彼が笑わなくなった理由を、別れてから知りました
悠真が味噌汁を飲むのを、私は向かいの席から見ていた。
お椀を置いて、ご飯を食べる。焼き魚の骨をよける。テレビで誰かが笑っている。
「お母さんから、また連絡があった」
彼の箸が止まった。
「来月、帰ってこないかって。悠真も一緒に」
「来月は、まだ分からない」
「日曜日でも?」
「うん」
お椀の縁に、ご飯粒が一つついていた。私は指で取らないようにして、箸でつまんだ。
結婚を急かしたいわけじゃない。そう前置きすれば、また急かしていることになる。それで今日は、実家からの誘いだけを伝えるつもりだった。
「だったら、いつ頃なら分かる?」
「ごめん。今は、そういう話……」
悠真は言い終えずに、魚の皮を箸で押さえた。
そういう話。
去年までは、一緒に住み始めたときのように、もう少し具体的な名前で呼んでいた。更新料。二人の貯金。私の親。悠真の親。駅前の新しいマンションの家賃が高すぎること。
いつから全部、そういう話になったんだろう。
「お仕事、まだ大変?」
「まあ」
「ご飯は食べられてる? お昼」
「食べてるよ」
私は頷いた。これ以上聞かれると嫌だろうな、という顔を、最近は見間違えなくなっていた。
十分ほどして、悠真が先に食器を運んだ。
「洗うよ」
「ありがとう」
水道の音がして、テレビの声が少し遠くなる。私は残りの魚を口に入れた。冷めていた。
洗い物をしない人ではない。出かける前にごみをまとめてくれるし、私が忙しい日には、帰りに食べるものを買ってくる。それなのに、何がこんなに苦しいのか。
そう考えてしまうこと自体が、また苦しかった。
リビングに戻った悠真は、ソファの端でスマートフォンを見た。画面が光るたび、右の眉が少しだけ動く。
「ねえ」
「ん?」
「土曜日、二人で話す時間、取れるかな」
彼はスマートフォンを伏せた。
「何の話?」
「私たちのこと」
すぐには返事がなかった。
「結婚を決めてっていう話じゃないよ。ただ、最近、何を考えてるのか分からないから」
「今、ちょっと余裕がなくて」
「うん。だから土曜日はどうかなって」
悠真は床を見ていた。私は返事を待った。冷蔵庫のモーターが鳴り始め、それが止まるまで待った。
「分かった」
ようやく彼が言った。
その言葉に安心しかけて、私は膝の上で握っていた手を開いた。
約束を取りつけたくらいで、ほっとしてしまう。
四年付き合った人と話すために、私はそうしていた。
*
大学三年の秋、瀬戸悠真は友人たちとの鍋会に、鍋を持ってきた。
食材を分担するはずが、連絡の行き違いで、開催する友人の家には小さな片手鍋しかなかったのだ。
それを知った悠真が、一駅離れた自分の部屋から、二人用にしては大きい両手鍋を抱えてきた。
「電車で来たの?」
「うん。袋、破けそうで」
スーパーの袋から黒い取っ手が突き出していた。彼はそれを両腕で支えて、玄関に立っていた。
笑ってはいけないと思ったのに、私は笑った。彼も困った顔のまま笑った。
帰りは私が鍋の蓋を持った。鍋を持ってきた人に一人で鍋を持って帰らせるのが、なんだか悪かった。
駅まで歩きながら、好きな食べ物の話をした。悠真は、スーパーで売っている三本入りの串団子が好きだと言った。
「一本ずつ食べればいいのに、三本とも食べちゃう」
「私も。残しておけない」
「あれ、三本で一食分だよね」
「ご飯じゃないよ」
そう言い合って笑った。
それから友人たちと集まるたびに話すようになり、大学を卒業した春、二十二歳で付き合い始めた。
社会人になっても、悠真の話は派手ではなかった。仕事で初めて褒められたこと。知らない道を歩いたら、知っている駅の裏に出たこと。買った傘を、買ったその日に電車へ忘れたこと。
私も、食品メーカーの営業事務として働き始めたばかりで、毎日何かしら間違えた。注文書を何度も確かめたせいで、夢でも商品の番号を見た。
電話口でそれを言うと、悠真は笑わずに聞いてくれた。
「今日はちゃんと寝て。寝てる間まで仕事したら、給料二倍もらわないと」
笑わせてくれることもあった。
二十四歳で一緒に住み始めた。私の勤務先と、住宅設備メーカーに勤める悠真の営業所。その中間にある、築十七年の賃貸だった。
引っ越しの日、二人で買った食卓は、思っていたより場所を取った。六畳の部屋で椅子を引くと、後ろの棚に当たる。
