窓を叩くモノ
「うわ~、マジ道見えねぇ」
深夜二時。街灯が全く無いうえに細くて蛇行している山道を、加山はそう呟きながらおっかなびっくり運転していた。
「隣、崖だから落ちないでくれよ」
やや眠そうな声で、助手席の大鳥がそう言った。
二人は、最近よく耳にする噂の真偽を確かめるため、こんな時間にこんな道へドライブに出かけたらしかった。
私たちの通う大学は、比較的田舎の山の上に建っている。市街地と呼ぶには小さく栄えてもいない町は、盆地だった。テーマパーク・ボーリング・カラオケ・チェーン店の居酒屋等、学生たちが御用達の施設や設備は当然その町にはあるはずもなく、遊ぶ際には電車や車で都市部まで出る必要がある。幸い、電車で三十分ほど移動すれば地方都市に出られるため、多少の不満は持ちつつも、家賃の安さも相まってその町に住む学生が多かった。
車で大学のある町から都市部まで行く道は二つあった。
一つは国道であり、最も一般的に用いられる道であるが、時間帯によっては非常に混むのがネックとなっている。
もう一つは、山道をひたすら突き進む道であり、交通量はほとんど無いが、道が細く蛇行しているため、慣れていない者にとってはこのうえなく運転しづらい道であった。所々、コンクリートで舗装されていない山肌が露出しており、数年に一度、豪雨の際には土砂崩れを起こすこともあった。しかし、国道が混む時間帯には、こちらの道を『裏道』と称して利用する運転手が結構いるのも事実だった。
とある年の夏、稀にみる豪雨となった際に、やはりその裏道は土砂崩れを起こした。普段ならその裏道への入り口に進入禁止の看板が立てられ、土砂を取り除いた後に再び通れるようになるのだが、このときは違っていた。土砂崩れに巻き込まれた車があったのだ。
車体全てが土砂に埋もれており、その車が発見されたとき、運転手は既に亡くなっていた。
死因は出血多量とのことだった。横殴りに襲ってくる土砂や樹木により車体がひしゃげ、そこに体が挟まれ、ことに下半身が潰れてしまったらしい。潰れた下半身からの出血が止まらず、車内から出ることもできず、運転手はそのまま息を引き取ったそうだ。
運転手の手の骨は所々折れ、内側から突き破った骨が体外へと飛び出していたという。何とか車内から脱出しようとしたのだろう。窓ガラスには手を何度も叩きつけたような跡と血痕が残っていたのだそうだ。運転手は自分の手が壊れることなど気にも留めず、ただ助かりたい一心でひたすら窓を叩き続けたが、助けは来ず、命を落としてしまったのだ。
それからしばらく、その裏道は通行不可となった。再び利用できるようになったのは、四年後の春からである。大幅な舗装工事を行い、山肌の露出は以前の十分の一程度にまで減少した。しかし、その事故のせいか、以前に比べるとその裏道の利用者数は減っていたのだった。
裏道が開通してから三ヶ月ほど経つと、ある噂が流れ始めた。深夜にその道を走ると、怪奇現象が起こるのだという。「深夜の街灯も無い真っ暗な道に人が立っていた」「窓に赤い手形が残っていた」「車が突然エンストを起こした」「コンポから『助けてくれー!』という声が流れてきた」等々。
曰く、その土砂崩れに巻き込まれた霊の仕業なのだという。ありきたりと言ってしまえばそれまでの、よく耳にしそうな話である。
しかし、そんな噂を聞けば、やはり何人かの人間は興味をそそられるのが世の常だ。特に、田舎にある大学に通う学生ともなれば、暇潰しには持ってこいの話と言えなくもない。事実、その噂が流れだしてから、肝試し目的でその裏道を利用する人が増加したのだ。何とも罰当たりな話である。
「……結局何も起こらないなぁ」
加山はつまらなそうに呟いた。
「いやー、噂なんてだいたいそんなモンでしょ」
最初から分かっていた、と言わんばかりに大鳥は応じた。
二人の乗った車は既に裏道を通り過ぎ、地方都市へと続く国道との合流地点にある、コンビニエンスストアの駐車場に停車されていた。コンビニエンスストアで買った夜食を頬張りながら、二人は車へと乗り込んだ。
「どうする? 帰りもチャレンジしてみる?」
「んー、そうだな。折角だしな。まあ、何も起こらないだろうけどね」
そう話しながら加山は車を発車させた。二人とも翌日は二時限目から講義がある。このまま帰って寝なければ、明日の講義は寝坊で欠席になってしまうだろう。
車は裏道を、今度は大学のある町に向けて走って行く。他愛もない雑談をしながら、二人を乗せた車は行きよりもスムーズに走行していた。そのまましばらく走行する。
ひときわ大きなカーブに差しかかったとき、それは不意に訪れた。
―――バンッ!
