縁は触れぬこねこから―後編―
私は猫が好きだ。基本的に動物全般が好きなのだが、その中でも猫は別格である。
あのスラっと細長い体。軽快な身のこなし。格好良さと可愛さを兼ね備えた顔。気まぐれさ。ちょっと抜けているところ。どれもこれも私のツボを刺激する。
特に長毛種の猫が好きな私としては、将来は猫屋敷を作り、様々な猫を入手して一緒に暮らしたいと考えていた。
◇ ◇ ◇
私が最初にその存在に気づいたのは、大学院一年生の一月中旬だった。
幽霊の仔猫。
最初はただの仔猫だと思ったのだが、触ろうとしたところ触れられなかったため、幽霊だと気づいた。かすれた声で鳴く、おそらく生後三週間程度と思われるその幽霊の仔猫は、私の家から徒歩で十五分ほどの、小さな公園のベンチの下に蹲っていた。
冬休み中のだらけた生活に加え、前期のうちに卒業に必要な単位数をほぼ取り終わっていた私は、年が明け大学の登校日が始まっても、夜型の生活リズムが直らなかった。明け方まで研究室で実験や調べ物をしたり、夜な夜な散歩やドライブをしたり。明け方に寝て、昼頃起きて、研究室に行き、気が向いたら帰り、太陽が昇るまで一人遊びをする。そんな生活をしていたある日、その仔猫に出会った。それからたまに、気が向き且つ時間があるとき、仔猫の所に顔を出していた。
二月の頭、時刻は午前三時過ぎ。その日、仔猫のもとに顔を出したとき、見慣れぬ布製の小屋がベンチの下に置いてあるのに気がついた。中を覗いてみるとタオルが敷き詰められており、また、おそらくは仔猫用であろうミルクが入った陶器の器が置かれていた。
「何だお前、俺以外の誰かに構ってもらってるのか?」
私の服の上でパーカーの紐にじゃれつく仔猫に、私はそう話しかけた。無論、仔猫からの返答は無かったが、誰か私以外の人間がこれを用意したのは間違いない。おそらくは、この仔猫のためだろう。それはつまり、私以外にもこの幽霊の仔猫が見える人が、おそらくはこの近所にいるということだ。
物好きな人間もいるもんだ。
そう思いながら、私は、触ることのできない仔猫の顎のあたりに指を持っていき、撫でる仕草をした。仔猫は気持ち良さそうに目を細めている。
◇ ◇ ◇
深夜の公園で、私に話しかけてきた女子に対して、私は言った。
「あの、まあ、気になるお気持ちは分かりますが、こんな深夜に女の子が一人で出歩かない方がいいですよ。この辺、何気に物騒ですから。……要らぬお節介だとは思いますが」
「え? あ、はぁ……」
少々説教じみている。初対面の相手にいきなり言う台詞ではなかったかと反省する。
そんな私を、訝しむような目で彼女は見つめている。彼女もおそらく、私の口からそのような台詞が出てくるとは思わなかったのだろう。
彼女には、今私の足の上で丸まっている仔猫が見えている。とりあえず、この仔猫の話をするのが無難だと判断した私は、読んでいた小説を閉じながら確認の意味を込めて質問をした。
「単刀直入に聞きます。あなたには、この仔猫が見えているんですね?」
「はい。……○○先輩も、見えてるんです、ね?」
不自然に途切れ途切れな返答は、彼女の緊張の表れだと理解した。そして、どうやら彼女は私のことを知っているようだった。
「はい、自分も見えます。……俺のこと、知っているんですね」
「あ、はい。この間の実習のとき、TAをしてる先輩に、お世話になりました」
「ああ、なるほど。ということは、今二年生ですか」
TAとはティーチング・アシスタントの略で、大学において担当教員の指示のもと、大学院生や学部生たちが授業や実習の補助・運用支援を行うことである。
私は二ヶ月ほど前にとある学内実習のTAを行っていたので、そのときに私のことを知ったのだろう。
「はい、二年の佐々木菜月です。実習のとき、何度か先輩に、教えてもらいました」
「……すみません、覚えてないです」
一瞬の間をおいて、私は謝罪の言葉を口にした。申し訳ないことだが、私は人の顔と名前を覚えるのが元来苦手であった。
しかし、それよりも私が気になったのは、佐々木という名字だった。
私には霊感があり、ときどき幽霊が見えたり声が聞こえたりする。そして、私が霊感を持つきっかけとなった人が、私の二つ年上の佐々木聖海という先輩だった。聖海さんに妹はいなかったはずであるから、たまたま名字が一緒なだけだろう。
