私と後輩―妖怪―
大学院二年生の十二月中旬、その日私は、後輩の佐々木菜月さんと遊ぶ約束をしていた。遊ぶといっても、大学のある町では若者が満足に遊べるような施設はないため、夜に私の家に集まって、御飯を食べながら映画のDVDを見るだけだ。
「私、しゃぶしゃぶが食べたいです」
佐々木さんのその一言で、その日の晩御飯はしゃぶしゃぶに決まった。
材料の買い出しは、私の家から歩いて十分ほどのスーパーマーケットで行うことにした。佐々木さんは、大学で所属する研究室のゼミに出席した後に直接スーパーマーケットへ向かうため、佐々木さんからの連絡を合図に、私もスーパーマーケットに向かう予定となっていた。まだ幾分時間がありそうなので、私は部屋の片づけの最終チェックと、買い出しから帰ってきたらすぐに調理開始できるよう準備をして時間を過ごした。
午後六時半を少し過ぎたところで、佐々木さんから携帯電話にメールが届いた。内容を確認すると、『スーパーに着きました』という顔文字付きの文面が目に入る。てっきり、大学を出るときかスーパーマーケットに到着する直前にでも連絡をくれるものと思っていたため、少々焦った。
部屋の蛍光灯やエアコンの暖房をそのままに、私は慌てて家を飛び出した。当初は歩いていく予定だったが、原付を使うことにした。
スーパーマーケットに着くと、入口で佐々木さんが待っていた。
原付を駐輪所に停めて、佐々木さんに近づく。
「お疲れ様です、遅れてすみません」
「お疲れ様です。私こそ、ゼミで遅くなってしまってすみません」
お互いに謝罪を交わし、店内に入る。
「外で待ってるの、寒くなかったですか?」
「少し。でも、五分くらいだったので大丈夫ですよ」
「店内で待ってればよかったのに」
あ、と短く呟く佐々木さんは、その方法は何故か考えつかなかったようだ。
佐々木さんは基本的にしっかりした性格をしているのに、どこか抜けているところがある。しかし、他人に迷惑をかけたり不快にさせたりするようなものではなかったため、私は毎回楽しく観察させてもらっていた。
「……今まで何回か、私が○さんを外で待たせてたことがあったじゃないですか。だから、今回は私が外で待ってたんです」
佐々木さんの強がった発言を私は聞き流し、買い物カゴを手に持つ。すかさず「私が持ちます」と佐々木さんが言ってくる。しばしの押し問答の後、結局私が買い物カゴを持つことになった。
「欲しい食材、ガンガン入れてください」
二人で店内を回りながら、何を買おうか吟味する。しかし、二人ともしゃぶしゃぶ自体をあまり食べたことが無かったため、具材として何を買えばいいのかいまいち分からなかった。
「肉だけじゃなくて野菜も欲しいけど、野菜ってどうすればいいんだろ?」
「とりあえず、適当に切って鍋にぶち込んじゃえばいいんじゃないですか?」
「しゃぶしゃぶするお湯って、ただのお湯でいいのかな? でもそれだと、野菜ぶち込んでも味しないよね」
「顆粒出汁とか入れてみます?」
「肉って、牛、豚どっち?」
「牛肉は高くないですか?」
二人で議論を交わしながら買い物を進める。あらかじめ調べるなり人に聞くなりしておけばよかったのだろうが、私は、この予備知識なしで試行錯誤しながら事を進める現状を楽しんでいた。以前、佐々木さんとメンチカツを作ってみようという話になったときも、事前に調べたりなどせず、ぶっつけ本番で作った。できあがったメンチカツは、思いの外ちゃんとしていて美味しかった。
三十分くらいかけて食材を選んだ。会計を終えて店外へ出た頃には、時刻は午後七時半に迫っていた。
買った食材を原付のシート下の収納スペースに押し込み、原付を手で押しながら私の家へと向かう。二人乗りするかといちおう佐々木さんに聞いてみたが、案の定、丁重に断られた。
「あ、○さん、猫いますよ」
私の家とスーパーマーケットを結ぶ道中に、公園が一つある。敷地面積はそこそこあるが、遊具の数が少ないため、近所の子どもたちはもっぱら鬼ごっこやキャッチボール、サッカーボール等で遊んでいるような公園だ。
今、その公園内を一匹の猫が歩いていた。その猫は純白という表現がよく似合う白い毛並みをしており、首輪はしていないようだった。白い野良猫で、ここまで汚れておらずに綺麗な毛並みを保持していることに違和感を覚えた。
「うわあ、綺麗な毛色」
言いながら、佐々木さんは公園内へと入って行く。私は原付を路肩に寄せ、スタンドを立てて停めた後に佐々木さんに続いた。
