変化2
「困らせることはしないって言ったじゃん…………。シュウのバカ!!」
千暎はぐったりした身体をやっと起き上がらせ、シャワーを浴びた。髪の毛から足の指先まで、シュウの匂いが消え去るまで、隅々まで念入りに洗い流した。
鏡に写る千暎の顔は、瞼が腫れ、目が充血していた。目薬を差し、アイスマスクで15分冷やしてから化粧を始める。いつもより少しだけマスカラを濃く塗っておいた。途中で航からメールが入る。
『後10分程で駅に着く予定。大丈夫かな?』
――大丈夫じゃない!
が、そうも言ってられないので『了解』とだけ返す。
千暎は焦りながら、淡いブルー地の花柄ワンピースに、オフホワイトのロングカーディガンを羽織り、ショールを巻くと、軽く香水をかけてから、駅へと急いだ。
駅のロータリーにはすでに航の車が止まっていた。
「ごめんね、ロータリーなのに待たせちゃって」
「いや、丁度今着いたんだよ。グッドタイミング過ぎるくらいだ」
「それはすごい!」
「今日の千暎ちゃん、かわいいね。あ、今日もか」航が照れながら微笑む。
「あ、ありがと。航さんこそ、爽やかじゃん?」
航は、千暎がこの間とは何かちょっと違うと感じていたが、それには触れず、暫く車を走らせてから「悪いんだけど、一ヵ所寄り道させてもらうね」と言って、病院に立ち寄った。
「すぐ戻ってくるから、ちょっと待ってて」と、後部座席から紙袋を取り、病院内へ入って行った。
誰か入院でもしてるのかな? 千暎は少しでも目を休めさせようと、シートを倒し、目を閉じた。
「お待たせ!」の声にビクッと目を開ける。
「誰か入院してるの?」
「おふくろがね……。頼まれ事されて、今日の午前中に持って来いって、わがまま言うもんだからさ。しかも連絡あったのは今朝だよ? だから仕方無く……。ごめんね」
「そんなん、ぜんぜんいいよ。親を優先するのは当たり前じゃない。そんな事より、お母さんの具合はどうなの?」
「ああ、心配はいらないよ。ちょっと足の骨を折っちゃっただけだから」
「折っちゃっただけって! それって大変なことじゃない!」
「まあね。でも今はすこぶる元気なんだよ。退院させちゃうと、無理しちゃうからさ。僕は未だにおふくろと暮らしてんだ。親父がいないし、一人っ子なもんだから、おふくろも僕に頼るしかないからね。あ、だからって、マザコンじゃないから安心して」と笑った。
「そうだったんだ…………。お母さんと暮らしてるからって、マザコンだなんて思わないよー。早く退院出来るといいね」
千暎は父親がいない事が気にはなったが、家庭の事情はいろいろあるもんだと、敢えて聞かなかった。
航も、余計な事まで聞いてこない千暎に、優しさを感じていた。
「千暎ちゃんは、嫌いな食べ物ってある?」
「ん~、イナゴ、ドジョウ、シラコ、カリフラワー、フキの芽……」
「わかった! もうわかったから。つまりは、大抵のものなら大丈夫って事だろ?」
「つまりは、そういう事になります」
航は複数の飲食店も入っている複合施設に向かった。
食事の後は、施設の店内をゆっくり散策した。
ふたりはお互い、さほど気を使う事もなく、自然な会話が続いていた。
航は、千暎のいろんな表情、飾らない言葉や振る舞いを、短い時間の中で感じ取る事が出来た。
彼女は何で特定の男性を持とうとしないのだろうか? 見たところモテる事は間違いない。ひとりの男性では物足りないのだろうか? だからと言って、遊んでいるようには全く思えない。束縛されるのが嫌いなのは、自分も一緒だ。
航は、今まで女性に執着する事など、全くと言っていいほどなかった。しかし、千暎といると楽しくて、何故か心の中をさらけ出したい気分になる。千暎の魅力に吸い込まれて行くのを感じ、もっと千暎の事を知りたくなった。
そして帰りの車の中。
「今日はすごく楽しかったな〜。こんな楽しいデートをしたのは何年振りだろ」
「あたしも。なんかすごく癒やされた感じがする……」
「癒やされた? 僕は癒し系じゃないと思うけど……」
「あたしにとっては癒し系だよ。なんか航さんといると安心するっていうか……。まだ航さんの事、うわべだけしか知らないけど、頼れる人のような気がする……。決断早いのに、強引さは感じられないし」
「あ…、勝手に決め過ぎちゃった?」
「うん。でもそういうの嫌いじゃない。むしろ好み。あたしもイヤなら、ちゃんと言うしね」
「好……み?」
「あれ……、言い方間違ってる?」
「あ、いや……。好感度は高いって解釈でいいのかな?」
「くすっ…………。かなり高いと解釈して頂いて良いかと思います」
千暎は笑いながら言ったが、今の気持ちはその通りだった。そして次の言葉で、航に対する気持ちが、もっと高まる事になる。
「千暎ちゃんさ……。こんな事聞いても、答えてくれないかも知れないけど、今日会った時からずっと気になってた事があるんだ」
「会った時から……?」