「ところで、佐々木さんはいつ頃この仔猫に気づいたんですか?」
「私は、二週間ほど前に気づきました。で、ええっと、その次の日にこの小屋とか粉ミルクを買ってきて、与えだしたんですけど……」
「ひょっとして、毎日来てるんですか?」
「はい!」
どこか誇らしげに返事をして、佐々木さんは微笑した。
「熱心ですね。自分はひと月ほど前に気づいたんですが、たまに時間があるときに来る程度です」
「私は、今の時期、結構暇なので……。先輩は、院生ともなれば忙しいですもんね」
「いや、自分は別に忙しくないんですけどね。今は、院二年の先輩とか四年生なんかが、卒研発表間近で忙しい感じです」
「そうなんですか」
そう呟きながら佐々木さんはその場にしゃがむと、コートのポケットから小さめのタンブラーとウェットティッシュを取り出してベンチの上に置いた。次に、小屋の中から陶器の器を取り出すと、ウェットティッシュで丁寧に器の内側を拭き、タンブラーの中身を注ぎだした。白い液体が、白い湯気を上げながら注ぎ込まれ、周囲に仄かな甘い香りが漂い出す。
「お、良い匂い」と思わず私は口にしていた。
「……飲みますか? 猫用のミルクですけど」
そう言いながら浮かべる佐々木さんの笑みには、ややいたずらっぽい色が含まれており、私は少々意外に思った。つい数分前までやたらと緊張していたので、てっきり人見知りなのかと思っていたが、案外親しみやすい性格なのかもしれない。
「……いえ、遠慮しておきます。猫のミルクって、匂いは良いですが味が薄くて、あんまり美味しくないので」
「分かります! 私もこの間、寒さのあまりちょっと飲んでみたんですけど、あまり美味しくなかったです」
何故か嬉しそうに同意しながら、佐々木さんはミルクの入った器を、私の足の上にいる仔猫の鼻先へと近づけた。すると、匂いに釣られた仔猫は立ち上がり、器の中に顔を入れミルクを飲もうとしたので、すかさず彼女は器を自身の手元に引き寄せて地面に置いた。
仔猫はその器を追いかけて私の足から降り、よたよたとミルクの入った器まで歩いて行く。そして、地面に置かれた器に顔を突っ込み、小さい舌を出してちろちろとミルクを舐め始めた。
「へぇ、幽霊でもミルク飲むんですね。ちゃんと飲めてるのかは分かりませんけど」
私がそんな感想を漏らすと、それに佐々木さんも応じた。
「私もよく分からずやってます。一応、毎回飲む仕草はしてるんですけど、見た感じミルクは減ってないですし、仔猫自身、成長もしてないみたいです」
その後しばらく、二人とも無言で仔猫を眺めていた。確認はしていないが、おそらく私も佐々木さんも顔を綻ばせながら。
「私、実習のときは、先輩って怖い人だと思ってました」
佐々木さんはそう告白した。どうやら、TAのときの私の態度が怖かったようだ。だから先刻は凄く緊張していたのだという。
仔猫にミルクをあげてから三十分ほど経った。ミルクを飲み終わった仔猫はその後、佐々木さんが持ってきた猫じゃらしの玩具で遊び、今は一匹でふらふらと公園内を散策している。その姿を眺めながら、私は彼女と談笑していた。
「それ、よく言われるんですよね。別に、怖がられるようなことはそれほどしてないはずなんですけど」
「そうなんですか?」
取り留めのない話をしていると、時間はゆっくり過ぎていく。
ちなみに、二人とも地面に直接座っている。私が元々地面に座っていたせいか、佐々木さんも地面に座ろうとした。ベンチに座るよう勧めた私に彼女は「先輩だって地面じゃないですか。それに、ベンチに座ると仔猫が膝の上に乗ってこれないじゃないですか」と言って、結局地面に座ってしまった。「このズボン、汚れても構わないやつなので」とも付け足した。そういう問題ではないと思いながらも、私もそれ以上促すことはしなかった。
「さすがに、ちょっと寒くなってきました」
さらに三十分ほど経過したところで、佐々木さんが不意にそう漏らした。ちなみに仔猫は、彼女の膝の上で彼女の操る猫じゃらしに一心不乱にじゃれついている。私は「そうですか」とだけ言うと立ち上がり、公園の外へと向かう。
「もう帰られますか?」
「ん、ちょっと」
曖昧な返事をして公園を出ると、すぐ横の道に入る。ほどなく、目的の物を見つけた。