私は猫が大好きである。もはや、猫狂いといって差し支えないかもしれない。そして佐々木さんも、そんな私と同等かそれ以上に猫を愛していた。私も佐々木さんも、道端で野良猫を見かけては、よく尾行したり触れ合ったりしていた。
その猫は純白の様相も手伝ってか、公園の外灯に照らされているだけなのに、まるでスポットライトを浴びているかのように感じられた。そんな猫が悠々と公園内を歩いていく。そして、その猫を私たちが歩いて追いかける。
猫が立ち止まって私たちの方を振り向いた。大きな黄色がかった双眸で、私たちをじっと見つめる。特に怯えたり怖がったりしている様子は見受けられなかった。
「おいでおいで」
私と佐々木さんは交互に猫を呼んだ。しかし、それに応じる様子はない。
猫はふっと視線を切り、もとの進行方向へと歩みを再開した。それに伴い、私たちも尾行を再開する。
猫がとっとっとっと早足になる。私たちも遅れまいと、歩くペースを上げる。
再び猫が立ち止まって振り返り、今度は「にゃー」と一言鳴いた。
「付いてくるなってか?」
私は思わず反応して言葉をこぼした。
「この猫、本当に綺麗ですね。それに、何となく不思議な感じがします。ひょっとして……」
そこで佐々木さんは一度言葉を区切り、猫を見つけてからずっと猫にロックオンしっぱなしだった視線を私に向けた。
「この猫、猫又だったりして」
猫又という言葉を聞いて、私の脳裏に六日前のあるやり取りが思い起こされた。
◇ ◇ ◇
六日後に迫った佐々木さんとの遊ぶ約束の内容を煮詰めるため、その日、私は彼女と大学の食堂で落ち合って話をすることなっていた。
その日は、佐々木さんは午前中の授業以外に特に予定が無く、研究室で卒業研究に関する実験を行っていた私を待っていてくれていた。
午後一時少し前に実験を一区切りつけ、次の実験の開始まで幾分の時間ができたため、私は佐々木さんの携帯電話にメールを送り、大学食堂へと向かった。
私は基本的に一日の食事は晩御飯しか摂らないため、大学院も含めて六年間この大学に所属していることになるが、食堂を利用したことは二十回にも満たなかった。そのため、お昼時の食堂の喧騒がやたらと新鮮で同時に煩わしく感じた。
佐々木さんの「奥の壁際にいます」というメールの返信を頼りに、彼女の姿を探す。ほどなくして彼女を見つけることができたが、彼女の正面には私の知らない男子が座っており、二人で食事をしながら談笑していた。
「お疲れ様です。お待たせしてすみません」
二人の会話の合間を縫って、佐々木さんに声をかけた。二人が同時に私の方に視線を向ける。
「あ、○さん。お疲れ様です」
佐々木さんは、ややバツが悪そうな顔で挨拶を返してきた。お楽しみのところを邪魔してしまったかと、少々申し訳ない気持ちになる。
「こんちわっす。なっちゃんの待ち合わせの人って、○さんだったんですか? てっきり、あみちゃんかと思ってた」
男子の方は、私のことを知っていた。おそらくサークル活動中か授業の実習中に私を見たのだろう。
ちなみに、「なっちゃん」というのは佐々木さんの愛称で、主に同学年からそう呼ばれているのだそうだ。「あみちゃん」というのは佐々木さんと大学内で一番仲の良い友人だそうで、時折佐々木さんの話の中に出てくる人物であるが、私は面識が無い。
「こんにちは。お楽しみのところ、邪魔して悪いね」
私は一応、気を遣ってそう謝罪してみたが、即座に二人から否定が返ってきた。
「いえ、全然大丈夫です! むしろ、○さんが先約ですから」
「いや、そんなんじゃないっすよ。俺、午後まで暇だったからなっちゃんに構ってもらってただけなんで」
私は短く「そう」とだけ返答し、佐々木さんの隣の席に腰を下ろした。
それから、しばし三人で談笑した。
男子の名前は、阪本清一朗というらしい。古風で格好良い名前だと褒めると、素直に喜んでいた。また、私が彼のことを知らないと言うと、「マジっすか? 実習のときめっちゃ○さんに聞きまくってたのに。酷いっすよ!」と拗ねられた。
坂本君と佐々木さんは同学年であり、学籍番号が近いこともあり、一年生のときからよく会話をしていたそうだ。坂本君と話してみるとよく分かるが、彼は人懐っこく、明るい性格だった。
「なっちゃんと○さんって、仲良かったんすね。羨ましいっすわ!」
それほどでもないよ、という私と佐々木さんの返答は見事にハモり、さらに坂本君に「息ぴったりじゃないですか」と追撃を受けるハメになった。