「測ったよね?」
「測った。机を」
「椅子は?」
悠真は黙ってメジャーを取り出した。
結局、棚を廊下側にずらした。夕方になってようやく座れた食卓で、二人ともコンビニのおにぎりを食べた。
「ここ、長く住めるかな」
私が言うと、悠真は部屋を見回した。
「二人なら。でも、もっと増えたら狭いか」
おにぎりの包みを畳む彼の手を、私は見ないふりをした。
「増える予定あるの」
「いや。将来的に、あるといいなって」
照れたのは彼のほうだった。
あの頃は、未来の話をするのに、ちょうどいい機嫌を探さなくてよかった。
変わり始めたのは、同棲して一年半を過ぎた頃だった。
最初は帰りが遅くなった。次に、仕事の話をしなくなった。
私は彼が疲れているのだと思った。実際、疲れていたのだろう。風呂に入る前にソファで寝てしまい、起こすと、必要以上に慌ててスマートフォンを探した。
ある晩、彼は珍しく自分から仕事の話をした。
「契約の説明で、ちょっと揉めてる」
「お客さんと?」
「社内で。説明の仕方を変えたほうがいいんじゃないかって、言ったんだけど」
私は温めていたスープの火を止めた。
「悠真が何か間違えたの?」
「そういうわけじゃない」
「そっか。大丈夫?」
「うん。大丈夫」
その先を聞くと、会社のことだから、と言われた。
私にも取引先に関わる話せない仕事はある。だから、無理には聞かなかった。ただ、その後も様子が戻らず、一週間ほどして、今度は私から尋ねた。
「この間の話、どうなった?」
「まだ」
「まだ揉めてるの?」
「ごめん。家では考えたくない」
それ以来、聞くたびに、家でまで仕事をさせている気がした。
週末に誘う回数を減らした。私の小さな失敗談も、彼に聞かせるほどのことではないと思うようになった。
何を食べたいと聞くと、何でもいいと返ってくる。私の好きなものを作ればいいはずなのに、買い物の途中で、彼の嫌いなものを入れていないか確かめた。
静かにしていれば、いずれ戻ると思っていた。
けれど、悠真は仕事を続け、私は彼を待ち、季節だけが変わった。
*
土曜日の午後、食卓の上には、お茶を入れたマグカップが二つ並んでいた。
「私、何かしたかな」
何から聞けばいいのか考えた末に、いちばん聞きたくなかったことを口にした。
悠真はすぐ顔を上げた。
「紗季は何もしてない」
「じゃあ、私と暮らすのが嫌になった?」
「違う」
「好きじゃなくなった?」
「そうじゃない」
彼はそこで唇を結んだ。
私はカップを両手で持った。温かいうちに飲むために入れたお茶が、まだ一口も減っていなかった。
「悠真が仕事で大変なのは分かってる。全部説明してほしいわけじゃない。でも、いつ話しかけても、今じゃないって言われると……私、いつならいいのか分からない」
「ごめん」
「謝ってほしいだけじゃないの」
言ってから、責めるような声になったことに気づいた。けれど、いつもならつけ足す、ごめんね、を今日は飲み込んだ。
「私たち、どうするつもりなのかなって。一緒に暮らしてるけど、私だけで決められることじゃないから」
「今は、先のことを約束できない」
「どうして?」
悠真はカップの持ち手を握り直した。
「仕事のこととか。いろいろ、落ち着かなくて」
「転勤とか?」
「そうじゃないけど」
「辞めたいの?」
「……まだ決めてない」
「辞めるなら辞めるで、お金のことも一緒に考えられるよ。私も働いてるし」
彼は困った顔をした。助かる、とも、嫌だ、とも言わなかった。
私は一人で話しすぎた気がして、黙った。
しばらくして、悠真が言った。
「もう少し待ってくれないかな」
「何を待ったらいい?」
彼は答えなかった。
「何かが決まるまで? 決まったら、話してくれる?」
「今は、うまく言えない」
彼の膝が、机の下で小さく動いた。
帰りたいのだと思った。ここは彼の家でもあるのに。
結局、その日は何も決まらなかった。私は夕飯に冷凍のうどんをゆで、悠真は近所の店で天ぷらを買ってきた。二人とも、昼間の話に触れなかった。
そのあとも二度、話した。
一度は、帰りが遅いなら連絡をしてほしいと頼んだ。彼はその日のうちに謝り、翌週は毎晩メッセージをくれた。『遅くなる』『先に食べて』。連絡は来るようになったのに、私が聞きたかったことは、その短い文のどこにもなかった。
