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回帰線  作者: 木場 新
3/5

第三話「相添《あいそい 》」

 おれは、いつからこんな人生を送るようになってしまったのか。

 フリーターでいることに、今は落ち着いている。

 これはこれで、日々の生活に差し当たっては困らない。

 それというのも、「とりあえずは……」という考えからだったのだが、今ではすっかり先を見失っている。

 まっとうな生き方を望むなら、こういったやり方はふさわしくない。

 頭ではわかっている。だが、どうにも抜け出せないのが現状だということ。

 女とも適当にやって暮らしながら、飽きたらば、また、飽きられたらば(というか愛想を尽かされるわけだが)、それなりに居心地のいいのに乗り換える、ただそれだけのこと。

 そうやってるのが一番性にも合っている。

 この先、なんの保障も得られないものなのに、ただ今を生きることに精一杯になってるのも、ひとつの生き方のような気がしている。


 しかし……本当は違う。ただふて腐れているのかもしれない。

 そんな自分と向き合う瞬間が怖い。逃げている。

 どこかで自分は、「どうしようもない人間」とか、「くず」なんて思われている気がする。

 そう思い始めると、今、自分が生きていることさえも、なんだかおこがましい気さえしてくる。

 それというのも、「あの時」の記憶が蘇るから……

 「あの時」。おれにとって、「あの時」は忘れることの許されない、忌まわしい出来事の記憶。

 忌まわしい、夏の想い出。

 おれは、一生そのことのために悔いながら生きていくのか?

 誰も直接おれを責めることはないが、おれのなかではそれは、思い出すたびに自身を苦しめる重い罪の意識なんだ。


 おれのなかには、やはり後悔の念が鬱積している。

 このことと対峙せずには、おれはこの先生きてはいけない。


 なぜだろう、そんなことを噴出すように思い出した。

 別に今までそこまで思いつめずとも生きてこれたのに。

 突然ぽっかりと暇が出来た8月。

 長いこと田舎にも帰らずにいたことを鑑みたらば、あのことも自然に思い出された。

 忘れるために、この遠く離れた都会まで来たのに。

 都会の喧騒と忙しさが、そんなことさえも忘れさせていた。

 ただ忘れていてだけだった。


 おれは、やはり戻るべきか。

 この夏の空白が、なにか答えを導いてくれるような気がした。

 その晩にも、おれは受話器をとって、久方ぶりに家に電話をいれた。

 ちょうど盆を挟んだ、それは夏の盛りであり、ひとつの区切りだった。



 夜行列車で帰ると決めたのには、理由があった。

 よく思い出す時間が欲しかったからだ。

 一晩中、「あの時」と向かい合う時間が、おれには必要だった。

 しかし、実際はおそろしく永い時間が流れていた。

 それほどまでに、「あの時」のことは、おれにとっては悔やんでも悔やみきれない出来事なのだから。


 列車は静かに闇の中を疾駆する。時折浮かぶ街の灯りは、まるで想い出の走馬灯のように過ぎ去る。

 おれを乗せた夜行列車は、いつしか人知れず、おれの過去の闇の中へと向かっていくように感じられた。


 闇の彼方へ。車内の音が消え、静けさに包まれる。

 おれはまぶたを閉じて、やがて覚悟を決めた。



「サキ姉ちゃん、あそこで泳ごうよ。」

 おれは、小学3年の頃に戻っていた。

 とても暑い夏の日。夏休みだったろうか。

 家の近くの大きな川だ。おれはそこでいつも遊んでいる上級生が羨ましかった。泳ぎは自信があったし、危険な川だとも認識がなかった。いつも見慣れた流れだったから。

「ばか、プールと違うんだよ。あんた、溺れちゃうよ」

「そんなことないよ。おれ、ちゃんと泳げるもん」

「学校であそこは危ないからって言われたでしょ?」

「だって、みんな泳いでるよ」

「だめだっていってるでしょ」

 サキ姉は、おれのいくつ年上だったろう。あの頃はもう6年生だったろうか。すぐ隣に住んでいて、幼なじみのお姉ちゃんだった。いつも面倒を見てくれてた。「あの時」が来るまで、サキ姉は、ひとりっこのおれの本当の姉のようだった。

