始まりの時
なんてきれいな背中なの?
あさみの視線はその美しい白い肌にくぎ付けになった。
――始まりの時――
笠松あさみと竹元千暎は、同期入社で2年目だが、千暎の方が年上。同期が8人の内、女子は2人だけだったため、配属部所が違っても、何かと相談し合っていた。
あさみは同期入社で大卒の史人と付き合い始めて半年、千暎は常務に惹かれ始めていた。
「あさみは史人とは順調?」
「う~ん、ぼちぼちかな~」
「何よ、ぼちぼちって。満足してないの?」
「まだそんなに会ってないし、こんなもんなんじゃないかな~」
「こんなもんて、どんなもんよ~? 史人って真面目そうだけど、やっぱり淡泊?」
「そーでもないよ。メールの返事とか、結構長いし」
「そういう事じゃなくて、あっちの方だよ」
「えっ? あ~。さあ? どうなんだろ? 未経験だからわかんない」
「へっ? もう半年ぐらい経つよね? 何もして来ないわけ?」
「半年って言ったって、史人くん、忙しくてなかなか会えないから、数回しか会えてないんだよね。ほとんどメールかな」
「あさみはそれでいいの?」
「う~ん、いいかどうか良くわかんない。でもベタベタされるよりはましかな? 程よい距離感ってとこだね。千暎ちゃんの方こそどうなの?」
「あのさ、いい加減、ちゃん付けで呼ぶのやめようよ。千暎でいいから。なんかムズムズすんのよ」
「だって、私、人を呼び捨てにするの苦手なんだもの……。いいじゃない? ひとりくらいそんな子がいても」
「わかったわよ。好きにして。そう、そう、常務の事なんだけどさ。この間の飲み会の時、迫ってみたのよ」
「迫った? どうやって?」
「お決まりの酔った振り作戦よ~」
「通じたの?」
「それが意外にあっさり」千暎はケタケタ笑った。
「あたしもビックリしちゃってさ、えっ、いいの? みたいな」
「で?」
「さすがにその日は無理だったんだけど、次の日に早速メールが来てさ~、今度の木曜日に会う約束したんだ」
「そっか……。でも、なんで常務なの? 奥さんいるじゃない?」
「たまたま好きになった男性に奥さんがいたってだけよ」
「平然と言うのね。千暎ちゃんが傷付くのが目に見えてるよ。深入りしない方がいいと思うけどな~」
「別に奥さんになりたいわけじゃないし、会うだけなら問題ないでしょ?」
会うだけのはずがあるまい。
千暎はあさみの忠告など耳に入らなかった。いつも自分の気持ちを優先させる千暎であった。
木曜日の夜。
千暎は会社の最寄り駅からひとつ隣の駅で常務を待っていた。
ロータリーに一台の車が横付けされ、千暎は助手席に乗り込んだ。
「勝手に助手席乗っちゃいましたけど、大丈夫ですか?」
「乗ってから聞いても遅いんじゃないのかな?」と言って常務が笑った。
「ですよねー」
「僕がたまに利用する小料理屋さんでいいかな?」
「もちろん! 今日はすべて常務にお任せします」
「了解。じゃあ、まず、その常務って言うのをなんとかして貰おうかな?」
「なんとか? ですか?」
「そっ。プライベートの時は名前で呼び合いたいなって思ってね」
「名前……って事は……博章さ……ん? きゃっ、照れくさいですぅ」
「ハハハッ、僕はゾクッとするけど? じゃあ、僕は千暎って呼んでいい?」
ドッキン!!
「もちろんです!」
店に着くと、ふたりは個室に通され、次々に料理が運ばれて来た。
博章の前には日本酒が置かれた。
「あ、あの……。お酒って……。車は……?」
「ああ、大丈夫だよ。そこはちゃんとするから安心して」
ふたりはお酒を交わし、料理を堪能した。
「料理も美味しくて、お酒もつい進んじゃいますねー」
「良かった。喜んでもらえて」
「良く利用されてるんですか~?」
「いや、会社の接待ではまず使わないな。教えたくないからね」
「さすが常務さん、プライベートでしか来ないってわけですねー。あたしは何人目の女性なんでしょうか~」
千暎は悪戯っぽく聞いた。
「君が3人目だよ」
「えっ! 具体的過ぎますよ~。っていうか、そんな少ないわけないじゃないですかぁ~」
「どうして? ここは僕の隠れた癒しの場所なんだよ。たくさんのひとを連れて来る場所じゃないんだよ」
「……。なら、どうしてそんな場所にあたしを連れて来たんですか?」
「さあて、どうしてかなあ~? 僕が千暎に特別な感情を持ってしまったからかな?」
「またまた~、上手いこと言いますねぇ~。そうやって何人騙して来たんです? ヒ、ロ、ア、キ、さん?」
「じゃあ、千暎はなんで僕に色目使ったの?」
「い、色目って……」
「僕に気があるからじゃないの? 僕は嬉しかったな~。気になる女性から誘われて」
「気になる女性だなんて、ほんとですかー。そんな事、真面目な顔して言わないでくださいよ~」
