黒い糸
家が揺れ始める。静寂の中、不意にその異変が自分の住む部屋に訪れた。
微小な刻みを伝えるその揺れは次第に大きなものとなっていく。寝台に寝転がる僕はじっと瞼を閉じたままでいる。ぐらぐらと揺さぶられる感覚に身を任せて、泰然と時が過ぎるのを待っていた。
地の揺動に合わせて、四方の壁が呻くように軋む。やがてボールが弾みを無くしていくように、揺れは段々と小さなものとなっていく。同様の変化は以前からもここで起こっていた。幾度となく繰り返すこの経験を、僕は慣れという表現で片付けた。そのうちに異変は収まるものだ。そう心配するようなことではない。そんな風なことを、以前通っていた学校の教師が言っていたことを思い出す。
閉ざしていた瞼を持ち上げ、ぼんやりと部屋を見渡す。灰色の電灯が弱々しく照らす空間に、何事もなかったかのように時を止めた家具たちが平然と陳列していた。その背中にぴったりと付く壁の上方に目を向ける。すると、まっさらな白色の壁紙の前に、一本の黒いコードのようなものが僕の視線の先を走った。
電池が切れたような部屋で、振動の尾を引くようにぶらぶらと揺れる。それは緩やかな半円を描いて、壁から対面の壁まで渡していた。天井を交差する黒い線は僕の視界を何本も横切り、互いに共振するように時を動かしている。絡みつくように領分を支配するそれは僕にとっては不快なもののように思えた。しかし、それも慣れという言葉によって片付けられた。
部屋の黒い電線は全部で五本だけ渡してある。僕の部屋に突如として現れたそれは、僕の父親によって取り付けられた物だった。
一体何の役に立つのかと尋ねれば、「人類の進歩に必要な過程だ」と言って父は語調を荒げた。未知への興奮と価値を解ってもらえない苛立ちを、父はまだ物分りの悪い男児にぶつけたのだ。父親は学識のある人材だったと聞いているけれど、どこか利己的な幼児性を持った人物だったと僕は記憶している。それでもその頃、僕は父のことが好きだった。
結局、この黒い縒り糸が何のために取り付けられたのかという事を父親の口から聞くことはなかった。聞く前に父は死んだ。
僕は寝台から起き上がり、依然として揺れ続ける電線を尻目に部屋のドアの前に立った。揺れはそう大きくはなかったものの、一階にいる母親の身が心配だった。部屋を出て階段を下りて行き、母の居る一階のリビングへ向かう。
薄暗い廊下を進んでいくにつれ、地を這う黒いコードが一本一本と本数を増やしていく。廊下の隅に溜まる蛇は所々で離散し、また追随するのを繰り返した。天井から吊るされた電線は蛍光灯の光を遮りながらつるを垂らし、一室の開け放たれたドアの向こう側へと伸びて行った。切り取られたような明かりが四角い入り口を示している。そこに近づいていけばいくほど、賑やかな笑い声がスピーカーを通して聞こえてきていた。
その部屋に足を踏み入れると、床と天井を埋めるたくさんの電線が視野の中に飛び込んでくる。同時に、母親の後姿が目に入ってきた。楽しげな音声と共に流れる映像を見つめて、小さな箱の世界に身を投じている。先程の揺れに気づきもしていないような様子で、ソファーにもたれさせた背を自ら震わせている。その背中からぱりぱりと堅い物をかじる音が聞こえた時、僕は小さく息をついた。
足元に広がる電線を避けながら、僕は母親に近づいていった。すると、不意に母親の顔が振り返る。そこにはいつもと変わらぬ母の顔が、口に煎餅を咥えたまま、きょとんと僕のいる空間を見つめるのだった。
しかし、その顔を見た僕はぎょっとして、思わずじっと母の顔を凝視してしまった。僕のよく知る母の顔に見慣れない異物――僕の一番恐れていた、その物体。
母は常人とはかけ離れた顔で、黄ばんだ歯を前面に押し出した。
「あら、たかし。お母さん、やっぱり病気だったよ。お父さんとおんなじね。最近増えてるからねぇ、お買物に行っても、これしょってる人があまり気にならなくなってきたよ」
――経鼻チューブを付け、歪んだ頬に笑みが這う。
