第一部 陽菜と杏里
「残念だけと、タイムオーバーだ」
「うっそ!もう?」
京都の鏡で開けたアトラクタの箱には記憶の断片であるパズルのピースと手帳だった。手帳は特にこれと言って特徴のない黒い合成皮革のカバーがついた薄めのもの。
次の旅行先でも書いてあるかと中身をしらみつぶしに調べてみたが、結局何も書かれていなかった。
火事があったのが一月。今は六月の中旬。それまで何か月もの間、何も書かれていない手帳があるだろうか?
もちろん、何も書かれていない手帳はあると思う。たとえば、誰かからの贈り物。もしくは何かの景品だったとか。特に意味の無い手帳だとか。
しかし、この手帳はアトラクタの箱の中にあったもの。確実にこの手帳に意味は大いにある。
手帳は書きたいスケジュールがあって初めて買うものだから、何も書かれていないのはこの場合、逆に不自然だ。
ここに書かれていた内容が次のアトラクタの鍵になる――――――。
しかし、それがついに見つからないまま、タイムアップを迎えることになってしまった。
「もうちょっとだけ探させて、お願い」
「だめ」
精一杯の猫なで声でチサキに頼んでみるが、さっぱり効果がなかった。
「最初に説明されただろ。潜入時間はきっちり九十分。基本的には強制的に退出させられる」
「強制的?」
言って、急に足元がおぼつかなくなる。
やわらかすぎるウォーターベッドの上にいるかのように床がぐにゃぐにゃする。
続いて部屋全体がが飴のように曲がりくねりだした。
さすがに耐え切れず四つんばいになり、体を固定させる。気持ち悪い。
「来た」
何が?そう問いかけようとして、意識がとんだ。
「お疲れ様、目は覚めたか」
ひどい耳鳴りと、激しい眩暈を感じながら、陽菜はヘッドフォンを外した。
猛烈な船酔いをしたかのように、ものすごく気分が悪い。
「すごい、気持ちわるいんですけど……」
吐いたほうが楽になるんじゃないかと思うが、人様の前じゃあなかなかそういうわけにも行かない。
両手で頭を覆って、平衡感覚を取り戻すように、ゆっくりと深呼吸する。
「それは、夢から引き戻されるときに起こる揺り戻し現象だ。誰にでも起こる。普通の事で問題はない。じき慣れる」
坂巻博士はプリントアウトした紙とモニターを交互に見つめたまま言った。
問題ないって……。簡単に言ってくれるなよ。おえっぷ。
心の中で博士を毒付きながら隣を見る。おばあちゃんは、まだ眠っていた。
チサキは―――そう思って目線をソファに移す。彼は今目が覚めたらしく、小さく呻きながらヘッドフォンを外して頭を振っていた。
声をかけようとしたとき、小さな人影が陽菜の脇をすばやく通りすぎた。
「お疲れ様、お兄ちゃん。気分はどう?」
陽菜の方を見ようともせず、杏里が甲斐甲斐しくチサキの元へ駆け寄り水を差し出す。
このガキ……っ。
眉間に思いっきり力をこめて杏里の背中を睨む。
「ああ、大丈夫だ。陽菜ちゃんは平気?」
その表情のまま、チサキと目があう。
「え?あ、はい。大丈夫です。ピンピンしてます」
あわてて、両手を拳にして、なぜか元気アピール。
杏里も振り向き、ふんと鼻を鳴らすと、
「この人の脳波に大きな乱れはないわ。よっぽどタフなのか、ただ鈍感なだけなのか。まあ神経が図太いのは確かね」
肩をすくめながら、杏里はチサキに報告した。
ピキッ。
陽菜の笑顔が引きつる。
こいつ……。まずは年上に対する礼儀っちゅーもんを教えてやらねばならんのぅ。
思わず拳に力が入る。
「コラ。杏。人様にそんな口の聞き方はないぞ」
チサキは低い声で杏里をたしなめる。
杏里は何かしら言いたげな顔をしたが、結局は押し黙った。
ふふん。大好きなおにいちゃんに怒られて、落ち込んでやんの。いい気味。
あれ、この考え、ちょっと大人気ないかな。
「桜井君。ちょっと」
まだ少し気持ち悪さが残る陽菜に、坂巻博士が水を持って近づいてきた。
「どうだった?初めてのダイブは」
水を差し出す。陽菜はそれを受け取り一口飲んだ。
「はい。意外と楽しかったです。この頭痛はしんどいですが」
苦笑いを浮かべながらそう答えた。
「その程度ですむなら結構。どうする?この調査、引き続きやるかい?」
「もちろんです!」
即答した。この気持ち悪さは嫌だけど、ここまで来て引き下がれるか!
