第一部 初めての潜入
新潟から東京へ向かう新幹線は帰宅ラッシュと重なったのか、自由席はいっぱいで、二人は連結部分に押し出されるような形になった。
「チサキさんっていい人ですね」
連結部は車両部分よりは幾分か揺れるため、陽菜はチサキに守られるように角に立っていた。
見た目は細いチサキだが程よく付いた筋肉は多少の揺れにもびくともしない。
陽菜がバランスを崩すとさりげなく支えてくれる。その何気ない優しさに女の子は弱いものだ。そのせいなのか、先ほどから手汗が半端ない。
「別に。こんな家出少女ほおっておけないでしょ。なんかあそこで追い返したら、そのまま知らない人に誘拐されてそうだし」
「そんな事、あるわけないじゃないですか!」
陽菜は思わずむくれる。
そんな陽菜を軽く笑い飛ばして「冗談だよ」といって頭をポンポンとなでられた。この人は完全に私の事を妹かなんかみたいに勘違いしているかもしれない。
「なんか陽菜ちゃんってかわいい子犬みたいだよね」
訂正。人間にすら思われていなかった。
なんとなく目線を逸らすように窓の外を見た。
「それにしても、凄い時代になりましたよね。頭の中を覗いて記憶を見つけ出すなんて事ができるようになるなんて」
「うん。元々はドイツで開発された技術なんだってさ。ヒトラーの時代にスパイの記憶をさらうために開発されたんだって。インターネットもGPSもそうだけど、最初は軍事目的で開発された技術が民間にも導入されてビジネスになることは自然の流れなんだろうね」
ビジネス。チサキは今はっきりとそう言った。
当然だ。そんな凄い技術が無償で受けれる訳がない。もちろん保険なんか利かないだろうし……。
はっとして、右手で口元を覆った。もしかして、治療を受けて、はい、何千万って言われる、新手の詐欺だったりして……。もしそうならチサキがこんなに親切にしてくれるのも合点がいく。
陽菜は背筋が凍りつくのを感じた。
恐る恐るチサキを見上げる。
「あの……いくらなんでしょうか?」
陽菜はすぐさま頭の中で貯金通帳を開いた。ほとんど物欲のない陽菜は毎年のお年玉をほぼ全額貯金に回していた。とは言っても、その額はせいぜい二十万円あるかどうか。
耳をふさぎたかったが、聞かない訳には行かなかった。
チサキは意外にもキョトンとした感じだった。
「あー。そういやいくらなんだろ?今は臨床の最終段階で、これで認可が取れれば正式に日本でのビジネスができるようになるんだよ。だから多分、お金取ってないと思うよ。今は一例でも多くのデータが欲しいって言ってたし」
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その言葉は陽菜がこの世で一番好きな言葉じゃないか!
「やったあ!チサキさん大好き!」
陽菜はチサキに抱きつきピョンピョン跳ねた。
はっと我に返り。手を離す。
チサキは笑って「やっぱ犬みたい」と笑った。
東京駅に着いてすぐに八重洲口に向かう。
帰宅ラッシュと重なったのか、いつでもこうなのか、どこを見ても人、人、人の海だった。
チサキが辺りをきょろきょろ見回していると、割と体格のいいおじさんがこちらに向かって手を振ってきた。それにチサキが答える。
陽菜はすぐにピンときた。テレビで見た人だ。あの時は白衣を着ていたが、そのかわり今はスーツを着ている。
人の波を書き分けておじさんの下へ駆け寄った。
「紹介するよ。UVER研究所日本支部、支部長の坂巻透博士。俺の親父」
「坂巻です。はじめまして」
真近で見るとやたらとでかい。身長は百八十を裕に超えている。
「こちら、電話で話した桜井陽菜ちゃん。テレビだけの情報を頼りにウチに泣きついてきた家出少女」
その説明はないんじゃないか。
間違ってるとは言えないけど。
多少不本意に思いながらも坂巻博士が差し出した右手に答えて握り返す。
そして、博士の足元にすがる様に、もう一人女の子がいた。
上質な猫を思わせるくりっとした大きな瞳。少し尖った小さな口元。
黒髪ツインテールがここまで似合うのは紛れもなく美少女である事の証。
「チサキさん。この人は?」
「ああ、こいつは俺の妹。坂巻杏里。みんなはアンって呼んでる」
「呼んでないよ。お兄ちゃんだけだよ」
杏里が小さな声で訂正する。
チサキは無視して続けた。
「こちらは依頼者の桜井陽菜ちゃん。ほら杏、ちゃんとご挨拶できるだろ?」
その子供あつかいすぎる兄にムッとした表情をしつつ、杏里は一歩前へ出ると何故か陽菜をも睨めつけて言った。
「坂巻杏里です。十三歳。中学一年生です」
「桜井陽菜です。私は十六だから、杏里ちゃんより三個上だね。よろしくね。アンちゃん」
にこりと笑って差し出した右手を杏里は無視した。しかし、父親に叱られ、いやいや手を握り返す。
「アンじゃないです。あ・ん・り・ですから」終始睨まれっぱなしだ。
「ああ、ごめん……」
私何か癪に障るような事した?
