第三話「相添《あいそい 》」
おれは、いつからこんな人生を送るようになってしまったのか。
フリーターでいることに、今は落ち着いている。
これはこれで、日々の生活に差し当たっては困らない。
それというのも、「とりあえずは……」という考えからだったのだが、今ではすっかり先を見失っている。
まっとうな生き方を望むなら、こういったやり方はふさわしくない。
頭ではわかっている。だが、どうにも抜け出せないのが現状だということ。
女とも適当にやって暮らしながら、飽きたらば、また、飽きられたらば(というか愛想を尽かされるわけだが)、それなりに居心地のいいのに乗り換える、ただそれだけのこと。
そうやってるのが一番性にも合っている。
この先、なんの保障も得られないものなのに、ただ今を生きることに精一杯になってるのも、ひとつの生き方のような気がしている。
しかし……本当は違う。ただふて腐れているのかもしれない。
そんな自分と向き合う瞬間が怖い。逃げている。
どこかで自分は、「どうしようもない人間」とか、「くず」なんて思われている気がする。
そう思い始めると、今、自分が生きていることさえも、なんだかおこがましい気さえしてくる。
それというのも、「あの時」の記憶が蘇るから……
「あの時」。おれにとって、「あの時」は忘れることの許されない、忌まわしい出来事の記憶。
忌まわしい、夏の想い出。
おれは、一生そのことのために悔いながら生きていくのか?
誰も直接おれを責めることはないが、おれのなかではそれは、思い出すたびに自身を苦しめる重い罪の意識なんだ。
おれのなかには、やはり後悔の念が鬱積している。
このことと対峙せずには、おれはこの先生きてはいけない。
なぜだろう、そんなことを噴出すように思い出した。
別に今までそこまで思いつめずとも生きてこれたのに。
突然ぽっかりと暇が出来た8月。
長いこと田舎にも帰らずにいたことを鑑みたらば、あのことも自然に思い出された。
忘れるために、この遠く離れた都会まで来たのに。
都会の喧騒と忙しさが、そんなことさえも忘れさせていた。
ただ忘れていてだけだった。
おれは、やはり戻るべきか。
この夏の空白が、なにか答えを導いてくれるような気がした。
その晩にも、おれは受話器をとって、久方ぶりに家に電話をいれた。
ちょうど盆を挟んだ、それは夏の盛りであり、ひとつの区切りだった。
夜行列車で帰ると決めたのには、理由があった。
よく思い出す時間が欲しかったからだ。
一晩中、「あの時」と向かい合う時間が、おれには必要だった。
しかし、実際はおそろしく永い時間が流れていた。
それほどまでに、「あの時」のことは、おれにとっては悔やんでも悔やみきれない出来事なのだから。
列車は静かに闇の中を疾駆する。時折浮かぶ街の灯りは、まるで想い出の走馬灯のように過ぎ去る。
おれを乗せた夜行列車は、いつしか人知れず、おれの過去の闇の中へと向かっていくように感じられた。
闇の彼方へ。車内の音が消え、静けさに包まれる。
おれはまぶたを閉じて、やがて覚悟を決めた。
「サキ姉ちゃん、あそこで泳ごうよ。」
おれは、小学3年の頃に戻っていた。
とても暑い夏の日。夏休みだったろうか。
家の近くの大きな川だ。おれはそこでいつも遊んでいる上級生が羨ましかった。泳ぎは自信があったし、危険な川だとも認識がなかった。いつも見慣れた流れだったから。
「ばか、プールと違うんだよ。あんた、溺れちゃうよ」
「そんなことないよ。おれ、ちゃんと泳げるもん」
「学校であそこは危ないからって言われたでしょ?」
「だって、みんな泳いでるよ」
「だめだっていってるでしょ」
サキ姉は、おれのいくつ年上だったろう。あの頃はもう6年生だったろうか。すぐ隣に住んでいて、幼なじみのお姉ちゃんだった。いつも面倒を見てくれてた。「あの時」が来るまで、サキ姉は、ひとりっこのおれの本当の姉のようだった。
なのに、おれは……
その日結局、おれも姉ちゃんも、そこの川で遊ぶことになった。
近所の友達がみんないて、ひっこみがつかなくなったのだと思う。
調子に乗って深みまで進むおれを、サキ姉ちゃんは心配そうに見ていた。
おれは自信があったんだろう。しかし、ふざけて滝壷のような場所に足を踏み入れた瞬間、おれは恐ろしく焦った。子どもの体ではとうてい抜け出せない濁流にもまれて、泡のなかでひたすらもがきつづけた。
かすかに、サキ姉ちゃんの声が耳に届く。
そんななか、おれは意識を失いかけていた。
もはや、上も下もわからなくなっていた。
その瞬間、力強くおれの腕はひっぱりあげられた。
「サキ姉ちゃんの手だ……」と安心したところで、おれは完全に意識を失っていた。
それから数時間たってからだった。おれは病院で意識を取り戻し、その事実を耳にしたのは。
サキ姉ちゃんは、戻らぬ人となっていた。
おれなんかを助けるために。
悔しくて、悲しくて涙が止まらなかった。
友達から聞いた話だと、おれが滝壷にのまれたとき、まっさきに飛び込んだのが、サキ姉ちゃんだったと。
「あの時」、確かに感じた手の感覚は、やはり、サキ姉ちゃんのものだった。
おれがふざけたばっかりに、そんなことで命を失うなんて。
「サキ姉ちゃんは、きっとおれのこと恨んでる」
そうずっと思っていた。でないと、とても不憫な気がした。
どうにもいたたまれなくて、おれはとにかくあの町から早く出て行きたかった。
「おれは、サキ姉ちゃんに何も言ってない」
思い出したら、突然涙が溢れた。これまでに溜まっていたものが一気に噴出したかのように。それは、延々止まることがなかった。
そうだ。おれは、サキ姉ちゃんに「ありがとう」とも「ごめんなさい」とも伝えてはいなかったんだ。
窓に映る自分の顔が涙でぐしゃぐしゃになっている。
「あの時のこと、さき姉ちゃんに謝りたい……」
おれは初めて強くそう思った。
次の瞬間、おれは夜行列車から真昼の列車に移っていた。
懐かしいにおいがする列車だ。
風が優しい。遠くには緑が鮮やかに映える。
紛れもなく、あの頃の情景。
夏の日差しが照りつけている。
せみの声。
列車はもうじき駅に着く気配。
おれにはわかった。もうすぐその駅で、サキ姉ちゃんがおれを待っていると。
ホームには、白いワンピースを身に付けた女の子が立っていた。
すぐにおれのことを見つけたようだ。
確かに「あの時」のままのサキ姉ちゃんだった。
果たして、さき姉ちゃんはおれのことを許してくれるのだろうか。
いや、そんなことよりもまず、おれは謝りたいんだ。
ちゃんと、姉ちゃんに向き合って、そうして、言いたい。
「サキ姉ちゃん……」
サキ姉ちゃんは笑顔だった。
「おれ、いっぱい謝りたかった……」
またしても涙が溢れた。声が潰れそうになる。
それでも、ふりしぼっておれは言った。
「ごめんなさい……」
サキ姉ちゃんは、そんなおれの頭を笑顔で撫でてくれた。
おれはサキ姉ちゃんといっしょに生きていける気がした。
おれは思わず、サキ姉ちゃんに抱きついた。「あの時」の手の温もりが伝わってきた。
「サキ姉ちゃん、ありがとう」
おれは何度も何度も涙を拭った。
サキ姉ちゃんは、優しく笑っていた。
回帰線 第三話 終