怒り
金曜日。
千暎は、業務終了後、書類を整理して帰り支度をしていた。今日は早く帰るぞ。と思っていたら、丸山に声をかけられる。
「竹元さん、お疲れ様~」
「あ…。お疲れ様でした」
「今日、一緒に食事でもどう?」
「すみません~。今日は早く帰らなきゃいけないので、ご遠慮します」
「ふぅ~。……。今日は、じゃなくて、今日も、でしょ? 竹元さんが元気回復したみたいだから、快気祝いに奢ってあげようと思ったのになー」
「快気祝いってなんですか! 病気になんかなってませんよー」
「いつなら誘っていいのかな?」
「あ~、多分、ずっとよくないかも知れないですね~」
「ずっとって! そんなに僕の事嫌い?」
興味がないだけです。と言いかけてやめた。
「あたし、彼氏が出来たんですよー。だから、お誘いは受けられないんです~。ごめんなさい。では、お先に失礼しまーす」
千暎は席を立つと、ぽかんとする丸山に背を向け、足早に出て行った。
「彼氏がいるって、もっと早くウソついときゃ良かった」
千暎は明日の為に、速攻帰社した。
電車の窓に時々雨があたる。強くならなきゃいいな、と思いながら外を眺めていた。
駅に着き、改札を出ると、多くの人が足止めを食らっていた。タクシーを待つ長い列。携帯を耳にあてる人やメールを打つ人達。
先程までの雨が、数分で豪雨になっていたのだ。
千暎も傘を持っていなかった。走って行けなくもないが、間違いなくずぶ濡れだ。
「どうしよう……。小降りになるまで待つか……。せっかく早く帰ってきたのに、意味ないじゃん。丸山さんに話し掛けられなかったら、ギリギリで一本早い電車に乗れたのに!」と独り言を呟いた時だった。
「やっぱり帰れずにいたのか」と千暎の前に現れたのは、カッパを着た脩平だった。
「うわ! びっくりした! 恐いよ、黒カッパ!」
「傘持って来てやったぜ。ほら!」と傘を差し出す。
千暎は「い、いいよ。止むまで待つから!」と拒否した。
「まあ、いいから。帰るぞ!」
脩平は千暎の手を握ると、引っ張るように歩き出した。
帰るぞって、まるで自分の家に帰るような言い方よね。何であたしが駅にいるってわかったんだ? まさか、見張ってた? そんなわけないか? いや、有り得る。脩平ならやりかねない。今夜も泊まる気? ダメよ。今夜は。
千暎が頭の中をぐるぐるさせているうち、アパートに着いてしまっていた。
「ちょっと! シュウ! また勝手な事して!」
「まあ、そう言うなよ。早く帰れたんだから、お礼くらい言って欲しいもんだな」と、駐輪場のフェンスに傘をかける。
「えっ! やだ! その傘シュウのじゃなかったの?」
「ああ、ちょっと拝借した」
あきれたやつ。
脩平はまた腕を引っ張ると、階段を昇る。部屋の前に来ると、ドアノブに何か掛かっていた。
「何これ?」
脩平はカッパを脱ぐと、パンッ、パンッと叩きながら「俺が買って来た。とにかく中入ろうぜ」
もう、千暎も怒る気すらなくなっていた。
「今日はさ、夕方から雲行きが怪しくなって来てたろう? だから、現場早じまいして、明日になったんだ。千暎と一緒に牛丼でも食おうかと思って買って来たんだけど、千暎帰ってねーし。急にどしゃ降りになったから、もしかして駅にいんじゃないかと思ってさ、とりあえずドアに引っかけて駅に行ったんだ。したら、やっぱりいた。俺の勘もなかなかやるな?」と高笑いする。
「あたしが駅にいなかったらどうしてたのよ」千暎は着替えながら聞いた。
「どうしてたかな〜。電車を何本か待ってたかもな」
「それでも、来なかったら?」今度はお湯を沸かしながら聞く。
「わかんねーよ。そん時になったら考えるさ。そんな事より、牛丼冷めちまったな」
「今、暖めるよ。でも、これ、あたしが帰って来なかったら、シュウがふたり分食べる羽目になってたね?」
「もういいじゃん。もしも話はさ。あ、ビールも買って来たぜ。今まで飲み逃げしちまったからよ」と言って、リュックからビニール袋を出し、中から500ミリリットルの缶ビールを3本取り出す。
何よ、今日はやけに気が利くじゃん。
ふたりは牛丼を食べながら、ビールを飲み始める。
「あーーーー!! シュウ、またビール飲んだ! 飲酒運転だ!」
「こんな大雨の中帰す気かよ。そんな事よりさ、あれから何もなかったか?」
また誤魔化された……。
「何もって、なんのこと?」
「困ってる事があんだろ? 俺は千暎の為だったら、貯金叩いてもいいぜ」
「貯金なんかあるんだ?」
「そりゃあ、ちょっとくらいあるさ。彼女もいねーし。車も持ってねーからな。俺の端金でも役に立つんなら使っていいんだぜ」