一分ほどで私は公園に戻って来た。
「どこ行ってたんですか?」
そう問いかけてくる佐々木さんに、私は缶のホットミルクティーを差し出した。
「え……? これ、どうしたんですか?」
「すぐそこの自販機で買ってきたんです。どうぞ」
「え、いや、そんな、悪いですよ」
「お気になさらず」
彼女がなかなか受け取ろうとしないので、私は彼女の脇のベンチの上に缶を置いた。そのまま私はベンチの向かいの小さなブランコに腰を下ろし、微糖の缶珈琲と煙草を取り出す。
「自分の分はあるので、どうぞ」
「いえ、でも今、財布無いので……」
「ああ、いいですよ。缶ジュースの一本や二本」
「いえ、それは駄目です!」
そんな押し問答をしながら、私は煙草に火を点ける。カチッというライターの着火音に仔猫が反応した。たどたどしい足つきで佐々木さんの膝から降りると、私の足元まで寄って来る。仔猫の鼻先に飲みかけの缶珈琲の飲み口を差し出すと、興味深げにくんくんと匂いを嗅いでいたが、すぐにふいっと視線を切った。どうやらお気に召さなかったらしい。
「……はい、じゃあ、頂きます」
どこか不服そうな様子で佐々木さんはミルクティーを手に取りプルタブを開ける。喉が渇いていたのか寒さのせいか、彼女はこくこくと小気味良い音を立てながら、ミルクティーを一気に飲み始めた。そして、いったん缶から口を離すと、感慨深げに呟いた。
「……温かい」
それからさらに三十分ほど経ったところで、私たちは帰ることにした。
ミルクティーの温かさは一時凌ぎにしかならず、佐々木さんは寒さが限界に達したらしい。かくいう私も、さすがに寒さが少々堪え始めていた。
立ち去ろうとする私たちを、まるで「行かないで!」と縋るような仔猫のか細い鳴き声が襲う。引かれる後ろ髪を断ち切るのに、私も佐々木さんも相当の努力を要した。佐々木さんは「また明日!」と仔猫と自身に言い聞かせ、公園を後にした。
必死で断る佐々木さんの言い分を聞かず、私は彼女を家の近くまで送る。佐々木さんの下宿先は、私の下宿先とは真逆方向だった。佐々木さんはとても申し訳なさそうに「すみません」と何度も謝っていた。
「よかったら、少し暖まって行かれますか? 紅茶くらいしかないですけど」
「いえ、大丈夫です。俺の家も近いので」
「そうですか。でも……」
少々不用心だなと私は思った。佐々木さんからしてみれば私は顔見知りとはいえ、実質ほとんど初対面のようなものである。そのような男を、いきなりこんな時間に自宅へ招き入れるのは、はっきりいってよろしくない。そもそも深夜に頻繁に一人歩きをしている時点で、危機感が足りていないように感じる。
このことをオブラートに包みつつ、やんわりと佐々木さんに伝えたが、佐々木さんはあっけらかんとしていた。
「いえ、それは大丈夫ですよ。猫好きに悪い人はいません」
「はあ?」思いもよらぬ発言内容に、私は一瞬素で返してしまい、慌てて取り繕う。「いえ、そういうことを言っているのではなくて」
「私、これでも人を見る目はそれなりにあるんですよ。少なくとも、先輩は良い人です。だから、お礼したいんで……って、あっ!」
佐々木さんの発した「あっ!」は思ったより大きい声で、深夜の静寂な道路に少々響いてしまった。佐々木さんは慌てて口を両手で覆い、数秒置いた後、再度声を潜めてこう続けた。
「すみません、やっぱり駄目です。今、私の部屋、汚いので」
私は思わず失笑した。
「次お会いしたとき、ミルクティーのお金は必ずお返ししますから」
おやすみなさいと付け加え、彼女は帰って行った。三秒ほど彼女の後姿を眺めた後、踵を返して私も家路についた。
◇ ◇ ◇
その後の一週間で、二回佐々木さんに出くわした。
一回は大学の四年生の卒業研究発表会の日に、廊下ですれ違った。そのとき私は研究室のメンバーとともにおり、佐々木さんは友人たちと一緒だったため、軽く挨拶を交わしただけだった。
次に会ったのは、例の公園でだ。そのとき私たちは、携帯電話の番号を交換し合った。その後、前回同様仔猫をじゃらして、三十分ほど談笑し、寒さが堪え始めた頃に私たちは家路に着いた。
ちなみに、佐々木さんは缶ジュース代を払うことを忘れていた。でも、私は別に構わなかった。
