何から手を付けていいか分からない状態だったが、一歳七か月になる子の怪我だけが心配でガラスの破片の片づけをはじめた。サイレンはすこし鳴っただけで止んだ。サイレンが鳴らないくらいだもの、たいしたことないと思った。それまで深く考えたことはなかったが、たとえ町が壊滅してもサイレンだけは鳴りつづけるものだと、洋子も多くの住民も、思っていた。そうでなければ、命の危険を報せるサイレンの役には立たないのである。もしサイレンが狂ったように叫びつづけていたら、間違いなく、より多くの命が助かった筈だ。

【役場は震災後、大震災津波検証の中で、停電時でもサイレンは鳴る筈だったと報告をしている。しかし、命に直結するサイレンなのに、その責任の所在は未だ明らかにされていない。この過ちを二度と繰り返さないためにも、責任の所在と原因を明らかにしなければならない。

 鳴らなかったばかりか、職員一同は避難もせずに庁舎の前に机を出して町長を中心に対策会議を開いていた。実に緊張感のないものだった。誰一人として巨大津波をイメージできなかったそうだ。彼らの津波のイメージは、チリ地震津波だった。あの時の津波は比較的しずかにやって来た。そのイメージがあるから、いざというときは逃げられると思っていたらしい。しかし違った。津波は巨大な真っ黒い瀑布のように落下して、激流となって襲いかかり、わずか三十分ほどで街を破壊してしまった。】

 洋子もいちど、表へ出てみた。通りのあちこちで多くの人々は不安そうな面持ちで、しかし避難するふうもなく様子を見守っていた。

―だいじょうぶだから逃げないんだ・・・―

 彼女はそう思った。だが、生れてはじめて体験する大地震だったので、津波は来ると思った。でも来ないかも知れない、とも思った。きっとだいじょうぶよ。みんなああして立っているんだもの、きっとだいじょうぶ! 二日前にも津波避難命令が出たが、そのときは大船渡湾で三十センチの波を観測しただけだった。そんな思いも洋子の脳裏で揺れていた。もし来たとしても、そのとき逃げればいいのよ、と心の中でつぶやいた。

 洋子は通りに立つ人々を眺めながらそう決断したのだったが、見られている向こうでも、洋子とまったく同じことを思っていた。つまり誰もが同じ思いの中で、まったく根拠のない恐ろしい安心感を得たのだった。するうちに携帯ラジオの、釜石に三メートルの津波が襲来したアナウンスは、洋子たちの不安を完全に打ち消してしまった。つまり、いくつもの負の要素が重なって多くの犠牲者を出す結果になったのである。こうして大槌町だけで千二百人余の犠牲者が出てしまった。

 その時、洋子は台所で砕け散ったガラスを集めていた。津波が来た、逃げろと一際甲高い声とただならぬ気配の中、台所から飛びだした瞬間、それまで聞いたこともない凄まじい破壊音と同時に一気に二階まで押し上げられた。天井までの僅かな空間で奇跡的に助かったが、居間にいた子供は津波に奪われた。釜石の職場から帰る途中の夫も、車ごと津波に巻き込まれてしまったようだ。みな無事か、いまから帰る。その緊迫の声が最後の言葉になった。

 自分だけ生き残った洋子は、死ぬことばかり考えた。避難所から子供があがった河原へ通う洋子の姿は、亡霊そのものだった。夫は不可抗力としても、子供を死なせたのは自分の責任だと思う痛切な念は、どうすることもできなかった。あの地域の住民が全員犠牲になったのならまだしも、多くの住民は避難して命拾いをしている。殊にも身体に障害をもつ人たちは、地震とともにいちはやく避難している。

―なのに私は・・・―

 自分の力だけでは生きられない幼い命を守る母親として、そうした心がけが常に必要なのに、洋子はいまも母親失格だと自分を責めつづけている。

 河原で毎日手を合わせて泣いている洋子に気づいたのは、隆嗣だった。死の影を感じるほどの洋子の姿は、そっとしておけるような状態ではなかった。声をかけて、はじめて真正面から洋子を見た隆嗣は、自分と同じ四十代の女性と思った。隆嗣は、被災地に入った時、仕事とは別に、何か一つでも被災者たちの役に立ちたいと思った。そう思っていた時、眼の前に現れたのが洋子だった。死の淵で苦しんでいる洋子を助けたい一心の隆嗣の行為は、たちまち社内に広がった。

『いくら純真な気持ちでも、そこは男と女だものね。夫と最愛のこどもを奪われた若い女性と、復興の一端を担う中年男との特異な恋の物語・・・今はやりの年の差婚なんてね』

 そんな冗談を言って笑ったのも、朋美を気遣う結衣の思いやりだった。

『隆嗣さんね、こんなことになるとは思ってもいなかったそうよ。家内にはすまないと深く反省している。離婚なんていちども考えたこともないと言うので、じゃあどうして家へ帰らないのと訊いたら、帰れないのです、と言った。和也君に浮気のことをなじられたんですって』