もう一度は、二人の休みが重なった日曜日だった。近所の喫茶店に行こうと誘った。家を出れば話しやすいかもしれないと思ったのだ。
悠真は出かける直前、会社からの電話に出た。それから、今日はやめてもいいかな、と言った。
「電話、終わったんだよね?」
「うん。でも、ちょっと」
私は靴を脱いだ。肩から下ろしたバッグの金具が、玄関の棚に当たって音を立てた。
悠真が、ごめん、と言った。
そのとき私は、分かった、と返した。
大丈夫、とは、もう言えなかった。
別れを切り出したのは、それから十日後だった。
「私、家を出ようと思う」
悠真は、持っていたテレビのリモコンを置いた。
「実家に帰るってこと?」
「最初は。そのあと、職場の近くで部屋を探す」
「いつまで?」
私は指の爪を見た。金曜日に塗った色が、先から少し欠けていた。
「戻ってくるつもりは、ない」
悠真の顔を見た。
「別れたい」
彼は何か言おうとして、やめた。それから一度だけ、深く息を吸った。
「俺の仕事が落ち着くまでじゃ、だめかな」
「それ、いつ?」
「分からないけど」
「私ね、悠真の帰りが遅いのが嫌で、出ていくんじゃないよ」
声が掠れた。泣くと最後まで言えなくなりそうで、手のひらで膝を強く押した。
「困ってるなら、困ってるって言ってほしかった。今日は話せないなら、日曜日に聞いてって言ってほしかった。私が何を言っても、そこから先に入れてもらえないのが、もうつらい」
悠真は動かなかった。
「結婚できないから嫌いになったわけじゃない。でも、このまま、また聞いても同じなんだろうなって思いながら暮らすの、やめたい」
「紗季」
「うん」
今なら、という気持ちが残っていた。引き止めてほしいのか、初めて本当の話を聞きたいのか、自分でも分からなかった。
悠真は長いこと黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「分かった」
部屋の契約は悠真の名義だった。私は次の月の家賃と光熱費について彼と話し合い、週末ごとに荷物をまとめた。二週間後、最後の段ボールを実家の父の車に積んだ。
食卓は悠真が使うことになった。半分ずつ出して買ったものだったから、彼は代金を渡すと言った。
「いいよ。私が持っていっても、置くところないから」
「でも」
「そのかわり、炊飯器もらっていい? お父さんが車に乗るって」
彼が頷いた。こんな話なら、ちゃんとできる。
私は引き出しを最後に確かめた。奥から輪ゴムが出てきて、持っていくのもおかしくて、元に戻した。
「鍵、ここに置くね」
玄関の棚に鍵を置いた。
悠真が、ごめん、と言った。
私は返事をしなかった。靴を履くとき、いつものように彼のスニーカーを端へ寄せてしまった。
外には父が待っていた。助手席に乗ってシートベルトを締めるまで、私は泣かなかった。
*
別れて四か月ほど経った頃、大学時代の友人から届いた結婚式の案内に、私は出席の返事をした。
悠真も呼ばれていると、友人は先に教えてくれていた。
『席は離すから。無理だったら言ってね』
『大丈夫。お祝いさせて』
そう返すまでに、電車で二駅分かかった。
大丈夫かどうかは分からなかった。ただ、二人が別れたことで、友人にまで何かを諦めさせたくなかった。
私は職場から三駅のところに、一人用の部屋を借りていた。実家で過ごしたのは一か月と少しで、母には、もう出ていくの、と言われた。
毎日誰かに顔を見てもらえるのは、ありがたかった。でも、ただいまと言うと、今日どうだった、と聞かれる暮らしに、私はしばらく戸惑った。
母は、普通に聞いただけよ、と笑った。私はそうだよね、と言って、仕事の話をした。新商品に使う果物の絵が、どうしても別の果物に見えてしまうという、くだらない話だった。
引っ越した部屋は、朝、隣の家の屋根に止まった鳥の声がした。持ってきた炊飯器で一合炊くと、一人では多かった。残りを冷凍する習慣がついた。
平日の夜、何もせずに眠ることがあった。夕飯が炒めただけの野菜でも、誰の好みも考えなくていい。楽になったと思う日と、誰かに話したいことがある日が、交互に来た。
悠真とは、料金の精算が終わってから連絡を取っていなかった。