母は鈍色に光るボンベを腕に抱き、チューブに繋がったそれを僕に見せるように持ち上げる。
「これね、ちょっと重いのよ。でも仕方ないのよね。もう、これ無しでは生活出来ないわぁ」
母は虚ろに遠くを見つめた。僕の背中の向こうを見つめる母は、まるで僕に言っているかのように虚空に向かって話しかける。奇怪に口元を伸ばした顔にはへらへらと鼻唇溝を彫り刻んでいた。経鼻チューブと繋がったままで。
僕が絶句したままでいると、母親の顔からすっと笑みが消え、ぷいと目の前を横切って席を外した。無言の母に言葉をかけることすら出来ず、立ち尽くす僕の後ろでごとりとボンベが引きずられる音が聞こえてくる。僕は半分意識を放り出したような心持で、立ち去った背中の代わりに現れたテレビの画面を呆然と眺めていた。
はしゃいでいた子供たちの姿は消え、代わりに真面目を装った紳士たちが画面を占拠する。映像の中には、チューブを顔に巡らせ、重いボンベを背負い、不気味な笑顔を浮かべる芸能人は一人も出てはこない。病気になった芸能人は出演しなくなっていた。彼らは永遠に表舞台に立つことを断絶させられた。そうせざるを得なかったのだ。
とは言っても、全ては噂にしか過ぎない。そんなことは誰々を見かけなくなったとかいう曖昧な噂でしか知り得ないことだ。しかし、僕はその噂が真実であることを知っている。
僕の後ろで、ひたひたと裸足で廊下を歩く音が聞こえた。振り返ると、僕の母親が大きな鈍色の容器を抱え、玄関の鍵を開けている姿が遠くに確認出来た。どこかに出掛けるのだろうか。
「ひろきぃ、お母さん、これからお夕飯の買物に行くからぁ」
母は思い立ったように僕の佇むリビングに向かって叫んだ。「じゃあね、お父さんと留守番よろしくね、まさと」と、遠のいていく母の声と、それをかき消すかのように扉の閉まる音が続いた。
淡々と喋るニュースキャスターの声だけが部屋に響く。ふと、側のテーブルの上に目を遣ると、口が開いたままの鞄から母の私物が覗いているのに気づいた。その中に母の使っている長財布を見つけた時は、僕は目眩がするような思いだった。
財布のことは深く考えないようにして、雑然とコードの絡みつく床の隙間を縫って台所に寄った。最近では母親もここに立つことが少なくなった場所。一段と多く吊るされた電線をかき分けて、流しに放置されていたその凶器を手にする。そっと手に掴んだ時、ところどころに錆ついたそれは、黒く束ねられた一群の中に時折鋭い光を反射させた。
そうして、僕はリビングを後にした。再び暗く狭い通路へと歩を進ませる。今後、自分がどのような行動を取るのかを僕は心に決めていた。
粘り気のある空気を吸い込んで、漆黒の中に視線を落とす。僕はまっすぐに行先を定めた。この家の、ずっと奥深くにある一室へと。
僕に物心が付くか付かないかの頃、父親が大量の長いコードを腕一杯に抱えて帰ってきた日があった。その表情は嬉々として、見るからに異様な雰囲気を醸しているその黒い塊に対しても、父の態度が変わることは一向になかった。むしろ、“それ”自体に何らかの愛着のようなものがあったのかもしれない。あのおかしな電線を縒って家中に張り巡らした時も、僕に断りなく勝手に部屋の壁に穴を開けられ電線を通した時も、父はどこか充実したような面持ちで腕を組んで見つめているばかりだった。まるで価値のないがらくたを宝物だと言って憚らず、家に持ち帰る子供のように。……家にがらくたを持ち帰る子供、それだけだったらまだ良かった。それだけだったら。
――父が黒い電線に夢中になった当初。一本が二本、二本が三本と僕の部屋に黒い糸が増えていくうち、胸に妙な危機感がわだかまり始めていたのを覚えている。自室という唯一のテリトリーを侵された気分、それだけではなかった。六本目を渡そうという時、僕はとうとう父親の行動に抗議に出たことがあった。息子に制された父は苦い顔をして、それきり僕の部屋に黒い線を持ち込もうとはしなかった。
