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彼岸

「そろそろ、お彼岸(ひがん)だねえ」

 私の隣で紫煙を(くゆ)らす佐々木(ささき)聖海(きよみ)先輩が、唐突にぽつりと呟いた。

「ああ、確かに」

 私は頭の中で「お彼岸」という言葉を反芻しながら、無難な返答をした。

 私たちの通う大学にある施設の一つ、実験研究棟。その屋上で、私と聖海さんは呑気に煙草を吸っていた。

 今は三月の中旬。現在、大学四年生の私と大学院二年生の聖海さんは、卒業研究や卒業論文の提出等もすべて終え、大学生としての行事で残すは卒業式のみという時期だった。

「お彼岸って確か、春分の日と秋分の日ですよね」

 私の頭の中にあるお彼岸に関する知識を総動員して、そう言葉を繋いだ。あと、お彼岸について知っていることは、せいぜいお墓参りに行くということぐらいだ。

「そうだね。まあ、正確にはそれらの日の前後三日を併せた一週間のことをいうんだけど」

 聖海さんの追加解説を聞きながら、私は内面で苦笑を洩らした。自分の総動員した知識の中途半端っぷりが滑稽で可笑しかったからだ。

「それが関係あるんですかね? 最近、微妙に霊現象が多いんですよ」

 ふと気になって聖海さんに質問してみた。霊的なことについては、分からなければ聖海さんに聞いてみるのが一番手っ取り早いと私は考えている。

 聖海さんは霊感が強かった。私は聖海さんの影響で霊感が身に付いた。私が霊感を持ってからのキャリアはまだ一年半程度だが、聖海さんは二十四年である。知識も経験も、雲泥の差だ。

「あるだろうねえ。私も、最近は多いよ。悪い影響を受けるほどではないけどね」

「やっぱりですか。ていうか、エレベーターホールにもいましたよね。細身の男が」

 実験研究棟の一階のエレベーターホールで、エレベーターが下りてくるのを待っているときに見かけた幽霊を思い出しながらそう口にした。

「○ちゃん、あれ見えてたの? 何も反応無いから、てっきり見えてないのかと思ってた。色白で髪が肩くらいまである男でしょ、椅子に座ってた」

 やはり聖海さんにも見えていたようだ。

「それです。害意は無いようなのでスルーしました」

「それでいいよ。下手に反応すると、憑いてこられることがあるからね」

 エレベーターホールの男に限らず、そういう幽霊を見ることや、霊的な現象にあうことがここ数日は多かった。幸い家の中では霊現象は起きなかったが、外に出ると、霊と思われるモノとすれ違ったり、突然声や音が聞こえる回数が増えていた。そのたびに全てスルーしていたが。

「彼岸って、死後の世界のことですよね。『お彼岸』って言うくらいだから、現世と死後の世界との境界が曖昧になったりするんですかね?」

「多少はそういうこともあるだろうけど、そもそもその土地の風習や、人々の思想によるところが大きいんじゃないかな。お彼岸って文化があるのは日本だけだし」

 そこで一度言葉を区切り、次に思い出すような様子で言葉を続けた。

「『彼岸』って言葉は死後の世界を指すこともあるけど、もともとは『悟りの境地』を指すんだったかな? 悩みや苦しみの無い悟りの境地を『彼岸』、迷いや悩みにまみれたこの世を『此岸(しがん)』」

 聖海さんは、彼岸と此岸の漢字を空中に書きながらそう説明した。その漢字を目で追いながら、私は驚いていた。

「それ、『しがん』って読むんですね。てっきり今まで『こがん』だと思ってました」

 私の勘違いに、聖海さんは隠す様子もなく笑った。私はばつが悪くなり、話を先に進めることにした。

「でも、何で春分の日と秋分の日はお彼岸なんですかね?」

 ひとしきり笑った聖海さんは、一呼吸置くと解説を始めた。

「いろんな説があるらしいんだけどね。私の知ってる話では、いわゆる『極楽浄土』とかって、遥か西方にあるっていわれてるんだよ。春分の日や秋分の日は、真東から日が昇って真西に沈むでしょ。太陽が極楽浄土のある真西に沈むこの期間に修行をすれば、極楽浄土に行けるって考えられてるみたい。ちなみに、お彼岸にお墓参りするのは、これらの日がもっとも彼岸と此岸が通じやすくなるって考えからみたいだよ」

 知らない話ばかりで、私は目から鱗だった。家に帰ったらインターネットで詳しく調べてみようと思いながら返答する。

「……なるほど。彼岸と此岸が通じやすくなるって話が本当なら、この時期に幽霊が多くなるのは頷ける気がします」

 うん、と聖海さんも頷いた。

「○ちゃんは、お墓参りに行く?」

「いえ、俺はそもそも実家に帰省するつもりないですし。聖海さんは行くんですか?」

「そのつもり。春分は過ぎちゃうだろうけど。ちゃんと就職できましたって、ご先祖様にご報告しなきゃ」

 聖海さんの内定は、ついひと月ほど前に出たばかりだった。聖海さんは、あまり精力的に就職活動をしていた訳ではないようだったが、焦りはあったようだ。

「良かったよー! 大学院まで行って就職浪人とか、さすがにシャレにならないもんね!」

 そう言って私に嬉々として内定の報告をしていたときの聖海さんは、稀に見るハイテンションだった。

「聖海さんは就職先が実家の方でしたよね。なら、ここを引き払って地元に戻った後に、お墓参りできますね」

 自分で言いながら、ああそうか、聖海さんはもうすぐ居なくなるのかと、ふと再認識した。

 私は大学を卒業後、四月からは大学院生として引き続きこの大学に通うことになっていたが、そのときには聖海さんは居ない。聖海さんと話しているとついそんなことなど忘れてしまって、今みたいなゆるゆるとした時間が今後も当たり前のように続いていくような気になるから不思議である。

