第一章 ハジマリ
あなたはコシヒカリが好きですか? それともあきたこまちですか?
1
『米原白舞』
なんて読む? と聞かれたら、十中八九『よねはらはくまい』と答える。そんな名前。
正しい名前の読み方は『しらまい』だけど、それを定着させるにはいささか以上の労力が必要なんだと、今頃になって理解しはじめた。苗字にお米を連想させるような言葉が入っているから、余計にタチが悪い。友人いわく「キャラが立つんだからオイシイじゃん」とのこと。とはいえ、そういうキャラの立ちかたはどうかと思う米原白舞だ。普通の感覚をもつ(はずの)女の子としては微妙な気分にならざるをえない。
ちなみに、これは全く余談だが、白舞の呼び名は他にも存在する。
「ハクブ」
魂鎮めの舞を舞うことで悪霊を抑え込む力を持つという余計な厨二設定までしっかりと付いたこの名前は、一部のマニアには人気の設定だ。誤解のないように補足すると、マニアは白舞のマニアではなく、慢性厨二病の魔術および宗教マニア。情報ソースはもちろん白舞本人ではなく、前述の友人。
そんな名前キャラ立ち少女、白舞の一日――の半分が終わりを告げようとしていた。
学校が終わったら一日が終わり、なんて考えは通用しない。むしろ、感覚的にも物理的にも半分程度だ。いまだに帰宅部の白舞は、学校で過ごす時間よりも家で過ごす時間のほうが普通に長い。
家に帰ればまず夕食、というのはありがちなパターンだけど、白舞の場合はそれにも当てはまらない。帰ってきたのなら、まずは散歩。白舞本人の、というよりは、家族で飼っている犬の、だ。
「――今日は、早く帰って来たわね」
「……うん」
笑顔を浮かべ白舞の頭を、母は撫でる。
「シロの散歩、行ってくるね」
「行ってらっしゃい。車に注意して、気を付けてね。あんまり遅くなっちゃ――駄目よ」
「……うん。わかってる」
その日も、白舞はいつも通り散歩にでかけた。基本的にこれは日課で、余程天気の悪い日以外は欠かしたことがない。当たり前だ。シロは家族同然かそれ以上に大切な存在なのだから。
そんなこんなで、閑静な住宅街をぼちぼち歩く白舞。白舞の家は、この地域の中でも新規開発された、山の斜面にある住宅街の一角。こういう時の適度な傾斜は、ほどよい運動になる。
もう随分と傾いた陽は、そろそろ落ちようとしている。近くの見晴らしの良い場所に行ったら、海に沈む太陽の姿を拝めるだろう。
「……行ってみようかな」
ふと気まぐれで、そんなことを思った。今ならちょうど良い感じで、日の入りが見えるはず。折角一人で外に出てるんだから、これくらいは楽しもう。散歩がてら少し寄り道をするだけなんだから、大丈夫。
日の入りがよく見える場所は、家から少し下った場所にある。崖上にある道路の脇から、ちょうど街全体が見下ろせるのだ。
この道路、夕方を過ぎると車はほとんど通らない。だから白舞は、このお気に入りの場所をいつも独り占めすることができた。
ガードレールに身体をもたせかけて、街を見下ろす。傾いた太陽が、街並みのおぼろげに縁取る。街全体が少しずつ暗闇に沈む、その中で、一つ、また一つと増えていく光の粒。それが、街全体に広がって、輝いていく。
白舞は、この街の、この景色が好きだった。一つ一つ、何かの輝きが増していくようで。暗闇が濃くなればなるほど映えるその光は、白舞の何かを魅了する。
輝く街の向こう側に広がるのは、大きな港。そしてその向こうには、どこまでも続く海。その水面に陽の光が反射して、キラキラと輝いている。
陽の入りはすぐそこだ。ゆっくりと、水平線に沈む太陽。空を照らす光が、水面に映る輝きが、少しずつ、少しずつ弱くなっていく。海と、空の境界に吸い込まれる光の輪郭。最後にキラリと、一筋の光を輝かせて――それは消える。
