喜びと不安
数日後。
千暎はあさみと夕食を共にしていた。
「ちゃんとあさみに報告しとこうと思って」
「どっち? 新しい彼?」
「両方……」
千暎が航と付き合う事を話すと、あさみは本当に嬉しそうに微笑み、やっと千暎ちゃんも落ち着けるね、と、にこにこしていた。そして脩平の事も、全くもって不本意な事になってしまったと打ち明けた。
「ひどい! 脩平くんて卑怯な手を使うやつだね! ……そりゃやっぱり不安よね……。でも、きっと大丈夫。千暎ちゃんは今までだって、思い通りにやって来れたじゃない? 彼氏さんだって、素敵な人みたいだし、こんなところで躓くわけないよ!」
「思い通りじゃなくて、勝手気ままだよ。馬鹿だよね……。今更後悔してるなんてさ……」
「ダメだよ、弱気になっちゃ。不安な気持ちは良くわかるけど、そうなったら、その時悩もうよ。ね?」
「あさみ……。あんたほんとに強くなったね? 史人のお陰?」
「かな……? でも、きっかけは千暎ちゃんだよ。千暎ちゃんがいろいろ私にアドバイスしてくれたお蔭」
「アドバイスなんかしたっけ?」
「千暎ちゃんはいつもズバズバ言ってくれたじゃない? コンタクトにしろだの、もっと足出さなきゃだめだの、前髪はマメに切れとか。あんたはもっと可愛くなれるはずだから、自分をアピールしなきゃもったいないって。そのお蔭で、史人くんにも告白されたんだよ? 自分にもちょっとだけ自信がついたし。私、千暎ちゃんがいなかったら、つまらない女の子のままだったよ」
「あたしは、ほんとの事言っただけ。メイクしてあげたら、めっちゃ可愛いくてさ~。髪型だって、洋服だって、ちょっと変えたら、すっごい可愛くなった。あたしが惚れそうになったくらいだよ」
「私は好きだったよ。千暎ちゃんの事……。だから抱いて欲しかった……」
「――――! あ、あさみ?」
「ふふっ、でも叶っちゃったから、満足してるの。もちろん、今だって大好きだよ」
「もう~、あさみはほんとに可愛いんだから……」
あさみは照れ臭そうに微笑むと、急に下を向く。
「…………。ちょ、ちょっとトイレ行ってくる……」あさみが席を立つ。
千暎はあさみの様子がいつもと違うと感じていた。笑顔の顔もどことなく元気がないように思えた。気のせいかな? ふと、あさみの食事に目をやると、ほとんど減っていない。そう言えば、あんまり口にしていなかった。具合でも悪いのかな~?
あさみが席に戻る。
「あさみ? 体調よくないの?」
「えっ……。だ、大丈夫だよ? どうして?」
「だってあんま食べてないじゃん?」
「これから食べるよ。話に夢中で進まなかっただけだよ」
嘘だ。あさみはどんな時だって、話ながらでも、しっかり食べる娘だ。
「ねえ? あたしに隠し事しないでよ。具合悪いんじゃないの? それとも悩み事でもあるの?」
「でも……、千暎ちゃんだって不安抱えてるじゃない?」
「だから話せないって言うの? あたしに遠慮してどうすんのよ!」
「ごめん……。実はね……、最近気分が悪くて、朝起きると吐きそうになるし、食欲もあんまりないんだ……。胃をやられちゃったのかな? って思ったりしたんだけど、私が胃腸を壊すと思う?」
「思えないね~。あたしと一緒で、胃だけは丈夫なはずだし……」
「でしょ? だから、もしかしたら、って思ってるんだけど……」
「――――! それって、ひょっとして、ひょっとする?」
「まだ、わかんないんだけど……」
「史人のやつ、我慢出来なかったんか!」
「違うの! 私がいいって言ったからなの。史人くんは悪くない!」
「そういうのはお互い様だよ」
「う……ん。わかってる。でもまだはっきりしたわけじゃないし、史人くんにも話してないんだ……」
「……ねえ、病院行こう? 自分で検査してみるより確実だし」
「…………。私、なんだか怖いの」
「怖い? 大丈夫だよ。史人がついてるじゃない」
「そうじゃなくて……。私達まだ若いし、史人くんが喜んでくれるのか、不安なの……」
「それは病院行ってから考えよう? 史人の子でしょ? あさみはあたしと違うんだから、不安がる事ないじゃない? あたしが一緒に行ってあげるから。ね?」
「でも……、千暎ちゃんだって不安抱えてるのに、私の事までなんて頼めないよ……」
「も~、何つまんないこと気にしてんの? 何の為の友達だよ! あさみが不安な気持ちは、あたしが一番わかってるっつうの!」
翌日、あさみは史人には内緒で千暎と病院に来ていた。今は土曜日も診察してくれる病院が増えて助かる。
千暎は待合室で待っている時間が、とても長く感じた。まるで夫になった気分だ。周りの妊婦さんのお腹を見ながら、あさみの姿を重ねる。と同時に、自分ももしかするとそうなるのかと思うと、ゾッとして身震いがした。しかも脩平の遺伝子かも知れないとか、考えたくもなかった。
スーッとドアが開き、あさみが医師へのあいさつを終えて千暎の元に戻る。
あさみの表情は、ほんの少しだけ微笑んでるように見える。