「うん、実家からお墓までは少し距離があるんだけどね。でも、初出勤まで少し余裕がありそうだから、一人でも行ってくるよ。○ちゃんも、お墓参りはしないまでも、ご先祖様や守護さんに感謝した方がいいんじゃない? 特に、守護さんには日頃からお世話になってるだろうし」

 聖海さんは、守護霊のことを「守護さん」と呼ぶ。聖海さん曰く、私の守護霊はとても力が強く、私をSPに警護される要人のようにきっちりと守ってくれているのだそうだ。

「はい、そうしてみます」

 同意はしたものの、先祖に感謝を示す正式な作法を私は心得ていないため、ひとまず心の中で「有り難う御座います、ご先祖様、守護霊様」と唱えておいた。

「どうでもいいことなんだけどさ」

 聖海さんはふと思い出したかのような口調で話し始めた。

「私、初めて彼岸って存在を知ったとき、凄くそこに行きたいって思ったんだよね。前にも言ったと思うけど、私、幼稚園のときから、自分が死ぬことについてよく考えてたんだよね。その頃は、死がただ怖いものでしかなかったけど、小学二年生のときに彼岸の存在を知ってからは、死ぬことへの見方が変わった。怖いことは怖いけど、何て言うんだろう……」

 まるで詩を朗読するかのように滔々(とうとう)と話す聖海さんの言葉を、私は相槌も打たずに黙って聞いていた。

「死を畏れ、死に憧れる」

 みたいな、と付け加えて、聖海さんは薄く笑った。

「俺は、興味ないですね」

 私の言葉を聞いた聖海さんが私の方に視線を向けたが、私は前の景色を眺めながら、ただ思ったことを口にした。

「死ぬことは別に怖くないです。いや、実際に目の前に死が迫ったら恐怖を感じるかもしれませんけど。死後の世界とかも、俺は見たことが無いので本当に存在するか知りませんし。だから、自分の死も、死んだ後の世界とかも、あまり興味が無いです。死後の世界は、在ったら面白いとは思いますけど」

 聖海さんは、うーんと短く唸った後に、明るい声で言った。

「やっぱり、○ちゃんは面白いね」

 私は口を開きかけたが(つぐ)んだ。「その台詞(せりふ)、そっくりそのままお返しします」とは言わなかった。


 もう何本目かも分からない煙草に火を点けた。私につられるように、聖海さんも新しい煙草を咥え、火を点ける。

 二人とも無言。

 私は目前に広がる屋上からの町並みに目を向けながら、大学院進学後、四月以降のことを考えた。

 聖海さんに限らず、私の同期のほとんどはそのまま卒業して就職する。それらの人たちは、全く知らない場所で、全く知らない人たちと新たな生活を構築していく。私は今までと同じ場所でもう二年間生活を送ることなるが、友人や知り合いの半分以上が身近にいない状況になる。その状況を想像してみたが、悲しさや寂しさはとくに感じなかった。ただ、楽しいことが減りそうだなと思うだけだ。

「今日はごめんね、突然呼び出したりして」

 思考に(ふけ)っていた私に、突然聖海さんがそう謝罪してきた。

「いえ、どちらにしろ、今日も大学には来るつもりでしたから」

 嘘ではなかった。取り立てて急ぎの用事はないが、家にいても暇なだけなので、暇つぶしに大学に来る予定だった。

 三月に入ってから、めっきり研究室に来る学生が少なくなった。当然と言えば当然であるが、私の他は、四月以降に大学院に進学することが決まっている同期の方西(かたにし)、一つ上の先輩で四月から大学院二年生となる石川(いしかわ)先輩と山田(やまだ)先輩くらいしか研究室に来ない。今日は日曜日であるため、おそらく研究室に来るのは私だけだろうと思っていた。

 昼まで寝ていた私を起こしたのは、携帯電話の着信音だった。寝ぼけ眼で画面を確認すると、聖海さんの名前が表示されていた。

 電話の用件は、今日大学に来ないかという誘いだった。

 誘いに快諾して大学に行く準備をし、大学で聖海さんと落ち合って、ぐだぐだ大学内を一通り練り歩き、最終的に実験研究棟の屋上にやってきて今に至る。

「卒業する前に、大学内をじっくり見ておきたかったんだよね。本当は山田も誘ったんだけど、あいつは今日用事があるとかで断られちゃったんだ」

 聖海さんは独り言のように呟いた。

 聖海さんは現在、山田先輩と交際している。しかし、そのことは研究室内では大っぴらにしておらず、知っているのは私と石川先輩、方西くらいだった。

「でもまあ、○ちゃんと一緒に回れて楽しかったよ。ありがとう」

「……そうですか、それなら良かった」

 本当は、山田先輩と一緒に回りたかったのだろう。そう私は推測した。

「さて、と。いい加減冷えてきたし、そろそろご飯でも食べに行く? 何だったら、その後ドライブでもしようか」

 時刻は午後六時を過ぎていた。三月に入って多少日が長くなったとはいえ、すでにあたりは夜の(とばり)が下りている。この大学のある地域一帯が盆地であることもあり、気温もまだまだ低かった。「暑さも寒さも彼岸まで」というが、コートが必要なくなるのはまだしばらく先のことになりそうだ。

「いいですね、行きますか」

 私は聖海さんの提案に同意し、揃って屋上を後にした。研究室に戻って荷物を持ち、エレベーターで一階へと降りる。

 エレベーターホールの椅子には、まだ(くだん)の幽霊が座っていた。

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