残されたのは、薄暗い空。徐々に暗くなり、だけど輝きを増していく街。本当なら夜景まで見ていたいけど、さすがにそんな時間はない。そろそろ行かないと。
緩やかに吹く風が白舞の髪を揺らし、頬を撫でる。少しばかり冷えてきたその感触を肌で感じながら、白舞は踵を返した。
道路の中央で、もう一度街の景色を振り返る。なんだか、久しぶりに見た景色が、名残惜しくて。
本当なら、時間さえあるなら、夜の街を眺めながら、いつまでも感傷に浸っていたい。何かに追われるだけじゃなくて、そういうゆとりのある時間を過ごせたらな、と思う。
でも、やっぱり帰らないといけないのだ。家に。――現実に。
だから、現実に意識を戻して――そこでやっと、気付く。
――鳴り響く、クラクションの音。不快な金属の擦過音。
……道の真ん中でぼんやりしていたのが、間違いだった。夕方以降は車なんてほとんど通らない。なんて、決して確実なんて言えない、経験則からの勝手な思い込み。
気づいた時には――もう手遅れ。迫るトラックの車体、やたらにゆっくりと流れる時間。白舞はただ、それを見つめていることしかできず、粘性化した時間の中で、車体がゆっくりと近付いて……
ゆっくりと近付いて――
……近付いて――止まった。
「……え?」
車は――白舞を轢きかねない速度で近付いていたトラックは、止まっていた。呆然と立ち尽くす白舞の、すぐ目の前。五十センチにも満たない僅かな隙間だけを残して、ギリギリの場所で止まっていた。
バンッ!! 乱暴に開かれるドア。
「おらぁ! どこ見て歩いとんじゃい!!」
「ひ――っ!?」
出てきたのは、怖そうなおじさん。いや、おじさんといっても割と若いのだけれど。とにかく急に怒鳴られて、びっくりして――
――悪いのは、わたし。
それは分かってる。それでも、分かっていても、驚いたのは同じで。
だから――致命的なミスを犯した。
するり、と。
抜け落ちる。握力を失った掌から。大事だったはずのものが、白舞の目の前で。
地面に落ちた、リード。我に返った白舞は、慌ててそれを拾おうとして――指が、空を掴む。
シュッ、と地面と擦れる音を立てて、それは遠ざかる。掴み損ねた指が宙を泳ぐ。
――どうして。
遠ざかるのは、シロの背中。ずっと大人しく着いてきていた、着いてきてくれていたはずのシロが。白舞に背を向けて駆け出してゆく。
「――シロ!」
声をかけても、その姿はただ遠ざかるばかりで。まるで――白舞を拒絶、するように。
何かを言う、トラックのおじさんの言葉も、白舞の耳にははいらない。ただ、ふらふらと道の端まで歩き――地面にへたりこむ。
「シロ……」
呆然と、ただ呆然と、シロの名を呼ぶ白舞。その言葉は、誰にも届かない。
後ろを通り過ぎたトラックの風が、白舞の髪を揺らす。
陽の暮れた空は、もう真っ暗になっていた。
2
「――駄目よ」
母は、白舞を諭すように、優しく言った。
「もう暗くなってるでしょう? 明日また、探せばいいのよ。それに近所の人が見つけてくれるかもしれないし」
「でも……」
シロを探させて欲しい。一旦家に帰った白舞は、母にそう申し出た。……だけど、やっぱり期待通りにはいかない。
「心配しすぎよ。どうせ、この辺をうろついているだけだろうし。そこまでして急ぐ理由もないでしょ?」
確かに、理屈は通っている。そんなことは、白舞だって分かってるのだ。
「でも……」
でもそうじゃない。それでも、シロのことが気になるのだ。それでは、いけないのだろうか? 理屈とか、理由とかじゃない。ただ、シロが心配だから。それじゃ、いけないのだろうか?
