行くのか行かないのか 1
8時半で終わりの高学年のコースを疲れ切った顔でぐだぐだと見送った後、教室や使った資材の片付けをしているともうすぐ夜9時になってしまう。全部の授業を終えてくたくただ。片付けて早く帰りたい。授業中も、その合間の休憩時間も、塾長との会話が繰り返し私の頭の中をぐるぐると回った。ネット小説の話ばかり思い出す。そして塾長の恐ろしく綺麗な奥さんの事。インパクトがあり過ぎた。
小説の話はできるなら聞きたくなかったな。だってもう、誰かにバラしたいもん。王様の耳はロバの耳だ。
休憩中にも誰かに喋ってしまいそうで落ち着かなかった。
早く家に帰りたい。早く帰ってビールを飲みたい。
なんとか9時15分までには塾を出ようと、私はせかせかと机の周りを動き、やっと講師控室の方へ移動しようとした時、気配を感じて振りかえるとハルちゃんだ。
ただニッコリと笑いかけてくる。結構まぶしい笑顔だけれど、さすがに疲れているので、わけもなく与えられた笑顔にイラっとする。
あんたのせいで塾長と、いらん話をたくさんしてしまったよ。一人で立ち食いそば屋にまで行ったし、その後の授業中、えらく気が散って生徒に悪い事をしてしまった。ただでさえまだ、教えるのが下手くそなのに。
「休憩の時間いなかったね」ハルちゃんが聞いてくる。
「…もしかして、来たの?」
「どこ行ってたの?」
「ご飯行ってたけど」
「一緒行きたかったのに。じゃあ、用意出来たら送ろうか」
「なんで?」
「なんでって…もう帰れるんでしょ?オレも今日から見習いで先輩の講師について一緒に授業の雰囲気を掴むようにずっと講義を見させられてて、今日はもう帰っていいって言われたから」
「…ありがとう。でも大丈夫だよ。今の時間なら危なくないし、私自転車だから」
「自転車は置いて帰ればいいじゃん。一緒に歩きたいな、リツの家まで。車で送ってもいいけど」
「私本当に大丈夫」
「…」フッと気を抜いたように笑ってハルちゃんは言った。「絶対そう言うと思った」
私も仕方ないので作り笑いで返した。
「今日、じい…じゃなくて塾長に何か言われた?オレの事」
「…え~と特には何も」
ハルちゃんは私の眼をじっと覗き込む。「そう?」
「ミノリ君の方が昔のハルちゃんに似てたね」私は話を反らすために言う。「みんなにミィ君、て呼ばれてたよね?一緒にバイトするんだね。兄弟仲良いねぇ。私も兄弟欲し…」
ちっ、と彼が私の話を遮るように舌打ちをした。「なんかわかんないんだけど、あいつはえらくオレに対抗心を燃やしてて、ここより時給の高いバイトしてたにも関わらず、こっちに来たんだよね、超めんどくさい」
「私あんまりミノリ君のむかしの顔覚えてないんだよね。何かちっちゃくてすごく可愛かったっていうのは覚えてるんだけど…抱っこしてあげたり、おんぶしてあげたり顔拭いてあげたりもしたんだけどな…あんまりうちに来なかったし」
「…そう?」
私はちょっとふざけた感じで笑いながら言ってみた。「もしかして仲悪かったの?」
「…」
ハルちゃんが変な顔をした。まずかったのかな。兄弟仲の事なんかむかしの一時期しか知らない他人が言ったりしたら。ハルちゃんのうちは親が離婚もしてるし、余計な事言わない方が良かった。
「じゃあ、今日オレんち寄ってく?」
続けてスラッと誘われる。何が「じゃあ」なんだ、と思うが興味本位で聞いてしまう。
「塾長と一緒に住んでるの?」
「ううん、近くで一人暮らし始めた」
この人やっぱり本当は彼女がいるんじゃないの?
「寄らない?」ともう一度聞かれる。
「…」首を振る私だ。
「まあね~。すぐには無理なのわかるよ。今度の日曜のオレらの歓迎会、リツも来るよね?」
今日塾長が朝礼で言ってたやつだ。…泉田先生行くのかな。
「リツが来ないなら行きたくないな」
「何で?ハルちゃんたちの歓迎会でしょ?主役じゃん。絶対行かなきゃ」
「じゃあリツも来てよ絶対。楽しくないよ。リツがいないと」
こんな感じで、いかにも好きな相手に言うようなセリフをすらっと言えるんだな。嫌だな、なんとなく。