陽菜は少し居心地の悪さを感じながらもこの一家を目的地まで案内することにした。
東京駅から山手線に乗って田町駅で降りる。
田町商店街を抜けてしばらく歩くと養老老人ホーム「ほほえみ」が見えてきた。ピンク色の屋根をした二階建てのアパート。入り口のインターフォン押し、桜井です。と告げると自動ドアが開いた。
老人ホームは内からも外からも職員の許可がないと開けられない。万が一にも老人達が外に出てしまうのを防ぐだめだ。
家にはおばあちゃんのところに寄ってくると伝えてある。夜八時までなら家に帰らなくてもなんら不審に思われない。
職員さんの前を手早く素通りし、訪問者のところに記帳する。普段は陽菜一人で施設に出入りしているのに対し、今日はスーツ姿の大男、黒髪美少女とイケメン高校生を引き連れての訪問。職員さん達に多少不審がられながらも坂巻一家をすばやくおばあちゃんの部屋に招き入れた。
ふぅー。と思わず長い息がこぼれる。
「正子さん?来たの?」おばあちゃんが声をかける。
「違うよ。陽菜だよ。正子の娘」
「ああ、そうですか。こんばんわ」
大体いつもこんな感じだ。あんなに仲がよかったお婆ちゃんにいつまでたっても顔を覚えて貰えない虚しさは、いつでも陽菜の心をチクリと痛める。
気を取り直して陽菜は初めての訪問者を紹介した。
「おばあちゃん。こちら坂巻先生。おばあちゃんの記憶を呼び出してくれるんだよ」
「そうですか、そうですか。それは結構。ハマサキさんですか?」
「坂巻です」
陽菜が耳元でサ・カ・マ・キと大きな声で伝えるが、
「ハ・マ・サ・キ?」
と、こうなってしまう。
ため息をついて、仕切りなおす。
「坂巻先生だよ、おばあちゃん。おじいちゃんとの約束、思い出したいんでしょ?」
「そうそう!約束があるのよ」
おばあちゃんはポンと手を叩いた。その時だけは、その瞳が正気に戻ったように見えるといつも思っていた。しかし、
「なんだったけなぁ?ねえ、正子さん」
と、やっぱりこうなってしまう。
陽菜は不安げな表情でチサキを見た。チサキはその視線を父親に移し、父親はそれを受け取って大きく頷き、持ってきたキャリーバッグを開いた。
その中から手に取ったものは、いつかテレビでみたあのヘッドフォンだった。
「これは、明晰夢制御型通信受信機といって、これを装着し、さらにヘミシンク効果を利用した音楽を聴くことによって、徐々に深層意識の第七下層まで落ちて行き、特殊潜在意識。通称パラノイア状態に固定する。アクセスはこちらの送信用ヘットドンを使ってリンクするので何も心配することはない」
「はぁ?」
思った以上に大きな声が出た。
今のは日本語か?さっぱり意味が分からない。分からなすぎて怒りすら覚える。
「要するに、何も心配することはないって事だよ」
陽菜の後ろから両肩にポンと手を乗せて、チサキは軽くウインクして見せた。
「とにかく、まずは夢へダイブしてみることが一番手っ取り早い」
その他にもいろんな機械をセットしながら博士はぶつぶつ続けた。
「役人はとりあえずやってみるということまで行くのにえらく苦労したよ。安全性だのプライバシーだの。全く、頭の固いやつらだ」
坂巻先生はここに来る前に行われた会議の出席者に向けて言ったようだった。どうやら相当うんざりした内容だった様子だ。
こんな姿を見ると先ほどの説明をもう少し詳しくお願いします。といいづらくなってしまうではないか……。
しかし、事が早く済むのはこちらも望むところ。
説明されたってどうせ理解できないだろうし。
「杏里。そっちは準備できたか」