「それに、私はシロよりあなたが心配だわ。こんな夜中に外に出るなんて言い出すし……」
白舞は、嬉しいようで、何だか悲しい気持ちになった。自分が大切だと言ってくれるのは嬉しい。だけど……なんだか、シロをないがしろにされているような気がして。それが、自分の大切な存在を認めてもらえないのが、悲しかった。
「お願い、お母さん……」
白舞は、自分の思いを上手く言葉にすることができなかった。だから、ただ懇願する。
「少しでいいから……」
白舞の懇願に、母は嘆息した。
「駄目って言ってるでしょ。……聞き分けの悪い子ね。素直で良い子だと思ったのに……どうしてこんなことになったのかしら」
「……ごめんなさい。我儘言って」
うな垂れる白舞。そんな白舞に、母はまた一つ溜め息を吐いて、
「とにかく、この話はお終いね。さ、ご飯でも食べましょう。お母さん、ずっと待ってたんだから。あまり、心配かけさせないでね」
「うん……」
結局、また、言えなかった。自分の意見なんて、お母さんは聞いてくれない。いつだって、わたしは、お母さんの言うことを聞くばかりで……
――駄目だな、わたし。
白舞は、自己嫌悪に駆られる。
お母さんがどうこうじゃ、ない。自分でちゃんと、言えないから。自分の思っていることを、言葉で伝えられないから。
……でも、それでいい。少し冷えた晩ご飯を食べながら、白舞は思う。自分さえ我慢すれば、それでみんな上手くいくのなら。それは――いいことなのだ。絶対に。
「……ごちそうさま」
食欲は出なかった。半分以上残したまま、白舞は食事を切り上げる。
「また、残すの? ……ちゃんと食べなきゃ、身体に悪いわよ」
「ごめんなさい……。明日の朝、食べるから」
白舞は頭を下げて、リビングを後にした。
「作る手間が省けるのは助かるけど……心配になるわねえ……」
母の声を聞きながら、白舞は階段を上がる。申し訳ない気持ちになったけど、戻すよりはまし、と割り切った。
部屋のベッドに、うつ伏せに倒れこむ。頭を巡るのは、これでよかったのか、という思いばかり。やっぱり、納得なんて、できるはずもなかった。
……シロは、白舞の大切な家族だ。
シロと始めて会ったのは、白舞が三歳の頃、らしい。らしい、というのは、白舞本人に記憶が無かったから。小さい頃のことだ。ちゃんと覚えていなくても、別に不思議ではない。
父親は、おばあちゃんの家から連れてきたんだよ、と言った。だけど白舞は、祖父母の姿も、その実家も、ついぞ見たことがない。
以来、シロは白舞にとって大切な存在になった。兄弟姉妹のいない白舞にとっては、唯一、本当の意味で心を許せる家族なのだ。
両親には――いや、両親だからこそ言えないことも、シロなら言える。分かってもらわなくてもいい。ただ、話を聞いてれていれば――聞いてくれる相手がいれば、それで満足だった。
だから……
――女の子が夜中に外に出るなんて、危ないわよ。
……分かってる。でも、分かってるけど、納得なんできないのだ。始めから。
…………だから――
――ごめんなさい。
白舞は、心の中で謝った。
時計の針は、もう十一時を差していた。母はもう寝ているだろうし――父はまだ、帰ってきていない。
「でもわたし…………行かなきゃ」
――その日。
白舞は、母との『約束』を、初めて破った。
3
夜の街を一人で歩くのは、初めてだった。
閑静な住宅街の片隅を照らす、薄暗い街灯は、かえって影の長さを助長する。そんな光景に若干以上の恐怖を覚えながら、白舞は歩を進める。
夜の住宅街は、想像以上に静かだった。痛いほどに辺りを満たす静寂と、暗闇。点在する光源は、ぼんやりと薄気味悪い、建物の影を浮かび上がらせる。
――怖い。
白舞は、家を出て数分も経たないうちに、そんな思いに足を竦ませていた。知識の上では、こういう住宅街の方が繁華街なんかよりも治安が良いことを知っていた。
だけど……そんなものは関係ない。
何も、気配が無い。それが、白舞にとって何よりも恐怖だった。
無という檻。活動からの排斥。動かない暗闇にいるだけで、虚無の暗闇に吸い込まれそうな恐怖を感じてしまう。それは本能的な恐怖で、白舞自身の意思ではどうしようもないものだった。