「僕の思い過ごしだと思って、1日過ごして千暎ちゃんの様子見てたけど、やっぱり気になったから……」
「どんなとこが?」
「昨日……、いや最近なのかも知れないけど、ここ1週間で何かあったんじゃない?」
「! …………。何で……そんな風に思うの?」
「今日会った瞬間に、初めて会ったあの時とは違うって感じたんだ。表情が疲れてるっていうのかな? うまく説明出来ないんだけど……。今日だって、時々遠くを見るような目をしてたし。触れちゃいけない事かと思って聞かずにおこうとも思ったけど、もし、僕に話す事で気持ちが和らぐならって思ったんだ。もちろん、無理に話す必要もないし、話したからって解決するとは限らないけど……」
――バレていたのか。たった1度会っただけなのに。だからと言って何て説明する? 元彼に身体だけの関係を求められ、逃げられそうもない。なんて言えるわけない。
「あり……がとう……。会うのが2回目だっていうのに、あたしの異変に気づくなんてね……。航さんには誤魔化しは利かないようだわ……」
「そんなつもりじゃないよ。僕は感じた事を言っただけ。やっぱり何かあったんだね? それが仕事の悩みなら相談にも乗るし、言えない事情だとしても、僕が少しでも力になれるならって思ったんだ。それに……、千暎ちゃんの事、もっと知りたいって本気で思ってる。自分でもちょっと驚いてるんだけど……」
仕事の悩みの方が、よっぽどマシだ。
「航さん……。ありがとう…………。でも……、あたしの事を知れば知るほど、嫌いになるかも知れない……。っていうか、きっと嫌われる……。あたしは…………、航さんに気に入ってもらえるような女じゃないし、そんな資格もない! すごく嫌な女なんだよ…………」
「そうなの? 僕にはそんな風には写ってないけど? 千暎ちゃんが史人くんと一緒に寝てるのを見た時、ある程度の事は把握したよ。きっと千暎ちゃんは本能に逆らわずに生きて来たんだろうなって。自分の事、嫌な女って自覚してるなら、まだ変われるはずだよ?」
「…………。航さん……」
航は鈍感どころか、なかなか鋭いではないか。ってことは、そこまで察してて、それを承知の上で千暎を誘った事になる。
千暎は恥ずかしさを覚えるのと同時に、航の心の広さに、今まで味わった事のない感情が芽生えていた。
「変われ……る? 変われるのかな……。あたし……」
「それは……もちろん千暎ちゃん次第だし、僕が変わらせてやるなんて大きな事は言えないし、言うつもりもないけど、一緒に考えて行動して、千暎ちゃんの心を軽くする事は可能なんじゃないのかな? そばにいるだけなら僕にも出来るはずだから」
「………………」千暎は嬉しさと同時に今までの淫らな自分が恥ずかしかった。
この人に嫌われたくない!
千暎の本心だった。
「あたし……、あなたに嫌われたくない……」独り言を呟いていた。
「ん? 何? 今、嫌われたくないって言った?」
「う、ううん。言ってない! 言ってない! もし、あたしが航さんの嫌いなタイプだったらどうするのかな~って言ったの。どうしても許せないような女のタイプだったら――――」
航は少し間をおいて言った。
「僕にはタイプとかないんだ。お互いが自然に惹かれあっていければ、その人がタイプなんだと思う。だけど、自分の事しか考えない人は好きにはなれない。一見自分勝手そうに見えても、実はそれが相手の事を思っての行動なら、好きになる。でも千暎ちゃん? 僕は君の事は初めから気になる存在だったんだ。少なくとも嫌いなタイプじゃない事だけは、自信を持って言えるよ?」
「航さん……。あたし……怖いんだ。航さんに自分の正体を知られる事が……。今まではそんな事考えた事もなかった。嫌いなら嫌われたままでいいって意気がってた……。なんでかな……」
「千暎ちゃんの正体? 君はそんなに謎な人なの? 僕は……、どんな千暎ちゃんでも嫌いにはならない気がするな〜。僕は自分の直感を信じる馬鹿なとこがあってね。その直感が強い時は、外れたことないんだ。特に女性に対しては。仕事人間の僕だから、普段の疎さが逆に女性には敏感に働くのかも知れないんだけど。千暎ちゃんは僕に嫌われたくないって思ってくれてるんでしょ? ってことはさ、少なくとも好意を抱いてくれたって事でしょ? なら、僕も本気で向き合うよ。だから辛い事抱えてるなら、言ってくれないかな?」
航の気持ちは嬉しかったが、何をどう伝えればいいのか整理がつかなかった。
「航さん……。今は……まだ言える状態じゃないの……。ただ、航さんとはこれからも繋がっていたいと思ってる。少しずつバレて行くと思うから……」
「少しずつバレて……? 千暎ちゃんの発言はちょっと変わってるよね~」と笑いながら「僕だって同じ気持ちだよ。キツいと感じた時は、これからは僕がいるって事、忘れないで」
航は千暎を駅まで送ると、「また連絡するから」と手を振り、そのまま帰って行った。
千暎の身体には、一度も触れずに…………。