第二章 悪魔
残念ながらアクマイト光線は撃ちません。
0
「シロッ! もうやめてッッ!!」
叫びは届かず、シロは赤く染まった眼を光らせ、襲いかかってくる。
「――痛っ!?」
天使魔法師にもかかわらず、避ける素早さも防ぐ力も無い白舞は、がむしゃらに身を捩りながら左腕を前に翳す事しかできなかった。犠牲にした腕に激痛が走り、血と肉が飛び散る。傷口を直視できなかったから怪我の程度は分からないけど、多分、肉まで大きく抉れた。それでも、これまでの経験で、何とかのた打ち回るのを堪え、よろめきながらも立ち続ける。
「――っくうッ」
傷口が塞がり、元に戻るおぞましい感触。自己修復は無意識にできるようになっても、この感覚だけは何度経験しても慣れることはできそうにない。
「っ……」
数秒もすれば痛みは消えるだろう。だけど、記憶は消えない。まだあの痛みを感じるのかと思うと、それだけで膝が震える。
「シロ……。どうして――?」
変わり果てたシロの姿を見ても、白舞はまだ信じられない。雪のように白かった毛皮は闇色に染まり、眼は赤く変色している。体は不自然に膨らみ、無理やりに隆起して捩れた筋肉が余計に禍々しい印象を与える。
……それでも、シロはシロだ。呼びかければきっと、意識を戻してくれるはず。そう信じて、白舞はここに立っている。
だが――
「っやあ!!」
かろうじて右手で握っていた杖を、両手で握り直し、その先端をシロに向けて近づこうとするけどするけど――その瞬間に避けられる。
――グルルルルルル……
牙を剥き出しにして唸るシロ。それだけで白舞は、足がすくんでしまう。
――動きについていけない。
シロにわたしの魔法さえかけることができれば、どうにかなるかもしれないのに。……だけど、天使魔法師になってさえもトロくさくて。身体能力なんて上がってないし、戦いの身のこなしなんて全く知らない。
――グルォッッ!!
「きゃあっ!?」
しまった、と思った時にはもう遅い。
成すすべもなく、ただ口を開けて襲いかかってくるシロの牙を見つめるしかなくて――
……あはは。
これは致命傷、だよね。首を落とされても回復できるのかな。……痛いだろうなあ。
――それとも、死ぬのかな、わたしは――
わたしは――――…………
1
「……夢?」
ゆっくりと、目を空ける。
カーテンの隙間から零れる朝日。それが眩しくて、白舞は目を細めた。
光に目が慣れるのを少し待ってから、白舞はゆっくり部屋を見渡す。……洋箪笥、鏡台、本棚、勉強机、そして自分のベッド。そこにあるのは、いつも通りの光景。――まったく、いつも通りの光景だ。
……なぜだろう。当たり前のはずのそれに、どうしてか違和感を覚えてしまう。だけど、その違和感が何なのかまるで分からない。
覚醒未満の頭はぼんやりとしていて、考えがまとまらず、断片的な思考がいたずらに浮かんでは零れ落ちてゆく。ついさっきまで見ていたはずの夢の内容すらも、ほとんど思い出せなかった。
「……寝ぼけてるのかな」
呟き、身体を起こしてベッドの上の這い窓ににじり寄る。そのままカーテンに手を掛け――勢いよく開いた。
途端に、窓から差し込む強烈な陽の光。それが許容を超えた光量で、起きたばかりの網膜を灼いた。真っ白に塗りつぶされる視界。容赦なく照らす陽の光で、白舞は強制的なバイオリズムのリセットを試みる。
「……ふう」
光に目が慣れた頃には、意識も充分に覚醒していた。窓を開けて部屋に風を通し、ベッド上の布団を片付けて押し入れに入れる。それから制服に着替えトイレを済ませ洗顔と簡単な身支度をした後、朝食をとり新聞に目を通しもう一度身支度を整え鞄の中身を確認し、それから学校へと出かける。所要時間は約一時間。起床時間は問題なし。
ようやく回ってきた頭の中ででいつもと同じ手順をざっと確認しながら、白舞は手早く制服へと着替える。どうも何かを忘れているような気がしたけど……それが何なのかは思い出すことができない。まあ思い出せないってことは、そんなに大したことじゃないはず。そう思い、白舞は深く考えることなく部屋を出る。
だから、白舞は気づかなかった。
――部屋の隅にそっと佇む、純白の卵に。
2
「おはよう、お母さん、お父さん」
「おはよう白舞」
「……ああ、おはよう」
白舞の挨拶に、二人はいつも通りの答えを返す。
いつも通りの朝。いつも通りの日常。
「今日はお母さん、帰るのが遅くなりそうだから、鍵持って行ってね」
「……うん」
答えながらも、白舞は、起きてからずっと、どこかもやもやとした感触が拭えなかった。
なにか、違和感がある。なにか……釈然としない。だけどそれが何なのか、まるで分からない。自分がどこに違和感を感じているのか、まるで分からない。何もおかしいことはない、何もおかしいことはないはずなのに。
「白舞、食事の手が止まってるわよ」
「うん……ごめんなさい」
もやもやは消えない。違和感は拭えない。何なのだろう。一体何がおかしいのか。
何が、おかしいというのか――……
「ねえ、お母さん」
白舞は、何気なくその疑問を口にした。
「わたし――昨日何時に寝たっけ?」
「へ……?」と眉をひそめる母親。
「さあ……知らないわよ、そんなの。私、あなたより早く寝たんだから」
「そっか、……そうだよね、ごめん」
少々バツの悪い思いであやまり、ついでに「お父さんは?」と訊く。
「さあ、知らないな。帰ってきたら少なくともリビングは暗かったし、白舞の部屋を覗いたらもう寝てたぞ」
「そっか……」
……あれ?
――白舞の部屋を覗いたらもう寝てたぞ
…………え?
なに? 今、なんで疑問を感じたの?
何もおかしいことはない、はずなのに。
――なんだろう、これ……
「……白舞。あなた、昨日のことも覚えていないの?」
「おいおい、その年でアルツハイマーは無しだぞ。若いうちからそれじゃあ老後が心配だな」
「あ、いや……」
曖昧に返事をしながらも、なぜか――何かが引っかかる。
胸中に漠然とした不安を抱えながら、白舞は味のしない食事を続ける。
「……どうしたの、白舞?」
「……え?」
母親は怪訝そうな顔で、白舞を見つめていた。
「どうしたのって……」
「今日、なんかぼんやりしてるでしょ、白舞。返事だってちゃんとしないし」
「あ、ごめんなさい……」
「ごめんなさい、じゃなくてね」
母親は溜息を吐いた。
「何でそんなことになってるかって訊いてるのよ、私は。何かあったの?」
「ううん、別に……」
「そう……。とにかく、あまりぼんやりしないようにね。危なっかしいから」
「うん……」
分かってる。気をとられるべきことなんて、何もないはずなのに……。
「あまり夜更しとかしちゃダメよ」
母親はキッチンで忙しく作業をしながらそう釘を刺し、
「あ、あとシロの餌、お願いね」
「あ……」
今、何て……――
――シロの餌お願いね
――シロの餌お願いね――……
――シロの餌お願いね――――…………?
