第一話「始発」
「人間は、どうして後悔ばかりするの?」
「それは、時間が常に流れていくからなんだよ」
「……大人になんかなりたくない」
「多くの時間を過ごして、もう取り戻せない時間を振り返るから」
「嫌なことばかり、いっぱいになりそうだよ」
「それでも、みんな大人になっていくのさ」
「なんだか、眠くなってきた……」
「ほら、お休み。まだまだ先は長いから」
列車の中は、春の午後の陽気に包まれているように、全体が白っぽく揺れている。
何両ある列車なのか、どこへ向かっているのか。
先頭を走る車両だというのは、進む先が運転室の窓越しに見えていることからわかる。しかし、レールのほかは眩しすぎるせいか、いっこうに見えてはこない。周りの景色も、日差しの中を行く感覚でしかない。どこかぼんやりとして見える。
すれ違う列車がひとつもないのは、ここが田舎を走る路線のせいか、それとも単線のレールだからなのか。
車窓からは、暖かな日差しが依然降り注いでいる。
がたんごとん、がたんごとん……
車両には、母親と男の子の親子だけが乗っている。
横に長い座席には、見渡す限りその二人だけ。
男の子は疲れたのか、心地よい暖かさのせいか、今は母親の膝を枕に眠っている。母親も優しくその頭を撫でている。
静かに列車は揺れて、その度に親子も小さく体を揺らした。
続く車両も後方まで長く連なっているようだが、いずれの車両にも人の気配はない。列車のカーブに合わせて、車窓からの日差しも伸び縮みする。
車掌室の窓の向こうに、車掌の背中が見え隠れする。
やがて、車内が金色に包まれた。
窓の外は、一面の麦畑が広がっていた。
金色の麦畑の丘の上には、一本の樹が生えている。
白いワンピースが、風に揺れている少女。
樹のふもとから、こちらに手を振っている。
懐かしそうに微笑みながら、彼女はそっと手の帽子を風に乗せた。白いつば広の帽子が風に舞い踊り、そのまま空に消えていった。
「どうしておまえは、どうして……」
「おまえは、いつもそばにいてくれたのに、おれは……」
「ばかなのはおれだ。おまえのことをかんがえたら……」
「なんてあやまればいい? いったいなんて……」
「もうすぐもどるよ。もういちどおまえに、あやまるんだ……」
「おまえはおれをゆるしてくれるのか? おれを……」
「いつもいつも、おもってた。あやまらなくてはと……」
日差しを背に受けて、男は一人、うなだれながら涙をこらえていた。
車両には母子の姿はなく、かわりにスーツの男が一人座っていた。
汗ばむほど、春のような陽気なのに、男は真冬のような装いで、厚口の生地のスーツを着ていた。
男はそれっきり黙りこんでしまった。
日差しが相変わらず降り注いでいる車内。
突然、視界が開けて海が広がる。
鏡のような水面に、太陽が反射している。
水平線が光の群れに埋め尽くされ、遠く眩しい。
車内には黒髪の若い女が一人、窓の外のその海を眺めている。
色白の肌がよけいに黒髪を引き立たせる。
ふと、女の頬を一滴涙が伝い落ちていく。
女は、静かに泣いていた。
やがて海も視界から消えてしまった。
列車は止まることなく走りつづけている。
どれだけ走っているのか、どれだけ駅を通過したのか。
ただひたすら陽だまりの中を駆け抜けていく。
誰もいない車内。揺れるたびに音だけが残る。
踏切を通過したした音。
せみの声。
「なんだか少し遠回りしたね」
「お兄ちゃん、探したんだよ」
「みんな、知らん顔してるから……」
「わたしも、いろんな人とすれ違った」
「どこにいっても変わらないんだよね」
「お兄ちゃんは変わってない。やさしいまんま」
「ごめんな、あんまり思い出さなくって」
「いいの。これからはいっしょ」
「母さん、探しに行くんだろ?」
「だから、いっしょに行くの」
列車には、赤い西日が差し込んできていた。
車内の兄妹二人の影が、向かいの座席まで伸びて見える。
幼い二人は互いに飴を取り合って、少し満足そうな面持ちだった。
やがて、二人は一緒に歌を歌い始める。
懐かしく響く子どもの歌声。
時折、どちらかが間違えては笑いながら。
二人の姿が消えた後の車内にも声が残る。
遠い街角で歌っているような、かぼそい声。
車内に夕日が染み渡っていく。
どこまでも続く線路と、そこを走る列車。
行き先は誰にもわからない。
ただ、二度と引き返してくることはない。
それから、列車はトンネルに吸い込まれていく。
一瞬にして闇に覆い被せられる。
この先は抜けるのかどうかさえもわからない。
ただ、列車は走りつづける。
一時の闇か、永遠の闇か。
そんなことは、どうでもいいのかもしれない。
ただ辿り着きたい気持ちが、走らせているのかもしれない。
本当に辿り着けるのか。
それすらもわからないままに……
回帰線 第一話 終