優しさ
結局千暎は、ほとんど眠れずに朝を迎えてしまった。
このまま航と会ったら、彼はまた自分の異変に気付くだろう。しかし、ここでドタキャンはしたくない。仮病を使う? でも、千暎は航に会いたかった。会って脩平の事を話すと決めたじゃない? 千暎は浴槽にお湯を張り、アロマオイルを垂らすと、ゆっくり湯船に浸かり、目を閉じた。
今日は、航さんとちゃんと向き合うのよ。彼の事に集中しなきゃ。シュウの事はどうやって話せばいいんだろう? 話す必要あるのかな? 事態は少し変わってしまった。恐らくシュウは暫くは来ないだろう。このまま自分の過去として、航さんと向き合えばいいんじゃない? 彼は過去なんか気にするような人じゃなさそうだし。迷ってても仕方ないよね? あたしは、航さんに惹かれている。そう……、あたしはすでに彼に抱かれたいと思ってるんだ……。もう、今の自分を見せるしかない。
千暎は約束通り、駅に向かった。今日は千暎の方が先に着いて待っていた。
「待たせちゃったかな?」
「うううん、ぜんぜん」
「今日はどこ行こうか? 千暎ちゃんのリクエストはある?」と千暎の顔を覗き込む。
そんなに見つめないで……。
「あ……、あたしはどこ行っても楽しめる自信あるから、今日のところは……航さんに……任せる……ことにする……」
航は少しの間千暎を見つめると「わかった。じゃ、任された」と言って、車を走らせる。
ハンドルを握る航の指は、細くて長い。男性にしてはきれいな指をしている。爪はきれいにカットされ、短髪の黒髪に黒縁メガネ。服装からも清潔感を感じる。
今日のあたしは、航さんにかわいく映ってるのかな~。よく見ると腕の筋肉が付いてそう……。その指で触れられたらどんな感じなんだろう? …………。ハッ! 何考えてんのよ。……。外見はともかく、中身はしょーもないな、あたしは……。
「何? なんかすごく視線を感じるんだけど?」
「えっ! あ、あ、いや、あの、えっと、航さんて、洋服は自分で選んでるんだよね?」
「もちろんだよ。誰に選んでもらってるって言うの? まさか母親とか? 僕はマザコンじゃないって言ったでしょ?」
「やだ、そんな意味じゃないよ。センスいいな~って、思ったから……」
「えっ、ほんと? 嬉しいよ、そこを見てくれて。これでも結構服には気を使ってる方だから。千暎ちゃんだって、いつもかわいいよ。すごく君の雰囲気に合ってるし。僕は好きだよ、そういう感じ」
「マジ? 良かった~。じゃあ、ずっとこんな感じで行こうかな?」
「ずっと?」
「あれ? ずっとこの路線じゃダメ?」
航は‘ずっと’と言う言葉に、これからもずっと自分と付き合う意味かと勘違いして、ドキッとしてしまった。
「た、たまにはセクシー系でもいいんだよ?」
「たまには……。了解です」千暎はやっと笑った。
程無く車は住宅街に入り、ある一軒家の前に来ると、その家の駐車場らしき場所に停められた。
「ここは……?」
「僕の家」
「へっ? ………………」
航は、リビングに通すと、千暎を座らせる。
「今日は僕が作るから、文句言わないで食べてくれる? あ、おふくろはまだ入院中なんだ。別にその隙にってわけじゃないけど」と言って、照れ笑いをする。
「航さん、料理作れるの?」
「得意ってわけじゃないけど、好きなんだ、創作料理が」
「創作料理?」
「つまり……、素材も味も自己流。もしかしたら、口に合わない変なものになる可能性もあるって事かな」
「それは楽しみ。あたし、胃だけは丈夫だから、安心して」
「それは頼もしい。僕も、今までお腹壊した事ないから、安心して」
ふたりの息が合っていた。結局ふたりでキッチンに立った。
出来上がった料理は、見た目はスープパスタ。茹でたパスタを数種類の野菜と鶏肉で炒め、お皿に盛りつけてから、トマトスープをかける。ミネストローネにパスタが入ってるイメージだ。
「すごーい。具だくさんだね。おいしそう~」
「これだと、一皿で根菜も野菜もタンパク質もとれて、水分も取れる。有難い一品でしょ?」
「うん、うん、確かに。では、早速いただきます! ――――――。んっ! おいしい~。これ、イケますよ、航シェフ~。文句が言えないんですけど」
千暎の満足そうな笑顔を見て、航はほっとしていた。
「良かった。千暎ちゃんの口には合ったみたいだね。良かったら、ワインもあるよ。飲む?」
「えっ、でも……」
「ワインはあまり飲まないの?」