それから数日後、四年生の卒業研究発表会が無事終わり、次は修士二年生である石川先輩と山田先輩の卒業研究発表会を翌日に控えた日のこと、雪が少し降る夜だった。
深夜一時過ぎにその電話は突然かかってきた。電話に出ると、佐々木さんの声が飛び込んできた。
「先輩! 仔猫が、居ないんです!」
「……分かりました、すぐ行きます」
そろそろ寝ようと思っていた矢先のことだったので、私は軽装だった。
炬燵から出て身支度を整え、厚手のジャケットを着込むと私はすぐに家を出て公園に向かう。しっとりと薄く積もる雪に足を取られないように注意しながら、小走りする。
何が起こっているのか、予想はついた。私の予想通りだとするのならば、ただ、そうあるべきモノがあるべき状態になっただけなのだろう。それだけのことだと、感情を挟まず割り切ってしまう自分に少し苛立つ。
公園に到着すると、佐々木さんがベンチの前で立って私のことを待っていた。電話の感じだと、もう少し取り乱しているかとも思ったが、目の前の佐々木さんは比較的平静を保っている。
「先輩、すみません。こんな夜中に電話して呼び出してしまって」
「ん、大丈夫。それに、呼び出されてはいませんから」
そう言った後、詳しい話を聞かせて欲しいと佐々木さんにお願いした。
「昨日までは普通だったんです。それで、今日来てみたら、いつもは足音を聞いて顔を出してくる仔猫が今日は出て来なくて。小屋の中覗いたんですけど空っぽで。公園の中を探したんですけど、見当たらなくて。それで思わず、先輩に電話を……」
最後の方は声になっていなかった。悲しそうに、そして申し訳なさそうに、佐々木さんは俯いている。
私は、そんな佐々木さんの頭をぽんぽんと軽く撫で、できるだけ穏やかな雰囲気を出しつつ、仔猫が公園の外へ出た可能性を指摘してみた。そして、私たちは公園の周辺を探索し始めた。
結局、仔猫は見つからなかった。
その後、公園のベンチに座り二十分ほど待機してみたが、その間ほとんど会話は無かった。
佐々木さんが寒そうに身を抱き、微かに震えだしたところで、私は「帰りましょう」と提案した。
「私は、もう少し待ってみます。先輩は先に帰って大丈夫です。いきなり電話してしまい、本当にすみませんでした」
私はしばし黙考し、立ち上がると、公園の出口に歩みを進めた。その私の背に、佐々木さんが言葉を投げかける。
「お疲れ様です。おやすみなさい」
その言葉に、私は振り返って答えた。
「いえ、帰りません。飲み物、買ってきます」
「え?」
「寒いんでしょう? 先ほどから震えてるじゃないですか」
「あ……。いや、あの、ほんと、私は大丈夫ですから。先輩はお帰り下さって結構ですから!」
「……俺に早く帰って欲しいんですか?」
「あ、いえ、そういう訳じゃ……」
ごにょごにょと歯切れの悪い言葉を呟く佐々木さんを尻目に、私はすぐ近くの自販機へ向かう。
先日と同じミルクティーと珈琲を購入して公園に戻ると、佐々木さんはベンチに座り、布製の小屋を抱いていた。私が佐々木さんにミルクティーを差し出すと、彼女は、今回は素直にそれを受け取り、ゆっくりと飲み始めた。その様子を見ながら佐々木さんの横に腰を下ろし、私も缶珈琲を飲み始める。
温かい飲み物を飲んで一息つくと、佐々木さんは独り言のように呟いた。
「そういえば、お金、払ってませんね」
「ああ、そういえば」
そこでいったん会話が途切れる。佐々木さんはミルクティーを一口飲み、私は煙草を咥えた。カチッというライターの着火音を合図にしたかのように、再び佐々木さんは私を見ずに口を開いた。
「……何で帰らないんですか?」
佐々木さんをちらりと横目で一瞥する。
「佐々木さんが帰らないからです」
途端、佐々木さんの体がぴくりと反応し、表情がやや強張った。
私は「しまった」と心の中で舌打ちした。私としては、夜の公園に女子を一人置いて帰るのが気が引けるからというつもりで言ったのであって、当て付けや嫌味で言ったのではないのだが、聞き方によってはそう取られてもおかしくない。
案の定、佐々木さんは困惑した顔で、次に自分が言うべき台詞を決めあぐねているようだった。
今しがたの自身の失態を覆い隠すかのように、今度は私の方から質問をする。
「佐々木さんは、なぜ帰らないんですか?」
私からの突然の質問に、佐々木さんは「え?」と少し驚きを示し、考えこんだ。