式当日を迎えたのは、別れて半年が経った頃だった。
受付で宮原紗季と名乗り、案内を受け取った。友人たちの輪に入ろうとしたとき、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
悠真は、ほかの友人と並んで窓際に立っていた。
紺のスーツは知っているものだった。私が、袖が少し長いんじゃない、と言って、彼が店で直してもらった服だ。
顔を見る前に分かってしまうことが、まだあった。
悠真がこちらを向いた。
私は、小さく会釈した。彼も同じように頭を下げた。
披露宴では別々のテーブルだった。新郎の友人がスピーチで言葉につまり、誰かが頑張れと声をかけた。笑いが広がったとき、少し向こうの席で、悠真も笑っていた。
思わず見て、それから自分のお皿に目を戻した。
彼が笑うのを、こんなに遠くから見る日が来るとは思わなかった。
悔しいのか、安心したのかは、そのときには決められなかった。
新郎新婦を見送り、友人と写真を撮って、ロビーへ戻った。二次会に参加する人たちが、エレベーターの前に集まっていた。
「紗季」
振り向くと、悠真がいた。両手を体の脇に下ろして、少し離れたところに立っていた。
「久しぶり」
「うん」
「元気だった?」
「元気。悠真は?」
「俺も、最近は」
最近は、のあとで、彼は一度口を閉じた。
「仕事、変わったんだ。四月から」
「そうなんだ」
知らなかった、と言いそうになり、やめた。別れた人の転職を知らないのは、当たり前だった。
「今は何をしてるの?」
「業務用の厨房機器を扱う会社で、営業。まだ覚えることばっかりだけど」
彼は、そこで私の顔を確かめた。
「もしよかったら、別の日に少し話せないかな」
私は持っていた小さなバッグの口に触れた。留め金がきちんと閉じているか、指先で確かめた。
「何の話?」
半年前、彼からされたのと同じ質問になった。
「別れる前のこと。あの頃、何があったかと、紗季に話さなかったことを、ちゃんと謝りたい」
エレベーターが着いた。知っている友人が、またね、とこちらに手を振った。私は笑って振り返した。
扉が閉じてから、悠真を見た。
「仕事で揉めてたっていう、あの話?」
「うん。それも」
「……少し、考えてもいい?」
「もちろん。連絡、しても大丈夫かな」
「私からする。それまでは、待ってて」
悠真は頷いた。
「分かった」
彼は、それ以上続けなかった。式場の出口で別れるときも、送るとは言わなかった。
帰りの電車で、私は彼の連絡先を開いた。
最後のやり取りは、電気代の振り込みだった。金額と、お礼と、短い了解。四年付き合った二人の終わりが、携帯電話の画面では数行に収まっていた。
会ってどうするんだろう。
事情を聞いたら、私が早まったことになるのだろうか。あのとき、もう一度だけ待っていればよかったと思うのだろうか。
アパートに着いて、髪をほどいた。ピンを一本ずつ抜くと、頭皮が少し痛かった。
私はベッドの端に座り、携帯電話を取った。
『来週の日曜、午後なら。駅の近くで、一時間くらい』
返事は数分後に来た。
『ありがとう。二時でどうかな。店は、紗季が決めてもらってもいい?』
私は行ったことのない店を選んだ。付き合っていた頃の喫茶店には、まだ行きたくなかった。
*
先に来ていた悠真は、私を見つけると椅子から少し腰を浮かせた。
私は向かいに座って、コーヒーを頼んだ。
何を話せばいいか分からないまま、天気の話をした。悠真は傘を持ってきていた。私は持っていなかった。帰るまで降らなければいいな、と言ったあとで、そんな話をしに来たんじゃないと思った。
コーヒーが届くと、悠真が口を開いた。
「前の会社で、契約の説明をめぐって揉めてたって話、一度したよね」
「覚えてる」
「追加の工事費がかかることがあるんだけど、その条件を、お客さんが申し込む前に十分説明できてない契約があったんだ。見積書には書いてあっても、それだけだと伝わらないと思って」
悠真は、机の上で指を組んだ。
「会社の取引先は施工店で、その先に工事を頼むお客さんがいる。施工店への説明から変えないと、最後に払う人が知らないままになる。そういう話を上司にした」
「悠真の担当で、問題になったの?」
「最初は、担当先から相談された。あとから金額が増えたって、施主さんが納得してないって。俺も、その前の説明が足りてなかった」