何かを叩きつけるような大きな音と小さな振動が響いた。
「!」
二人は声にならない声を漏らし、絶句した。加山は反射的にブレーキを踏む。キュルキュルキュル、とタイヤと路面のアスファルトが擦れ合う音が車外から聞こえてくる。急ブレーキのため、二人は前につんのめった。
車が停車すると、二人は顔を見合わせた。お互い無言。ブレーキ音が虚空に消えた今、車内は静寂に包まれていた。
二人とも無言でこそあったが、お互いに何を言いたいのか、何を考えているのかは把握しているのだろう。
(……気のせいだ、そうだ、気のせいに違いない。むしろ、気のせいでありますように)
そんな二人の淡い思いは、すぐに裏切られる。
先ほどと同じ音と振動、おそらくは車窓を思いっきり叩くものであろうそれが、断続的に響き始めた。『バンッ!』とも『ドンッ!』ともつかない音が響き、そのたびに車体が軽く揺れる。
「うわああああああああ!」
加山は明らかに取り乱していた。目を瞑り、自分の耳を両手で塞いでいる。
「落ち着け、この馬鹿! 早くこの場を離れるぞ! 車出せ!」
何とか正気を保っている大鳥が、耳を塞いでいる加山の左手を掴んで引き剥がし、大声で叫んだ。
「わ、分ぁあった!」
大鳥に叱咤され、上手く呂律が回らない舌を無理矢理動かしつつ、涙目の加山は応じた。アクセルを踏み、何とか車を発車させる。さいわい、噂にあったようなエンストは起こらなかった。
なおも音と振動は続けている。だが、逆に言えば、音と振動だけである。加山は恐怖を何とか噛み殺しつつ、崖下に転落しないように気をつけながら、それでも一秒でも早くその場から遠ざかろうと車を走らせた。
一分ほど走ったところで、音と振動はピタリと止み、再び車内を静寂が支配した。
二人は裏道を抜けるまで終始無言だった。
◇ ◇ ◇
「もう……、ぜっでぇ……あの道使わねぇ……」
力無く項垂れ、鼻をすすり、くぐもった声で加山はそう呟いた。しっかり確認するまでもなく、加山は泣いている。
「いや……、今まで霊なんて信じてなかったけど……。あれは……」
普段は動揺等ほとんど見せない大鳥も、さすがにショックを隠しきれないらしい。
現場に居合わせなかった私には正直想像しかねるが、そのときの恐怖は相当なものだったのだろう、二人の様子を見れば明らかだ。
しかし、そうだとしてもだ。
「いや、まあ、事情は分かったけど、何もこんな時間に来なくても」
カーテンの隙間から外に目を向けると、東の空が仄かに色づいている。ただ今の時刻は、午前四時三十五分。
彼らは突然私の家に来ると、夜明け前だというのに近所迷惑も顧みず、チャイムを連打して私の名前を呼びながらドアを叩き、安眠の極地にいた私の部屋に転がり込んできたのだ。携帯電話の着信履歴は、二十件全部、大鳥で埋め尽くされていた。
「だっで……家、帰りだぐなぐで……」幾分顔を上げながら、鼻声で加山は呟いた。
「いや、悪いとは思ってる。本当に。すまん」大鳥は本当に申し訳なさそうに謝罪した。
「……まあいいけど。今日の二限、出れるかな」私は独りごちた。
しばらくは雑談をして時間を潰した。
一時間もすると、大鳥は元より加山もだいぶ落ち着いてきたらしく、先ほどとは打って変わって饒舌に恐怖体験について喋り始めた。
「お前、そんな冷静に聞いてるけどよ、本当に怖かったんだって、マジで!」
テンション高めに加山は力説する。先ほどまで泣きべそをかいていた男はどこに行ったのだと半ば呆れつつ、しかし、このテンションの高さなら言ってもいいかもしれないなとも思い、私は口を開いた。
「いや、怖かったのは十分伝わってくるよ。ただ、よく車内にずっと居れたな」
「「は?」」
加山と大鳥の声が見事に重なった。
「いやいや、あの状況下で外に出るとかありえんよ、マジで!」
「ああ。とにかく、一刻も早くその場から離れたかったからな」
二人は口々にそう言った。
「う~ん、その気持ちも分からんでもないけどさ、俺なら外に出てるかもしれん。まあ、その現象が、本当に土砂崩れに巻き込まれた霊の仕業なのだとしたらの話だけどな」
「いや、あれは間違いなくそいつだって! ……てか、何でよ? 何で外に出んの?」
理解できないという表情を顔中一面に押し出して、加山は尋ねてくる。大鳥も不思議そうな表情をしていた。
「えー、だってさ」
私は、この先はこの二人、特に加山には言わない方がよいだろうと確信しつつ、それでも先を続けた。
「土砂崩れの人は、車外に出たくて窓を叩いていたんだろ?」
一拍の間をおいて、私は決定打を放つ。
「車内から」
二人の顔が強張る。少しして、加山の目にみるみる涙が溜まっていくのが見て取れた。
私は、内心ほくそ笑んだ。気持ちの良い安眠を妨害されたのだ、これぐらいの仕返しは許されてもよいではないか。