それにちょっとゲームみたいで面白いし。
「ならこれを」
そう言って博士は一枚の紙切れを出してきた。
「保護者同意書?」
紙を受け取り、太文字で書かれている文字を読んだ。
「これに保護者のサインを頼む。本来なら今回も保護者の同意を得るのが筋だったが、君が急いでそうだったので、手順が前後してしまった。申し訳ない」
坂巻博士は頭を下げたが、たいして申し訳なさそうには見えなかった。
「しかし次回もそういうわけにはいかない。私達は明日の新幹線で帰るから、それまでにその同意書にサインができたら明日、もう一度ダイブしてみよう」
陽菜は唇をぎゅっと結び、
「はい。分かりました。絶対に母からサインを貰って、明日もう一度お願いします」
力強くそう答えた。
その後、おばあちゃんの意識も戻り、同意書にサインをもらえたら連絡するようにと、坂巻博士とメールアドレスを交わした。
本当はチサキのメアドがよかったけど、杏里が番犬のような鋭い目つきで睨みつけているので、言い出せなかった。
家までの帰り道でやっぱりメアド聞いとけばよかったー!と月夜に叫ぶも、後悔先にたたず。すでに後の祭りだった。
「ただいまー」
家に着いたのは午後九時半を少し回っていた。
「お帰り、遅かったわね」
「うん、ちょっとね」
食卓には陽菜の分の夕飯だけが残っていた。お母さんはもう食べてしまったらしい。
夕飯のから揚げをほお張りながら、陽菜は同意書のことをどう切り出そうかと悩んでいた。
夏休み、バイトしたいんだけど、親の許可がいるの。これにサイン頂戴。
こんな感じに言えばいいか。でも、何のバイトって聞かれたら、言葉に詰まってしまうような。そもそも中学生がバイトなんてできるのだろうか?
私が偽装してサイン書いちゃおうかな。でも、もしばれたら博士さんたちに迷惑がかかるかもしれないし……。
頭の中で色々シミュレーションしてみるが、なかなかいい答えが出てこない。
「おばあちゃん、まだ言ってるの?」
「え?」
不意の質問に考えが寸断される。
「まだ気にしてるみたい?おじいちゃんとの約束の事」
「え、うん」
もしかして何か感づかれているのか?陽菜は普通に食事をしてるように装いながらも母親の言葉に注意深く耳を傾ける。
「なんとか思い出させてあげたいけどね。お母さんのあんなに悩んでいる姿を見てると、こっちがかわいそうになるよ」
あれ?まさか話がいいほうに転がってきている?
「ねえ、あのさ、おばあちゃん、黒い手帳がどうのこうのって言ってたよ」
「黒い手帳?」
母は黒い手帳、黒い手帳とつぶやきながら考えを巡らせる。
「あ、そういえば」
何かを思い出したかのように両手をパチンと叩いて、
「いつだったか、おばあちゃんをデパートに連れて行ったときにとっても大きなカレンダーがあったのよ。でもそれは手帳を買うと付いてくるプレゼントで、だから、おばあちゃん、カレンダー目当てで手帳も買ったのよ。たしかその手帳が黒かったような……」
「なるほど!目的がカレンダーの方だったから手帳には何も書かれてなかったのか!」
「え?どういうこと?」
「いや、こっちの話……」
話をはぐらかそうとして陽菜は思いとどまった。
違う!こっちの話じゃない!
