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忌明けの恋

作者: 丹草花

①溶けた瞳、上から視線だけが降ってきた。酷暑。

グロテスクな色をした海水魚たちが泳ぎ回る水槽の中。黄色と黒の縞模様した間抜け顔と、大きな目玉模様をつけた魚が人工的な珊瑚の頭上でゆらゆらすれ違う。よく言えばエキゾチック、有り体に言えば気味が悪い。

まあ僕の見たままの感想。

アクリルガラスに映し出された僕の顔は朝焼けを浴びた遺影のようにぼうっと不明瞭で

薄闇に浮かび上がる自分をじっと見ていた。そこに存在の確かさを疑う。

「かっちゃん、きてきて。クマノミ。クマノミがいるよ。」

嬉々とした声の方向に顔を向けると、階段を上がった先の二階部分にいる明美が手すりに体を押し付けて、青白い背景と同化した表情を僕に向けていた。

「はやく、はやく!ほらみて、すっごいかわいいんだってば。」

「うん。ちょっと待ってて。」

僕がそういい終わるのを待たずして、ぱっと手すりから離れた彼女は駆け足で奥のほうへ消えてしまった。

平日昼間の水族館は、僕と彼女の貸し切り状態だった。だから彼女の声がいくらか響こうともそれはさほど問題にはならない。なんとなく動くのが面倒だから、その場に佇んで水槽の魚を観察しながら、どれが一番酒のつまみになりそうか、などと考えていた。真剣に悩む必要はひとつもないんだけど、割と真面目に考えてみた結果は小エビだった。

「かっちゃん。クマノミ…」

そばで聞こえたその声に一瞬揺らいだのは彼女の薄い小麦色の肌が近づいていたから。僕の首の付け根くらいが背丈の彼女のつむじをまじまじと見る。栗色のやわらかい髪が中心線から生えわたって、そのかすかなヘアコロンの漂白剤のような匂いに僕は落ち着く。

見上げた瞳は憂いて、さんざめきよりも哀愁という言葉がふさわしいほど、黒のコントラストが強かった。

ソバカス、子供のようなスキン。細いバングルでは隠しきれない手首の線。体     にぴったりと張り付いた真っ青なデニムワンピースと大きすぎるシープスキンのブーツ。

それらで構成された彼女はなんというか、とても似合っていた。僕はファッション雑誌なんて読まないんだけど、モデルなんかもいけるんじゃないかな。以前彼女は「実はムートンブーツってサーファー発祥なんだよ」と言ったことがある。それ以来ムートンブーツばかり履いてくるようになった。

そのひとつ前の彼女と、目の前にいる彼女が混ざり合って、構成されたものはやはり不明瞭。

「もうちょっとこっち、見ていたいなあ。」

「上行こうよ、ねえ、1人で見てもつまんない。」

そうやって僕の袖元を引っ張る彼女の爪が肌に触れて、そこからひんやりとした感覚が伝わったが、生命というものは一切感じない。

「分かったって、ちょっとまってて。」

語尾が膨張して、やはりというか彼女は一瞬ひるんだ。その表情に哀愁を漂わせて、ただ下から登ってくる冷気のようなものを纏う。

「ねえ。やっぱり私、死んだほうがいいかな。」

ぼくは答えない。もはやそれは彼女の口癖のようになっていた。それに何を言おうとも、おそらく彼女は死にたいときに死ぬだろうから。

「死にたいの?」

館内の薄暗さ、影と青のコントラスト比。ムードというか演出的というか、ドラマのワンシーンみたいだなあと、昨夜の二時間もののサスペンスのことを考えていた。

しばらくの沈黙が続いた後、彼女は腰のあたりに手を置いて、頭をひねるように「うーん。分からん」という。なんだそれ。

水槽の中に、エイの裏白が見えて神秘的だと思った。水中に侵入した陽の光に照らされて、滑らかな皮膚がより実体を印象づけた。

「…クマノミ。俺も見たいかも。」

一呼吸おいて彼女はえくぼを際立たせ

「うん。かわいいんだよ。」といった。

小走りにはねる彼女の半歩うしろをついていく僕は、スニーカーの先、フロアの低反発と摩擦とを何度も確認しながら、サーファーのことばかり考えていた。


②深夜、コインランドリー。

人間一人は入るくらいの大きさのドラムの中で、僕に着られたカラフルなシャツや、バイト先の制服がくしゃくしゃ回転し続ける。なされるがままの光景に翻弄という言葉を強く感じる。残り時間を知らせる赤の電光表示と壁に掛けられた時計の針を僕の視線がいったりきたり。

