ドッペルゲンガー
私が三年生の七月に配属された研究室には、二つ年上の、大学院一年生の先輩が二人いる。
一人は佐々木聖海という女の先輩であり、私が霊感を持つきっかけとなった人だ。研究室配属されてから知り合った。
そしてもう一人は鈴木弘孝と言う男の先輩である。
鈴木先輩と私は、私が大学一年生の夏頃に知り合った。動物看護師という職業に対して知識を深めよう、という理念を掲げたサークルの先輩後輩だったのだ。鈴木先輩はその頃からとても愉快で剽軽なキャラクターをしており、また同時に、幅広い知識と回転の速い思考力を備えた先輩であった。
今年で鈴木先輩との付き合いも四年目となり、同じ研究室というのもあって、以前のような先輩後輩という関係よりも友人に近い接し方になってきてはいるのだが、未だに『鈴木先輩は凄い』というある種の固定観念のようなものが拭えないでいた。
そんな鈴木先輩も私や聖海さんと同様、実は霊感を持っていると知ったのは、私が大学四年生の八月のことだった。
◇ ◇ ◇
私の通う大学は山の上にあり、私の下宿する町は辺り一帯を山に囲まれた盆地となっている。昼は暖かく夜は涼しいと表現すれば、夏は過ごしやすそうに感じられるが、実際のところそんなことはなかった。暑いものは暑い。そして熱い。
午後七時前、私は帰路の途中だった。冬なら確実に『夜』と表現しているであろうこの時間帯も、八月の今はまだまだ夕方だった。まるで恨みでもあるかのように一日中熱を放射し続けた太陽がやっと西の空に沈みかけ、夜の暗さが待ちわびたかのように世界を徐々に侵食していく時間帯。私の好きな時間帯だ。
大学前の坂道を下りきったところに、コンビニエンスストアがある。私の通う大学の学生や近くの高校生の御用達となっているその店は、このような田舎町にあるにもかかわらず、店舗の売り上げは県内で常に三本指に入っているというから驚きである。その日は私も例に漏れず、大学帰りに店に寄って、売り上げに貢献したのだった。
好物のポテトチップスを始めとするお菓子やおにぎりを両手に持ち、レジへと向かう。
この店の副店長の、無愛想なレジ打ちにももはや慣れていた。聞き取れるか聞き取れないかの瀬戸際を攻め合うような小声で、ぼそりと購入金額を告げられた。
会計を済ませた商品を持って店外に出た私は、自分の原付を起動させた。車道に出るために、左右から車が来ないか確認をする。
そのとき、目の前を青のインプレッサが猛スピードで通り過ぎた。
運転していたのは鈴木先輩だった。無表情で、ありえないほどのスピードを出している。
鈴木先輩の車は、猛スピードで通り過ぎて道なりにカーブを曲がっていき、あっという間に見えなくなった。
そういえば、午後四時頃から鈴木先輩の姿を見ていなかった。てっきり帰ったのだと思っていたが、まだ大学に居たのか。それにしても、そんなに急いで帰るほどの何かがあるのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、私もそのまま帰路に着いた。
家に着いてから、私は奇妙な点に気づいた。そのことについて鈴木先輩にメールして尋ねてみようかとも思ったが、面倒臭いのでやめておいた。翌日研究室で会ったときに聞けばいいやと思いつつ、映画のDVDを観賞しながら、先ほど購入したお菓子の袋をおもむろに開けた。
鈴木先輩に会ったのは、それから二日後だった。
昼過ぎに研究室に顔を出した鈴木先輩は、ひとしきりその日研究室に来ていたメンバー全員に絡み終えると、自身の実験を行うべく、白衣を着込み手を洗い出した。
私は、回りの様子を伺いつつ鈴木先輩に近づいた。
「ヒロさん、今日は実験ですか?」
私も含め、周りの人は鈴木先輩の事を「ヒロさん」と呼んでいる。
「うん、今日はウイルス接種する。何、補助してくれんの?」
私は、いつもの調子で「はい」と返事をした。
鈴木先輩は手を洗い終えると、滅菌済みの乾いたガーゼで手を拭き、手早く実験の準備を始める。私もその後に従いながら、時折確認を交えつつ、先輩が実験に使う器具の準備をした。準備が完了すると、鈴木先輩はすぐに実験にとりかかる。
先輩の実験が始まってしばらく経過した。他の人が来る気配は無い。
そろそろ頃合いだろうと思い、私は口を開き質問をぶつけた。質問の仕方を何パターンか考えたが、一番無難なものでいくことにした。
