最初の話
地球という小さな小さな水槽の中、鑑賞用の鮮やかな魚のようにぼんやりと漂う、これまた小さな僕らの命。
ただ浮かび、水槽の中で死んでいく。それがひどく滑稽に思えて、僕は魚であることをやめた。
……否、やめさせられたというのが、正しい。あの日以来僕は、ただ魚を眺めているだけの水草でしかない。
生きているのか、死んでいるのか、誰にもわからない。僕自身ですら、しらない。
♯ ♯ ♯
手首から流れる赤色が、浴槽のお湯の中に落ちて、かき乱されて、ゆらゆらと消えていく。
その様子に僕は、うっとりと瞳を細めた。血とともに温もりが流れ出す感覚と、腕が冷たくなり麻痺していく感覚とが混ざりあい、心地がいい。痛みですら、それらを演出するいいスパイスになっている。
目の前で、お湯を弄んでいたはずの彼女はどこか気味悪げに、理解できないといった表情とじっとりとした目付きで僕を見つめている。
いつもは、特注の眼帯で隠されている左目は露わになっていて、そこにある傷跡は見ていてとても痛々しい。傷跡はもう治らない。それどころか、きっと一生開くことはない、僕のせいで潰された左目。
それを見る度に僕は、自分への憎悪を感じて、気が狂いそうになって、自分を殺してしまいたくなる。
……いや、自分を殺したいのは、いつものことか。
「……ねえ、お願いだからそんな目で僕を見ないでよ。」
そんな思いを振り払うかのように、口を開く。あまり使うことのない、喉の奥から絞り出された少し高めな掠れ声に鳥肌がたつ。ああ、気持ちの悪い声だ。こんなクソみたいな声帯なら、いっそ潰してしまおうか。
「む。……しかたないだろう。私には君の自殺癖が理解できないのだから。」
「……そっか。」
そんな僕の妙なコンプレックスを交えた、マイナス面にしか働かない思考回路なんて知るはずもなくて、目の前の彼女は淡々と言葉を紡ぐ。そしてその、ため息混じりに紡がれた言葉が少しだけ悲しくて、俯いた。
そうやって俯くと、上半身を守り隠すように巻かれたバスタオルから伸びる、白く細い足が嫌でも目に入り込んでくる。赤ん坊の頃から一緒に風呂に入っているからって。僕なんかにはまったく興味がないからって。それでも少し、無防備すぎやしないかと心の中で抗議の声をあげた。一応僕は男だ。
「なにを見ているんだ、ミズクサ。私に欲情するのは、君の勝手だが……、流血沙汰にだけしないでくれよ。」
結局は目のやり場に困り、視線を泳がせた僕に対して、僕を“ミズクサ”と呼ぶ彼女……キンギョは茶化すような口調で言った。冗談で言っているんだと知っているから、少しだけ眉をしかめた。
「それ、どうせ僕にも適用されるんでしょ? 笑えない冗談はやめてくれないかな。血を流すな? 無理だって知ってるくせに、意地が悪いよ。」
その苛立ちを隠すことなく、少し尖った口調で返せばキンギョは、少しだけ肩をすくめて見せた。といっても、おびえたり驚いたりしたわけではなく、ただ僕に対して「やれやれ。」と言う代わりにすくめて見せただけだ。彼女は、僕が気分を害していることに気が付いていて、それだけしかしない。
「……澄ました顔してるけどさ、君だって同じじゃない? 血の流れた体温のある人間に対して、愛情もなければ、興味もないくせに。」
……だからこそ、僕も言ってはいけないと知っていることを、思わず口に出してしまう。どれもこれも全部わかってるくせに、無感情無表情のままの彼女に、腹がたつ。
こうなってしまったら、自分でも抑えがきかない。癇癪を起こした子供と、まるっきり同じだ。
「……あぁ、そうだ。その通りだ。返す言葉もない。君の言うことは、正しい。だから少し落ち着くといい。」
「別に、冷静だよ。」
「まったく……。いいから、落ち着け。ほら、息吸って。」
そしてそんな風に抑えられなくなった僕を、キンギョは冷静に、でも少しだけ呆れたようにあしらうことが多い。
そんな彼女を冷めていると思うよりも、なんだか母親のようだと思う方が強い。そんなことを言ったらキンギョが怒るし、僕自身が母親というものを知らないから、なんともいえないのだけれど。