――……………………………………あれ?
「……――ッッ?!」
「……白舞?」
息を呑んだ白舞は、母親の声を無視し、突然立ち上がる。そのまま脱兎のごとく部屋を飛び出し、玄関から外に出た。駆け足で一直線に見知った犬小屋へと向かい――
「――シロっ!」
……シロは、そこに居た。
何の傷もなく、何の汚れもなく、何の変りも無く。
昨日までそうだったように、いつものように――そこにいた。
「し、ろ……?」
当たり前だった光景。それなのに、白舞には当たり前とは思えない。
――強烈な違和感。なぜ、シロのことが気になった? シロは、シロは……――
「――ッッッ!!」
血溜まりの中。
紅く、血に染まった毛皮。
だらりと横倒しになった躰。
苦痛に歪んだ顔が、虚ろに濁りきった眼が、白舞をじっと見つめ。
何かに轢き潰されたように変形した胴体の、その拉げた腹からは――……ッ!!
……思い出した。
シロは、昨日――……
――でも、それなら、なんで……
頭が痛い。
まだ忘れている……? そう、たぶん忘れている。だって、夜中にシロを探して、見つけて、ショックで気を失って――
……本当に?
――ショックで気を失った?
違う。
――そうじゃない。……落ち着いて考えなきゃ。考えを整理しなくちゃいけない。
一旦、シロから目線を外した白舞は、立ち上がって振り返り
「……――ッ?!」
――影。
一瞬目の錯覚かと思った。だけど違う。瞬きしてもそれは見える。
……黒い、影。
空間がそのままくり抜かれたような、虚空にぽっかりと空いた穴。世界からそこだけが欠落したような虚無の闇色を映すそれは…… 目を凝らし、直視し続けていると、別のものに見えてくる。漠然とした認識から明確な認識へと。
――ソレがはっきり見えるようになり、別のモノだということが、分かる。
「……やっと、思い出したかい?」
純白の卵。
そう、影なんかじゃない。純白の卵、のカタチをした――天使。
「……リカエル?」
「そうだよ。僕はリカエル。君の契約天使、リカエルだ」
「契約天使……」
そうだ、リカエルはわたしの、契約天使。そう、わたしは――天使魔法師、になった。
「そっか、昨日のこと……」
忘れてた。シロがどこかに行ってしまったことも。シロを探して歩いたことも。無残なシロの姿を見てしまったことも。そして――その後の奇跡のことも。
いや……違う。もしかしたら覚えていたのかもしれない。だけどそれは――
「夢だと思ってたのかもしれない……。だけど――現実だったんだね」
「そうだよ。君がそう信じている限り、君にとっては――そうなる」
リカエルは、無機物のようなその身体を小さく震わせた。滑らかなはずの卵の殻の、その両横から――純白の翼が飛び出す。
「……君が僕の存在を再認識してくれたおかげで、この世界に存在を固定させることができた。……危なかったよ。もう少しで、僕も、君の力も、この世界から抹消させられてしまうところだった」
「世界から、抹消……?」
「そうだよ。世界は――君たちの世界は、ありえないモノ、ありえない存在、ありえない事象を捻じ曲げて修正し、その痕跡を抹消する。世界が正常とする法則に矛盾しないよう、世界の事象を書き換える。だから――魔法という世界の異物は、人々が認識することができず、世界がその存在を許さない」
「どういう……こと?」
「魔法という異法則が世界の結果を書き換えれば、世界の修正力――『テミスの天秤』が結果に至る過程を『正しき世界法則』に矛盾が生じないように書き換える。……君は昨日、死んだシロを魔法によって蘇生した。しかし、シロが生き返れば、世界はその過程を捻じ曲げ『最初からシロは死ななかった』という事実へと書き換える。そしてその事実は、魔法の行使手たる君以外の――全ての人間にとって真実となる」
――白舞の部屋を覗いたらもう寝てたぞ――
……そうだ。
昨日、確かにお父さんと、リビングで話していた。だけど……その記憶は――
――シロの餌お願いね――
……――その事実は全部、無かったことになる。
「そっか……」
魔法、という言葉の意味を、初めて理解した気がした。
「わたしが魔法を使ったことも、わたしが魔法を使うきっかけとなった何かも――わたし以外、誰も知ることはないんだね……」
わたしだけしか、知らない。わたしだけしか覚えていない。だから、わたしは魔法を使ったのか、それとも、ただ夢を見ていただけなのか、それを確かめる方法だって……ないんだ――
「……怖いかい?」
「……ううん。怖くなんて、ないよ」
リカエルの言葉に、白舞は静かに首を振った。
「だって、悲しいこと、辛いこと、そういうのも全部、無かったことにできるんだから。それって――とってもいいことだよ」
そして白舞は、目の前に浮かぶ純白の卵を、両手でそっと包み込む。
「ねぇ……リカエル」
掌から伝わるのは、ほのかな温かみ。無機質な外見に反して、契約天使の、その身体は温かかった。小さな身体から伝わるぬくもりは、白舞を無性に安心させる。
「これからリカエルのこと……『リカ』って呼んでも、いいかな? わたし、リカと友達になりたいから」
「――もちろんだよ」
リカエルは――リカは、羽をパタパタと上下させた。顔を持たない天使にとっての、それが唯一の感情表現の方法だった。
「白舞は、僕の相棒なんだからさ。もちろん、友達にだってなれるよ」
白舞は、消えかけた夕焼けのような笑顔を浮かべた。そうして、手に握った卵を、こつんと額に押し当てる。
「それから……もう一つお願いがあるの」
白舞はそっと。ずっと胸に仕舞っていた言葉を口にする。
「ずっと、わたしのそばにいてくれる? ずっと……ずっと、わたしの味方でいてくれる?」
沈黙は、刹那のうちだけだった。
「――約束するよ」
リカエルは、真摯な言葉で言った。
「僕は絶対に、何があっても君のそばにいる。君の味方でいる。誰が君を裏切り、誰が君の敵になったとしても、僕だけは――絶対に裏切らないから」
それは、白舞と、リカエルにとっての誓いの言葉だった。何よりもかけがえのない約束で、これだけは絶対に裏切られることはないのだろうと、白舞はそう確信することができた。
「ありがとう……リカ」
白舞は、純白の身体にそっと囁いて、それから手を離す。掌から離れた卵は宙に消えて見えなくなる。
……それでいい。見えなくてもリカエルはそばにいる。自分と繋がっている。それを、白舞は感じることができた。
だから、白舞はそれ以上の何かをすることもなく踵を返し、家へと戻る。
――いつも通りの、何事もない日常を続けるために。
3
「おはよう、ひろみちゃん!」
白舞は、待ち合わせていた親友に声をかけた。