それでも――白舞は歩き続ける。
「シロ……」
暗闇よりも、母親よりも、何よりも――シロを失うことこそが最も恐ろしいことだから。
それだけは――あってはならないことだから。
「シロ…………」
白舞の持つ懐中電灯の光が、街を塗りつぶす影の部分を這い回り、そこにあるモノを浮き彫りにしてゆく。だけど……白舞の探すモノは、どこにもない。
時折白舞は、何かの影を見つけては、ビクリと肩を震わせる。だけどそれは、電柱の脇に置かれたゴミや、不法投棄の電化製品だった。それが分かるたびに白舞は、落胆と安堵の入り混じった表情を浮かべ、息を吐いて歩を進める。
安物の靴で冷たいアスファルトを踏みしめる音が、断続的に響く。夜の冷気が肌を刺し、白舞の体温を少しずつ、少しずつ奪ってゆく。白舞は身を震わせ、感覚が鈍くなった指先で、羽織ったトレンチコートの前を寄せた。
「……?」
ふと、何かの違和感を感じた。辺りを見回してみるものの、そこにあるのはただただ暗闇ばかりで――何も分からない。
捉えた違和感は――景色でも、音でもない。夜の風に乗って微かに漂うそれは、――匂いだ。
白舞は、人並み以上には敏感な嗅覚に意識を集中し、その正体を浮き彫りにしようと試みる。ほどなくして――何となくの答えを掴んだ。
――鉄臭い。
方向はよく分からない。だけど白舞は、限りなく適当に近い直感で歩を進めた。頭のどこかで――このまま見失ってしまったほうがいいと囁いていた。
感じる匂いが強くなれば正解だし、そうでなければその逆。そんな大雑把な理論だけを頼りに、場所を探り当てようとする。
――鉄臭い。
どうやら、勘は当たったようだった。歩を進めるほどに臭いは強くなり、同時に……嫌な予感が体中をぞわぞわと這い回る。
頭のどこかで、何かが警鐘を鳴らしていた。しかし白舞は、それに逆らって歩を進める。行きたくない、でも行かなければならない。そんな矛盾した感覚の中、正体の分からない恐怖に苛まれながら、それでも進む。
――鉄臭い。
……その時、無意識の内に、最悪の想像を意識の外に追い出していたのかもしれない。しかし同時に、無意識の中で、全てを理解していた。
あの臭いを感じた瞬間から――既に結論は出ていたのだ。
――鉄のような、臭い。
……それは――――
4
――カラン、と。乾いた音が響く。手から滑り落ちた懐中電灯がアスファルトの地面を転がり、闇に紛れて見えなくなる。
「嘘……」
シロは、そこに居た。
そこに、居た。そう、白舞が認識するのには、一瞬以上の時間を要した。
「嘘、だ……」
鉄臭い。……錆びた鉄のような、匂い。その正体が何なのか、もう……考えるまでもなかった。
地面が――アスファルトの色が……変わっていく。ぞっとするほど、赤く――紅く。
……血溜まりの中に、それはあった。
――シロの死体が。
白い毛皮。白いはずの毛皮は、その一部が紅く染められ、斑模様を浮かべている。大きな体躯はだらりと横倒しに、力なく横たわっている。半開きになったままの口から、どろりと血が垂れ、その顔は歪み、その眼は虚ろに濁りきって、ただ、どこまでも深い虚無の闇を映している。
「ぅ……っ」
白舞の喉は引き攣り、上手く呼吸ができない。浅い息をいくら吸っても肺は満たされない。
不自然に折れ曲がった手足、地面に飛び散った大量の血、そして……何かに轢き潰されたように変形した胴体の、その拉げた腹からは――
「――ッッ?!」
それに視線を移した瞬間、白舞は眼を見開く。口元を抑えた手の指が頬に食い込み、ギリギリと筋肉が硬直してうまく力が入らない。
「――……ッッ!!」
喉の奥に思いきり指を突っ込まれたように、吐き気が込み上げてくる。貧血のようにふらふらと視界が歪み、耳鳴りが酷くて何も聞こえない。白舞は民家の塀に手を着いて、どうにか体を支えた。
――嘘だ。嘘だ、嘘だ…………――
粘性化する意識の中で、その言葉だけが延々と繰り返される。眼を背けても、ぎゅっと閉じても、もう遅い。……何も変わらない。目にした光景は網膜に焼き付いて、意識にこびりついて離れない。血で汚れた毛皮、見開かれた眼、ぶちまけられた赤い臓物――