「俺、実習のときから○さんと話してみたいって思ってたんすよね。○さんの話って分かりやすいし、ちょこちょこ間に挟む小話とかも面白かったんで」
坂本君は、なぜか私を高評価していた。邪気や嫌味が感じられないだけに、妙な居心地の悪さを抱く。
本題に入らないまま、その後も雑談は続いた。話はなぜか私と佐々木さんに霊感があるという暴露話にまで発展していた。
「そうなんすか? いやー、俺は霊感とか無いんで、羨ましいっす」
坂本君は驚きながらもすんなりと私たちの話を受け入れ、霊感を身につける以前の私と同じようなことを言っていた。
「羨ましがるようなものじゃないよ。霊が見えたって、良いことなんてあまりないし」
「でも、一度でいいから生で幽霊見てみたいんすよね、一回も見たことないんで。妖怪ならそれなりに遭遇するんすけどね」
坂本君の発言に、今度は私と佐々木さんが驚く番だった。幽霊はこれまでに何度となく見てきたが、妖怪の類を見たことは一度も無かった。
「えっ、逆に私は妖怪を見たことが無いんだけど。そっちの方が凄くない?」
「俺も無いわ。俺こそ、一度でいいから妖怪を見てみたいよ」
私と佐々木さんの驚嘆と羨望に、坂本君は「いやー、妖怪なんて見えたって良いことないっすよ」と、今しがたの私の発言をそのまま返してきた。
坂本君が言うには、妖怪はけっこう人間の身近にいるが、見えない人がほとんどなのだという。稀に普通の人にも見えるレベルの妖怪もいるが、そういった高等な妖怪は見た目が人間やその他の動物と変わらぬ姿形をしているため、けっきょく気づかないのだそうだ。
「猫又とか妖狐って知ってます? あれなんか良い例っすよ。ぱっと見は普通の動物とまったく同じですから」
妖怪が見える体質の人からすれば、そういう高等妖怪も見分けがつくという。
「猫又は知ってる。ていうか、一度でいいから会ってみたい。俺らみたいな一般人が見分ける方法とか無いの?」
猫好きの私と佐々木さんにとって人語を解す猫又という存在は、憧れの的だった。
「どうなんすかね。俺は一目見れば一発でわかっちゃうんで、普段見えない人の目線での見分け方とか知らないんすよ。ただ、そういう高等な奴らはだいたい人間の言葉を理解してるんで、案外、喋りかけたら返事してくれたりするんじゃないっすか」
けっきょく、坂本君とはあの後も二十分ほど雑談を続け、終いには私と連絡先の交換まで行った。さらには、近々、佐々木さんを含む三人でカラオケに行こうという話も持ち上がった。発案者はもちろん、坂本君だ。
◇ ◇ ◇
そんな一連のやり取りを思い出しつつ、私は眼前の猫を改めてまじまじと見つめてみた。
公園の外灯に照らされてきらきらと光る真っ白な毛並みは、およそ野良猫とは思えない。先ほどまでの歩き方も、落ち着きはらっており、上品さと優雅さを醸し出しているように感じた。今、私たちを見つめるぱっちりとした双眸には、秋の紅葉の景色を思わせるような趣と魅力が混在していた。
「たしかに、不思議な感じがする。もしかしたら、本当に猫又だったりして」
私が言い終わるのとほぼ同時に、白猫は再度視線を切って歩き始めた。
示し合わせたかのように、無言で私と佐々木さんも後を追う。
猫がまたしても早足になる。
私たちも合わせて足早に追う。
公園の端にあるフェンスの前まで来た白猫は、そのままフェンスの下にある僅かな隙間からするりと体を滑らせて、公園の敷地の外側へと出てしまった。
私たちとの間にあるフェンスの隔たりに安心したのか、フェンスを抜けた白猫は立ち去る様子もなくちょこんと座って私たちの方を見ていた。
「大丈夫、怖くないよー」
「あなた、猫又?」
私と佐々木さんが口々に白猫に話しかけるが、当の白猫は呑気に欠伸をしていた。欠伸をし終えた白猫は、ぺろりと舌を出して上唇のあたりを舐めた後、溜め息をつくようにふうっと一息吹き出す。
そして――。
「あんたたち、ちょっとしつこい」
一言だけそう告げると、颯爽と身を翻し、民家と民家の隙間の細い隙間をさっさと歩いて行ってしまった。すぐに姿が見えなくなる。
私と佐々木さんはしばし無言。やがて、ゆっくりとお互いの視線を合わせると、おずおずと確認し合う。
「今……」
「喋りましたよね……?」
その後、二人で手分けして二十分ほど近辺を探したが、白猫を見つけることはできず、二人とも意気消沈しながら私の家に向かった。
しゃぶしゃぶを食している間の話題は、もちろん猫又についてだった。