『エッ・・・!』

 朋美は、心臓が凍りつくほどびっくりした。

『かあさんを泣かせるなって、隆嗣さんに食って掛かったそうよ』

 と、結衣は語った。

『・・・』

 朋美は、かんぜんに言葉を失った。知っていたことにも驚いたが、父に一度も逆らったことのない和也が父親を非難したとは、どうにも信じがたいことだった。

『それ以来、隆嗣さんは深い関係はやめたんですって。ほんとは完全に手を切りたいらしいけど、そうもいかないと悩んでいる』

『相手の女性が別れを拒んでいるの?』

『そうじゃなくて、洋子さんの心の深い傷はまだぜんぜん癒えず、ともすると泣きながら死にたいと口走るんだって。時間が解決するような生易しいものじゃないのね。時とともに辛さが増すのは、被災者の特徴らしい』

『じゃあ、一生面倒みなければならないの?』

 夫のことだから、被災地の仕事が終了して花巻に引きあげれば、洋子も呼んでアパートにでも住まわせかねない。

『いくら何でも、そこまではしないと思うし、洋子さんだってそこまで非常識な女性とは思わない。ただね、洋子さんが隆嗣さんに求めていたのは、ほんとうは恋人ではなくて、父親像らしいのよ』

『彼女がそう言ったわけ?』 

『隆嗣さんが、そのように感じるんだって』

『都合のいい言い訳でしょ』

『ねえトモ。被災地の女性で縋りつくような眼をした女性が多いって話、おぼえている?』

『覚えているわ。結衣と友達になれた同窓会だもの。いろんな意味で忘れられない同窓会だった』

『洋子さんもきっと同じ眼をしているんだと思う。だから私は、隆嗣さんの話はウソじゃないと思う。洋子さん、よく発作的に泣くんだって。そういう時、縋りついてくる彼女は間違いなく恋人ではなくて、父親に甘えている感じがするんだって』

『それで・・・』

 朋美は冷ややかだった。たとえ父親を求めているものだとしても、若い洋子が夫に縋りついて泣く姿は、堪えがたい感覚だった。私だってそんな強烈な甘え方をしたことなど、いちどもないのに・・・。

『いまの彼女ね、三重苦で苦しんでいると思う。子供を救えなかった苦しみ、夫を喪った悲しみ、そして亡くなったとはいえ夫への罪悪感。まだ二年そこそこよ。分かるよね、彼女の気持ち』

『何よ、その言い方。まるで私が冷酷でどうしようもない悪女に聞こえるじゃない。私は被害者なのよ』

『トモ・・・』

 結衣は、深刻な表情で一通の封書を出して、読んでみなさいと言った。七十歳の男性が、被災者の心の傷とはどのようなものかをしたためてくれたものだと言い、結衣にたいするボランティアの礼状でもあった。

【―我がボロ家にも、遠い秋田から軽四輪で二人の若い女性が来てくれます。あなた様はもちろんのこと、ボランティアと聞くだけで感動し、尊敬の念を禁じ得ません。暖衣飽食で心貧しく他人の不幸に無関心になっている昨今、他人の痛みを我が痛みとして奉仕するその尊い無償の愛に心から感謝し、尊敬します。

 我が家から五百メートルほど上流に、主人を流された八十過ぎのおばあさんが、妹さんの家にいるのです。秋田の娘さんは、必ずそこへも寄るのです。家も夫も奪われたとは思えないほど元気でお喋り好きなおばあさんですが、ある日、二人の娘さんはいつものように話していたところ、いきなりワーワーと泣き崩れてしまったそうです。あまりにも烈しい泣き方にどうしていいか分からず、二人の娘さんはただ見守るしかなかったそうです。

 しかし、その話を聞いても私は、まったく驚くことはなかった。同じ心の傷で苦しんでいる者として、その号泣こそは、いまおかれている現実の正常な姿であることを知っていたからです。みな泣きたいけれど泣けない辛さを抱えています。忘れようとしても忘れられない悲しみと悔しさを堪えています。すべてを吐き出せ。思いのたけ叫べ。胸に鬱屈するすべてをありのままに思いきり吐き出せと、私は常々思っていましたから、なにか悪いことを言ったのでしょうかと気にしている二人の娘さんに、とんでもない、あなた方はとてもいいことをしたんですよとお礼を述べ、今頃おばあさんの胸はかなり解放されているだろうと語りました。

 私は連夜、涙なしではテレビを観られなくなっています。その気なら普通の生活を楽しんでいられるあなた方の、懸命に努力している姿。その豊かな感性と愛情に涙が止まりません。タレントや大物歌手たちの熱唱。その激励に胸がふるえます。被災者たちはみな感激して、感涙に咽ぶ。そうした感動的な光景が連日、混沌とする各地の避難所で繰り広げられています。

 そして一様にタレントや歌手たちは、被災者たちがこんなに元気だとは思わなかった。その強さに驚いた。励ますつもりが逆に励まされ、勇気を頂いた云々と引き揚げていくのですが、そのたびに私は、それは違いますよ・・・と、独りつぶやくのです。元気な被災者などいません。さりとて意識的に元気ぶっているわけでもありません。喜怒哀楽の感情が極端になっているだけなのです。但し、怒の感情だけは機能停止状態で、津波にたいする怒りや憎しみの感情は湧いてきません。怒という負のエネルギーは、かくも凄まじいエネルギーを必要とするからでしょう。日本ではこのような大惨事でも暴動は起こりませんが、大和民族特有のものでしょうかね。