大きな港湾施設一帯を見渡すことのできる、綺麗な硝子張りの歩道橋。その先に繋がっているのは、駅。港とその先の人工島を繋ぐ、新交通システムを用いた無人列車のものだ。ポートライナーやゆりかもめと同じ、完全自動制御による新しい電車は、この街の名前を用いて美浜ライナーと呼ばれている。
そして、美浜ライナーの出発点は、白舞にとっての待ち合わせ場所でもあった。
「おはよー白舞!」
駅の入口付近で手を振っているのは、ショートヘアで少し背が高めの、快活そうな女の子。
仲西ひろみ。白舞と同じ高校二年生で、親友でもある。こうして、登校の時も一緒にいてくれるのだから。
「……なーんだ。元気そうだね、良かった良かった」
「わたし、何か心配されるようなことしたっけ……?」
「いやあ、……ぶっちゃけ白舞は普段から心配かけるキャラだし」
「どういう意味なのそれ……。心外だよ……」
「あれ? そうなの?」
「ひろみちゃんひどい……」
いつも通りのやりとりをしながら、白舞たちは駅へ入る。彼女たちが通う学校は、港の先にある人工島の中にある。毎日の通学で美浜ライナーに乗って、白舞たちはそこへ向かう。
白舞は、港が見えるこの景色が大好きだった。整然と並んでそびえる、赤と白の大きな大きなクレーン。広々とした港に並ぶ、色鮮やかなコンテナたち。白い柱と透明な硝子で彩られ、形作られた港街の建物たち。みんな、いつ見ても綺麗なのだ。昼は陽光に照らされて輝き、夜もまた――街の灯が無数の輝きを放つ。
……だけど、ただ一つ。
白舞たちには割と大きなというか、辛い問題があった。
「相変わらずだよね、この混み具合は……」
ひろみはそう呟いて、改札の方を見る。駅を通る人の数は近くの場所を全部埋め尽くすほどで、ぞろぞろと改札を通り抜けてゆく人の流れは絶えることがない。
「美浜アイランドに行く人は、この電車に集中するから……」
「だね。いくら自動制御を駆使した過密ダイヤをもってしても、この数じゃ捌ききれないか……。色んな方面から人が集まってくるわけだし」
そう。問題なのは、このラッシュ。根っから都会育ちのひろみさえ『割と尋常じゃない』と評するこのラッシュ、出身が田舎の白舞にとっては本当に苦痛でしかない。人ごみのなかでぎゅうぎゅう揉まれ、流れに翻弄されながらも頑張って歩くのは、とにかく大変なのだ。
「でも何で、こんな美浜アイランドに行く人が多いのかな……」
白舞の言葉は、疑問というより愚痴だった。なので、答えも分かり切っている。
「まあ、あそこにはうちらの学校だけじゃなくて企業とかも色々入ってるしね。しかも通勤時間帯とうちらの通学時間帯が同じっぽい……。重なれば凄い数になるのは、まあ仕方ないかな」
むしろ、あんな地価の高いところに学校があるほうが珍しいんだけどね、とひろみは付け加える。
改札を通り抜けると、後は人の流れに乗って足を進めるだけ。時々足を踏まれる度に、この時だけは革靴で良かった、と思う白舞だった。
4
エメラルドブリッジ。港街と人工島を繋ぐ、大きな橋だ。夜にはエメラルド色の色彩でライトアップされて輝くことからそう名付けられたこの橋は、一種の境界線と言ってもいい。港側とアイランド側の。
この橋を越えると――世界が変わる。
――美浜アイランド。
それが、エメラルドブリッジの先にある人工島の名前。
そこは、異世界だった。
まるで空港の敷地内でもあるかのような広々とした空間。高層ビルがすし詰めになっている港街と異なる、開放的で贅沢な土地。幅の広い道路脇を整然と緑が彩り、巨大な建物とそれを繋ぐ通路が立体的な一つの都市を形作る。ビル、駐車場、道路、空き地、その全てが圧倒的に巨大で、どこまでも綺麗だ。
第二世代新規開発都市――美浜アイランド。
……それは、白舞にとって、俗世から切り離され、超越した存在のように思えた。
美浜アイランドの広大な空間を貫き、また優雅に複雑な曲線を描く、白い高架線路。その上を走る美浜ライナーは、やがて白舞たちの目的地に近づいてゆく。
「次は、『美浜学院大学前』、『美浜学院大学前』。Next station is "Mihamagakuin University"……」
ライナーのアナウンスが、目的地である次の駅名を淡々と告げる。
『美浜学院大学前』は、その名前の通り白舞たちの通う学校の最寄駅だ。もちろん、白舞たちは大学生じゃない。美浜学院大学と、白舞たちの通う美浜学院大学附属高等学校、それから付属中学も全て同じ敷地にあるのだ。
「ふあー……。今日は良い眺めだー……」
ライナーから降り、ラッシュから解放されて一心地のついたひろみは、欠伸混じりにそんなことを言う。人工島から眺める晴れた日の海はどこまでも広大で、陽光に照らされてどこまでも澄み渡っている。
「うん、とっても綺麗だよね」
白舞も頷き、海の上から吹いてくる風の涼しさを楽しんだ。
心地よく髪を揺らす微風にスカートを躍らせながら、二人は学校までの道のりを歩く。道のり、といっても二分もかからないけれど。
――美浜学院大学附属高等学校。高校といってもこの一帯で地価が最高額である美浜アイランドの一角、それも大学のキャンパスの中にあるのだから、普通の学校とはまるで趣が違う。
特に公立中学出身の白舞は、初めてこの高校に来たとき度肝を抜かれた。
校舎の広さ、豪華さ、綺麗さ、その全てが、白舞の知るものから遥かに凌駕していたのだ。高校どころか並みのオフィスビルだって到底敵いやしないその設備は、大学と同じ設備を流用したこの高校ならではの利点。サッカーフィールド並みの広さを持つハードラバーのグラウンドも、天然芝のテニスコート六面も、柔道場が付属された冷暖房完備の体育館も、全て大学の施設を共有できるからこそ使えるものばかり。
そんな贅沢な――本当に贅沢な学校なのだ、ここは。
「ねえひろみちゃん」
そう言って、ちょいちょいと袖を引っ張る。
「ん、なに――っておわっ?!」
白舞かと思って振り向いたひろみは、大声を上げてのけ反った。振り向いた方向と反対側にいる白舞はキョトンとして、そのやりとりを見つめている。
「びっくりしたー……。気配消さないでよ美露……」
「消してないよ、消えてるだけ」
「一緒だから!」
美露と呼ばれた少女は、ひろみを挟んで白舞の反対側に、いつの間にか立っていた。
淡浦美露。
別名――ニンジャ。
己の気配を完全に消し、誰かの背後にこっそり回ることを得意とする、現代まで続く忍びの末裔。
……という設定になっている。
こういう設定とか別名とかそういうのを考えたのも例によって件の厨二なマニア。でも忍者の末裔云々はともかく、気配が無いのは本当だ。白舞も、ひろみの声で始めて美露に気がついたくらいなのだから。
「今日転校生来るって」
美露の話はいつも突然だ。前置きとか一切なしに本題に入る。おかげで黙っている時の気配が薄くてもひとたび喋ればキャラは濃い。唐突に来て喋り、唐突にいなくなる。ひろみいわく「ヒットアンドアウェイ方式」のコミュニケーションは美露というキャラの自由度がいかに高いかを象徴している。