忘れ物ボックスに取り残された片方しかない紳士ものの靴下と、真っ赤なブローチ。煌々とした電飾。駐車場の隅に半枯れの紫陽花。梅雨の時期だけどここのコインランドリーは人が少ない。理由は単純にここらの治安が悪いから。漁師町でもあるから、やけにみんな喧嘩早くって、気性が荒い。全ての人が敵に見えるのは、僕がまだ大人になりきれていないからだ。25歳の夏、いまだにくすぶっている地元のスーパーの惣菜担当。値引きはお任せあれ。

ラベリングされた僕の価値をかつての友人たちは低く見積もる。僕はどうやら世間一般的に言う負け組に相当するらしい。変に鬱屈としていて、社交性に欠けている僕だけど、正直なところ本が読めさえすればよいのだ。だから物欲もほとんどないし、労働意欲だってない。世界の広さは、手のひらの中でも十分知ることができるし、死ぬまでに本をどれだけ読めるかが僕の生きる目的だ。

納涼としての短夜や蛍火も、ただただ僕を辟易させるばかりだ。

乾燥機が作業工程を終えるまで時間がいくらかあったから、近場のコンビニで時間でもつぶそうかと、自動ドアの音を響かせて外に出ると、いつのまにか透明な雨がしとしとぱらついていた。車を出すには近すぎて、雨の中歩いていくには中途半端な距離にあるものだから、結局僕は室内に設けられた白いロゴ入りの真っ赤なベンチに座り込んだ。携帯電話も家に置いてきたから、手持無沙汰に車のキーだけを遊ばせてただ時が過ぎるのを傍観していた。ゴオゥンという音だけが、僕の鼓膜をふるわせて、オートマチックな匂いがあたたかな空気をまとって鼻腔に侵入する。閉じた瞳が次第に深くなる。

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それからどのくらいの時間がたっただろうか、ふと目を開けると同時に背後に気配を感じた。本能的な恐ろしさに偏桃体を揺さぶられる感覚、ほぼ反射として後ろを振り返ると、そこにはしめやかな女が佇んでいた。濡れた髪とほつれた靴紐。夏なのに薄いセーターを着ている彼女は、同じ季節にいなかった。

「あ…」

薄く張り付いたかわいた唇から漏らす消えそうな声が、彼女が実体をもっていることを確認する。霊的な存在ではないと安心する。幻覚は精神病の初期症状だとよく聞くからだ。

「雨宿させてもらってます…」

「はあ…。どうぞおかまいなく。」

そう言った僕に対して屈託のないまろやかな崩れ顔にほんのりあたたかいものを感じた。

そのときようやく、室内の静まりに気付く。稼働を続けていた乾燥機の電子表示には小さくEndと浮かび上がっていた。ぼくは洗濯カゴに手をとおし、おもむろに洗濯物をとりだす。そのうち一枚のまだほんのり温かいタオルを取り出して、彼女の前に向かうと「よければどうぞ。」と無表情で差し出した。その青白い手にポンと載せて。

「ありがとう…ございます。」

いまとなっては、なぜそのような親切な行動にでたのかがよく分からないんだけど、それは二人が言葉を交わすきっかけになった。

「散歩でもしてたんですか?」

「はい。日課なんです。」

「そうなんだ。いつもこの時間に?」

「はい。好きなんです、海辺の夜が。」

その一言。彼女は言葉を這わせて、ぐっと近づく。初めて出会ったはずなのに、その声色を知っていた気がする。

「あ、それ少し分かります。磯の匂いとか、月の明るさの具合とか、海と空の曖昧な境界線とか、日によって違うんですよね。手にすくった砂が、さらさらながれるのをただ楽しんだり、山の稜線と灯台の明かりを交互に見たり。あ…」

意味のないことを淡々と話すものだから、彼女はすっかり小動物のようにきょとんとしていた。

よくわからないことを話はじめるのは僕の悪い癖だ。

口元に親指を当てた彼女は、色めいて薄く閉じた眼で少し笑った。

「くくっ。変な人。」

僕は首の付け根から上に熱のようなものが上がってくる感覚におちいった。単純に言うと、顔を赤らめて、逃げてしまいたくなった。

「けど、そういう風に話す人って今まで合ったことなかったなあ。」

「え…」

変な感じがした。そこで僕が思ったのは、この人もちょっとこじらせているんだなということだった。

その後の言葉の交わし合いで、彼女と本の趣味が合うということが分かった。

月と6ペンスのストリックランド、ライ麦畑のアックリー。

僕らの話題は本の中身より、もっぱら人物の心象に焦点を当てたものが多かった。

夜はすっかり深まるけど、コインランドリーはいまだ明るくて、ガラス窓に映るふたりの姿をちらりと見ながら、くすぐったい幸福に包まれる。

こうして表情を崩したのは随分久しぶりで、張り詰めた生活感にひと時のくつろぎをもたらした。


➂彼女の訃報が伝えられた行合の空の下。

バイト帰りの僕はただ、味のしないサンドイッチを食んで、飲み込んで、食んで、飲み込んで。携帯越しの声はいつの間にやら消えて。人生の一区切り。喪失の悲しみに暮れるでもなく、ただただ自転車を押していた。チェーンの回る乾いた音。アスファルトの強烈な匂い。集団で飛び回る羽虫の群れ。歩みを止めた僕はその場であたりを見渡す。