脩平は、良くも悪くもお金には執着心がなかった。貯めようと思えば貯まるだろうし、使おうと思えば、使い切ってしまうような、計画性がない男だ。
「あたしは、シュウが稼いだお金を出させるような女じゃないよ。でもシュウがそんな事言ってくれるなんて思わなかった……。気持ちは嬉しいよ……ありがとう」
「なんだよ、改まってさ~。俺は千暎の為だったら、何だって出来るぜ。まあ、死ねと言われても死ねねーけどな」
「あたしの為だったら、何でも出来る? そんなの無理に決まってんじゃん! でも……、ひとつだけして欲しい事があんのよ」
「なんだ? 千暎としてない事っつったら、そーだな。野外・・・」千暎が思わず口を塞ぐ。
「バカ!!」
「じゃあ、なんだよ」
千暎は牛丼を食べ終わって、ビールを一口飲んでから言った。
「もう、ここへは来ないで欲しいの」
「なんでだよ?」
「なんでって、あたし達はもう、終わってるのよ。シュウもわかってるはずでしょ? 以前の千暎じゃないって」
「ああ、だから俺は千暎の彼氏にはなれないって事だろ? わかってるさ。彼氏じゃなくたって、千暎に会うことは出来るだろう? 千暎が俺に気がなくたって、身体を喜ばせる事は出来るさ」
「どうしてそうなるの? どうしてそんな寂しい事言うのよ…………」
「寂しい? 俺がそれでもいいって言ってんだ。俺は千暎を抱いていたい」
脩平は素早く千暎を押し倒し、「俺を見捨てないでくれよ……」と呟く。
「やめて! シュウ、あたし、彼が出来たのよ。だからもう、シュウには抱かれたくないの! あたしは、その男性と真剣に付き合いたいの。シュウの欲情だけであたしを抱くのは、もうやめて……。あたしはシュウを見捨てるとかそんな事思ってないよ。シュウの優しいとこだって、ちゃんとわかってる。ちょっと強引なとこも嫌いじゃないよ? ……。でも違うの。ずっと一緒にいたいって、そんな風には思えないのよ」
「ふ…………、やっぱり無理なのか? 俺は身体だけでも千暎と繋がってたかったんだ。抱けば抱くほど、千暎が俺から離れられなくなるはずだと思ってた……。でも違うみてーだな? けど……、俺は2番目でいいぜ。彼氏になんなくたって、千暎に会えればいい。なあ、それでもダメか?」
「2番目? 女女しい事言わないで! シュウには男としてのプライドはないの? シュウはこれからもっと男らしくなるはずだよ? あたしなんかに執着しなくても、出会いはきっとあるよ」
「気休めなんか言うな! …………。わかったよ。けど、俺は諦めねーから。千暎が惚れ直すくらいな男になってやるよ」
「惚れ直す? あたし、シュウに惚れてた?」
「うっせーよ! 惚れてんだろ? この身体によ!」そう言うと脩平は、再び千暎に覆いかぶさって来た。
「そうやってすぐ血が昇るとこが大人じゃないのよ!」
「なんとでも言え!」脩平は千暎の言葉に逆上する。執拗に千暎を離さなかった。必死に抵抗する千暎だったが、脩平の力強さには無駄な抵抗だった。千暎はこれで脩平の気が済めばいいと思った。好きなだけ抱けばいい。今日で終わりよ。そう思った時だった。脩平の熱いものが千暎の身体の中へと注ぎ込まれようとしていた。必死で阻止しようと、全身の力を込めて叫び喘いだ。だが叶わなかった。
千暎は微動だもせずに横になっていた。
「俺を千暎の中に残しておきたかったんだ……」
「信じてたのに……。わかってくれると思ったから抱かれたのに…………。帰って……。帰って!! もう二度と来ないで!!」千暎は今までで一番強く脩平に怒りを感じた。
「俺たち、何で再会しちまったんかな? 俺はやり直せるチャンスが来たと思ってたんだ……」
千暎は何も答えない。
「千暎?」
「触らないで! 聞こえなかった? 帰れ! って言ってんだよ!!」
今までにない千暎の荒声に、脩平も黙り込んだ。ムクッと起き上がると、勝手にシャワーを浴び、帰り支度を始めた。
「俺、後悔してねーから。何があっても逃げねーからな!」脩平は真夜中にも関わらず、部屋を出て行った。
雨はすっかり上がり、月の光が闇を照らしていた。
あの日も雨だった。あたしがあの時、シュウを引き止める事さえしなければ、始まる事もなかったのかも知れない。ううん、違う。引き止めたのは自分の熱くなる身体だ。あたしがシュウを責める資格なんてないんだ…………。
千暎は、無気力のままベッドから降りると、浴室で念入りにシャワーを浴びた。止めなく溢れ出す涙。千暎は初めて大きな不安を抱いたのだった。