博士が同じくパソコンをいじっている杏里に向かって声を掛ける。
「うん。アクセスプロトコルすべて正常。いつでもダイブ可能です」
杏里が見ているパソコンには難しそうなアルファベットが絶えず書き換えられており、中心には緑色の線が一本走っていた。
着々と準備は整いつつある。
坂巻博士が陽菜のほうを振り返って言った。
「さて、ダイブする前にいくつか注意事項を話す」
言って指を一本立てた。
「ひとつ、夢へのダイブは一日一回」
陽菜はこくりと頷く。
続いて博士は二本目の指を立てた。
「二つ、一回のダイブで夢に滞在できる時間はきっちり九十分それ以上でもそれ以下でもない。そのため何らかのアクシデントにより強制的に終了されると少なからず脳に何らかの影響が出る恐れがある。もちろん我々はそんな事が起こらないよう細心の注意は払うがね」
陽菜はごくりと唾を飲んだ。
「三つ、基本的にはバディの指示に従うこと」
「すみません」杏里が手を上げた。
「バディってなんですか?」
コンピュータの画面を見ていた杏里がプッと笑ったのが背中越しでも分かった。
イラッ。何か私に恨みでもあるのか。あの小娘。
「バディというのはお互いの安全を確認するためのいわば相棒だ」
坂巻博士がチサキの方に目を向けた。
「今回はチサキをバディにつける」
「よろしく。相棒」
チサキは陽菜の前に手を出してきた。思わず手をとると、チサキは思いっきり強く握り返した。一瞬、痛くて手を離そうとしたが、チサキは手を離してくれなかった。そして悪戯っぽく、ニカッと笑った。
陽菜も釣られてイーっと笑う。さきほどまで、不安で不安で仕方なかったものが、これで吹き飛んだ気がした。
絶対やってやる。
遠くで杏里がこちらを睨むのも目に入ったが。陽菜の中には何か燃え上がるものがあった。
「基本的にはこのくらいだ。後はダイブしてから実際に体験してみるのが一番早い。それで大丈夫かい?」
「はい。よろしくお願いします」
陽菜は坂巻博士に深々と頭を下げた。
「それではまず、このインポート用のヘッドホンをおばあちゃんにつけて、そして、これを桜井君。こっちをチサキが装着してくれ」
手渡されたヘッドフォンは頭につけるのではなくアイマスクのように目を覆うようにして着ける。
陽菜は、少し狭いが、おばあちゃんと同じシングルベッドに並んで眠り、チサキは来客用の小さめのソファに座ってヘッドフォンをつけた。
「準備はいいかい?それじゃあ始めるよ」
陽菜がヘッドフォン越しに頷く。
まもなく低周波のような低い音が聞こえてきて、それがだんだん高い音に変わり、フォンフォンと高速回転するモーターのような音に変わった。
意識が持ったのはそこまでだった。
目を覚ますと陽菜は絨毯の上に転がっていた。ものすごく深く眠っていたような気がする。少し頭が重い。
「気がついたか?」
その声を聞いて我に返った。頭の中の靄が完全に晴れる。
顔を上げると目の前には中腰で立っている坂巻チサキがいた。
チサキはニコリと微笑むと陽菜の頭をぽんと叩いて立ち上がった。
それに習って陽菜も立つ。
「ここがどこだか分かるか?」
言われてぐるりと周りを見渡した。
どこかの家の居間。中央には低いテーブル。それを囲むように臙脂色のソフアがL型に配置されている。
壁の飾り棚には陽菜が中学生の時に貰った水泳の銀メダルが写真と共に飾ってあった。その他にもクリスマスのときに卵で作ったサンタや、おばあちゃんの似顔絵。その他にも思い出の品がぎっしり詰まっている。
涙が出そうだった。
あの時すべて焼けてしまった物がそこにはなんら変わらない姿で陽菜を迎えてくれたように思えた。