「……転校生?」
寝耳に水の話に、眉をひそめるひろみ。文字通り眉唾物の話だと思ったみたいだけれど、美露はこともなげに、
「うん、先生から聞いた」
どうやってそんな情報を聞きだしているのか気になるひろみたちだったが……敢えて追求しない。それが自他ともに認める謎キャラ美露に対する暗黙の了解だった。
「でも、今の時期に転校生なんて珍しいよね」
美露登場以降存在感を掻き消され、さりげなくハブられそうになっていた白舞は何とか会話に復帰する。一番の親友であるひろみにまで忘れ去られたらそれこそ目も当てられない。
「ああうん。そうだよね。転入って、結構学力のある子じゃないと……」
白舞のことを忘れかけていた、なんて態度はおくびにも出さずもっともらしく頷くひろみ。
「てことは頭良いんだろうなあ……」
美浜学院は附属中学から大学までエスカレーター式に上がることのできる学校だけど、もちろん全部が中学生からの内進生じゃない。高校、大学からの募集もたくさんあるし、その入学試験もそれなりの難易度がある。そして、転入の場合も試験を受けなければならず、その難易度は普通の入試よりさらに跳ね上がる。噂では高一の転入試験でも高三レベルまで必要だとか。事情は白舞たちには分からないけど、とにかく本来の偏差値よりもずっと高いレベルの試験をクリアした猛者なのだ、転入生は。
「頭が良くて、しかも物好き」
美露はなぜか神妙な顔で言う。「物好き?」と疑問符を浮かべているのは高校から転入した白舞だけ。
「ぶっちゃけアタマと学校が釣り合わないっていうかねえ……」
「転入する学力があるなら他のもっと賢い学校に行った方が良い」
ひろみが言葉を濁した事柄を、美露は臆することもなくずばりと言ってのける。
白舞は「そっか……」と微妙に納得していないような表情で頷く。
別に偏差値だけが学校の価値じゃない。この学校は他にも良い所はたくさんある。少なくとも白舞はそう思う。
「てか、その転入生って男子? 女子? ……ってあれ」
ひろみが再び声をかけようとすると、美露はもういない。ふらりと現れふらりと消える。それが気まぐれな美露の生態なのだ。
「それよりひろみちゃん、ゆっくりしてると遅れちゃうよ」
白舞につつかれたひろみが我に返ると、ホームルームの時間まであと十分もなかった。
5
「それでは、転校生を紹介するわな」
今年の担任は果たして当たりだったのか外れだったのか。それすらいまだに判断をつけることのできない老人の謎教師、石間有三は言葉に妙なアクセントをつけながら早口でぼそぼそと喋った。
「この転校生は非常に頭が良く、良い奴だと予想することはごく容易なことだわな。なんとなれば、かの有名な転入試験をほぼ満点で通ってしまうほどの頭脳の持ち主だであるからだわな。知っての通りあの試験は鬼のように難しいなぜならこの私が造っているからだわな、明らかに高校レベルを逸脱した私の趣味の鬼畜問題をよくぞ解いてくれたと賞賛したいわな」
おい、という小声のツッコミが教室の隅から聞こえる。この人が試験問題を作っているっていうのは、もちろん初耳だ。しかも聞いていたら色々と問題発言が……
「まあそれはともかくとして、転校生の素性について軽く説明しておくとするわな。この転校生の名前は、」
カカカカカカカッッ!! とチョークの文字がマシンガンのように響く。掌を上に向けるようにして普通のは逆の持ち方で握られているチョーク。傍から見ると痙攣しているようにしか見えない速さの右手によって紡ぎだされる文字は、ものすごく汚いかわりにものすごく速く書かれる。
「――『神原樹』と読むわな」
前に書かれた字をカカカカッ! とチョークで叩き石間は言う。読めねえよ、と後ろの男子がぼやくのを白舞は聞いた。だけどそれは、いつものことだ。『板書殺し』で有名な石間先生の『超連射書き』は負の超絶技巧として全校に名を馳せている、らしい。
「この神原という生徒は非常に」
そこで唐突に言葉を切った石間は、「あのー……」と控えめに手を上げている男子生徒に気付いた。
「何かな、桐岡君?」
ビシリ、とチョークで指さされた彼は、微妙に困惑の表情を浮かべながらも口を開いた。
「そういうのって、自己紹介で本人が話すもんなんじゃ……」
「――桐岡君!」
石間は言葉を遮って、再びビシリとチョークで彼を指し、
「自己紹介とは一体何かね!?」
「え? ええと……」
「自己紹介というのは!」
戸惑う彼を置き去りにし、石間は声を張り上げる。珍しくその声には熱が籠っている。
「自身の内面から自身を分析した主観的情報を他者に与えるだけのことに過ぎない! これを、」
カカカカカカカカカカッッ!! と残像が見えるほどの速さでチョークが動き、あっという間に図を書き上げる。
「見て欲しい!」
ダンッ! と図を拳で叩く。……ていうか何これ? と白舞は首を傾げた。書かれているのは、四マスの長方形だけ。
「自己の像とは自分が認識している部分、他人が認識している部分、またそのいずれにもあたらない部分がある。そこで」
長方形の横に書かれるのはなぜかベン図。
「自己が認識してる自己像の集合をA他者が認識している自己像の集合をBとすると自己紹介で得られる情報はAのみとなるこれを他者が紹介するとBの情報が追加で得られこの時得られる情報の合計はAまたはBの集合となるつまりこの情報差はBからAかつBを引いた集合に相当する。これは裏を返せば得られなかった情報は前者ではAの補集合に相当一方後者ではAまたはBの補集合相当となりこの情報差はBからAかつBを引いた集合に等しい。分かるかね、これほどの情報差が出るのだ!」
ドヤ顔で最後まで言いきった石間は、そこで生徒全員がポカンとした表情をしていることに気付く。おほん、と一つ咳払いし「まあ、その、なんだ、大きく横道に逸れたわな。せっかくだから私からも少し紹介しておこうか、と思うのだわな」と仕切り直し、黒板消しをこれまた高速で動かす。
「神原君の成績が良いのは先に述べたが、それは模試の成績にも裏付けされているのだわな。とある予備校の模試では総合科目で偏差値68という数値を叩きだしているわな。まあそんな成績優秀な神原君だが、素行についても優秀だったわけだわな。性格は穏やかで真面目。交友関係も良好。また独特のユーモアセンスも持っているとの話もあったわな。少なくとも教師にとっては優良な生徒であったということがわかっているわけだわな。趣味や特技については特定のものは持っていないらしいが、ピアノやバイオリンの素養が少々ある、というのを本人から聞いた人がいるそうだわな。また体育の授業もそつなくこなしていたことから、運動神経もそれほど悪くないみたいだわな」