陽菜は急いでカバンの中から同意書を引っ張り出すとそれを母の目の前に出して土下座した。
「おばあちゃんの夢の中に入るのを許してください!」
「え?え?どういうこと?」
娘の突然の土下座に母は思いっきり動揺している。
「私、どうしてもおばあちゃんの記憶を取り戻してあげたくて、ウーバ研究所に行ってきたの」
「ウーバ研究所?」
母は眉を寄せ、首を傾げる。
「お母さんもこの前TVで見たでしょ。夢の中に潜入して、記憶を呼び戻す機械を作ってる会社のこと。あの機械を使っておばあちゃんの記憶を取り戻してあげたいの」
「でも、あれはたしか、まだ研究中の技術だったような……」
「もう、十分に臨床データはとれてて、絶対安全だって」
母親の不安要素に陽菜は食い気味に意見した。
「でも……知らない人をおばあちゃんの夢の中に入れるのは、お母さん少し抵抗があるなぁ」
「大丈夫!私がおばあちゃんの夢の中に入るから!それに、私のほうが、おばあちゃんのことよく知ってるから、記憶を探しやすいんだって!」
「ちょっと待って!陽菜が入るの?」
しまった。ここまで言う必要はなかったか。しかも、博士達からそんな事言われた訳でもないのに。でも、もう取り消すことはできない。
「それはだめよ。なにがあるか分からないし」
母は右手で蝿を払うような動作をして陽菜の話を終わらそうとした。陽菜は顔を上げて、母親の目をまっすぐに見つめた。
「絶対おばあちゃんのこと救ってみせる。お願い、おばあちゃんの夢の中に入るのを許して下さい」
床に額をこすり付けるくらい低く頭を下げた。
「でも、あれは訓練された人が入るって言ってたような……」
陽菜はひたすら頭を下げ続ける。
しばしの沈黙。
「やめてよ。そんなの」
冗談交じりに母が声をかけるが、陽菜は依然として頭を下げたままだ。
「絶対安全なの?」
母が尋ねる。陽菜は下を向いたまま頷いた。
長い沈黙の後、母からため息がこぼれるのを感じた。
「分かったわ。陽菜がそこまで言うなら許してあげる」
はっと顔を上げて母を見る。
母は少し困っているような顔をして陽菜の前においてある同意書を拾った。
「あんたは物を頼むときいつも大げさなのよね。結婚でもするのかと思ったわ」
「結婚って……そんな訳ないじゃない!」
陽菜は目を剥いて否定した。頭に一瞬チサキの事がよぎってしまったじゃないか。
その晩、母から同意書にサインを貰うと、すぐ坂巻博士にメールした。
五分後。坂巻博士からの返信メールで、明日のダイブは朝十時から、病室でということに決まった。
「黒い手帳はカレンダーを貰うために買ったものだと?」
翌日。陽菜は朝九時半にはおばあちゃんの病室で待機していた。
ちなみにお婆ちゃんに黒い手帳について尋ねたところ「黒い手帳?はて?」と、全く覚えていない様子だった。
その後、十時少し前に坂巻博士から施設の前に着いたとメールがあり、迎えに行く。玄関ではチサキが手を前に出し「よっ」と軽く挨拶をし、杏里は仏頂面で首を横に向けた。それが目上に対する挨拶の仕方かっ!そんなんで世の中渡っていけると思うなよ!
三人をつれて、再びおばあちゃんの部屋に招き入れると博士と杏里は早速ダイブの準備にとりかかった。
「そうなの。つまり大切なのはおまけのカレンダーの方なのよ。それがきっとアトラクタの鍵になるはずよ」
坂巻博士に母のサインが入った同意書を渡した後、昨日の母からの情報を、同じく準備を待っているチサキに得意げに伝えた。
「じゃあ、今回はダイブしたらまずカレンダーを見つけることが先決だな」
「それなら大丈夫!カレンダーならいつも台所の食器棚の側面に掛けてあったの。きっとすぐに見つかるはずよ」
陽菜はうずうずしてきた。はやくタイブしたくてしょうがない。
「お兄ちゃん、準備できたわ」
パソコンとヘッドフォンをつないでいるケーブルを外して、坂巻杏里はそのヘッドフォンをもって兄の前に駆け寄った。
「気をつけてね、お兄ちゃん」
続いて陽菜の方に振り向くと、
「お兄ちゃんの邪魔だけはしないように」
片手でヘッドフォンを陽菜に向かって放り投げる。
そうだった、このガキはこういう奴だった。
やはりこの子にちゃんと世の中の礼儀を言うものを教えてあげないといけないなと、陽菜は再び心に誓いヘッドフォンをかぶった。