「そういえばヒロさん、一昨日下のコンビニの前でヒロさんを見かけたんですけど、車めっちゃ飛ばしてましたよね? 何かあったんですか?」
「一昨日? ……ああ、一昨日は帰って論文を読みたかったから、ちょっと急いでたんだ。でもそんなに飛ばしてたっけ?」
鈴木先輩はこちらに一瞥もくれることなく、視線を実験を行う指先に固定したままで答えた。
「凄いスピードでしたよ。夕方の七時ちょっと前くらいに」
自分の中で山場を迎える台詞を口にする。もし、私の予想している通りなのだとしたら、おそらく鈴木先輩は何かしらのリアクションを見せるはずだ。
「七時? あれ、ちょっと待って。……七時っていったら、俺まだ大学にいたぞ。それ、本当に俺だったのか?」
ある種想定通りの返答に、私は言葉を繋げた。
「はい、間違いなく。ヒロさんが運転してるの見えましたし。そもそも、青いインプ持ってんのって、多分この大学ではヒロさんだけですよ。百キロは出てたんじゃないですかね、あれ」
「百キロ!? 絶対嘘だ! 俺、あの道でそんなに出したこと一度もねえってか事故るわ!」
やはり鈴木先輩に覚えが無いようだった。時速百キロメートルは、さすがにオーバーだったかもしれないなどと一人思案していると、同じく一人思案していた鈴木先輩が何か思いついたかのように言った。
「……ああ、もしかして」
「? 何か心当たりあるんですか?」
「いや、また俺出しちゃったのかもしんない、ドッペルゲンガー」
ドッペルゲンガーと鸚鵡返しに口の中でその言葉を転がしてみる。ある程度の推測が立っていたとはいえ、やはり瞬時には受け入れがたい。
ドッペルゲンガーとは、もう一人の自分自身のことであり、自分のドッペルゲンガーに会うと死ぬといわれている。その会う回数は、一回でも会うと死ぬという説もあれば、三回会うと死ぬという説もあり、まちまちだ。ドッペルゲンガーが現れたとき、本人は頭痛や吐き気等の身体の不調を訴えるケースが多いことから、本人の何かしらのエネルギーが具現化しているのではないかという説もあるが、真偽のほどは定かではないらしい。
「……またってことは、以前にも出たことがあるんですか?」
信じる信じないは別にして、ひとまず気になった点について掘り下げてみた。
「うん、過去に二度かな。中学と高校の頃に一回ずつ。どっちも実家でね」
鈴木弘孝が高校二年生の時のことである。
夕方、鈴木弘孝の母親が、台所で晩御飯の支度をしていると、玄関のドアが開く音がした。
母親は、時間的に息子の弘孝が帰って来たのだろうと見当をつけていると、まもなく息子の部屋がある二階への階段を上る音が聞こえて来たので、見当は確信に変わった。なぜ、ただいまを言わないのか、晩御飯のときに注意しようと母親は思った。
それから十分ほどすると、また、玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
今度は正真正銘、弘孝の声が聞こえてきた。弘孝はそのまま台所に直行して来ると、今日の晩御飯は何かと尋ねてきた。
「……あんた、さっき帰って来なかった?」
「いや、今帰ってきたところだけど」
母親はしばし逡巡した後、こう口にした。
「あんた、また出てるわよ。さっき二階に上がって行ったもの。中学生のときにも出してたじゃない。気をつけないさいって言ったでしょう?」
「どうも、何かどうしてもやりたいことがあるのに、それができない状況下になると、ドッペルゲンガー出しちゃうらしいんだよね」
ドッペルゲンガーが『出る』ではなく『出す』という表現に斬新さを感じた私は、思わず失笑してしまった。
「おかしいとは思ったんですよ。俺、動体視力あんまり良くないし、時間的に結構暗くなってたのに、猛スピードで走る運転席のヒロさんをはっきり認識できましたもん。怖いくらい無表情だったのまではっきりと」
私があの夜気づいた奇妙な点について話をすると、鈴木先輩はこちらに顔を向けて、ニヤリとニヒルな笑みを浮かべるとともに、こう言った。
「それにしてもインプレッサまで出すとは。俺って実はかなりスゲーんじゃね?」
茶化した感じで言う鈴木先輩の発言に、私は大笑いしてしまった。
私が大笑いしているのを聞きつけ、隣の部屋から、一つ年上の大学院一年生である石川先輩が「何か面白いことあったんすか?」と言いながらこちらにやって来た。