「悠真にも?」
「うん。条件を載せた資料を渡せば、説明したことになると思ってた。でも、自分で読んでも分かりにくかった。だから、その契約の対応と、これから使う資料を直す話をした」
私は砂糖の包みを見た。入れようと思って取ったのに、開けないまま置いていた。
「上司は何て?」
「個別に対応すればいい、今のやり方で問題ないって。何度か話したけど進まなくて、社内の相談窓口に連絡した」
悠真の親指が、もう片方の手の甲をゆっくり擦った。
「俺の名前を出して確認していいかって聞かれて、いいって答えた。それで上司にも、俺が相談したって分かった」
「それから、うまくいかなくなったんだ」
「そう。仕事を頼むときも、いちいち、今度は本社に聞かなくていいのかって言われたり。二人だけで話すのがしんどくなって、帰ってからも、翌日のことを考えてた」
私は、その頃の彼の帰り方を思い出した。
玄関を入っても、すぐには靴を脱がなかった日。おかえりと呼びかけて、少し遅れて返事があった日。
「会社、辞めようとしてたの?」
「辞めたかった。でも次を探す気力もなくて、求人を見るだけで閉じてた。相談の件が終わる前に辞めたら、担当先はどうなるんだとか。俺が大げさにしただけなのかとか。考えても決まらないことを、ずっと考えてた」
「相談は、そのあとどうなったの」
「別の部署の人が入って確認することになった。俺が辞める頃には、説明の資料も直すことが決まってた。担当先の対応も引き継いだ。全部きれいに片づいたわけじゃないけど、俺が一人で抱える状態ではなくなった」
話す口調は穏やかだった。もう終わった仕事の話をしているのだと、途中でようやく気がついた。
私だけが、半年も前の部屋に戻っていた。
「その話、あのときは、できなかった?」
悠真は目を伏せた。
「細かい内容は、外に話せないと思ってた。でも、自分がどうなってるかは話せた。辞めたいとか、眠れないとか。会社の名前を出さなくても、言えた」
「うん」
「情けなくて、言いたくなかった。紗季が将来のことを考えてくれてるのに、俺は仕事を辞めるかもしれない。給料も下がるかもしれない。そう言ったら、どう思われるか怖かった」
「転職したら嫌うって、思ってたの?」
「頭では、そうじゃないって分かってた。でも、言ったら本当にそうなる気がして。何とかしてから話そうと思ってた」
「私に、何も知らないまま待っててほしかったんだ」
言うと、彼はしばらく答えなかった。
「……そうだと思う」
悠真は、コーヒーにも触れずに言った。
「ひどいことをした」
理由が分かれば、もっと楽になると思っていた。
彼に好きな人ができたわけではなかった。私を嫌いになったわけでもなかった。それでも、向かいに座る人へ、ただ、大変だったね、と言うことはできなかった。
「私ね、髪を切ったとき、気づかれなかったことがあったの」
悠真が顔を上げた。
「四センチくらいだったから、分からなくても仕方ないんだけど。その日、いつもより早く帰れて、悠真の好きなもの作って。私も馬鹿みたいに、何か変わったでしょう、って聞けばよかったのに、気づいてほしくて、待ってた」
鼻の奥が痛くなった。私は一度息を吐いた。
「それだけなら、何でもないんだよ。でも、そういうのが毎日あって。今日の出来事を話しかけても、ああ、とか、うん、とか。それで終わるから、途中でやめるようになった」
悠真は私を見ていた。
「仕事のこと、もっと聞けばよかったのかなって、今でも少し思う。でも聞いたら、家では考えたくないって言われたから……私、どうしたらよかった?」
「紗季が、もっと何かすればよかったとは思ってない」
「うん」
「聞いてくれたときに、俺が答えるべきだった」
私は頷いた。口を開いたら、声が裏返りそうだった。
「ごめん。仕事のことで苦しかったのは、本当だけど。紗季が平気だなんて、確かめてもいないのに、勝手に思ってた」
「平気じゃなかったよ」
「うん」
「別れたくもなかった」
言ってしまってから、私はカップを持ち上げた。飲もうとして、飲めずに戻した。
悠真の目が赤くなった。
「今、そういう意味で言ったんじゃないからね」
「分かってる」
「あのときの話。好きだったけど、一緒にいるのがつらかったっていう話」