思えば、あのつまらなそうな顔をしていた時が、父親の最後の“表情”だったのかもしれない。少なくとも、それまでは。彼は、人間だった。
廊下の隅に溜まった黒い線は少しずつ幅を太くしていく。やがて、僕の通る道幅を狭くしていき、黒い部分を避けて進むことは不可能になる。弧を描く電線は頭上を闇に染めていき、視界にはますます黒い靄がかかるようになる。これらも全て父が残した遺物だ。
これらは僕の向かうある部屋から家中に分散し、ツタのように長く伸びていく。それらによって、既に宿られた僕の部屋はちょうどある部屋の真上に位置している。父が空けた大量の穴を通して、家中の部屋の隅から隅へとその勢力を拡大していったのだ。蜂の巣から蜘蛛の糸が生える壁を横目に睨みながら、僕は薄闇の突き当たりを目指して進んで行く。
その部屋の扉の前まで辿り着いた時、僕は緊張の滲む拳をゆっくりと解き、それをそのまま扉の取っ手部分に乗せた。かつてはよく慣れ親しんでいた、その部屋。――父の部屋。
蝶番の軋みと共に、扉は光の破れ目を裂くかのように重々しく開かれた。
その一瞬、閃光のような眩しさが瞳孔を貫くことを予想していた。しかしそれに反して、その明かりは廊下よりましといった程度のもので、辺りを照らすのには遥かに薄弱であることに変わりはなかった。
久方ぶりに足を踏み入れた僕を愕然とさせるのはそう困難なことではなかった。度重なる地動に耐え切れず老朽化した壁はひび割れ、剥落した表面からは沈黙に凍りついた鉄筋が露わになっている。それを目で確認出来るのもごく一部で、暗幕のように取り囲む父の“夢”は、直方体に形作る六面の殆どを覆い尽くしている。足の踏み場もない床の隙間からは僅かに動いただけで土煙が舞った。かつて夢にまばゆいばかりだった父の部屋はその様相をがらりと変え、僕の知っている筈の父の部屋ではなくなっていた。その面影は、もうどこにも見当たらない。
黒い薄膜が光を遮る中に、真っ先に目に飛び込んできたもの。全ての電線がこの空間の中心に集まり、巣箱の核として形成される黒色の繭に似た、何か。
僕は部屋の真ん中にあるそれを見つめて、ゆっくりと近づいていく。動線を横切るコードやよく分からない電線を踏みつけながら、そこに陣取る物体のすぐ側まで近寄る。黒い塊を抱いて帰ってきた父の笑顔が、ふとした拍子に蘇る。
僕の好きだった父の姿はどこにも居なかった。代わりに、かつての父親によく似たものが僕の目の前に現れる。
父は博学だった。博学であるが故、僕が通っていた学校の教師も勤めていた。とある分野では権威者とも呼べる学者として認められていたということも聞いてはいたけれど、その辺りのことはよく分からない。ただ知っている事実は、学識的な才能を持つ男が偶然僕の父親だったということだけだ。
プトレマイオスが居なければ人類はもっと早くに文明を展開していた、という話を、そんな父に話すと、「今がプトレマイオスの居ない時代だとすれば、俺が現代のガリレオって訳だな」と言って、彼は笑ってみせた。まだ僕が学校に通っていた頃のことだ。まだ、僕の父親が父親だった頃の。
あれから何年の月日が経っただろうか。
博識の学者であり、学校の教師でもある僕の父親が夢みていたものが、今、そこに横たわる。最早父親とは言えないものが、かろうじて人間の姿に保たれている、と言った風に。
既に通過した歴史を覆すことに僕はぴんと来なかったけれど、今なら父の言葉も解るような気がする。……父が、どんな不相応なことを息子に言ってのけたのかということを。
父は、文明の飛躍的な進化のことのみを言ったのかもしれない。しかし、僕には父親が世界の終焉までの時間を早めただけにしかどうしても思えなかった。歴史に偉大な業績を遺した彼らも、父親も、僕も、ただの人間にしか過ぎない。まして神などでもない。ちっぽけな人間なのだ。今となっては、全ての人が人間でなくなってしまったように思えるけれど。