 なのに、おれは……


 その日結局、おれも姉ちゃんも、そこの川で遊ぶことになった。

 近所の友達がみんないて、ひっこみがつかなくなったのだと思う。

 調子に乗って深みまで進むおれを、サキ姉ちゃんは心配そうに見ていた。

 おれは自信があったんだろう。しかし、ふざけて滝壷のような場所に足を踏み入れた瞬間、おれは恐ろしく焦った。子どもの体ではとうてい抜け出せない濁流にもまれて、泡のなかでひたすらもがきつづけた。

 かすかに、サキ姉ちゃんの声が耳に届く。

 そんななか、おれは意識を失いかけていた。

 もはや、上も下もわからなくなっていた。

 その瞬間、力強くおれの腕はひっぱりあげられた。

「サキ姉ちゃんの手だ……」と安心したところで、おれは完全に意識を失っていた。


 それから数時間たってからだった。おれは病院で意識を取り戻し、その事実を耳にしたのは。

 サキ姉ちゃんは、戻らぬ人となっていた。


 おれなんかを助けるために。

 悔しくて、悲しくて涙が止まらなかった。

 友達から聞いた話だと、おれが滝壷にのまれたとき、まっさきに飛び込んだのが、サキ姉ちゃんだったと。

 「あの時」、確かに感じた手の感覚は、やはり、サキ姉ちゃんのものだった。

 おれがふざけたばっかりに、そんなことで命を失うなんて。


「サキ姉ちゃんは、きっとおれのこと恨んでる」

 そうずっと思っていた。でないと、とても不憫な気がした。

 どうにもいたたまれなくて、おれはとにかくあの町から早く出て行きたかった。



「おれは、サキ姉ちゃんに何も言ってない」

 思い出したら、突然涙が溢れた。これまでに溜まっていたものが一気に噴出したかのように。それは、延々止まることがなかった。


 そうだ。おれは、サキ姉ちゃんに「ありがとう」とも「ごめんなさい」とも伝えてはいなかったんだ。


 窓に映る自分の顔が涙でぐしゃぐしゃになっている。

「あの時のこと、さき姉ちゃんに謝りたい……」

 おれは初めて強くそう思った。


 次の瞬間、おれは夜行列車から真昼の列車に移っていた。

 懐かしいにおいがする列車だ。

 風が優しい。遠くには緑が鮮やかに映える。

 紛れもなく、あの頃の情景。

 夏の日差しが照りつけている。

 せみの声。

 列車はもうじき駅に着く気配。


 おれにはわかった。もうすぐその駅で、サキ姉ちゃんがおれを待っていると。


 ホームには、白いワンピースを身に付けた女の子が立っていた。

 すぐにおれのことを見つけたようだ。

 確かに「あの時」のままのサキ姉ちゃんだった。


 果たして、さき姉ちゃんはおれのことを許してくれるのだろうか。

 いや、そんなことよりもまず、おれは謝りたいんだ。

 ちゃんと、姉ちゃんに向き合って、そうして、言いたい。


「サキ姉ちゃん……」

 サキ姉ちゃんは笑顔だった。

「おれ、いっぱい謝りたかった……」

 またしても涙が溢れた。声が潰れそうになる。

 それでも、ふりしぼっておれは言った。

「ごめんなさい……」


 サキ姉ちゃんは、そんなおれの頭を笑顔で撫でてくれた。

 おれはサキ姉ちゃんといっしょに生きていける気がした。

 おれは思わず、サキ姉ちゃんに抱きついた。「あの時」の手の温もりが伝わってきた。


「サキ姉ちゃん、ありがとう」

 おれは何度も何度も涙を拭った。

 サキ姉ちゃんは、優しく笑っていた。


 



回帰線 第三話 終

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