「飲むよ。アルコールなら何でも」
「ハハハ、何でもか~。なら、飲みなよ」と言って、ワイングラスを置き、ワインを注いだ。
「あたしだけなんて、なんかつまんないよ……。航さんの家なのに……」
「僕も飲んでいいんだったら、飲んじゃうよ? でも、誰が君を送って行くのかな?」
「………………。少しくらいなら平気だよ。時間を置けば…………。あたし、今日はいっぱい航さんと話がしたいの。だから、付き合って欲しいな……」
千暎はこのまま一夜を過ごしてもいいと思っていた。
「わかった。じゃ、乾杯しよう」
ふたりはワインを2杯程飲み干し、食事を終えると、航がコーヒーと水を持って、自分の部屋へ案内する。デスク、テーブル、ベッド、クローゼット――――。驚いたのは、本棚にギッシリ詰まった書籍だ。ジャンルを問わず様々な書籍がきちんと整理されている。中でもローマ字で書かれたインテリア雑誌がたくさんある。
「エルデコ……、コンフォルト……、モダンリビング……? あ、この辺ならあたしでも見た事ある!」
航がテーブルにコーヒーを置き、座りながら答える。
「ああ、一応インテリアの仕事してるからね。ついつい溜まっちゃって、なかなか捨てられない。将来は自分の設計デザインしたマイホームを建てたいと思ってる。独立も視野に入れて構想中なんだ。まだ目処はついてないけどね」航は目を輝かせている。
「目標があるって素敵だな~」
端の方にはコミック誌も並んでいる。
「漫画も読むんだ?」千暎も座りながら話す。
「現実逃避の手段だったんだけど、漫画は脳に刺激を与えてくれるし、アニメーションも勉強になる。僕にとっては、欠かせないアイテムなんだよ」
「へぇー。意外な一面を見た気がする。やっぱりお仕事大変よね?」
「ん~、仕事が大変って言うより、お客さんの要望にどれだけ自分の意見を近付けられるかっていうのに悩むかな? こっちにも譲れないものがあったりするしね。やりがいのある仕事ではあるけど、なにしろ残業やら、休日やら不規則極まりない! だから、なかなかデートの予定もつかなくて……」と苦笑いをする。
「そうなんだ……。だからめんどくさい発言が出たのね?」
「結局は仕事が好きなんだろうね。それをわかってくれる女性は、なかなかいなくて。仕事優先だと、女性は物足りないのかも知れないよね? 『また仕事なの? 私の事なんて考えてもくれないのね? 』とか言われる始末……。いつの間にか離れて行っちゃうんだ」
「ふふっ、生活の軸はお仕事なんだから、優先させて当然なんだけどねー。女心って、いつでも自分が一番でいたいのよ。仕事をキャンセルしてまで、自分に会いに来てくれた。それだけで盛り上がれちゃうもんなんだから」
「千暎ちゃんもそうなの?」
「あ、あたしは……。どうかな? 仕事をキャンセルしてまで来るバカいないわよ! ってなるかも。でも、そう言いながら、ほんとは嬉しくて嬉しくて、たまらないんだよ。愛されてる実感が大事なんだと思う」
「愛されてる実感? どんな風に?」
「どんなって…………。それは肌で感じる感覚だから、上手く言えないけど……。ちゃんと自分だけを見てくれて、大事に思ってくれたら、それだけで十分。大切にされてるって実感出来れば、離れはしないと思うんだけど……。結構、それが難しいんだよね? 男と女の感覚の違いってのもあるし」
「感覚とか考え方とか、根本的に違うとこは確かにあるね。けど、僕からすると、千暎ちゃんにはとても居心地の良さを感じるんだ。そもそも、僕が自分から女性を誘うこと自体、今までなかったから」
「えっ? ……」
「かっこいい言い方しちゃうと、暇がなかったんだ。チャンスがなかったのかも知れないけど、いろんな勉強しなきゃだったし、時間も不規則。告白されて付き合っても、ろくにデートも出来ない。気が付けば三十路が迫ってた。今、やっと方向性が見えて来て、少しは落ち着いて来たんだよ。新田先輩だって同じようなもんで、ちょっと前から合コンに目覚めたみたいだしね」
千暎はなんだか恥ずかしかった。航の真面目さに比べて、自分はどんだけ淫らな女なんだ。航に好かれるはずなんかない。千暎は黙り込んでしまった。
「千暎ちゃん? どうかした? 僕、変な事言ったかな?」
千暎は無言で首を横に振る。
航は何かを感じ取ったのか、千暎の肩をそっと抱き寄せる。高鳴る千暎の鼓動。