父親だったものを見下ろして、僕は傍らの足元に広がるコードを踏みつけた。コードの先には、父親の形をした体へと繋がっていた。この部屋の、否、この家の全ての電線が、コードが、管が、その身に突き刺さるかのように一つの肉塊から千本の糸を生やしていたのだった。
目眩のような感覚があり、顔を少し上げると、電線が同じ方向に揺れていることに気がついた。ぱらぱらと電線同士がぶつかり合う音を聞き、その瞬間、僕は断末魔のような耳鳴りがするのを感じた。こめかみを押さえてみても止む気配はない。揺れも収まることはなく、ただ自身の体のバランスを取るばかりだった。
目の前にある肉体の上部に位置する口から、一本のステンレス製の管が嵌められ、その繋ぎ目からしゅうしゅうと空気の漏れる音が耳鳴りの中で微かに聞こえてくる。生体であるという唯一の証拠を示すそれは、僕の中に沸々とした感情を徐々に湧き上がらせていく。ただの物だったならば生まれなかったであろう感情を、頭蓋の中でこだまする叫びの中で、僕は目の前に来て初めて知覚したのだ。
――元はと言えば、お前のせいじゃないか。
何故、お前はこうして生きていられるんだ?
意識せず打ち震える唇を噛み千切り、僕は父の亡骸を睨みつけた。解っているのだ。こんなになるまで父を生かしたのは、世界的な権威である父を死なせるわけにはいかなかったというだけのことだ。父は世界の命運を握っているといっても良かった。こうして、息をするだけの存在であったとしても、生きてはいるという事実が全ての人間を生かしているのと同じであるということを、僕は解っていた。どんなに恨んでいたとしても、死なせるわけにはいかないのだ。
けれど、同時に、今世紀に及ぶ全ての人々にとっての元凶でもあったことを知っていた。父親が全ての元凶であることも母親も解っていた筈だ。母や全ての人の病気が、父によって被ったものであると。……最初に被害に遭った自分だからこそ、解る。
母が父を止めなかったのは、父を愛していたからだ。僕が父を死なさなかったのは、母のためだったからだ。生きていた時の、母の。
母親にとっては、病気になった僕などは夫のように死んでいるも同然の存在だったのかもしれない。母は僕を見てはくれなかった。一度として、僕という存在を感知してくれることはなかった。虚構の息子だけを信じて、今もどこかで僕ではない僕と会話しているのだろう。きっと、自分を見つめている僕に気づかないまま。家の揺れも、町の揺れも、世界の揺れも、気づいてくれなかった、彼らのように。
依然として揺れ続ける足元と頭の中で鳴り響く轟音に、遂に三半規管が狂い始める。僕は吐き気を飲み込みつつ、空いた左手で背中の辺りをまさぐった。そして、手に触れたそれを顔の前まで持ってくる。
堅く、曲げても折れることのない紐状のものが僕の左手の中に感触として残る。それを手繰ると、背中のある一点が引っ張られるような感覚を感じ取る。父の残した、最初に被害に遭った時から存在している物。するすると背中から生える電線を僕は強く握り締めた。僕の命を繋ぐ、黒い糸。もう一方の端は、腐り落ちることのない死体にまで達している。
半ば衝動的に僕はそれを手に持っていた包丁で切ろうとした。しかし、それは中々頑丈なもので、刃の上を手ごたえなく滑るばかりだった。舌打ちをして、僕は側に横たわる肉塊を見据えた。わざわざ丈夫にしてくれたものだ。それとも、こうなることを予想していたのだろうか。今となっては、もう分からない。
錆付いた凶器を両手に持ち、かつて父として動いていた身体の真ん中に照準を定めた。手に強く力を込め、肩の高さまでゆっくりと上げる。途端、邪魔をするかのように部屋の揺れが僕の腕を大きく揺すぶる。一瞬、チューブが外れていた頃の母の顔が脳裏を過ぎる。それでも、僕は、もう何も構わなかった。
息を徐々に吐いていき、吐き切った所ですぐさま息を吸い込むと、僕は勢いよくそれを振り下ろした。
それきり、家が揺れることは二度となかった。