「おばあちゃんの家です。ここは」
少し声が涙ぐむ。
「なるほど。どうやらダイブは成功したようだな」
チサキは、とりあえずほっとしたように言うと、居間をぐるりと歩きながらソファの後ろや、テーブルの下など、何かを探し始めた。
陽菜はあらためて部屋を見回す。ここが夢の中だとは思えないほど部屋も意識もはっきりしている。ソファにも座れる。リモコンがあればテレビも見れるのだろうか?夢の中では一体どんな番組が流れているのだろう。
「あったぞ」
そう言ってチサキは奥の部屋からある物をテーブルの上に置いた。それは三十センチ四方の黒い箱だった。
ご丁寧に、中央に分かりやすく鍵穴が付いている。
「チサキさん。これは?」
祖母宅を知り尽くした陽菜にとってその黒い箱は異彩を放っていた。
「これは『アトラクタの箱』といって、忘れてしまった記憶の欠片がこの中に入っているんだ」
「アトラクタの箱」
陽菜は復唱するがいまいちピンと来ていない。
「まず、おばあちゃんの記憶を復活させるにはこの箱を開ける『鍵』を探さないといけない」
「鍵ねぇ……」
陽菜はまず玄関を思い浮かべた。鍵ならいつも玄関にあるフックに掛けているからだ。しかし、その考えはすぐに否定された。
「鍵といっても、本当の鍵じゃない。記憶の欠片だ。まずはそれを見つけ出す」
「記憶の欠片?でもそんな物一体どうやって」
抽象的すぎて皆目見当も付かない。
「どうやらそれを使うみたいだ」
指さされて初めて陽菜は自分が何かを持っていることに気がついた。
「写真立てだわ。いつのまに」
陽菜がドギマギしているといつの間にかチサキが側に来て覗き込むように見ている。
「これはおばあちゃんの記憶の断片、この中に入っていた写真がきっとアトラクタの鍵となるはずだ」
なるほど、そういうことか。
だんだんこのシステムが分かってきた。
なんだかリアルなゲームをしているような気がしてきた。正直少し、わくわくしてる。
「この写真立て、見覚えがあるわ。たしか」
陽菜は飾り棚のほうへ向かった。
この写真立ては陽菜がお婆ちゃんにプレゼントしたものだった。
飾り棚には様々な思い出の品が並べられていた。そこに一枚だけ無造作に置かれた写真があった。その写真を手に取る。
「これは、京都かな?おじいちゃんと旅行に行ったときの写真みたい」
そうだった。この写真立てにはこうやって旅行に行った記念写真がいつも入っていたんだった。
せっかく写真立てもあるので、写真を写真立てにしまう。
「ちゃんと元の場所に戻れてよかったね」
陽菜は写真に向かって心の中で語りかけた。
すると――――――
パリン。
目の前の空間から突然、黒い鍵が弾かれたように現れた。落ちる寸前ですばやくキャッチする。
「これは?」
「それがアトラクタの鍵だよ」
そして、チサキがまた陽菜の頭の上に手を置いた。
「お手柄だ」
陽菜は浮かれている自分に気付いた。チサキに褒められる事が、こんなにも嬉しいことは絶対隠しておこう。
アトラクタの鍵を鍵穴に差し込み、ひねる。
カチャリと乾いた音と同時に箱は自動的に開いた。
同時に陽菜の頭の中にある記憶が流れ込んできた。
―――次はどこに行きましょうか?
―――そうだな、次はもう少し静かな所がいいな。こう人が多くては敵わん。
―――そうですねぇ、島なんかどうですか。
―――そうだな、お前がいうなら次は島にしよう。
―――ほら、おじいさん。あの鏡とても綺麗。
目を開けると、まだおばあちゃんの家だった。
今のは何?夢?白昼夢?
夢の夢を見ていたのだろうか?