 ともあれ、ボールは高い位置から落とすほど跳ね上がる高さも当然、高くなりますね。これとおなじ現象が、傷ついた心の中で起こっているのです。被災者たちがみせる烈しい涙も感動も深く傷ついた心の反動であり、傷が深ければ深いほどおばあさんのような手のつけられない号泣となって迸るのです。

 それにしても、人生はこんなにも残酷で、人生はこんなにも脆く、人生がこんなにも儚いものなら、どこに懸命に生きる価値があるでしょう。私は極貧のなかで信仰を杖にして、道だけは踏み外すまいと生きて来ました。それもこれも神がいて仏がいて、すべてを律していることを信じればこそでした。それがいま、人生とは何ぞやの命題さえも奪い去り、崩してしまった。私は死に様は生き様、つまり、生き方は死に方を決めると信じてきました。ですが、垢にまみれたわたしら老人ならまだしも、いたいけな子らにどのような罪があるというのでしょう。私みたいな役立たずの老いぼれが生きて、多くの幼子たちが死にました。こんな酷いことってあるでしょうか。でも、これがこの星の現実です。こんなにも人生は気まぐれでどこにも神はいないものなら、いっそのこと勝手気ままに生きるがよかろうと、時折、胸を揺さぶるのです。

 でもご安心ください。話し相手を求めている独居老人の愚痴でございます。じつはお願いですが、先日ご一緒に来られた静岡の斉田様のご住所か電話番号を知りたいのですが―】

 朋美は読み終えた。まだつづいているらしいが、後半はなかった。たしかに被災者にしか書けない心の傷が記されている。結衣は洋子もおなじ傷で苦しむ被災者ということを教えたかったのである。

『彼女に同情しろということね』

 朋美は冷ややかだった。

『そんなこと言わないわよ』

『じゃあ、どうして読ませたの。結衣は彼女の味方になったんじゃないの』

 洋子をさん付けで呼ぶ結衣に不快感を募らせていた朋美だった。

『馬鹿なことをいわないで。私はトモの味方よ、親友よ。洋子さんは、男の愛を求めて隆嗣さんに縋りついたわけじゃないことを知ってほしかっただけよ。隆嗣さんはそれを見抜いているから、手を切りたいと思いながら、出来ないでいる。隆嗣さんは優しいゆえに苦しんでいるのよ。だから洋子さんは洋子さんとして、隆嗣さんは帰るべきところへ帰って来たじゃない』

『つまり、なに・・・』

『えっ、何を言いたいの』

 結衣は、まだすっきりしない朋美の顔を覗きこんだ。

『つまり、夫は彼女専属のボランティアと思いなさいと言いたいわけ?』

『そこまでは言えないわ。でも、みな泣きたいのに泣けないでいる中で、彼女はいつでも思いきり泣けるんですものね。その点ではしあわせね。いえ、しあわせなんかじゃない。泣くことでしか前へ進めないかも知れないなんて、残酷すぎる』

『何言ってるの。残酷なのは私の方よ!』

 縋りついて泣く相手など、いまの朋美にはいなかった。

ていりをしるだけだった。朋美自身も夫の浮気騒動で日常喪失の体験をした。その時は被災者の語る喪失と     

                 七、被災地へ


 和也の病院通いがはじまって十日経った。通い始めて五日目ぐらいから、出かける時間が早くなっていた。医院まで自転車で十二三分だから、何処かに寄っているのだろうと思うが、何も訊かずにじっと堪えている。朝はおはようと挨拶し、出かけるときは行ってらっしゃいと送り出す。帰ってくればお帰りと声をかけながら、どうだったと短く訊ねる。和也は、ああ、とか、何ともないというだけで、その煮え切らない態度は、常に不安が先行する朋美には耐えがたいものだった。そこでかなり迷った末に、坂田医院へ行くことに決めた。

 意を決するとすぐにも飛んでゆきたい気持ちを鎮めながら薄化粧をして、十時過ぎに家を出た。知らない医院ならともかく、坂田先生には長いこと世話になって来た。挨拶すべきが筋だろうし、和也がどういう状態か知りたかった。

 駐車場は医院の裏手にあり、いちど医院の前を素通りしなければならなかった。前を通りかかったその時、朋美は意外な光景をみて思わずブレーキペダルを踏もうとしたが、後続車に押されるように角を曲がった。たしかに和也だ。それも老婆らしい人影の車椅子を押していて、和也のほかにもう一人、車椅子を気遣うような女の子がいた。

―何をしているのかしら。それに、もう一人の女の子は・・・―

 車を置いて医院の玄関に立ったが、和也はみあたらなかった。人違いかしらと、朋美は首を傾げながら入り、受付で保険証をだした。すると同年輩の顔見知りの女性は、頼みもしないのに院長先生を連れて来た。

「やあ、おかあさん、いつもせわになっています」

 と、挨拶するまえに逆に礼を言われて、

「・・・」

 朋美は、呆然と医師をみつめてしまった。

「どこかお悪いのですか」

 と、訊かれる。

「わるいというわけでもないのですが・・・」

「和也君のことでしょ。私もお話したいことがあるので、申し訳ありませんが、午後三時頃、もういちどご足労ねがえませんか。ご覧の通りでして」

 老医師は頭を下げる。待合室では多くの患者が待っている。

 一旦、家に帰った朋美は落ち着かなかった。話したいことがあるというのだから、朋美の知らない何かを知っているということだろう。それが良いことか悪いことかわからないので一層、胸騒ぎがする。車椅子を押す少年を和也だと思ったが、和也がそのようなことをするはずはないから、やはり見間違いだろう。何よりも、同じ年頃の少女がそれを裏付けている。

