第二話「春待野《はるまちの 》」
いつのまにか、僕は電車の中にいた。
ふと気がついたら、僕は都会を走る電車に乗っていた。
昼下がり、スーツ姿の多くが乗り込み、一駅ごとに吐き出されては、すぐさま入れ替わるようにして、たちまちのうちに車両を満たす。
僕の隣には居眠りをする中年の女性が、しばらくの間、いっしょに乗り合わせている。 斜向かいでは、女性が二人会話に興じている。
車窓から見える、絶えず流れていく建物の多さ。遠くには高層ビルが目の前の景色より遅い速度で、視界からやがて消える。
合間合間には、時折花を風に散らす桜が通り過ぎていく。
花を散らす春風が若干強いものの、よく晴れた陽気だ。
僕は眠りに落ちそうな心地で、ただ電車のリズムに身を任せていた。
田舎にいた18年間、こうなることを想像したことがあっただろうか。
先のことなんてわからない。
気がついたら、ふと気がついたら、人生が終わっているかもしれない。
僕は、電車の中でこの18年間を振り返る。
受験勉強のさなかのこと、部活のこと、告白されたこと、毎日、防波堤まで行ってた仲間。自転車通学。夏休み。プール。家の前の、山、山。田んぼだらけ。
それから、こんなことも、ふと考えた。
数十年後、ベッドの上で同じようにして……そして、こう思うかもしれないと。
「もし、あの頃に戻れたら……」
「おじいちゃん、まだ帰ってこれないの?」
「しばらくここに入院するんだって。たくや、いっぱいお見舞いに来てあげようね。早く良くなってねって」
「たく、ほら、じいちゃんの手、握ってやれ。がんばれって」
「……おじいちゃん、がんばってね」
「おじいちゃん、たくやががんばれって」
「おやじ、手は動かせるな……」
「おじいちゃん、寒くない? 大丈夫?」
「さっぱり弱ったもんな。少し休むこともしないとさ……」
「おじいちゃん……」
「やっぱり、たくやだと張り切ってた。手、握ってたもの」
「ああ。なんだかんだ若い気してても、もう90近いもんな」
「この間まで自転車乗ってたと思ってたら。こうなると早いものね」
「まず、しばらくはおとなしくしてるだろうしさ。あのまま無理されてたんじゃあ、こっちもたまんないし」
「でも、おばあちゃん亡くなってから元気なくなった気がする」
「まず、年取ってから先に逝かれると、男の方が落ち込むだろ」
「とくに仲良かったからね」
「そうだな、うちは仲良かったな」
「入院してから、ずっと天井見たまんま。なんかぼんやりしてる」
「気が抜けたんだろ。まだまだ生きるとは思うけど」
「うん。すぐね、うちに帰ってくるとは思うけどね」
僕は、由紀子のことを考えていた。
18で上京してきて大学生となった僕は、入学してすぐ知り合った由紀子と親しくなっていった。初めて会った印象を思い出すとき、いつも一緒に桜の場面が頭に浮かぶ。その暖かい雰囲気をいつも感じていた。
僕らは互いによく気が合った。打ち解けるほどに惹かれあっていくのがよくわかった。恋人になるまで、そう時間はかからなかった。
そうして大学4年間を恋人として過ごし、互いに就職も決まったところで、始めて大きくすれ違っていった。社会人になり、忙しい時間が互いの溝をどんどん深めていく。気がついた頃には、二度とは埋め戻せないほどになり、やがて僕らは別れていった。
それから、幾たびも恋を求め、忘れようとしたものの、とうとう出来なかった。僕は改めて由紀子のもとへよりを戻したい意を伝えた。
また、季節は春を迎えたころだったと思う。
由紀子も同じ思いでいたと告白した。
今一度、ここから季節が巡り始めたと感じた。
僕にはまた、あの桜の場面に重なる由紀子が色褪せぬまま、あの頃のまま、戻ってきたと感じられた。
そこからは、二人とも揺ぎ無かった。
赤い糸は決して解かれなかった。
それほどまでに、愛しく思っていた。
「こうしてみると、やはり短いよ、由紀子……」
僕は天井を見据えたまま、そこに語りかけた。
「贅沢だったかな。さんざん永い間一緒にいられたのに」
なんだか、由紀子の姿がそこに見えるような気がしてくる。
「おまえだけ離れたところにいるのがつらいのは、あの時にさんざん思い知らされたのにな。お互い離れてはいられないって……」
しばらくぶりだった。由紀子が亡くなった時でも涙は出なかったのに。天井が水面に滲んだようにして見えている。
切ないような、暖かいような。どちらともつかない感情に満たされる。
「もう一度、あの頃に戻れたら……」
心の中でつぶやいた。
一瞬、出会った頃の由紀子の姿がよぎった。
しかし、由紀子は背を向けている。
「……あの頃に戻りたい……」
今度は声に出して、由紀子に呼びかけた。
僕は春の香りに包まれた。
もう一度、季節が巡り来る予感がした……
車窓からは桜が舞散る、晴れた春の街並みが見える。
電車は午睡の人々を乗せて、春の陽だまりを駈けていた。
暖かい日差しが降り注いでくる。
僕は由紀子の待つ駅まで、車窓に流れる桜を眺めることにした。
桜はあの頃と変わらず、まったく色褪せてはいなかった。
僕は、あの頃に戻ってきていた。
回帰線 第二話 終