「まる?」
あさみは言葉を発せずに頷く。
千暎は、あさみを抱きしめると、「すぐ史人に報告しなきゃ」と言った。
「あのね、千暎ちゃん。史人くん、やりたい事があるって言ってたの……。その為にお金を貯めないとならないって……。だから、喜んでもらえないんじゃないかと思って……」
「何言ってんの? そんなわけないじゃん! やりたい事が何なのか知らないけどさ、史人はそんなヤツじゃないでしょ! あさみが一番わかってるはずじゃない?」
「千暎ちゃん……」
あさみがどうしても千暎にいて欲しいと言うので、千暎の部屋に史人を呼ぶ事にした。
史人は、休日出勤を終えてから来た。
「どうしたの? この馳走ー。あれ? 今日は千暎の誕生日だっけ?」
「あたしじゃないよ」
「ん? あさみでもないし、俺でもないし……。誰の?」
千暎はあさみをつつく。
「あ、あのね、史人くん……。今日ね、千暎ちゃんと病院行って来たの」
「病院? やっぱり具合悪かったのか……。どこが悪かったんだ?」
「史人くん……。具合悪いのに、ご馳走なんか作ると思う?」
「だよな? じゃあ、なんだ?」
「あさみの表情見て、何か感じない?」
史人がじっとあさみの顔を見る。
「感じるよ。キスしたくなる」と言って、軽く唇をつけた。
「……。それは後でゆっくりやって」千暎が呆れる。
「病院→ご馳走→あさみの顔……。ご馳走とくれば、めでたい時だよな~? ――――ん? めでたい? 病院? えっ? もしかして、あさみ?」
史人があさみを見ると、ゆっくり頷き、はにかむ。
「マジか? 俺の子?」
「馬鹿! 史人! 当たり前じゃん! なんて事言うの?」千暎が思わず史人の肩を叩く。
「いや、そーじゃなくて、信じられなくてさ……。じゃあやっぱり、あの夜の日か?」
「……うん。あたしが史人くんを離さなかった、あの夜だと思う……。ねえ? 史人くん? やっぱり早いかな? 私達が親になるなんて……」
史人はあさみを抱きしめたまま、優しく頭を撫でると「籍入れよう、あさみ。結婚しよう、俺達」と言って、再び唇を重ねた。
史人の突然のプロポーズに驚きながら、嬉しさで涙が止まらなくなったあさみと千暎。
どうやら、史人のやりたい事とは、あさみとの結婚資金を貯める事だったらしい。あさみと付き合い始めた時から、その気持ちは芽生えていたのだと言う。途中、千暎に翻弄されそうになって、ヤバかったとも告白した。
あさみが心配する事なんて何もなかったのだ。
あさみの嬉しさとは裏腹に、自分には真逆の悪夢が待っているかも知れないという不安に苛まれている千暎だった。
数週間の間、千暎は不安のまま過ごし、嫌な予感の中、航の自宅で会っていた。
航は、今手掛けている仕事に、なかなか手応えを感じているらしく、生き生きと話をしている。それに比べて自分の落ち込みようと言ったらなんだ? 千暎は情けない気持ちで、航の目を直視出来ないでいた。
「千暎? 何か僕に言いたい事があるんじゃない?」
「えっ? うううん、航さんが仕事の話する時って、ほんとに熱いな~って、思って。あたしは何の夢もないし、ちょっと羨ましいだけ……」
「あ……。ごめん。僕は好きな事を仕事にしてるようなもんだから、つい……。興味ないよね?」
「そんな事ないよ! 興味ありありだよ。聞いてるだけで勉強になるし、力になりたいと思ってるよ」
「ほんとに? 気を使ってない?」
「使ってない! 航さんの興味を持つものは何でも知りたいと思ってるもん! 興味なかったら、ちゃんと、ない、って言うから」
「……。ふっ……ダメだな~、僕は……。千暎ちゃんの事知りたいと思ってるくせに、自分の事ばっかり話してるよね?」
「それだけ、あたしに気を許してるって事でしょ? 嬉しいよ、とっても……」
航は千暎をそっと抱き寄せた。
「僕に話してくれないかな? 君の心の蟠りを」
「――――?」
「あるんでしょ? 僕に云いづらい事が」
千暎は迷っていた。実際胃の調子もあまり良くないし、月一のものも遅れていた。しかし、どう話せばいいの? 航を失いたくない気持ちが、打ち明ける勇気を奪っていた。
「僕と初めて会った時の千暎の笑顔が、会う度に変わってて、段々深刻化してる気がするんだけど? 僕が悩ましてんのかな?」
「ち、違うよ! それは違う! 航さんの事好きだから……、だから……、離れたくないから…………」
「ん? 僕はきみを離すつもりなんかないけど?」と言って、キスをした。
「もう少し……、もう少しだけ……待って……。まだ何も話せる状態じゃないのよ……。ただ不安なだけだから……」
「その不安は、僕じゃ取り除けないの?」
「そういう事じゃなくて…………。とにかく、後少しだけ待って欲しいの……」
「わかった。千暎を信じてるから」
航は千暎を抱きしめると、そのままソファに倒れ込み、「今だけでも、その不安を忘れさせてあげるよ……」と言って、千暎の柔肌を快楽へと導いていくのだった。