「航さん……。あたし……、前にも言ったけど、やっぱり、航さんに見合うような女じゃないみたい……」
「見合う? …………。実はね、過去に僕を好きになってくれた女性はいたけど、僕が好きって思えた女性は、千暎ちゃんが初めてかも知れない。会えない間にもいろんな事を考えて、僕はやっぱり千暎ちゃんに惹かれてるって感じたんだ。だから、見合うとかそんな事じゃない。僕は君にどんな過去があろうと、今の千暎ちゃんを好きになったんだよ。君の事が愛しいんだ……」
「……。でも……、知ったら嫌いになるよ……」
「じゃあ、正体ばらしてくれる? 嫌いになるかどうかは僕が決める事だから」
「航さん……」
「千暎ちゃんに何かあった事は、顔見ればわかるよ。この間とは違う表情をしていたからね。だから、外に連れ出して気を紛らわすより、二人でいた方が落ち着くと思って、ここにしたんだ。僕の事も少しは知って貰おうと思ったからね。それに……、千暎ちゃんにそんなひどい過去があるとは思えないんだけどな~。男の人数なんて気にしてないよ?」
「――――えっ!」
「少しは気が楽になったでしょ?」航が微笑む。
千暎は、航の心の広さに胸の奥がキュンとなった。
「あたしも航さんが好き。だから早く会いたかった。…………。でも、でもね、あたし、不倫もしてたし、友達の彼氏……寝取った事あるし……、最低なのは、元彼と関係を続けてた事……。彼はあたしと縒りを戻したくて、何度もうちに来て……、あたしを離したくないばっかりに……、無理やり……、イヤって言ったのに……、なのに無理やりあたしの…………」突然千暎の口が航の唇に塞がれた。
「――――!」
「黙らせちゃってごめん……。だいたいの事は把握できたよ。千暎ちゃんの正体はそのままの君だ。少しだけモラルに逆ってしまっただけ。もうそれ以上、振り返らなくていいよ」
「でも……、まだあるのに……」
「君は僕を好きって言ってくれたね。僕にはその言葉で十分だよ。今から始めればいいじゃない? 千暎ちゃんが何人の男に抱かれようと、今は僕を見てくれてる。違う? 過去は取り戻せないんだから。それとも、僕以外に付き合っているひとでもいるの?」
「まさか。今は航さんだけだよ」
「だったら、これからは僕に頼ってよ。どんなに忙しくたって、必ず応えるから」
「ほんとに?」
「ああ。約束…………は出来ないけど……」
航は正直だ。
今度は千暎から唇を求めた。
「あたし、航さんに抱かれたい……」
「千暎ちゃん……。いいんだね? ほんとに僕で」
千暎が頷くと、航の腕が千暎を抱きしめる。千暎の髪の香りが、航の神経を高ぶらせた。そっと眼鏡を外す。
航はそっとキスをすると、ゆっくりと時間をかけ、千暎を頂点まで運んでくれたのだった。
二人は抱き合ったまま、暫く動けずにいた。
「千暎……。千暎って呼んでいい?」
「う…ん。嬉しい……」
航はもう一度千暎の髪を撫でながらキスをすると、背中に手を回す。
航は、千暎を抱いた事によって、もう、これ以上、千暎を他の男に触らせてはならないと思った。これほどまでに愛しい女性には、もう出会えないだろうと感じていた。
まさに直感がズバリ的中したのだ。
結局千暎は、航の腕に抱かれながら、一夜を過ごした。
翌朝。
「航さんに言って置きたい事があるんだけど……」
「衝撃的な過去じゃないだろうね?」
「あれ? 過去は気にしないんじゃなかったっけ?」
「気にはしないけど、興味がないわけじゃないよ?」
「へ~、あるんだ?」
「まあ、いいから話してよ」
「うん……。あたしの衝撃的な過去でも何でもないんだけど、もし、この先、史人と会う事があったら、初めましてって、あいさつして欲しいの」
「ん? そう言えば前にも言ってたよね? なんでなの?」
「あっ、そう言えば話したかも。実はあさみ……あ、この間話した史人の彼女なんだけど、あさみには、何も事実を伝えてないの。あの日の事は、3人だけの秘密にして欲しいのよ。史人もあさみには事実は言ってないみたいだし……」
「ん~、事情はよくわからないけど、つまり、僕は、これから存在する人物になればいいって事だね?」
「そ、そうです。その通りです」
「じゃあ、近いうちに初めまして会でもやろうか?」
「初めまして会? ふふふ、楽しそう~。うん、やろう、やろう。日程は航さんのスケジュール次第だね?」
「う、う、痛いとこ突かれたな」
久しぶりに安らぎを感じる千暎だった。