 和也は、いつも通り昼に帰って来て食卓に着いた。朋美もいつも通り、お帰りと言っただけだった。病院にはいなかった。何処で何をしていたのかわからないが、それ以上の言葉は慎む。よけいな言葉は控えている。

―あなた、車椅子を押してなかった―

 しかも女の子といっしょに、と喉元で疼いている。

 だが、無言で食べている和也の横顔は、母のよけいな言葉を拒否している。食べ終わるとさっさと二階へ駆け上がった。後は夕食まで閉じこもっている。

―やはりちがうな・・・―

 医院に行くまで、そんなことばかり考えて時間が過ぎた。


 朋美は、老医師の診察を受けた後、裏庭の木陰のベンチに招かれた。ここなら若先生や看護師たちに気兼ねせずに話ができる。そういう配慮が朋美にもわかった。若い女性がアイスコーヒーを運んで来て、ちいさなテーブルに置いて行った。

「何もかも聞きました。たいへん辛い思いをしてきましたね。でも、おかあさんはまだ若い。しっかりと食べること、軽い運動をすること、そしてぐっすり眠ることです。心配いりません。じきに回復します」

 老医師は、おだやかな笑みをたたえながら朋美をねぎらう。

「あの・・・和也がどのようなことを話したんでしょう」

 不安に揺れる朋美である。

「ですから、何もかもです」

 老医師の表情は終始おだやかだった。

「いじめや不登校のことですか・・・」

 そうかも知れないが、何もかもというのだから夫の浮気のことも喋ったのかもしれない。今日まで和也は親にはもちろん、教師にさえ口を開かなかった。病気の時に会うだけの患者と医師の関係でしかない老医師に洗いざらい打ち明けたとは、俄かには信じがたかった。

「私のほうからあれこれ詮索したことはございません。和也君は話せる相手を求めてここへ来たのです。それはすぐわかりました。一目で、抱えている悩み事はかなり重症だと判断しました。なにしろ、和也君とは生まれた時からの付き合いです。いまでは私をおじいちゃんと思っているようです」

「そのような失礼を!」

「失礼なことはありません。孫のような気がして、嬉しいかぎりです。しかも最近もう一人の可愛い孫ができたようで、毎日、わくわくした日々に恵まれています」

「あの・・・」

 朋美は、仰っていることがぜんぜん分かりませんと、小首をかしげて見せた。

「おかあさんとは、いまも口を利かないのですか」

「以前ほどではありませんが、でも、こちらでどのような治療を受けているのかも、まったくわからない有様で・・・」

 無能な母親を曝け出す恥ずかしさで、すみませんと頭を下げた。

「さようですか。私のほうから連絡すべきだったのでしようが、しかし、男の約束でついつい」

 と、老医師は頭をかく仕草をする。

「男の約束ですか?」

 どのような約束をしたというのだろう。

「あれは三日目でしたか、どこそこが痛い苦しいと訴えながら、異常は見当たらない。そこで、私をおじいちゃんだと思ってほんとうのことを言ってごらん。何でも聞いてあげるよと言いますと、家には内緒だよ、男の約束だからね、と釘を刺されました。

 いじめは六年生の時にはじまったというから、それ以来ひとりで苦しんでいたわけです。いたいけな少年がだれにも言えずに堪え忍ぶなんて、大人が想像もできないほどの地獄だったはずです。その限界が不登校の形で現れた」

「そのようなことまで言ったのですか」

 母親の自分には一言も言わないのにと、朋美は嫉妬に近い感情にゆれる。

「今の子供たちは発達がはやくて、肉体的にはりっぱな男性です。でも、心はまだまだいたいけな少年のままで、親に甘えたい年頃です。しかし甘えられない。男としてのプライドと意地がある。ましていじめられているから助けてくれなんて、自分の弱さを曝け出すようなことは言えません。その狭間で葛藤する。

 でもおかあさん、もう安心してもいい時期だと思いますよ。きっと和也君はだいじょうぶです。そう思ったから、おかあさんに話す気になったし、和也君も怒りはしないでしょう」

「ほんとですか!」

「ええ。あの日はたしか、私と男同士の約束をした日でしたな・・・」

 治療を終えた車椅子のおばあちゃんが、迎えに来るはずの娘さんが急用で来られなくなった。それを知った和也は、家まで送ってやった。近所だから、少年にとってはたいした距離ではない。老婆も和也同様、他人の愛情に飢えていたのだろうか、少年の行為にいたく感激した老婆は、なんて優しい良い子でしょう。ほんとうに助かりました。有難うございますと老婆は、手を合わせて感謝した。このみじかい言葉が、少年の固く閉じた心の扉を解放したのだった。頬を染めて医院に戻った和也は、

「じいちゃん、ぼくにも人に喜んでもらえることができるんだ。生きている価値があるんだ! そう叫んだときの彼の顔には、歓喜が溢れていました。彼はまだいじめのすべてを話してはいないのですが、このことからも彼がどんな酷いいじめを受けてきたか、およそわかろうというものです。いじめの定番、おまえなど生きている価値がないから死ね、と言われつづけていたのではないですか。言ってる当人はたとえあそびであれ、軽い冗談でも、死という言葉の意味は変わりません。良い言葉も悪い言葉も、言葉自体に強い力が宿っています。だから言葉は慎重に選ばないと怖いのです」

