第五話「美母礼《びもれい 》」
窓からは、冬の海が見える。寒風に波が荒く運ばれてくる。
灰色の空。雲が水平線の向こうまで繋がっている。
荒涼とした風景は、水墨画の世界にも感じられた。
私はのんびり一人、こうして列車で旅をするのも久しぶりだった。
特に真冬のこの時期に、山奥のひなびた温泉を目指すなんて、感傷もいいところだと、自嘲してみたりもする。
わずか2両で単線を行く、まさに田舎の電車だった。
乗客もまばらで、各駅の間がとても長く感じられる。
目的地まではだいぶ時間がありそうだった。
忙しい日々では考えなかったようなことも、この時間はいくつも頭をよぎっていく。これがゆとりなのだろうか。
私にもこれくらいのゆとりがあれば……
そう思っていた。
しかし、ただそれだけだったのだろうか。
私は列車に揺られながら、家族のことを考えていた。
妻と娘と一緒にこうして旅行をしたことだって、数えるほどだが決してなかったわけではない。時間は確かに少なかったが、私はそれなりに良き父親であろうとし、そうしている自負もあった。どこの家庭とも変わらないつもりでいた。
なにしろ私は、自分の育ったような家庭にはしたくないと、心に誓っていたはずだ。なのに。
いつからなのか、すべては噛みあわなくなってきていた。
私は仕事に託けて家に帰ることはほとんどなくなっていた。
家族がみな疎遠になり、特に私のことなどは他人の様な目で見る。
もはや崩壊寸前だった。なにが悪かったのだろうか。
「悪いのはおれか……」
私は独り言にしてつぶやき、初めて理解した。
私は今の自分の家族を、始めから愛していなかった。
やがて列車は深い山の中へ入っていった。
まだ夜までは時間があるのに、急に暗さが増してきた。
なぜ、私はこうして自分の生まれた町へと戻っているのか。
想い出から捨てていた町だったが、私の故郷であり、そこへ行けば、私はもう一度やり直せるような気がしていた。
山奥の小さな町だった。母との想い出の場所。
列車はトンネルに入っていった。
暗闇。私も思わず目を閉じていった。
瞼の奥に、子供のころの私と母が映った。
その町は、母にとっては自分の田舎ではなかった。
しかし、母は私に、よくこの町の風景が好きだと言って聞かせた。
父は、私が物心つく前に他界したと聞かされた。それ以来、母は一人この町に残り、女手ひとつで私を育てた。
家は小さな田舎のスナックで、私はそんな母が好きではなかった。今思えば、それは仕方のないことだったし、私をそうして育て上げた器量には誇らしささえ感じられるのに。
しかし、私が小学2年くらいの頃、母はガンに冒された。
気弱になった母は、夜中私を小高い丘の上に連れ出し、二人して夜空を眺めていたことがあった。
よく覚えているのだが、真冬の空気のとても澄み切った、それは満点の星が散りばめられた夜空だった。月明かりがとても明るい、それとも雪明りだったのだろうか、静寂の中の不思議な空間に感じられた。
母は、ひとつひとつの冬の星座を私に教えてくれた。
いくつもいくつも数えているうちに、私は寒さも忘れていた。
あの時の母の顔を思い出すと、なるほど、この町が好きなわけがわかってきた。母にとっては故郷も同然だったのだ。
それから間もなく、母は亡くなったと記憶している。
私は母の兄のところへ引き取られ、高校も途中でその家から出て行った。それからはがむしゃらだった。
何が何でも幸せを掴むという気持ちで、日々を忙しなく駈けてきた。
そうして、今日の私があるわけなのだが。
私は、そこまでで思考を止めた。
目を開けたときには、とっくにトンネルを抜けて、雪の積もった山間の町並みが遠くに見えていた。
私は窓の曇りを手でこすると、まじまじとその景色を見つめた。
あたりは、もう夕闇が迫ってきていた。
私は駅を降りてタクシーに乗ると、宿に行く前に、町の中心を走ってもらった。見覚えのある町並みだった。
しかし、当然私の住んでいた家である、母のスナックは跡形もなかった。そのまま、私は宿まで向かうことにした。
「ここには母さんの想い出は残っていないのか……」
寂しさが募った。
宿は民宿ほどしかない小さな、それでも温泉宿だった。
だいぶ町からは外れて、遠くに町の灯りが点在している。
「やはり年甲斐もない感傷だったか……」
現実逃避なのだろう。そう思っていた。
部屋の窓を開けてみる。真上の空には星が瞬いていた。
私の吐く白い息の向こうにも、その輝きは確かに透けて見えた。
私はあの時、母と見た星空の真下に今いるのだ。
無性に駆け出したくなった。
寒さも忘れて、私は星空が手に届きそうな場所を目指した。
どんどん星が近づいてくる気がする。
いつしか私は子どものころに戻っていた。
「あの丘の上に行けば、母さんがいるに違いない……」
目前の見晴らしの良い丘の上を目指して、小さな私は、雪の中をかき分けて進んでいった。夢中だった。
丘の上には、母があの時のまま、同じ姿で星空を眺めていた。
私は駆け寄っていくと、
「母さん、母さんの教えてくれた星座、今でも言えるよ……」
息を切らしながら、そう言った。
母は微笑みながら、あの時のように星を数え始めた。
母の手が指す星と星を繋ぐ。私は即座に星座の名を挙げる。
たちまち、冬の星座が頭上を埋め尽くした。
そうして、しばらく二人で星空を眺めて過ごした。
私は自分がこんなにも優しい気持ちになれることに驚いていた。
不思議と心が落ち着き、やがて満たされていく。
母の姿はもうなかった。
熱い何かがこみ上げて来る。
静けさと月明かりのなか、私は泣いていた。
手の届きそうな、真冬の満点の星。
その下で、私は母に久しぶりに出会えた。
母は、私が忘れていた何かを思い出させてくれたのだ。
「もう一度やり直せるようなきがしてきたよ……」
私は母にそう届けた。
眼下には、雪化粧で白く輝く、美しい世界が広がっていた。
回帰線 第五話 終