ニュースキャスターの二倍くらいの速度で一気に喋りきった石間は、そこでちらっと時計を見て「そろそろだわな」と呟いた。その時、
――トントン。
扉をノックする音。「秒単位でぴったりだわな」と呟いた石間は「入ってくるわな」と扉の向こうに告げる。
ガラリ、と。扉が開かれた、その瞬間――白舞は息を呑んだ。
6
――美少年だった。それはもう、全く文句のつけようがないほどに。
一見すれば少女と見紛うほどの、整った顔立ち。肩上までさらりと流れる、柔らかな栗色の髪。華奢ではあるけれど、どこか芯の強さを感じさせる体躯。そして――柔らかな表情。その全ての要素が、中性的で不可思議な雰囲気を醸し出している。
「神原、樹です」
彼は、涼やかな声で名乗り、黒板にも名前を表記した。彼の流麗な楷書は、石間の書くグチャグチャの文字とは天と地ほどの差がある。綺麗で整っている――機械のように整っている、字体。
「北都星城蘭華学院から転校してきました。どうぞ、よろしくお願いします」
柔和な微笑みを浮かべ、一礼。
そして、
「まあ、転校生に質問のある者は遠慮なく訊くがいいわな」
そう、石間が告げた、次の瞬間――
――――――ッッッ!!
教室にありえないほどの声の爆音が響く。
「イケメン! 超イケメン!」
「美形! しかも守ってあげたくなる系の!!」
一気に押し掛ける女子生徒。おろおろする白舞や一部の女子、大半の男子を取り残し、一気に神原へ殺到する生徒たち。「色ボケ猫どもめ……」というひろみの呟きは喧騒に掻き消され、誰の耳にも入らない。
「あ、いや、そんな一気に質問されても……。僕、聖徳太子みたいなスキル持ってないし……」
おろおろしながらも「質問は順番にね」などと上手くやっているあたりを見て、結構器用な人なんだな、と白舞は思った。その白舞は彼に近づきたくても近づけず、遠くから眺めることしかできていない。だけど、もちろん彼に興味が無いわけじゃなかった。
「ほらほら、転校生さん困ってるじゃない。離れた離れたー」
しばらくしてひろみの声が響く。自分が作りだした状況のくせに唖然として突っ立ったまま何もできない石間の代わりに、ひろみの言葉は喧騒を切り裂き、混沌とした状況を一気に収束させる。
「ええと……じゃあ席神原君、席はそこだわな。何かわからないことがあれば隣の人などに訊くと良いわな」
そう言って石間が指したのは
――ってわたしの隣!?
慌てる白舞をよそに、神原は白舞の隣の席に歩いてくる。
――何でわたしの隣? そう言えばここの席の子ってこの前骨折して入院したんだっけ。でもそのうち戻ってくるしいいのかな。というかわたし、男の子と話したことなんてほとんど無いよ……。
――いや、でも。
考えようによってはチャンスなのかもしれない。ひろみちゃんなら絶対そう言う。だって、こんな男の子と話せる機会なんてそうそうないもの。尻込みせずに勇気を出せば、わたしだって――
「米原さん」
「――ひゃうっ?!」
落ち着こうとしているつもりで頭がぐるぐるになっていた白舞は、唐突に(白舞からすれば、だが)話しかけられ、思わずヘンな声を出してしまう。
「これから、よろしく。隣だから色々世話になるかもしれないけど、僕も何かできることがあったら手伝うよ」
「あ、う、うん、よろしく……」
白舞の挙動不審にも一切微笑を崩さず話しかけてくる神原に対して、白舞は上ずった声でなんとか返事を返した。
「聞いてはいたけど、白舞の異性慣れの無さは相当なものですな……」と独りごちるひろみの声は、もちろん二人には届かない。
そして、そこでチャイムが鳴り、長いはずのホームルームは転校生絡みでほぼすべての時間を費やして終わりを告げた。
――二人の邂逅は、たった四行の会話だった。
7
だからって、今日中に決めなくてもいいのに。
そんなモチベーションなのは、白舞だけではなかった。
「とりあえず今日中に球技大会の割り振りを決めてもらうわな。面倒なことは後伸ばしにしない方が身のためだわな」
そんな石間の一言で、放課後の会議は決定された。
――球技大会。
あえて詳しく説明をする必要はないと思う。基本、やることは名前の通りだ。種目はソフトボールとバスケットの二種目。クラスでチームを割り振り、トーナメント形式で戦う。優勝したチームのクラスには商品がもらえるんだとか。まあそんなところ。
正直、白舞はこの手の行事が嫌いだった。単に運動が苦手だというのも理由の一つ。……だけど他にも理由はある。
「さて、では始めますか!」
教師の代わりに教壇に立つのは、桐岡という男子生徒。それと――
「……んで、さっさと終わらせましょ」
仲西ひろみ、だった。
「まずは、みんなにどこのチームに入るか決めてもらうってことで。とりあえず……」
ひろみは、球技大会に出場するチームの種類と各々の定員を素早く黒板に書いてゆく。そんなひろみの姿をぼんやり見ながら、場場慣れしてるんだな、と白舞は思った。おそらく、中学時代からクラスの中心に立っていたのだろう。どんな仕事でもテキパキと進めるその姿は、白舞とは速度感が違う。
「んじゃ、右端から順番に言ってくからそのチームを希望するやつは手を挙げるって方式で――」
「――待った。その前に、少し、いいかな」
桐岡の声を、一人の男子が唐突に遮る。
「ん? 何だよ木村?」
「少しみんなに提案があるんだ。良ければ僕の意見を言わせてくれないかな」
木村、と呼ばれた男子は、細いフレームの眼鏡を指で押し上げ、桐原に視線を送る。桐原は少し考え込んだが、すぐに承諾の笑みを浮かべた。
「いいぜ。提案があるなら言ってみろよ」
桐原の言葉に頷いた木村は、席から立ち上がり、教壇へと上がる。
「みんな。せっかくの球技大会なんだ。ここはもっと――戦略的にチームを編成しないかい?」
「……戦略的?」
クラスのみんなの疑問を代表したかのように問う桐岡に、木村は最初から台詞を用意していたかのように饒舌に語り始める。
「そう、戦略的にだ。今の方式だと各々の希望でチームが割り振られ、定員の関係で希望が通らなかった人間はじゃんけんで別の所に割り振られる、というものになる。しかし、それで戦略的合理性は得られるか?」
「つか、そもそもそんなにこだわる必要があるのかよ」
クラスメイトの誰かの問いに、木村は大仰に手を広げ、得意げに答える。
「仮にも球技大会は体育祭と並ぶ一大イベントだからね。それに、景品もある。幸いこのクラスは人材が豊富だ。やりようによっては充分優勝も狙える。そのチャンスを最初から放棄するのはもったいないと思わないか?」
「…………なるほどな。一理ある」
「……ちょっと桐岡。あんたは賛成なの?」
顎に手を当ておもむろに考え始める桐岡に、ひろみはあまり気乗りしなさそうな声で訊く。
