出会いと変化
新しい環境に身を置くこと、それは、新しい出会いがあるということである。人間が人間として人間社会で生きていく以上、出会いや別れも含めた人との関わり合いは必ず生じるものだ。
◇ ◇ ◇
大学三年生の前期が終わる七月下旬、私はとある研究室に配属された。
その研究室に私と同期で配属されたのは、私を含め十八名だった。先輩は、大学院生も含めて十四名。見知った顔もいれば、初めて会う人もいた。これから卒業までの一年半は、この研究室を中心に、私の残りの大学生活が送られることになる。
研究室配属されると、すぐ夏休みに入る。
四年生の先輩方は、卒業研究を行わなければならないため、夏休みなどほとんど関係無く、毎日のように研究室に来ては実験を行っていた。
一方の三年生は、配属されたばかりで研究室内に知り合いが少ないということもあり、夏休みを普通に長期休みとして満喫していた。そもそも三年生は――これは三年生に限らず、新しい環境に身を置く者全体に当てはまることであろうが――まだ研究室を自分たちの研究室として認識するには若干の抵抗があるらしく、配属初日に顔合わせで研究室に来て以来、全くといっていいほど姿を現さなかった。
そんな三年生の中で変わり種が一人だけいた。私である。
研究室の先輩に、石川先輩や山田先輩等の顔見知りがいたこともあり、私は配属当初から足繁く研究室に通っていた。それは夏休みに入ってからも同様であり、実家に一週間ほど帰省した以外は、毎日のように顔を出していた。次第に、もともと知り合いだった先輩以外の先輩とも喋るようになり、私は暇を見つけては先輩方の実験の補助や手伝いをしていた。来年には自分も卒業研究を行わなければならないため、その予行練習として丁度いいと考えてのことである。
八月中旬のとある土曜日、その日は午後三時ごろ研究室に足を運んだ。
土曜日だったこともあり、その日は研究室には先輩が一人しかいなかった。電気も点けずにパソコンに向かっていたその人は、大学院修士課程一年生、つまり私の二歳上の女性の先輩であった。電気が点いていなかったため、誰も居ないと思った私は、多少不意を突かれた形になった。
ちなみに、この時点で研究室に配属されて一ヶ月弱経っていたが、その先輩と喋ったことはほとんど無かった。私は人の顔と名前を覚えるのが苦手なため、いまいち自信は無かったが、確かこの先輩は佐々木という名字だったはずだ、と思いながら挨拶をする。
「おはようございます」
「おー、おはよう」
「……何で電気点けてないんですか?」
「暗い方が落ち着くから」
配属当初の顔合わせのときに感じた私の印象は、あながち間違いではなかったらしい。佐々木先輩は少々変わっていた。
「なるほど、分かります」
もっとも私自身、人のことを言えた義理ではなく、そう言って私は適当に椅子に座った。それからしばらくは当たり障りの無い雑談をした。
彼女は喫煙者、それもチェーンスモーカーだった。
私は喫煙者としては珍しく、しっかりと法律を守ってから喫煙を始めた人間であった。当時、まだ喫煙者なりたての私は、一日に数本しか煙草を吸わなかった。しかし、目の前で煙草を吸われると、つい吸いたくなってしまうのが喫煙者の性だ。無意識の内に私は佐々木先輩と同じペースで煙草を吸っていた。そして、煙草の煙が絶え間無く立ち上がっているのと同様、雑談も途切れることなく続いていた。
当時、女性に対して意識的にも無意識的にも苦手意識を持っていた私にとって、ほぼ面識の無い女性といきなり長時間雑談がしていたのは、大変珍しいことであった。おそらくこれが馬が合う、というやつなのだろう。そんなことを思考の隅でちらりと撫でながら、私は彼女と雑談を続けた。
「すみません、失礼な質問なんですが、佐々木先輩の名前は何ていうんですか?」
「私の名前? 聖なる海と書いて、聖海。凄い無理あるよね。初対面じゃ絶対読めないよ」
そもそも聖という字に『きよい』なんて読み方無いし、と佐々木先輩は笑った。
雑談と呼ぶだけのことはあり、色々な話題が浮かんでは流れ、流れては浮かんでいく。そして話題はいつの間にか、霊感や心霊現象についての話題になっていた。
「私って結構霊感が強いんだよね。たぶん家系なんだろうけど」
そこからは彼女の体験談の話になった。
沖縄にて、穏やかな海を前にして「何か来る」と連呼し、その夜に台風が直撃した話。
天狗が住んでいると言われている山に登ったとき、複数人で登ったにも関わらず、最後尾の彼女だけ物凄い向かい風が吹き、髪が靡いていた話。
研究室内で白い何か(おそらく犬の霊)が動き回っているという話。
高校生のとき、複数の人間が海で行方不明になったというニュースをテレビで見たとき、その後の展開を無意識に予言した話。