「うん」
私は紙ナプキンを一枚取り、目元に当てた。隣のテーブルに店員が水を注いでいた。ここでは、私たちが別れたことも、半年ぶりに話していることも、誰も知らない。
「仕事、変えて、楽になった?」
「前より眠れる。分からないことを聞ける人がいる」
「そっか」
「給料は少し下がった。最初は、それも紗季に言いたくなかったことなんだけど」
彼はそこで、困ったように笑った。
「今、言えたね」
私が言うと、彼は頷いた。
「うん。でも、紗季がこうして聞いてくれるから言いやすいだけなのかもしれない。変わったって、今日だけで思ってほしいわけじゃない」
時計を見ると、三時を十五分過ぎていた。
彼はすぐに気づいた。
「ごめん。一時間って言ってたのに」
「私も話したから」
伝票は私の手元にあった。二人分を払おうとする彼に、私は自分の分の硬貨を渡した。
店を出ると、雨はまだ降っていなかった。
「今日は、ありがとう」
悠真が言った。
「うん。話は、聞けてよかった」
駅へ向かって歩く途中、彼が少し足を緩めた。
「また、会ってもらえるかな」
私は歩道の先を見た。返事を考えるのを、彼は隣で待っていた。
「今日の話を聞いたからって、戻れるとは思わない」
「うん」
「また同じことになったら、嫌だから」
「分かってる」
「でも……今日、話せたのは、よかったと思う」
私は彼のほうを向いた。
「次は、昼ご飯くらいなら」
悠真は頷いた。笑いかけて、少し口元を押さえた。
「ありがとう。いつがいい?」
「予定、帰ってから見る。私も連絡するから、悠真も都合を教えて」
「分かった」
改札の前で別れた。ホームに上がってから、私は、砂糖を入れそびれたことを思い出した。
*
次に会ったのは、三週間後だった。
悠真が候補に挙げた土曜日に、私は友人と会う予定があった。以前なら、先に入っていた約束なのに、少し申し訳なく思ったかもしれない。
『その日は予定があるから、次の週はどう?』
送ると、彼は、空いてる、と返した。
それだけのことに、まだ少し慣れなかった。
駅の反対側の定食屋で、私は唐揚げを、彼は日替わりを頼んだ。
「食べないの?」
彼が小鉢のきゅうりを残していたので、つい聞いた。
「最後に食べようと思って」
「あ、そう」
彼は箸を持ったまま私を見た。
「欲しい?」
「違う。前も残してたなと思って」
「最後に食べてたんだよ」
「知らなかった」
私は笑った。四年一緒にいても、知らない食べ順があった。たぶん、昔にも聞いたことがあるのだろう。そのときには、覚えておこうと思わなかっただけだ。
新しい仕事はどう、と聞くと、悠真は、図面を読むのに時間がかかると答えた。以前の仕事で知っている設備もあるけれど、厨房全体の配置になると勝手が違うらしい。
「分からないと、聞くのも時間がかかるんだ。何が分からないかを、まず整理しないといけないから」
「それは分かる。私も最初、分かりましたって言ってから、何も分かってないことあった」
「あったんだ」
「今もあるよ」
そう言ってから、仕事の話をした。発注の締切を過ぎて変更を頼まれ、どこまで対応するか営業担当と揉めた話だった。
悠真は途中で一度、確認の質問をした。
私はそれに答え、話し終えてから、自分の唐揚げが一つも減っていないことに気づいた。
「ごめん。ずっとしゃべってた」
「聞いてた」
「知ってる」
急いで食べると、まだ中が温かかった。
帰りに店の前で別れた。手は繋がなかった。悠真は次の約束をその場で求めず、私も、またね、とだけ言った。
それから月に二、三度、会うようになった。
映画を見た日もあれば、一時間ほど公園を歩いただけの日もあった。付き合っていた頃によく行った場所は、どちらからも選ばなかった。
連絡は毎日ではなかった。悠真から届いたメッセージを、翌朝返すこともあった。それでも、返す言葉がないから携帯電話を伏せる夜は、少なくなっていた。
ある木曜日、仕事を終えたところで、彼から連絡が来た。
『土曜日の約束、変更をお願いできるかな。来週初めに先輩と行く現場の準備が間に合っていなくて、土曜の午前中、出勤することになった』
私は会社の階段の途中で足を止めた。
行こうとしていた展示は、前から私が見たいと言っていたものだった。午前十一時に待ち合わせて、早めに昼を食べるつもりでいた。