「……どうだろうな。どちらにしよ、俺らだけで結論は出せねえだろ。みんなで多数決を取ればどうだ?」
「それには賛成。でも、その前に反論したい人がいるならみんなの前で言う権利はあると思う。どう? 木村くん?」
ひろみに聞かれた木村は肩を竦める。
「もちろんいいと思うよ。それならいっそ、公開形式のディベートでもしないかい? それから、みんなで多数決を摂ればいい」
「……なるほど、そのやり方ならフェアだな。ひろみ、それでいいか?」
「私は構わないけど。みんなは……」
と、クラス全体を見渡したひろみに、
「ま、いいんじゃね。それが一番公正だし」
「ディベートか。面白そうだよな」
「議論と多数決は民主主義の基本だもんね」
クラスのみんなは次々と賛同する。おおよそ肯定の意思を汲み取ったひろみは、
「じゃ、ディベートってことで」
と宣言する。
「そんじゃ、木村の意見に対して反論なり別の提案がある奴は手を挙げてくれ」
「なければこのまま多数決に入っちゃうからねー。主張するなら今のうちだよー!」
桐岡の言葉をひろみが補足し、二人はクラス全体を見渡す。
……ややあって、一人の女子が手を挙げた。
「はい、草原さん」
ひろみに呼ばれ、草原という女子は立ち上がる。小柄な身体に、端正な顔立ち。確か、クラスでも指折りの成績優秀者。
「……私は、木村君の意見には賛同できません。最初の、既定路線でのチーム決めを推奨します」
草原は結論から言うと、こんどはその理由について淡々と語り始めた。
「木村君の言う戦略的合理性は何でしょうか。おそらくは木村君自身やその他少数による主観的な決定によって構成されるチーム編成のことを指すのでしょう。しかしそれが本当に『戦略的』となりうるのか、実際の試合で効を奏するのか、その保証は全くありません」
そこで草原は一旦言葉を切り、木村の顔色を窺う。しかし木村は表情を変えず、どうぞ、続けて、とでも言いたげな余裕に満ちた眼をしていた。
「一方で、木村君の提案した方法では、必ずしも全員の希望がかなえられるわけではなく、いわば独断と偏見によって強制的に決定されてしまいます。このようなやり方はクラス全体に無視できないしこりを残す可能性があると思います。以上の理由から、既定路線でのチーム決めを推奨します。……以上です」
淡々と締めくくると、草原はさっと席に座る。
「……ってことです。じゃあこれに対して質問とか反論とか。……あ、じゃあ木村君」
即座に木村が手を挙げたのを見て、ひろみは指名する。というより、その他大勢はまずは静観、という構えのようだった。
「ええと、じゃあまず、僕の意見を言わせてもらう前に、草原さんの話を整理させてもらうよ。草原さんの主張は大まかに二つ。……一つ。僕が先程述べた戦略的合理性の疑問視。もう一つは、個人の意見を無視した主観的な決定による、クラスのしこり。要するに、リスクとリターンが釣り合わないってこと。……そうだよね、草原さん」
「……概ね正しい」
確認を取った木村に、草原は頷く。それを見てから、木村は気障な声で再び語り始めた。
「第一の主張。戦略的合理性の疑問視。……これについては、僕の言い方が悪かったかもしれない。さっき僕は、具体的にどういう手順で決定するか説明しなかったよね。実は草原さんに指摘されるまでちゃんと考えていなかったんだけど、今どうすればいのかわかったよ。重要なのはさっき言われた『少数の独断と偏見による決定』を回避することだ。だったら『選定基準もみんなで決める』ようにすればいい。各球技の実力をランキング化し、どのランクをどの場所に振り分けるかを決める。これを全部多数決でね。それなら独断と偏見に走ることはない。それに、この方法なら第二の主張で示されたクラスのしこりも懸念する必要が無い。だってこれは――皆の総意なのだから」
得意げに語り終えた木村は、無表情の女子に目線を移し、問う。
「どうだい、草原さん?」
「反論はない。……私は、だけど」
草原は特にこだわることもなくそう答え、興味なさげに机に視線を視線を落とす。もしかして彼女は、本心から異を唱えたではないんじゃないだろうか。彼女の態度を見てそう思う白舞。しかし彼女は、ひろみや桐岡、そして木村自身と違い、彼女の意図は理解していない。
クラス委員として彼女が反論したのは、別に木村の意見を退けたかったからではない。単に、最初に反論して議論を活発化させるため。そして、木村の説明の穴をさりげなく突いて、その部分を完璧にするため。……要は一種の調整作業であり、言い方を変えるなら――茶番劇。
「……んじゃ、他に反論は――」
「……はいっ!」
桐岡が言い終わる前に、今度は別の女子生徒が勢いよく手を挙げる。
「はい。……真桐さん」
ひろみに指名されたと同時、
「木村くんの考えは間違ってる! 絶対に許容できません!」
「……ええと、何で?」
無駄な迫力でバンッ! と机を叩く彼女に、多少ビビりながらもひろみは質問を投げる。
「何でって、あたりまえじゃない! 人の価値に順位つけて差別するなんて、そんなことしていいはずないでしょ! あんたは人を何だと思ってるの? あなたにとっての人間って、チェスの駒みたいなものなの!?」
「なんだか、支離滅裂な意見だね……」
木村はこめかみを抑えて呟いた。それから桐岡とひろみに視線で了解をとり、溜息混じりに反論を始める。
「君は共産主義者か何かかい? 人に順位をつけることのどこがいけないんだ? 順位をつけるということは、他人を評価するということ。努力し、実力や実績を得た者はその分だけそれ相応の待遇を得る権利がある。見せかけの均等は見かけだけの平等を描いたとしてもそれは公正ではない。必要なのは、平等ではなくて公正だ。実力があっても認められないなんて、努力しても報われないなんて、……そんなのは間違っているだろう?」
「そんなの詭弁よ! 人には等しく権利がある! ……人には皆、同じだけの権利が!」
熱くなる真桐に、やれやれと首を振った木村は、皮肉げな笑みを浮かべる。
「人は皆平等っていうのかい? ……おめでたいね。君だって、受験を突破してこの学校に入って来たんじゃないか。半数以上の人間を蹴落としてね。君は勝者となり、それと同時に別の誰かを敗者へと追いやった。その君が、平等を唱えるのかい? 君がここに居るのも、君の努力と、それを正しく評価された結果だというのに、それすらも君は否定するのか?」
……勝者。ほんとうに、わたしたちは勝者と言えるんだろうか。ただ黙って事の成り行きを見つめることしかできない白舞は、ふとそんな疑念に囚われる。
確かにわたしたちは、この学校での受験では勝者、なのかもしれない。だけど、別の場所では? ……わたしのように別の第一志望を持っていて、そこで負けた人間は?