「――ッッッッ??!!」
胃が締め付けられ、胃液が喉を逆流する。生理的衝動に逆らう暇もなく、白舞はそれを吐き出した。ぶちまけられた吐瀉物は赤い血と混じりあい、毒々しくも鮮やかで、不気味な色合いを醸し出す。
「ッ……、はぁッ、はぁ……ッ!!」
白舞は荒い息を吐き、汚物で汚れた地面にへたり込んだ。足に力が入らず、もう立っていることができなかった。
喉が引き攣り、焼けるようだ。口に残った胃酸が苦い。頭がクラクラして、めまいが止まらない。耳鳴りはいつまで経っても消えず、他の音が何も分からない。
「嘘だ……」
白舞は何度も、その言葉を繰り返した。目の前の現実を否定し続ければ、それを無かったことにできると本気で信じているかのように――
――認めないのか。
声が、した。
少なくとも白舞には、声が聞こえたように感じた。
――認められないのか。
唐突に湧き出た光が、白舞の目を焼いた。
「これは……?」
光は――白舞の胸元から出ていた。
「え……――」
御守りだった。小さい頃に父親から渡された、不思議な御守り。一度だけ、白舞はその中を覗いたことがあった。小さな袋の中に入れられていたのは、銀色の十字架だった。
それが――光を発していた。
ふっ――と景色が変わった。夜の街は姿を消し、空も、地面も、何もかもが消失する。
――これは……
気づけば白舞は、校舎を見上げて立っていた。
白舞の通っている高校ではない。だけど――知らない学校でも、決してない。
周りから聞こえるのは、歓声。誰もが、校舎の壁に垂れ下がった一枚の紙を凝視し、求める番号を探している。その中に……白舞の姿もある。
そう。……これは記憶だ。自分自身が見て聞いた、記憶の中。
垂れ下がった紙を凝視し、印刷された番号の羅列から、自分のものだけを探して並ぶ、人、人、――人。
その中で、求めたものを見つけることができるのは、半分程度。あとの半分は……切り捨てられる。
――まるで、製品みたいに。
――景色が変わった。
教室の隅で一人佇むのは、中学生の自分。周りの女子たちは何人かのグループで固まって、それぞれで談笑している。そんな光景を、白舞は遠くから無言で見つめている。
……知っている。これも、自分の記憶。どうしてもクラスに馴染むことのできなかった中学時代。
誰とも話さなかったわけではない。ただ、馴染めない。どこのグループに入ることもできない、居場所のない自分……
――景色が変わった。
『……だめよ。それで勉強が疎かになったら意味ないでしょう?』
今度は、家のリビングだった。椅子に座った母親と、その傍に立つ、中学に入学したばかりの白舞。
『でも……、舞花ちゃんも入ってるし……』
『文科系のクラブなんて時間の無駄よ。入るなら運動系にしなさい。テニスとかどう?』
『でもわたし、運動苦手だし……』
『だからこそ、その苦手を克服するチャンスでしょう?』
母親は白舞の言葉を遮って言った。
『苦手なものを『苦手だからできない』なんて言ってたら、いつまで経っても苦手なままじゃない。一度スポーツも頑張ってみなさい。必ずあなたのためになるから――』
――景色が変わった。
今度は、グラウンドの片隅に立っていた。……小学校の校庭だった。
『ねえねえまいちゃん』
鉄棒にぶら下がった女の子が、幼い白舞に声をかける。
『しらまいもやろうよー。ぐるぐるしようよー』
女の子は逆さまにぶら下がったまま、白舞を誘った。垂れ下がった髪の毛が地面に着くのも、めくれ上がったスカートの中が見えるのも、全く気にしていないようだった。
『……ごめんなさい』
幼い白舞は、そう言って頭を下げる。謝罪の言葉と仕草だけは、昔から知っていた。母がそうやっていろんな人に頭を下げるのを……誰よりも近くで見てきたから。
『わたし、鉄棒できないから……』
『じゃあ教えてあげる!』
女の子は笑顔で、そう言った。――言ってくれた。
……この子の好意に応えることができていたら、多分――人生は変わっていただろう。今みたいな臆病な生き方じゃなくて、もっと――
『でも、今はスカートだから』
だけど、白舞は――幼い白舞はそれでも断った。
『スカートでそんなことしちゃダメだって、お母さんが――』