暮れゆく茜空が照り付ける県道沿いの穂芒はたなびいて慌てているし、錆びた道路標識の上に爪を掛けたカラスが首をおかしな方向に向けている。天鵞絨の世界をカラメル色に染め上げた夕日が徐々に低くなって、稜線がはっきりとし始めた。彼女が死をもってしても、美しいものはやはり美しくて、ゆかしいものはゆかしい。視線越しの不変世界は、斜陽としだれ柳と薄明り。ぼくはとぼとぼ歩き続ける、決して同情はしてほしくない。それはきっと強がりなのだろう。鼻をすすった指には、食用油の匂いが残っていた。目を閉じると、ようやく涙がこぼれた。

彼女の部屋には遺書らしきものがあったらしい。らしきというのはそこにはただ一言「死にます。ごめんなさい。」としか書いてなかったから。形式的な遺書というより、ポエムみたいだ。彼女らしいといえば彼女らしいのだが、僕に残す言葉がひとつもなかったのは、少し淡泊としすぎているのではないかな。

「なあ、どうしたもんかな。」

神棚の前に置かれた遺影に向かって、そう呟いても声は返ってこない。そのときようやく彼女がいなくなった事実を強く突きつけられたきがした。

「今日はありがとうな。明美も君に会えて喜んでいると思う。」

机を隔てて向かいに座るごま塩頭の職人のような父親は、さも疎まし気に目つきを僕に向けながら、そう言った。年のころは40手前だろうか、人生を全うに生きてきた空気を纏っている。

「いえ。もう会えないなんて、ただただ寂しいです。」

「そうかそうか。ところで、明美から君は何も聞いていないかな、そのなんていうか、悩みとか。」

そのねばついた口調は、質問しているというより、問いただしているように感じた。お前は何も聞かされてないだろうな、みたいに。

それで僕は確信した。おそらく彼女が死んだのは家族の問題が絡んでいるのだろうと。

彼女は時々、家族との軋轢についてほのめかすことがあった。僕はそれについてあまり聞きたがらないから、彼女も深く話すことはなかったのだが。

だけど今となってはどうでもいいことだった。さほど興味もないし、知ったところで今更なんだというのだ。

「いえ、特には。ただ、なんとなく死にたいっていうのは口癖みたいになってましたね。」

あくまでトーンは落として、猜疑心を隠すように、言葉をビニールテープで貼り付けた。

「そうかあ。辛かったんだなあ。」

演技めいていて、なんとなくもったいないなあと言っているようにも聞こえた。 

「それじゃちょっと俺は出てくるけど、君はまだいてくれてもいいんだ。家内にお茶でも出させるよ。」

そう言って胡坐を崩して立ち上がった彼にむかって、申し訳程度のお悔みを述べる。

「お気遣いありがとうございます。そうさせていただきます。このたびは本当にお悔み申し上げます。」

襖をあけて滑り込ませた足裏に穴を見つけて、なぜか恥ずかしくなった。

仏壇の焼香の香りはどこか懐かしくて、祖母の着物のような匂いがした。


しばらく彼女の遺影をじっと見ながら、いつか見た水族館での自分の顔を思い出していた。

僕も死んだらこうして一枚の絵として残り続けるのだろうか。それはそれで悪い気はしない。遺影の彼女は笑っている。

そのとき襖があいて、誰かがそっと入ってきた。その顔を見た瞬間、僕は不思議な感覚に包まれた。朝靄の向こうに煌々とした車のライトを認めたときのような、はっとなる感覚。

その人は色を纏っている。生白い腕も、小さな瓜実顔も、きつく結んだ艶のある髪の毛さえ知っている。

目の前に差し出された羊羹は彼女の瞳の色。茶の匂いは、情事の味。

「明美の母です。はじめまして、勝広君。明美と仲良くしてくれてありがとうね。」


僕はおそらく、忌明けに彼女に再開することになるだろう。

少し大人になった彼女に。


この際どこまでも堕ちてやろう。


そうやって作った笑顔は、どこか脂下がる。


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