「僕はいつだって真剣だよ。君は僕の事、軽い気持ちで誘ったのかい?」
「ち、違います! 素面じゃ誘えないから、お酒の力を借りたんです」
「だったら、僕の事、からかってる訳ではないよね?」
千暎は面食らってしまった。
常務はプレイボーイだと噂されていたし、千暎の事もどうせ遊び相手だろうと思っていたからだ。
「博章さんの方こそ……。千暎の事は遊び相手のひとりだと思ってました……」
「やっぱり……。僕ってそんな男に見えるんだ……。実際に僕に遊ばれたって女性を知ってるかい?」
「いえ……。単なるウワサで……」
「なんでそんなウワサが流れるのかな? 僕はそんなに遊び人じゃないよ」
「でも、あたしが誘ったら、すんなりOKだったじゃないですか?」
「それは君だからだよ。千暎の事、入社した時から見てて、すごく気になってたんだ。でも僕から誘うなんて、なかなか出来なくてね……。だから、僕もお酒の力を借りて二つ返事したってわけ!」
千暎は混乱していた。本気なのか、相当遊び慣れてるのか、判断がつかなかった。
「じゃあ、あたしのどんなところが気になってたんですか?」
「まず見掛け。年齢の割に大人っぽくて、雰囲気のある子だなあ~と。そうなると、自然に千暎に目が行くようになる。するとどうだ。君は仕事が早くて、ミスが少ない。一見派手そうに見えるけど、実は真面目で素直な良い子なんじゃないかって、思えたんだ。きっと自分に正直過ぎて、失敗する事もあるんだろうけど、立ち直りも早そうだし、いつも明るくて、千暎を見ていると飽きないんだ。もっといろんな事経験したら、きっと、魅力的な素敵な女性になるだろうな~って感じたんだよ。初めは見掛けから入ったけど、僕の目に狂いはないはず。それを確かめたかった」
千暎は返す言葉を見つけていた。
「博章さんって、占いも出来ちゃうんですね?」と笑いながら続けた。「見てるだけで、そこまであたしの事見抜くなんて、すごい! びっくりですよ。でも……、あたしじゃなくても、女子社員はたくさん居るじゃないですか? 誘った事ないんですか?」
「誘われはするけど、僕から誘った事はないね。みんな僕に何を期待しているかわからないよ。それも千暎に聞きたいと思ってたんだ。千暎は僕に何を求めてるの?」
千暎は正直に答えた。
「常務……、あ、博章さんは、頭の回転が速くて、知識が豊富。顔もかっこいいし、それに……」千暎はうつむき、言葉を詰まらせる。
「それに?」
「多分、女性に誘われる誘因は……、その逞しい身体じゃないかと……」
「ははは、やっぱりそうか! 最近の女性は肉食系だからね。千暎もそうなの?」
「えっ! あ……、まぁ……入口は身体です……。でも、行動力があるし、厳しさの中で、時々見せる笑顔に優しさを感じたんです。愛想笑いじゃない笑顔がとても……素敵だったから……。プライベートはどんな人なんだろう……ってすごく興味を持ってました。だから仕事以外で話がしたいと思って……」
「入口は身体かあ~。お互い様ってわけだね」博章は優しく笑った。
やっぱり笑顔がステキな人。
「千暎? ずいぶん顔が赤くなってきたけど大丈夫? お酒弱いの?」
「いえ、弱くはないんですけど、すぐ顔に出ちゃうみたいで……。だから会社の飲み会では飲んだ振りして、かなりセーブしてるんですよ~。でも、今日はお料理も美味しくて、結構飲んじゃいましたけど……」
「そうなのか? じゃあ、ほんとはもっと飲めるんだね? けど、その顔だと相当飲んだ顔だよ?」
「だからイヤなんじゃないですかー! 博章さんの前なのに……。恥ずかしいよ……」
「でもそれって、僕に気を許してる証拠でしょ? 他に千暎のこの顔知ってる男性はいるのかな?」
「今は……いないんです……」
「今は? ……なるほど……。千暎は酔うとどうなるの?」
「……。言えません……」
「じゃ、僕に酔った千暎を見せてもらおうかな?」
「あたし、今…、結構酔いがジワジワ回って来てるんです……。ちょっとペースが早かったみたいで……、もうすぐ、やばい千暎になっちゃいそうです。ちょっとぐるぐるしてきたし……」
「えっ、大丈夫? 気持ち悪くない?」
「いえ……。逆ですよ……。ヒロアキさん……」
千暎は博章の隣に座り、寄り掛かりながらお酌をした。
「逆って事は気持ちいいってこと?」
「ええ……。お酒が進むほどに気持ち良くなるんです……」
千暎は上目遣いで博章を見る。博章も千暎の髪を撫でると「じゃあ、もっと飲もうか? 千暎の酔った姿が見てみたいよ」と言って、意味深な笑みを浮かべた。
二人は熱い夜を過ごし、料亭を後にした。
やっぱり常務は素敵な男性。
千暎は更に常務に惹かれていくのだった。