「今のは失われた記憶の欠片。どうやら、おばあちゃんがおじいさんと京都旅行に行ったときの思い出みたいだな」
「まさか、チサキさんも見たんですか?」
「そりゃそうさ。俺はお前のバディだからな」
言って、またニヤリと笑う。
「それよりも」
そう言ってチサキがアトラクタの箱からある物を取り出した。
「パズルのピース?」
チサキの手には確かにジグゾーパズルのピースが一つだけ握られていた。
陽菜の問いにチサキはコクリと頷くと、
「このパズルのピースはさっき見たおばあちゃんの記憶の断片だ」
「記憶の断片……」
眉根を寄せながら復唱する陽菜に対し、チサキは、ほらっと言ってピースを投げた。
「わわっ」
両手を合わせてしっかりキャッチする。危ないなぁ、と呟きながらその手を開く。ピースの表面は艶やかな光沢を帯びており、角度を変えるとキラキラとあらゆる色に変化した。まるで七色に光る宝石のようだ。
「綺麗……」
いつまで見てても飽きない。不思議な輝きを放つピース。おばあちゃんの記憶の断片。
「陽菜!」
またしても突然チサキが何かを投げてきた。今度は手の上で数回躍らせてキャッチする。
「もう!いちいち投げないで下さい!なんですか突然」
陽菜は文句をいいながら視線を今投げてきたものに向けた。
「これ、さっき見た、京都の鏡」
チサキはコクリと頷く。
「アトラクタの箱の中には記憶の断片であるパズルのピースと、次の鍵のヒントとなる物がしまってあるんだ」
チサキは陽菜に近づきながら続ける。
「そのピースを全てつなげると、依頼者の記憶が完全に復活する」
完全にの部分を強調させて言った。そして、陽菜の前に立ち止まり、鏡に視線を向けた。
「そして、今度はその鏡に次の鍵のヒントが隠されているみたいだな」
言って、チサキはニコリと笑った。
なるほど。パズルのピースを見つけて、パズルを完成させればおばあちゃんは忘れた記憶を思い出す。
そして、次のアトラクタの鍵のヒントはこの鏡って……ちょっとまって。
「え?次の鍵って、まだ鍵があるんですか?」
陽菜の思いがけない言葉にチサキはきょとんとする。
「あれ、言ってなかったっけ。箱が一つということはまずない。大抵は五六個、記憶が古くなればなるほど箱の数は多くなる。まあ最高でも十個くらいだけど」
言って、チサキはソファーの近くを指差した。
そこにはいつの間にか次のアトラクタの箱がぽつりと置いてある。
「そんなぁ」
陽菜はがっくり肩を落とす。一個見つけたら終わるのかと思っていた。せっかく見えたと思った出口が急に遠のく。
「はいはい、がっかりしない。がっかりしない。さくさく動く。忘れたの?あとここにいられるのは一時間もないよ」
「そうだった!早く次の鍵を探さなくちゃ!何してるんですかチサキさん。早く探しましょう!」
くよくよしてる暇なんか一秒も無い。
陽菜の変わり身の速さにチサキは小さく苦笑いをした。
「なんであの人なの?私だってお兄ちゃんのバディになれるのに」
パソコン画面を見ながら杏里は不満を隠そうともせずに父親に突っかかった。
ヘッドフォンをつけている三人の脳波は安定している。先ほど起こった激しい線の動きははアトラクタの箱を開けたときに見られる特有の反応だ。
「ダイバーの確保は重要だ。誰でもいいって訳じゃないからな」
父親は淡々と話す。杏里自身、父が言っていることのほうが正しい事は分かっているので、そういわれると言い返す言葉がない。
正論じゃないのだ。気持ちの問題なのに。
「それにしてもいきなり急過ぎるよ。正しい手順も踏んでないし。もし何か起こったら裁判沙汰だよ。未成年をダイブさせるには保護者の許可が要るって、わざと伝えなかったでしょ」
杏里は父親の一番痛いところを付くように言った。
しかし、父親はひょうひょうとしたもんだった。
「別に。何も危険なことはないだろ。何せお前がサポーターにいるんだからな」
ムッとした顔をするが、まあ、そのとおりだけどね。とも思った。
自分がサポートしている限りダイバーたちに何が起こっても大丈夫だという自信はある。
「この実験は何よりもダイバーの適正が重要だ。この子は初ダイブにも関わらす脳波がかなり安定している。チサキのバディになる素質も十分にある」
「ちょっと待って、バディはあたしが!」
「杏里!」
声を荒げる杏里を厳粛な声で制した。問答無用で黙るしかない迫力。