「……ごめん、落ち着いた。もう平気だから、言わせてもらうよ。確かに僕も言い過ぎたけど。僕は死、君は死体。お互いに対象が違うでしょ? だから、冗談でも茶化すのやめようって話、前にもしたよね。」
「そう、だったか。……すまない、今回は私に落ち度があったな。」
言われた通りに息を吸えば、気分も落ち着いて幾分か冷静に話すことができた。そうやってどうにか紡いだ言葉に、キンギョは小さく頭を下げた。その顔には、少しだけ……幼なじみの僕ですら、見逃してしまいそうなくらい少しだけ、落ち込みの色が見えた。別に、落ち込む必要も理由もないのに。
僕らの喧嘩や揉め事は、どちらかが折れればすぐに終わり。後まで引きずることもない。あっさりと終わって、平和的。だから今回も、別にもう気にしていないのに。
「いや、今回は僕も悪かったよ。」
それでも僕も、謝る。親しき中にも礼儀あり、というやつだ。
対象が違う、というのは、僕らの少し変わった性的嗜好のことだ。キンギョの本当の気持ちはわからないが、少なくとも僕はそれを恥じたことはない。そういったことに興味を示す頃には、既にそうだったせいかもしれないが。それでも面と向かって、「お前は異常だ。」と言われれば気分はよくない。
僕の、性的嗜好は『死』。調べたりして、タナトフィリアと呼ばれていることを知った。首吊り、入水、自傷に切腹。飛び降りに薬まで、ありとあらゆる自分自身を死に至らしめる行為に、ひどく興奮する。意識が飛ぶまで殴られたり、刃物を突きつけられたりなんかした日には、興奮で眠れなくなること間違いなしだ。……あぁ、あとお葬式なんかも。不謹慎極まりないけれど、亡くなった人を自分に置き換えると、ぞくぞくする。
そして、僕が『自分自身の死』に興奮するように、キンギョは『他人の死体』に反応する。きれいな死体に出会った時の彼女の顔は、いつものような無表情ではなくて、まるで恋する乙女のように輝いている。たぶん、彼女はネクロフィリアなんだと思う。
だからお互い、お葬式の時なんかは、不自然なほど静かにしている。食事以外で、口を開くことがなくなる。そうしないと、とんでもないことになりかねない。
と、こんな僕らだからこそ、高2になった今でも一緒に風呂に入れるわけだ。正直な話、僕は一人で入りたいのだけれど。
風呂や性癖について、周りから反感を買うことはけして少なくない。だけど僕らは、別に理解されようとは思っていないし、あちらがどう思おうが口にしなければ勝手にしてもらってかまわない。好きなものは、ひとそれぞれだ。
こんな狭い、水槽のような世界でしか生きられないんだ。好きに生きさせてくれよ。
「ところで、ミズクサ。君のその右手から流れている血を、いい加減に止めたらどうだ。」
ぼんやりと、くだらないことを考える思考をキンギョの、少し困ったような声が遮る。彼女は、死体は好きなのに血や刃物には、まったくと言ってもいいくらいに耐性がない。だから、キンギョと風呂に入りたくないんだ。自由に手首切れないし。
「ああ、うん。ごめん?」
適当に謝りながら、自分の手首に目をやって、ギョッとする。血の勢いは、切った当初から変わっていない。冷えて感覚がなくなりはじめた腕に、小さく舌打ちをする。切る場所と深さを、完全に間違えた。彼女と風呂に入った時は、血のでにくい場所を、浅く切らなくてはいけないのに。
「ごめん、キンギョ。餌になりたくなかったら……、包帯用意しに行って……!」
荒い呼吸で、必死に言葉を紡ぐ。興奮するのが死だったとしても……。近くに無防備な女の子がいるなんて、耐えられるわけがない。
「……わかった。少し待っていろ。すぐに用意する。」
深く追求することもなく、キンギョは浴槽からあがる。水しぶきに包まれて光るキンギョは、目に毒だ。
「出なきゃ、な……。血、さすがにヤバいかも……。」
立ち上がった瞬間、ぐらりと目の前が揺らいだ。明らかに貧血だろう。血が出すぎだ。
「風呂で、貧血、とか……。」
はは、と小さく笑う。ぐらぐらする。意識が遠ざかる。
「ミズクサ……!?」
どこかから、珍しく感情的なキンギョの声が聞こえる。どんな表情してるんだろ。なんて思ったけど、ふわりと飛んでいく意識にあらがえずに、僕は意識を手放した。