画面には、続きが届いた。
『上司にも相談して、午前だけ出る許可をもらった。午後一時には会社を出られる見込みだけど、絶対とは言えない。待ち合わせを二時半に変えるか、日曜にしてもらえると助かる。紗季の都合を聞きたい』
指が、分かった、と打ちかけた。
いったん消した。
『日曜日は用事がある。土曜、楽しみにしてたから残念』
送ってから、壁際へ寄った。後ろから来た同僚が、お疲れさま、と追い越していった。
すぐに電話がかかってきた。私は階段を下り、建物の外へ出てから応答した。
「今、大丈夫?」
「うん」
「変更してもらえると思って、先に出勤を決めた。ごめん」
私は通用口の横に立った。自転車置き場へ向かう人が、二人、目の前を通った。
「仕事は、仕方ないと思ってる」
「うん」
「でも、待っててって言われると、前のことを思い出す」
電話の向こうで、悠真が息を吐いた。
「二時半に約束して、もし遅れたら、また待たせるよね」
「たぶん、一時過ぎから携帯見ちゃうと思う」
「じゃあ、今週はやめよう。展示、来週もやってる?」
「うん。再来週まで」
「来週の土曜日は、出勤の予定がない。今のところ、紗季はどう?」
「空いてる」
言ってから、私は鞄を肩に掛け直した。
「私、今週は、一人で行ってくるかもしれない」
少し間があった。
「うん。行ってきて」
「二回行くのは多いから、来週は、別のところでご飯にしない?」
「分かった。何か食べたいものある?」
私は会社の隣の店を見た。看板に、冷やし中華はじめました、と貼ってあった。
「冷やし中華」
「今?」
「うん。急に」
悠真が小さく笑った。
「探しておく」
電話を切ってからも、残念な気持ちは残っていた。でも、次の土曜日の予定は決まっていて、今週の土曜日をどう過ごすかは、私が決められた。
その夜、展示の入場券を一枚予約した。
翌週、悠真は約束の十分前に店へ来ていた。
冷やし中華にからしがついていた。私は苦手で、彼は好きだった。小皿を寄せようとして、やめた。もう彼の分には、十分な量がある。
私が一人で行った展示の話をしている間に、彼の鼻の頭に汗が浮いた。
「入れすぎじゃない?」
「ちょっと」
「昔から、ちょっとじゃないよね」
笑うと、彼も笑った。
そのあと、土曜日の出勤で準備は終わったのか聞いた。
「午前中には。でも、来週も同じことにならないように、見てもらう日を早めた」
「誰に?」
「一緒に行く先輩。出来上がってから見てもらうつもりだったんだけど、途中で聞いたほうが早いって」
悠真は水を飲んだ。
「できてないところを見せるの、まだ苦手で」
「そうなんだ」
「うん。そこは、まだ」
私は彼の顔を見た。困っている顔だった。少し前までなら、私に見せないようにした顔だった。
それを見て、私がどうにかしてあげなくては、とは思わなかった。ただ、明日の朝にも彼が聞く相手はいるのだと分かって、安心した。
*
悠真が初めて、もう一度付き合いたいと言ったのは、再会してから三か月近く経った日のことだった。
夕方の駅前は、帰る人で混んでいた。私たちは横断歩道の信号が変わるのを待っていた。
「紗季に、ちゃんと言いたいことがある」
「うん」
「もう一度、付き合ってもらえないかな」
信号が青になった。私が歩き出さなかったので、悠真もそのまま待った。後ろから来る人の邪魔にならないよう、二人で端へ寄った。
「今度は絶対、って言うつもり?」
少し意地の悪い聞き方になった。
悠真は首を振った。
「言えない。仕事で余裕がなくなることも、またあると思う」
通りの向こうで、自転車が止まった。買い物袋を提げた人が、歩道へ上がってくる。
「でも、話せなくなったら、話せなくなってるって言う。自分だけで何とかしようとしてるって、この間みたいに気づいたら、途中でも相談する」
「私も、黙って我慢してるかもしれないよ」
「うん」
「分かってくれるまで待とうとして、急に怒るかもしれない」
「そのときは、聞く。……怒る前に言ってもらえたら、ありがたいけど」
私は笑いかけて、やめた。言わなくてはいけないことが、まだ一つあった。
「悠真の仕事が、また大変になったとしても、私、前と同じ暮らしには戻れない」
「戻らせたくない」