「分かってるよ……」
杏里は口を尖らせながら言った。
自分の夢に自分がダイブすることはできない。誰かにダイブしてもらうしかない。
そして限られた時間内に記憶の欠片を探すには、人手が多いほう有利な事も分かる。でも、あまり多くの人に頭の中をかき乱されるのは抵抗がある。せいぜい二人。
それに、二人のほうが安全な事も分かる。夢の中にでてくるあの悪魔。
あれを一人で相手するのは骨が折れる。お兄ちゃんをいつまでもそんな危険な目に合わせるのは誰よりも私が一番嫌なのに。
「はぁ」
杏里はため息をこぼした。なまじ理解力が高いのが嫌になる。
父親の満足げな表情も杏里をさらにムッとさせた。
京都の鏡は難問だった。いくら大好きなおばあちゃんとはいえ、何もかもを知っていた訳ではない。正直、この手鏡は見たことすらなかった。
「鏡なんだから化粧品があやしいかな」
そう言って化粧品を調べても鏡は何の反応もない。
「これじゃあ、ぜんぜん分からないよ。せめてヒントか何かないかな」
陽菜は半ば投げやり気味に言った。
「ヒントか、そうだな。さっきの記憶の欠片から鏡が分かったんだ。きっとヒントはさっきの思い出に隠されているんじゃないかな」
「さっきの思い出」
おばあちゃんとおじいちゃんとの会話。
次はどこに行こうか。
静かなところ。
島に行きたい。
島。
「おばあちゃん達。次は島に行きたいって行ってた。どこの島だろう」
陽菜は呟きながら考えた。島だけでは行き先は分からない。何せ日本には六千以上の島があるのだ。とはいえ、旅行に行く島なら限られている。それでも全国各地に観光用の島はある。
「おばあちゃんの旅行カバンか何かにヒントが隠されてるんじゃないかな?」
「なるほど」
陽菜の提案にチサキはすぐに賛同する。そうやって思いつきの可能性でも一つ一つつぶしていくしか方法が無い。
陽菜は自分の記憶探る。
「旅行カバンは寝室の押入れにあったはずです」
寝室に行き押入れを開く。旅行カバンとしては少し小ぶりのバッグが二つ仲良く並んでいた。赤と青のペアルックだ。
見覚えがある。確かおじいちゃんが買ってくれたって、おばあちゃん喜んでたっけ。
プレゼントなんて結婚してから初めて貰ったよ。指輪さえ貰ったことないのにね。
そう照れて話すおばあちゃんはまるで少女のように可愛らしかった。
チサキに悟られないように、少しだけ物思いに更けて、おばあちゃんの方のカバンを開ける。
カバンの中には京都の鏡と同じ柄のポシェットが入っていた。ビンゴだ。きっとこの鏡はここにしまってあったんだろう。
また元の位置に戻ることができたね。
鍵をポシェットに戻すと再び緑色の淡い光と共に陽菜の手の中に黒い鍵が現れた。
「よっしゃあ―――!」
陽菜は思いっきりガッツポーズをした。高らかに鍵を掲げ、チサキの方に得意満面で振り返る。
チサキは少しあっけにとられた表情をしたあと優しく笑った。
大きな口を開けたまま陽菜はその場に固まった。顔がどんどん高潮していくのが分かる。なんだよその繕ったような笑みは!全くしょうがない奴だなぁ。みたいな顔をするのはやめてくれ。こっちがどんどん恥ずかしくなっていくじゃないか。
「鍵……ありました」
顔の前で鍵を軽く振りチサキに見せる。
「グッジョブ!」
チサキはサムズアップのポーズをして鍵を受け取ると陽菜の頭をぽんぽん撫でた。
陽菜は赤面しながらもそれを甘んじて受け止めた。
鍵を二つ目のアトラクタの鍵穴に差込み、開錠する。
その瞬間、再びおばあちゃんの記憶がなだれ込んできた。
―――私も年をとったわ。
―――それはそうだろう。もう六人も孫ができた。
―――でも、私、幸せだわ。こうやってあなたと旅行できて。
―――そうか、それならこれからの余生、ゆっくり時間をかけて全国を旅行しよう
―――まあ、それは大変そう。でも、ふふ。楽しそうだわ。
―――よし、約束だ。全都道府県制覇だ。わっはっは。
―――おほほほほ。
再び目を開ける。一筋の涙がほおを伝う。
「おばあちゃんの失くした記憶は。おじいちゃんとの約束は」
「全都道府県を旅行することだったんだな」
同じ記憶の欠片を垣間見たチサキもしんみりとこぼした。
「でも、まだ完全に思い出した訳じゃなさそうだな。その証拠に」
チサキが目線を送った先には再び、黒いアトラクタの箱が出現していた。