「たぶん、そうでしょう・・・」

 朋美も思いだした。メモ帳を持っていないので日にちは分からないが、居間でとつぜん和也は、オレが死ねばいいと思ってるんだろ! 死んでやるよ、と異常な興奮状態に陥ったことがある。そのときは何処から死という忌まわしい言葉が出てくるのかとふるえたが、その背景はやはりいじめだった。

「おばあちゃんに感謝された和也君は、それ以来、おばあちゃんの送り迎えを引き受けました。それから少しずつ、傷ついて汚れた古い皮を脱ぎ捨てるように成長しています。そのように私には、見えます」

 和也は、歩行困難者や老人を見つけては積極的に手を差し伸べ、そればかりか、朝早く来て玄関や医院の周りを掃除するようになっている。

「と言うわけでして、看護師のひとりが育児休暇中の医院にとっては、アルバイト代を考えたほどです。が、彼が欲しているのはお金じゃないので、いずれ何かの形で報いてやりたいと思います。それにまた一人、かわいいお嬢ちゃんが加わりましてね・・・」

「先生・・・! そのお嬢ちゃんって、もしかして彩夏ちゃんじゃないですか」

「はい。よくご存じで」

「いえね、午前中うかがった時、車椅子を押す和也に似た少年と少女をちらっとみかけたものですから。でも、まさか和也が車椅子を押すとは考えられなかったので、人違いと思っていました。そうでしたか・・・」

 意外な話の展開は、めまいがするような衝撃だった。

「メールの話も聞きました。これはなかなか現代的で良い作戦ですよ」

 メールの話を聞いた彩夏も加わり、やがてふたりのメールのやり取りがはじまったというのだった。

「ちょっとの間に、いろいろなことがあったんですね。それなのに私だけが蚊帳の外だった」

 朋美は、茫漠とした気分に襲われた。いま聞いた事実を反芻し、吟味するような余裕はなかった。

「そのようなことはありませんよ。男だから口にこそ出しませんが、おかあさんへの思いはだれよりもつよいことはまちがいありません」

「何か言ってました、あの子」

「毎日、手紙を書いてるそうですね」

「手紙といっても、メモのようなものですけど」

「ですが、母の愛情にあふれているから、その真心が伝わるんです」

「そうでしょうか。いちども返事をもらったことがないし、伝わっているかどうかもわかりません。何を考えているのやら、まるでわかりません、私には・・・」

「じゅうぶんにおかあさんの思いは伝わっていますよ。伝わっているどころか、どんなにか和也君の励みになっていることか」

「まさか・・・」

 と、朋美はつぶやくように言った。破いたり捨てたりしないことに望みを託して書いているだけで、和也の琴線をふるわすことなど想像もしていなかった。だが老医師は言った。

「毎日ババアからのラブレターなんて、オレぐらいなもんだよじいちゃんって、大口開けて笑っていました。それが彼の最大級の喜びの表現です。照れくさいのです」

「先生のことを、ほんとうにじいちゃんと呼んでいるのですか。それにあの子が大口開けて笑うなんて・・・」

 想像もできなかった。

「私のほうから、じいちゃんと呼んでくれとお願いしました。最初は重い扉を開くための方便でしたが、いまは正直、じいちゃんと呼ばれることが生きがいになっています」

「彩夏ちゃんも、おなじように呼んでいるのですか」

「そうですよ。ふたりとも仲間ですから。ただ、彩夏ちゃんの場合はおじいちゃんですけどね。ふたりは幼なじみというから、おかあさんも会っているんでしょ」

「会うも何も」

 朋美は、いじめを教えてくれたあの日のことを話した。

「なるほど、なるほど・・・」

 老医師は、納得したようすで大きく頷きながら、「ご主人も毎週帰っておられるようで、何よりです」

 と、頷いた。

「・・・!」

 そこまで喋る必要はないのにと、朋美の顔が赤く染まった。家では笑うどころか真面な口も利かないくせにあのお喋りがと、正直、怒りさえわいてきた。

「おかあさんは、だれにとってもなくてはならない存在です。健康増進に励んで下さい。病は気からと申すように、心労はいちばん怖い。風邪は万病の元とはむかしから言われてきましたが、いまはストレスこそ万病の元です。私らの若い頃は食べること、食べられることが何よりの幸せであり、考えてみれば実にシンプルな幸せでした。が、物が溢れる豊かな生活と激しい競争社会のなかで価値観は多様化して、幸福の度合いも種類も変化しています。何がほんとうの幸せかを見失い、子供から老人まで総ストレス社会になりました。それもこれも人間の果てを知らぬ物欲のせいです。すべてほどほどがいいのです。だからお釈迦さまは、中道をお説きになりました。