「私は……、私は、あの仔が心配だから……」
それに対し、私は何も言わなかった。再び沈黙が下りる。
佐々木さんだって十中八九、事態に気づいているはずだ。それにも関わらずこのような行動に出るのは、おそらくその真実を受け入れたくないからだろう。
他人に指摘されて真実を受け入れるのは、もしくは受け入れさせられるのは簡単だ。しかしそれではあまり意味が無いと私は思う。受け入れたくない、認めたくない真実や現実を、自身の目で正面から見据えるとき、人は自分の足で一歩を踏み出したといえるのではなかろうか。
だから私は何も言わない。
約五分ほどの沈黙を破ったのは、佐々木さんだった。
「あの仔猫は……、幸せだったんですかね?」
佐々木さんは、どこかを凝視するような、それでいて何も見ていないような目で話を続けた。
「あの仔猫は……、自分が死んだことに気づかず、母親も居ない状況でたった独りで。……私は、少しでもあの仔猫のためになれたんでしょうか?」
私は気の利いた返答を考えてみたが、良い言葉が見つからず、結局頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「さあ。分かりません」
「………………」
「俺には、幸せの定義付けなんてできません。あの仔猫が幸せかどうかなんて、あの仔猫しか分かりません。そもそも、幸せっていう価値観は人間が作り出したものですから、動物が幸せという感情を持っているのかどうか。『生きていることそれ自体が幸せだ』と言うのであれば、あの仔猫は幸せではなかったということになるのでしょうが」
「……そう……ですか。そうですよね」
一拍置いた後、「帰りましょう」と佐々木さんは呟いてベンチから立ち上がった。それに倣って私も立ち上がる。佐々木さんは私を振り返らずに歩き出し、私もその後を追う。
無言。静寂に包まれそうなるのを阻止するかのように、微かに積り始めた新雪を踏む二人分の足音が、小さく鳴る。
丁字路に差し掛かる直前で、私は言葉を紡いだ。
「だから、これは俺の私見です」
立ち止まり振り向いた佐々木さんの目には、悲哀と疑問の色が浮かんでいた。
立ち止まった佐々木さんの隣を通り過ぎ、丁字路を右へ、彼女の家の方へと歩みを進める。彼女が何か言おうとする気配を感じたが、結局何も言わずに私の後に付いてきた。
「俺は、あの仔猫は、不幸ではなかったと思います」
佐々木さんの家まであと二十メートルほどのところまで来たとき、私はそう言った。
佐々木さんが立ち止まる。私は後ろを振り返りながら、さらに言葉を続けた。
「少なくとも、俺はそう思います。幸せじゃなかったかもしれないけど、ただ、確実に不幸ではなかった」
私は佐々木さんの家の方を向き、再び歩き始める。彼女も数歩遅れて歩き出した。
「それともう一つ。もし、俺があの仔猫だとしたら」付け足すように、独り言のように私は言う。「もし、そうだとしたら。……俺は幸せでしたよ」
佐々木さんの家の前に着いていた。私は振り返り、彼女を見る。
「そして、その幸せをくれたのは、間違いなく佐々木さんです」
「………………」
しばしの無言の後、佐々木さんは私に背を向け、少しだけ肩を震わせながら空を見上げた。
私は、特に深い考えもなく佐々木さんに一歩近づくと、彼女の頭をできるだけ優しく、ぽんぽんと撫でた。
「だから、佐々木さんが気にする必要はあっても、気に病む必要はありません」
少し鼻声がかった声で途切れ途切れに、彼女は「ありがとうございます」と感謝の言葉を述べた。
一分ほどそうしていた後、私は彼女に家に入るよう促す。
「次こそ、ちゃんとお金払いますから」
少し赤い目で、それでも笑顔で、そう言って佐々木さんは自分の部屋に帰っていった。
それを見送って私は家路に着いた。
翌日の大学院二年生の卒業研究発表会は、午前九時に集合することとなっていた。私はそれに、一時間遅刻した。理由はもちろん、寝坊である。
幸い、発表自体は十時から開始なので聞き洩らすようなことはなかったのだが、先輩はもちろん先生からも叱られることとなった。寝坊した理由を問い詰められた私は、「昨夜、なぜか緊張してなかなか寝付けなかった」と嘘をついた。
幽霊の仔猫や佐々木さんとのことは、何となく他の人には秘密にしておきたかったからだ。