聞けば聞くほど、様々なエピソードが出てきた。そういった話が大好きな私は、ただただ聞き入っていた。
気がつくと時計の短針は午後九時を回っていた。六時間近くも話をしていたことになる。
いい加減に帰ろうということになり、私たちは研究室を後にした。
「今日は、面白い話を有り難う御座いました。俺も一回くらいはそういう体験をしてみたいです」
「あまりお勧めはしないけどね。それより、一応気をつけた方がいいよ」
「何をですか?」
「聞いたことあるだろうけど、この手の話をしていると集まってくるから」
特に、霊を見てみたいというような思いを抱いている人は影響を受けやすいからと付け加えながら、佐々木先輩は自身の車に乗り込んだ。
「お疲れ様です」
「お疲れー。またね」
別れの挨拶を交わした私は、自宅に帰るべく駐輪所へと向かった。
この日をきっかけに、私は佐々木先輩と親しくなっていった。同じ喫煙者というのも一因ではあろうが、それ以上に私と彼女は馬が合った。雑談が長引いて深夜に帰宅することもしばしばだったし、たまに、彼女に深夜のドライブに連れて行ってもらうようにもなった。
私は佐々木先輩のことを「聖海さん」と呼び、聖海さんは私のことを「○ちゃん」と呼ぶようになっていた。
◇ ◇ ◇
聖海さんと話すようになって二週間ほど経ったある日のこと、彼女の提案で夜にドライブすることになった。面子は私と聖海さんの他にもう一人、同じ研究室で私の一つ上の学年の山田先輩の三人で、山田先輩に車を出してもらった。
ハンバーガーを食べたいと聖海さんが言ったので、大学から一番近い某ハンバーガー店まで行くことで話は纏まった。一番近いと言っても、車で三十分ほど走らねばならず、また途中は曲がりくねった田舎道になっていた。
助手席に私が座り、後部座席に聖海さんが座った。
発車して十五分ほど経過。午前零時を回っているため交通量は少なく、我々の車はすいすいと順調に目的地まで私たちを運んでいった。道中は主に私と山田先輩が話しており、たまに聖海さんが口を挟んでくる程度だった。
道路には点々と街灯が並んでいる。その一つ、ぽつんと立っている街灯の下に、人が座り込んでいた。
私はそれを目で追いながら、あの人は何をしているのだろう、気分でも悪いのだろうか等とぼんやり考えた。
そのとき、今まで口数の少なかった聖海さんが私に喋りかけてきた。
「○ちゃん、どうしたの?」
「あ、いえ……、今の人、何をしているのかなと思いまして」
私がそう言うと、聖海さんは黙り込んだ。
山田先輩は「何が?」と、不思議そうに私に質問をしてきた。
「いえ、ちょっと……」
「山田、今、街灯の下に人が蹲ってるの気づいた?」
聖海さんは私ではなく山田先輩に質問した。
「そんな人居ました? 俺全然気づきませんでしたけど」
私は頭の中で、ぼんやりと一つの仮説を立てた。その仮説は根拠など何もなかったが、なぜかじわじわと確信に近づいていくような気がした。
あの街灯の下にいたモノは、幽霊なのではないか?
目的の某ハンバーガー店に到着して食事をしているとき、聖海さんは私に謝ってきた。
「いやー、ごめんね、多分私のせいだわ」
「そうなんですか?」
聖海さんは、ゆっくりとてりやきバーガーを食べながら、説明してくれた。
聖海さんの中学生時代の友人の一人が、突然霊感を持ったこと。それまではまったく霊感が無く、心霊体験等皆無だったのに、聖海さんと仲良くなってから急に幽霊を見るようになったらしい。そこで聖海さんの辿り着いた結論は、自分の霊感に充てられてその友人も霊感を持ってしまったのではないかということだった。
「もちろん、その人自身のもともとの資質とかもあったんだと思うけどね。だから、○ちゃんの霊感もきっと私の影響なんだと思う。本当にごめん」
「いえ、別に、大丈夫ですよ」
それは本心だった。むしろ多少わくわくしていたのは秘密だ。
聖海さんはもう一度謝罪した後、こう続けた。
「もともと霊感じゃないにしろ、○ちゃんは何かしらの力はありそうだなとは思ってたんだよね」
私は、今までは自分の目で霊というモノを見たことが無かったため、霊という存在を信じていなかった。もっとも、信じていないだけで、否定もしていなかった。それは、私は自分で見たこと、聞いたこと、体験したことを基準にし物事を考え、判断を下すからだ。霊は見たことがない、しかし存在しないことの証明がされた訳でもない。だから、霊の存在を肯定も否定もしなかった。
でも今はその存在を信じている。自分の目で見たのだ。勿論、目の錯覚という可能性もあり得なくはないが。
この日を境に、多少の波はあるものの、私は心霊現象や不可思議な現象によく遭遇するようになったのだった。