――景色が変わった。
『お父さん……』
家のリビング。記憶の中の白舞はさらに幼い。椅子に座った父親の膝の上に頭を乗せ、縋り付くようにして――泣いている。
『お父さん……』
娘の頭を、静かに撫でる父親。
――あの頃のわたしは、まだ……
『お父さん……。お母さんが、お母さんがね――』
「――やめて」
白舞から、制止の言葉が零れ落ちる。だけどそれは、幼い白舞には届かない。
『お母さんが、わたしを――』
「――やめて! それ以上言わないでッ!!」
白舞は絶叫した。無駄とわかっても、叫ばずにはいられなかった。
『――助けて……』
白舞の絶叫は届かない。これは、記憶だから。過去に起こってしまった事実だから。
『助けてよ、お父さん……』
……致命的な間違い。今更そうと分かっていても、もうどうしようもない。
――起こってしまった事実を変えることは、決してできないのだから……――
――景色が変わった。
「――っッ!?!?」
白舞は息を呑む。
心臓が握りつぶされるかと思った。それくらい、白舞にとって衝撃的な記憶だった。
……山道、だった。どこかの幼稚園児らが、列をなして坂道を登っている。
園児の一人が、躓いて転んだ。近くに居た先生に助け起こしてもらい、べそをかきながらも、また歩き始める。
その子こそが……幼い白舞。
『はは、だっせー!』
近くにいた園児が、そんな彼女を見て笑った。笑われながら、目に涙を溜めながら、それでも唇を噛みしめて、白舞は自分の足で歩き続ける。
『やめて、よ……』
白舞の言葉は届かない。記憶の中の人間にも――その記憶を見せている何かにも。
幼い白舞は、再び足を滑らせた。バランスを立て直そうとして、木の根に躓き、バタリと地面に倒れる。その拍子にスカートが捲れ、中身が露出した。露わになった下着を、周りの男の子たちが指さして笑っている。――嗤っている。
「――嫌」
一人の男子が、幼い男子に何かを言う。起き上がった白舞は、そんな彼を無視して歩こうとする。だけど、彼は白舞の前に回り込んでしつこくからかい――
「嫌……やめて……」
ドン、と。
業を煮やした白舞は、その手で男の子を突き飛ばし――
「ぃ……や……」
この記憶こそが、白舞の最悪の――
「――嫌ああああああああああああああッッッ!!!」
5
――やり直したいのか。
声が、囁く。どこからともなく聞こえてくる声が、意識の深層まで響きわたる。
――やり直す力が、欲しいのか。
混沌に包まれていた景色に、光が差した。目を焼くほどに眩いそれは、闇を吹き散らして光の塊となり、……やがて、一つのカタチになる。
――ならば祈れ。ただひたすらに。この余をそちらに引き摺り上げるほどに……
それは、――卵。螺旋状に巻きついた樹の枝に包まれた、黄金の卵。
――さあ、受け取るが良い。そなたの望むものは全て、此処にある。
「わたしの望み……?」
――シロは、死ぬ。このままでは、間違いなく。
――だが、助けられる。この力があれば。これはそなたの望んだ力。
――そなたが望んだのだ。シロを助けたいと。
――それなら。
「……それなら、わたしは――」
手を伸ばす。目の前に聳える世界樹の枝に。そこにある――黄金の卵に。
「わたしは、この力を――」
指が卵に触れた瞬間、そこから眩い光が溢れる出る。全てを灼き、全てを染め、全てを照らす――始まりの光。
――流れこむのは、無数のイメージ。
遥か天空にある、二本の樹。その中の一つの樹の果実と、自分の身体にあるもう一つの樹の果実。二つは弾け、混じり合い――新しい果実となって、身体に宿る。
途端、自分を覆い続けていたものが粉々に砕け散った。その外側に広がるのは――どこまでも続く無限の地平と、星々のように瞬く無数の光。不思議な空間は誰のものかも分からない無数の声を反響させ――別のものへと変わる。
――永遠に続く螺旋。全てを覆い尽くす暗闇の中で、どこまでも下に、上に続く、光輝く二重螺旋。その中で自分は、頭上にある一筋の光を目指し、ひたすら上へ上へと登ってゆく。
そして……
――契約は完了した。
螺旋が、解けてゆく……