 おかあさん、ストレスをためないようにするには、仕事であれ運動であれ身体をうごかすことがいちばんです。まだお若いのですから、だいじょうぶ。人生はこれからです」

 意識的なものかどうか、老医師は朋美の若さを強調した。


 猛暑つづきで、今年もまた熱中症患者がテレビを賑わしている。うちわと扇風機しかなかった時代でもこんなに簡単にバタバタ倒れるようなことはなかったと、近所のおじいちゃんが言っていた。朋美が部活で汗を噴いていた頃はまだ水は厳しく制限されていたが、それでもいまのように倒れる者はほとんどなかった。温暖化の影響は否定しえないにしても、バタバタ倒れる熱中症の原因はほかにもあるのではないかと、朋美は、雑草を抜きながら汗を拭く。

 陽にやけて色褪せた大空に夏雲が沸き立ち、ときおり蝉の声が聞こえてくる。ふと温暖化のことを考えたりセミの声に耳を傾けるのも、心の余裕のあらわれだろう。数日前、はじめて蝉の声を聞いたときは、まだこの辺にも蝉がいるのかと耳を疑ったほど、蝉の声も知らずに過ごしてきた朋美だった。

 夏休みも半ばになっているが、家の中の和也にはめだった変化はなかった。声をかければ応じてくれるが、ほとんど飯を食って寝るだけである。部屋にこもって何をしているのかも依然として不明だった。夏休み恒例のプール通いも忘れたようだ。他人に甘えてどうして母には甘えられないのかと朋美はジレンマに陥り、老医師の言葉に疑問がわいたりする。傷ついて汚れた古い皮を脱ぎ捨てた和也は、劇的な変化をみせていると老医師は語った。高齢者の世話をし、医院の掃除をする行為はたしかに劇的な変化である。だが、家にいる和也にかぎっては、もろ手を挙げて喜べるような変化は何ひとつなかった。そのうえ、坂田医師に挨拶に行って来た夫までが、前にもまして静観の構えである。

「このままでいいの・・・?」

 苛々が募って訊いても、

「焦るな。先生を信じよう」

 と、坂田医師に任せ切ったかのようで、それがまた朋美を苛々させる。

 結衣に電話すると、苛々しちゃダメだと叱られた。

「和也君の立場になって考えたら、自ずと答が出るんじゃないの。ご主人が酒で気まずさをうすめているように、和也君も気まずさのジレンマに陥っているんじゃないかしら。トモはいま、いきなり射しこんできた光に舞い上がって、この機を逃したら二度目はないと思って焦っている。二年でも三年でも待つときめたあの覚悟はどこへいったの。隆嗣さんの言う通り、坂田先生に任せなさい。あなたは気づいても気づかないふりをして、これまで通りの母親でいなさい。和也君はもう、幼児ではないのよ。他者に甘えられても、親には気恥ずかしくて甘えられない。そういう年頃でしょ。しかもいままで口を利かずに反発してきたんだもの、車のハンドルじゃあるまいし、急に態度を変えられるわけないわよ。夏休みが終わっても学校へいかなかったら、その時はまた考えることにしようよ」

 結局、結衣にも夫とおなじことを言われてしまった。

 たしかに朋美は焦っているが、誰に何と言われようとこの機を逃したくなかった。暗い穴底から這い上がりつつある和也を一気に引っ張り上げたいと焦る気持ちは、子の親なら当然だと思った。

 そんなある日、河相先生が入院している噂が流れてきた。

―ああ、やはりそうか・・・―

 毎週来ていたのがぱたりと途絶えたので、嫌な予感はしていた。

 学校へ電話で問い合わせると、胃潰瘍だとわかった。胃潰瘍は主にストレスが原因といわれるから、和也と自殺未遂の女子生徒で気を病んだのであろう。病気になるほど気を病むということは、やはり想像していた通りの人間性だったと、朋美は気の毒に思った。

 さっそくお見舞いに行くつもりでいたが、老医師に呼び出された。

 前のように裏庭に通されて、冷たい飲み物が出された。相談したいことがあると言われて一抹の不安を抱えて来た朋美だった。しかし院長さんは、いつもの穏やかな笑みで迎えてくれた。

「その後の様子はどうですか」

 と訊かれて、

「何かみつかったのですか・・・」

 朋美は、先日の受診の結果だと思った。河相先生のことばかり考えていたので、重篤な病気ではないかとみぞおちの辺りに痛みが走った。

「いえ、おかあさんじゃなくて、和也君のことです」

「ああ、そうでしたか。私はまた、てっきり自分のことかと、正直、冷や冷やの思いで来ました」

「いえ、おかあさんはだいじょうぶです。和也君のことです。いまもまだ前の和也君ではないのですか」

「すこしは口を利いてくれるのですが、相変わらずです」

「そうですか。まだ心の整理が出来ていないのでしょうかね。

 で、相談と申しますのは、将来、福祉関係の職に就きたいと言ってるのですが、私には反対も賛成もできる立場ではありませんので、こうしてお呼び立てしたわけです」

「和也が介護士になりたいと言ったんですか!」

「おじいちゃんやおばあちゃんの手伝いをしているうちに、人生の生きがいをみつけたようです。良い介護士になると思いますけどね」

「もちろん、私にも反対する理由などありません。ですが、あまりにも唐突で・・・」

 実際、喜んでいいのかどうか判断できかねた。

「たしかに唐突ではありますが、人は夢がないと前へ進めません。私に相談したのは、スタートの号砲を鳴らしてもらいたかったのです。ボクも介護士になれるかと訊かれたので、なれるけど勉強だけはしっかりやらないとだめだよというと、高校へも行くし、できれば大学も出ておきたいと言いました。もちろん私も、福祉の仕事は介護士だけではないということも語りました。急いで答を出す必要はありませんが、目的意識は必要です」