「違うよ……」
そんな白舞の思考は、真桐の言葉に寸断される。
「私は別に、優等生になりたかったわけじゃない。勝ち組になりたかったわけでも、評価が欲しかったわけでもない。……ただね、木村君。確かに世の中は、君の言う通りなんだと思うよ」
真桐はそこで一旦言葉を切り――世の中の何かを呪うような声で、言葉を続ける。
「でも……だからこそ私は、負けるわけにはいかなかった。……だって、世の中は、優秀な人間の言葉にしか耳を傾けないから。分かり易い結果を出せない人間が何を言っても……その言葉は届かないから! だから私は…………ッ!!」
「――そこまでだわな」
――唐突に。
それまで黙して事の成り行きを見守っていた石間が言葉を遮った。
「まったく。一度論点を見失えばすぐに不毛な議論に成り下がるものだわな。だから高校生は未熟なんだわな。感情任せの議論など不毛以外何者でもないわな」
石間はいつもの調子で、平然と事態の収束にかかる。
「正直、こうなったら時間の無駄なんだわな。実際、大体の論点は最初の二人ではっきりしてるわな。考慮すべきことはただ一つ。この球技大会が合理主義・競争主義を持ち込むに値するものかどうか。ただ、それだけのことなんだわな。それを、各々の価値観で判断すればそれで終わりなんだわな。桐岡、そろそろ決を採ってもいいと思うのだわな」
石間に水を向けられた桐岡は一瞬戸惑ったが、すぐに頷いた。
「はい……そうですね。……みんな、それでいいいか?」
帰ってきたのは無言の工肯定。もしかすると、予想以上に長引いた議論にうんざりしているのかもしれなかった。
「――それじゃ、決をとります」
ひろみの明朗な声が教室に響く。
残されたのは、多数決による決定。
多数派の意見が通り――少数派は切り捨てられる。
……そんな、無慈悲な決定だ。
8
いつも見ているはずの夕暮れの港町は、白舞にはどこか虚しく感じる。馬鹿みたいな赤に照らされた建物は濃い影を映し、人も、建物も、影の輪郭が濃くなるばかりで、その表情は判然としない。
そんな景色を見ながら歩くのは、憂鬱だった。白舞が好だったはずの夕焼けは、どこか自分自身を嘲笑ってさえいるような気がしてしまう。学校帰りにいつも目にしているはずの景色は、今や全くの別物にも等しかった。
白舞の漫然とした思考は、思い出したくない所へと飛んでいってしまう。考えたくないことを考えないようにできるほど器用な性格なら、今の自分はこんなんじゃなかったのに。そんな、自己嫌悪にも近い考えに囚われてしまう。
……結局、わたしはソフトボールの補欠になった。それも、二つあるチームのうち、弱い方のチームだ。チームに強弱をつけるという、木村君が出した案で、すんなりと通った。
運動が得意な人はなるべく良いメンバーで固めたいと思うのは当然だし、苦手な人にとったら自分と同じくらいのレベルで気楽にしたい、という思いもある。だから、桐岡君の判断は当然なのかもしれないけど……
だからといって、楽しめるわけもなかった。
生まれつき運動の苦手な自分。運動だけは、何をやってもダメだった。昔、ドジやノロマと言われ続けたのもそれが原因だ。いくら努力してもどうにもならない、それは絶対的な壁だった。
苦手なものを楽しめる訳がない。特に努力してもほとんど上達しない場合は、なおさら。だから運動が嫌いになって、ますます苦手になる。そんな、悪循環。だけど、それなら運動なんてしなければいいだけだ。少なくともわたしはそう思うけれど、今回のように強制参加させられる時もある。
球技大会に出たって、みんなの足を引っ張っるだけ。それが分かっているから、桐岡君はわたしを弱い方の補欠にしたんだろう。だけど、……そんな扱いをされていい気分になれるはずがない。当然やる気なんてでないし、ただ憂鬱なだけだ。
どうしてわたしは、こうもどんくさいのだろう。そして、どうしてそんなわたしにとって嫌なイベントがあるのだろう。そんな思いが、どうしても消えてくれない。自己中心的な考えだってわかっているのに、どうしても頭から離れない。
やりたい人だけやればいいのに、と思ってしまう。だけど、そうはできないこともあるんだってことも分かる。そんなこと、最初から理解しているのだ。世の中には、どうしようもないことなんて、嫌になるほどたくさんあって。それが、自分だけの問題じゃないってことだって、ちゃんと知ってるはずなのに。
本当……嫌になる。才能に恵まれない自分が。自分だってスポーツが得意だったら……
世の中は理不尽だ。どうしてこうも、恵まれた人とそうでない人の差があるのだろう。
わたし、頑張ってるのに。
……報われない。
いつも――いつも。
(やっと気が付いたかい?)
――声が、した。
目の前に……誰かが立っている。裂けるような笑みを浮かべて――白舞を見下ろしている。
(あなたが思った通りだよ。世の中は、理不尽なの)
また、別の人が言った。見覚えのある顔だった。
(どうしようもない法則。救いようのない摂理)
中学校の友達だった女の子。いつも成績が一番をだった女の子。
(それが、現実よ)
数少ない友達の一人。優等生にくっつくことでしか居場所を作れなかった、白舞の。
(気付いたんでしょう?)