――余が悲願を受け入れし少女よ。そなたは我が巫女となり、あまねく世界を変えうる者となるであろう。
螺旋が解け、光の網へと変じてゆく……
――覚悟せよ。その力の責務を、そなたは背負う。そしてまた、歓喜せよ。そなたの悲願もまた、叶うのだ――……
……そして、全てが消えた。
――帰ってきた。
目の前に広がるのは、おびただしい血が広がる地面。力なく横たわるシロ。
そして白舞は気付く。変わらない景色。その中に、たった一点の異物が――致命的なまでに変貌したものがある。
それは――自分自身。
アスファルトに広がる血溜まりは、鏡のように変貌する。澄んだ湖のように闇夜に浮かぶその鏡面は、自分自身の知らない白舞の姿をそこに映す。
白舞の姿は、その全てが、大きく変じ、しかし元の姿を知る者には分かる程度に名残を残していた。
白舞の着ていた服は跡形もなく消え去り、全く別の、淡い桃色と白、そして一部が濃い紅で構成されたドレスへとすり替わっていた。その顔形も、基本的な造形の名残は残しつつ、しかしその目鼻立ちは西洋人のようにハッキリしたものへと変じている。瞳の色は紺色に、髪は、長さはそのままに、しかし少しだけ色の薄かった黒髪は、不思議な光沢を放つ、桃色に近いブロンドになっている。
そして――その右手には。
杖が握られていた。
片手でも扱えそうな、程よい長さの杖身。その先端付近にあるのは、杖身を囲むようにして渦巻く、二重螺旋の桃色に光る装飾意匠。
「これは……?」
唐突な変化に戸惑う白舞は、杖を握っていないはずの左手に重みがあることに気づいた。
「卵……?」
そう、卵だ。左手に乗せているのは、ちょうど掌に乗るほどの大きさの、純白の小さな卵。左手で包むようにして持っていたそれが――ぶるりと震える。
「ひ……っ!?」
無機質な見た目に反してあまりに生物的な感触に、白舞は思わず卵から手を放す。
本来なら重力に引かれて落ちるはずのそれは、しかし途中でフワリと浮き上がり、ちょうど白舞の目線の高さで静止した。
『……はじめまして、かな。白舞』
卵が、喋った。白舞は驚いたが、もう混乱することはなかった。あの空間での出来事で白舞は、色々なことを感じ、悟ったのだ。目の前の存在が何なのか、何となく想像はついていた。
「あなたが……」
だから、白舞は訊く?
「あなたが、わたしに力をくれるの?」
『そうだよ』
卵は――彼は答えた。
『君が僕に魂をくれる代わりに、僕は君に力を与える。そういう契約なんだ。それが――天使魔法師さ』
「天使魔法師……?」
『天使魔法師は、召喚した天使と契約し、奇跡の力を得る。君の契約天使は――僕。第九階位天使、リカエルだ』
契約、天使。奇跡の、力――。
「じゃあわたしは、奇跡の力を……」
『そうだよ。もう持っている。その衣装、その杖こそが、力の証だ』
「でも、わたし、何を、どうすれば……」
白舞は、途方にくれた。いきなり、奇跡の力を与えたれた、などと言われても、何も分からない。
だけど……
『分かるはずだよ』
白舞の契約天使は――リカエルは断言した。
『これは魔法だ。でも、魔術じゃない。決まった呪文や魔法陣、呪符や儀式は必要ない。ただ、願いをそのままに実現する力なんだ。だから、君はただ、念じるだけでいい』
そして、契約天使リカエルは、白舞に問う。
『白舞。君はこの力を以って、――何をしたいんだい?』
「何を、したい……?」
そんなこと……
――そんなこと、最初から分かりきっていたじゃないか。
「シロを――助ける」
そして白舞は、シロを見た。今まで見ることを避けていたものを、直視した。もう、怖いとは思わなかった。
「シロ……待っててね」
呪文も魔法陣もいらない、魔法。天使から与えらてた、奇跡の力。それが本当だというのなら、ただ、願うだけでいい。それだけで――奇跡は起こる。
白舞は、杖をシロに向けた。自分の願いを――起こす現象の結果を、強くイメージする。
白舞の想いに呼応するように、杖が輝いた。輝く光の粒がシロの周りを囲み――二本の螺旋を描く。
――お願い。シロを――シロを元通りに――……
シロの身体が、光に包まれた。
キラキラと輝く光たち。それは、いのちの光。
――一度失われ、蘇った、いのちの光だ。