「まあ・・・! そこまで考えているのなら、どうして私たちにも言ってくれないのかしら。反対されるとでも思っているのかしら」

「いえいえ、おかあさん。私からおかあさんに言ってほしいだけなのです。もうすこしそっと見守ってあげましょう。長いこと殻に閉じこもっていたのですから、無理もありません。きっかけさえあれば、元に戻るでしょう」

「その逆もないとは限りませんでしょ、先生」

 これは朋美にとって深刻な質問だった。だからこそ、強引に引き上げたいと思いながら、触れれば壊れるシャボン玉のように神経をすり減らしているのである。

「心の傷は複雑ですから、ないとは断言できません。ですが、そう深刻にならないで下さい。子は親の心模様に敏感に反応するものです。母と子は眼に見えぬ糸で繋がっていて、母が心を痛めれば子の心も痛む。金子みすゞにこんな詩があります。

   

   昼のお星はめにみえぬ

   みえぬけれどもあるんだよ

   みえぬものでもあるんだよ

 

 最後の一行、眼に見えぬ存在を言いたかったのでしょうね。彼女もそうですが、ひとは過酷な試練の中で眼にみえぬ世界を感じるものです。平凡な私なども、この歳になると見える世界よりもみえぬ世界にひかれます。

 だいじょうぶですよ、おかあさん。和也君を信じて待ちましょう」

 と、老医師は結んだ。

 

 それなのに、夏休みが残り少なくなっても、和也の態度に変化はなかった。ジリジリ照りつける真夏の太陽のように、朋美の胸中もジリジリと焦りが募る。

―ほんとうかしら・・・―

 と、また疑念が増す。

 朋美は、老医師の言葉を反芻しては、胸を焦していた。福祉の仕事がしたいとか、できるなら大学へも行きたいなんて、もし老医師の言葉がほんとうなら、和也が嘘をついているとしか思えなかった。学校へ行くつもりなら、そろそろ勉強してもよさそうなのに、そんな気配など微塵もなく、相変わらず帰って来ると部屋に閉じこもったままだった。いったい何を考えているのだろう。そっと覗いてみたいが、それもできない。

「ねえ、院長さんの言ったこと、ほんとうかしら」

 土曜日に帰ってきた夫に訊ねた。

「嘘をつくわけないだろ」

 ビールを呷る隆嗣の顔は、陽にやけて赤く染まっている。

「そうじゃなくて、和也が先生に嘘を言ったんじゃないかと、そういう気がしてならないんです」

「何のために?」

「わからないけど、先生へのご機嫌取りじゃないかしら」

「先生の機嫌とって、和也にどんなメリットがある? 少しは和也を信じてやれよ」

「わたしだって信じたいわよ。でも、学校へ行くような様子なんてこれっぽちもないのよ。閉じこもって何をしているのか、あなた様子を見て来てくれませんか」

 苛立ちをぶつける朋美の姿は、久しぶりにみせる妻の顔だった。

「ああ、わかった。そのうちにな・・・」

 隆嗣は、煩わしそうにこたえて、「学校が始まっても同じなら、その時は、坂田先生に相談しよう。河相先生はもう、無理なんだろ」

「ええ。まだ教師を辞めるかどうか迷っていて、見ているだけでこっちが辛くなるくらい憔悴しているんです」

 朋美は、先日お見舞いに行って来た。和也を連れていくつもりで声をかけたが、オレはいかねえよと、軽くあしらわれてしまった。

 河相教師は、相変わらず和也に申し訳なかったと謝りながら、夏休み中に退院できるかどうかまだわからないと語り、学校へ戻るかどうかさえ未だ踏ん切りがつかない様子だった。塾の講師も選択肢の一つになっていると聞いて、朋美も講師の方がいいと思った。先生には教師の重責を担う力はないと思うし、理想だけでは教職は務まらないことを今回の件で教えられた。

「リストカットで運ばれた女子生徒もおなじ病院なのか」

「そうなの。同じ病院なんだけど、幸い発見が早くて、先生が入院した時はもう、退院してた。もし女子生徒が亡くなっていたら、きっと先生も後を追っていたかもしれないと思う。

 私ね、痩せた河相先生を見ながらつくづくと、静かな山の分校があったらと思った。そういうところで教鞭をとるのが先生の理想教育なんだって」

「二十四の瞳か。単なるロマンチストじゃないのか」

「そんな風に言わないで、先生かわいそうじゃない」

「おまえ、河相先生が好きなのか。もちろん、教師としてだ。もし河相先生じゃなくて、他の誰かだったら、和也をこうまで追い込むことはなかったんじゃないのか。言ってみれば、和也は犠牲者であろう」

「たしかに教師としては不満はあるけど、人間的にはそれほど嫌いじゃない。先生は先生なりに精いっぱい努力したと思うし、だからこそ、ああして毎週やって来たじゃない。先生は荒波を乗り越える競争社会には向いていないのよ」