頑張ればできる。成績が悪くて落ち込むわたしを励ましてくれた。期待に応えることのできない白舞をただ笑って「運が悪かっただけだよ」と繰り返して。
(人間は平等じゃない)
いくら努力を重ねても、どれだけ必死に頑張っても、
(生まれた時から、もう優劣は決まってるんだ)
――結果は、出ない。
(あなたは、人よりも劣っている)
周りの人たちは自分よりも楽に、もっといい結果を手にして。頑張ってるわたしを「偉いね」って笑って、――嗤って。
(そういう運命を押し付けられてしまった)
何がいけなかったんだろうと考えても、分からなくて。それでも自分が悪いんだ。努力が足りないんだって、ずっと思ってて。
(だったら、君には復讐する権利がある)
でも、そんなの――おかしい。
(君を食い物にして勝ち組になった全ての人間に対して)
……もう嫌だ。……何で? どうして?
(君を踏みにじり君を追い抜き君を嘲笑った全ての人間に)
何で、わたしだけ――…………
「――白舞!!」
大声で叩きつけられる、リカエルの声。
「……え?」
気が付くと、白舞は『異界』に迷い込んでいた。
白舞を取り囲む、無数の人影。見覚えのある顔。知らない人の顔。無数にあるそれらが、ぐにゃりと歪み――闇色の渦になる。
顔が歪んで――渦になってゆく。それは……どこまでも深く、暗い闇。
「それを直視してはダメだ! 呑み込まれるよ!」
リカエルの叫び声に、白舞ははっとした。底の見えない不気味な渦から、慌てて視線を逸らす。
「見るということは魅入るということだからね。『それ』を完全に認識してしまえば、その存在を己の中に認めてしまう。そうなったら――もう終わりだ」
「これは……何? 何なの……?」
闇に呑まれ、人型の影と変貌するモノたちを見て、白舞は怯えた声を上げる。
「――悪魔だよ」
リカエルが言った。
「あまねく世に蔓延る悪魔の使徒であり……僕らが倒すべき存在さ」
「わたしたち……が?」
「そうさ。天使魔法師はね、そのための存在なんだ。守護天使召喚と契約というプロセスにより、天使魔法師は自身の願望を満たす手段を与えられる。その代わりに、世界に害をなす悪魔の使徒――悪魔と戦う義務……いや、運命というべきかな、とにかくそれを負うわけだ」
黒よりもなお濃い闇に染まったヒトガタは、さらに地面だった場所からドロドロと這い出て、その数を増やしてゆく。
……怖い。
「知らない……。……聞いてないよ、……そんなの」
怖い。自分に害をなそうとするから――じゃない。この存在が、無数のヒトガタ達に――自分自身が取り込まれそうで。
「聞いてない、か……」
リカエルは、溜息を吐いた。
「そうか、僕は何も言ってなかったんだね」
「言ってなかったんだねって……」
白舞は戸惑う。そういえば契約の時、自分に話しかけてきたのはリカじゃない感じだった。……でも、それはおかしい。天使魔法師と契約したのは自分の契約天使――リカエルであるはずだ。それなら……あれはリカ?
「僕の記憶は、この世界に現出してからのものしかないんだ。だから、転生前のことも、契約の時のことも――何も覚えていない。だけど……それくらいは言ってると思ってたよ。でも違ったみたいだね。……ごめん」
「リカ……」
「君を巻き込んだ僕は、今の僕じゃないと言える。今の僕は、君に召喚され、君が天使魔法師になってからの僕なんだよ。だから今となっては、どうして僕が君を選んだのか、どうして僕が君に選ばれたのか……僕には何も分からない」
「そんな……」
絶句する白舞に、リカエルは宣言する。
「だけど――せめてもの責任は果たすよ」
瞬間――白舞の身体が光に包まれた。
足元に円形の幾何学紋様が広がり、着ていた制服は光の粒子となって散る。代わりに白と桃色のドレスがその身を包み、髪はピンクのブロンドへ。身体の形はほとんど変えず、顔の造形だけが西洋人形のような出で立ちへと変身する。
――右手に握られているのは、螺旋の杖。
渦巻き光を放つ二本の意匠が、先端を彩り、白舞に力を与える。
そして……
「――ひっ!?」
ドロドロと粘性の液体のように渦巻きながら近づいてくる。それを見ていると頭がどうにかなってしまいそうで、白舞は慌てて目を逸らす。
「リカ……、わたし、わたしどうすれば……!?」
「落ち着いて白舞、防御するのは簡単だ」
得体の知れないモノに錯乱しかける白舞に、リカエルは冷静に告げる。
「イメージするんだ。他者を拒む壁、あるいは盾を。あのモノたちは自分じゃない、自分はあのモノじゃないと意識するんだ!」
直後、バチッ! と火花が弾けるような音がした。身体と表面に光の粒子が小さく弾け、白舞の身体にぶつかった影はふらふらと虚空を彷徨う。
「……そう、それでいい。君の心があれを拒む限り、君はあのモノに取り込まれることはない。それができれば……今度は、反撃だ」
「反撃……?」
「そう。防御が対象への拒絶なら、攻撃は対象への敵意と害意。敵を破壊する意志をイメージし、それを敵にぶつけるんだ」
「敵意と、害意…………」
白舞は懸命にイメージするが――うまくいかない。そうこうしているうちに、立ち往生する白舞に向かって、無数の影が近づいてくる。
「ひッ……?!」
反射的に白舞は右手の杖を振り、影を払おうとした。しかし、杖は空を切るばかりで何もできない。杖が影に触れたとしても、影には何も起こらない。杖は――螺旋の杖は、虚しい程に無力だった。
――バチッ! バチッ! と、光の弾ける音が連続する。白舞の身体に潜り込もうとした影は、身体の表面に展開された薄い光の膜に拒まれ、弾き返される。無意識に展開された白舞の防御魔法が、悪魔の侵食を拒絶する。
……だけど、そこで手詰まりだった。
攻撃に晒されながら、一歩も動けない白舞。ただ両手で杖を握りしめ、身体を小さく縮こまらせて、ひたすら攻撃に耐えることしかできない。
――情けなくて、涙が出そうだった。
自分で望み、天使魔法師になった。シロを助けたいが一心で、その道を選択した。
そして……確かにシロは助けられた。
だけど、それ以外は何も――変わらなかった。
白舞は、天使魔法師になって何かが変わることを期待していた自分に気づき、……そして、何も変わらなかったことに絶望している自分に気が付いた。
――無力な自分。――無能な自分。
家でも、学校でも、――天使魔法師の時でさえ。
救いようがないくらい――何もできない自分。
「わたし……なんで、こんな……」
バヂッ! と、不協和音が響いた。白舞を覆っていた光の膜が徐々に剥がれ――瓦解していく。
――そして…………――
「これは……間一髪ってとこかな」
状況を切り裂いたのは、少女の声。
――直後、炎の雨が降り注いだ。