「いまどき競争社会のない職種なんてあるわけないだろ。男というものは・・・」

「そうじゃなくって」

 と朋美は、教師の悪口に耐えられない思いで遮り、「点取り合戦の教育ではなくて、だれもが楽しく学べる教育こそ必要であり、ほんとうのゆとり教育とは時間的なゆとりではなくて心のゆとりだと仰ってた。学ぶ楽しさ、私も絶対そうあるべきだと思う。難問、奇問で生徒を苦しめるより、基礎をしっかりと教える。基礎さえ身についていれば、向上心の発露とともに自然に学力もあがる。そんな風に仰ってた。時間の有効な使い方は大人だって難しいのに、まして遊び盛りの子供たちに休日だけ増やしても、勉強どころか遊びに耽るだけです」

 いまになって朋美は、河相教師からいろんな話を聞いていたことに気づく。和也の部屋の前でいつもの謝罪をおえて居間に戻り、そう長くはないが、お茶を飲みながら話した。当時は和也のことばかり気になって殆ど上の空だったが、今こうして振り返ってみる時、たしかに良い話もしていた。先生独自の教育理念を持っていたと思う。

「それこそおまえ、夢想家の夢じゃないか。そんなのんびりした教育にしがみ付いていたら、あっという間に落ちこぼれるのが眼に見えている」

 隆嗣の口吻は、間違いなく、軟弱な河相教師を嫌っているものだった。

「いえ。あらゆる面で異常を異常と感じなくなっている時代だからこそ、何かが必要なんです。激しい競争社会だからこそ、理想を実践するためには、むかしのような少人数の分校のような環境が必要なんだと、先生は仰ってた」

「おまえ、先生にすっかり丸め込まれたみたいだな。先生がそれほど立派な教師なら、和也も女子生徒も苦しむことはなかったはずじゃないか」

 隆嗣は、苦々しい思いでビールを傾けながら、いつとはなしに理屈っぽくなった妻に驚いている。

「私は、自分の無智に気づいただけです」

 朋美は、いそいそとビールを注ぎ足す。夫は缶から直接飲むことを嫌う。味が不味いのだそうだ。そうかといって瓶ビールだと冷やすにも嵩張るし、後始末もいろいろと大変なので缶ビールにしている。

「しかし、そこまでむかしのような分校に拘るのなら、いまもないわけじゃないだろ。限界部落や過疎化時代で、山間の学校は次々と閉校になってはいるが、それでもまだまだ残っているんじゃないのか」

「だからって、希望通りにはいかないでしょ。学校も教員も減らされる一方ですもの」 

「いつの間にかおまえ、いっぱしの教育ママになったみたいだな。わるいことではないが、俺は理屈っぽいのは苦手だ。

 話は変わるが、俺もいちど見舞いに行くべきだろうな」

「いえ。それは止めたほうがいい」

 朋美は、即座に反対した。河相教師の性格を知り尽くした朋美の、

相手を気遣う判断だった。

 その時だった。和也が下りて来て、

「被災地へつれてってよ」

 そう言ったのだ。

 あまりにも唐突な言葉に父と母は一瞬、顔を見合わせ、

「何と言った・・・?」

 同時に訊き返していた。

「被災地に行ってみたい」

 和也は、確かにはっきりと、そう言った。

「ああ、いつでもいいぞ」

 父親はニコリともせずにこたえた。

「月曜日に行きたい」

「月曜日か・・・それはまた早いな」

「夏休みが終わらないうちに行きたい」

「そうね。そのほうがいいわね」

 母親の表情は、ニコリともしない父親とは対照的だった。

「いいの、とうさん」

 と、和也は訊く。

「反対するわけないだろ」

 父は眼をつむってビールを呷る。

「友達も一緒だよ。被災地をみたいんだって」

「いいことだな。何人でも連れてってやる。何人だ?」

「一人」

「一人だけか・・・」

 例の三人かと思ったが、そうではないらしい。新しい友達を作ったのかと父は、胸でつぶやきながらビールを傾ける。


 月曜日の出発は朝五時に決めて待っていると、現れたのは彩夏だった。和也は友達の名前を言わなかったので、てっきり男子と思っていた父と母は、ここでも顔を見合わせてしまった。

「彩夏ちゃんだったの!」

「和也君いわなかったのですか」

 彩夏も驚いている。和也は照れくさそうにそっぽを向いている。

「でも、どうしたのそのリュックサック」

 水色のリュックサックは大きく膨らんでいた。

「何かお手伝いしたいと思ってゴム手袋と長靴、それに着替え用の服などを用意してきました」

「そこまで気がまわるとは、感心だね」

「毎日テレビで観てますから」

 そう応える彩夏の表情がいささか不安そうに見えるのは、はじめて被災地へはいる緊張感だった。

「じゃあ和也は、とうさんのを使えばいい。仕事はいくらでもあるから、覚悟しておくんだな」

 まだ遠い山々に朝靄が揺らいでいるなか、和也は父の車に、彩夏は朋美の車に乗り込んで、被災地へむかった。

 ハンドルを握る朋美の胸は、彩夏に訊きたい夥しい質問に震えていた。二人はどのような関係なのか、いや、それより何よりまず先に、被災地へ行くことをどっちが言いだしたのか知りたい。和也が誘ったのか彩夏の気持ちか。

―何よりも和也の本音が知りたい・・・―

 助手席の彩夏の白い横顔を眼の端で捉えながら、朋美の胸は昂ぶるばかりだった。

                          

 完

 

 

 



















  

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