「悠真がつらいのを分かってあげられなかったから、とは、もう思いたくない」
声が少し震えた。
悠真は頷いた。
「思わせたのは、俺だよ」
私は鞄の持ち手を握り直した。彼は私の返事を待っていた。
ここ三か月、待ってくれた。私から話を終わらせた夜も、予定を断ったときも、前はこうだった、と言ったときも。
だから、それだけで全部が解決したと思わずに、私はもう一度この人と会いたいと思えた。
「うん」
自分で思ったより、はっきりした声が出た。
「付き合いたい。私も」
悠真が目を閉じた。すぐに開けて、ありがとう、と言った。
「でも、一緒には住まないよ。今の部屋、気に入ってるし」
「うん。俺も、すぐにとは思ってない」
「次に住むなら、椅子まで測ろうね」
彼の顔が、少しずつ緩んだ。
「忘れてなかったんだ」
「忘れないよ。あの棚、重かった」
「重かったね」
今度の青で、私たちは横断歩道を渡った。
途中で悠真が手を差し出した。私はその手を取った。知っているはずの手なのに、どのくらいの強さで握ればいいのか、一瞬分からなかった。
向こう側に着く頃には、普通に繋いでいた。
*
それから一か月ほどして、悠真が私の部屋へ夕飯を食べに来た。
あの部屋を出てから、誰かと食卓を囲むために買ったものはなかった。小さなテーブルに、折り畳みの椅子が一脚。私はもう一脚、同じものを買った。
椅子は普段、畳んで壁に立てかけている。使いたいときに出せばいい。そのくらいが、今の部屋にはちょうどよかった。
夕飯は、鶏肉と茄子を炒めたものと、豆腐の味噌汁だった。悠真が買ってきたトマトを切って、皿に並べた。
「ご飯、少なめでいい?」
「普通にほしい。昼、パンだったから」
「忙しかったの?」
「食べようと思ってた店が休みで、次の約束まで時間がなくなった」
私は茶碗によそいかけたご飯を、少し足した。
いただきます、と言って食べ始めた。悠真は茄子を口に入れ、しばらくしてから、熱い、と言った。
「いつも遅いよね、それ」
「中が熱い」
「茄子だからね」
彼は水を飲み、もう一つ取った。
食べながら、来月の連休の話になった。私は一泊くらいで出かけたいと思っていて、前の週から、二人で行けそうな場所を探していた。
「宿、今週中に決める?」
私が尋ねると、悠真の箸が止まった。
胸の内側が、一瞬だけ冷えた。
彼は皿へ箸を置き、私を見た。
「そのこと、今日話そうと思ってた」
「うん」
「今月、壊れた冷蔵庫を買い替えて。貯金を戻したいから、泊まりは再来月以降にするか、今回は日帰りにできないかな」
私は頷きかけて、少し考えた。
「旅行の話したときは、大丈夫だった?」
「そのときも、気にはなってた。でも、行きたかったから、何とかなると思って」
「一泊で探してたの、知ってたよね」
「うん。言うのが遅くなった。ごめん」
私は茶碗を置いた。
前の部屋で暮らしていた頃なら、私が何か言ったせいだろうかと考えた。仕事で疲れているのだからと、自分から話を引っ込めたかもしれない。
今日は、そのまま彼に聞けた。
「今は、いくらくらいなら大丈夫?」
「交通費と食事を入れて、一万円までなら」
「だったら日帰りにしよう。私、おいしいものは食べたい」
「うん」
「でも次から、予算も先に決めたい。宿、結構調べちゃったから」
「分かった。再来月にする案は?」
「再来月は、私のほうで出費があるんだ。友達の出産祝いと、お母さんの誕生日」
「そっか。じゃあ泊まりは、そのあとに、改めて考えよう」
悠真は置いていた箸を取り、すぐにまた止めた。
「あと、紗季。今、別のことで怒ってる?」
「別のこと?」
「最初、少し顔が変わったから。お金の話をしたところじゃなくて、その前」
私は味噌汁のお椀を見た。豆腐が、少し底に沈んでいた。
「また、答えてもらえないのかなって思った」
悠真の表情が曇った。
私は続けた。
「箸が止まったから。でも、そのあと話してくれたから、今は大丈夫」
「うん」
「大丈夫じゃないときは、言う」
言い終えると、悠真が、分かった、と頷いた。
私は味噌汁を飲んだ。少しぬるくなっていたけれど、温め直すほどではなかった。
「日帰りなら、あの市場は?」
悠真が言った。
「駅からバスで行けるところ?」
「そう。前に紗季が言ってた」
「あそこ、ご飯の時間すごく並ぶんだって」
「じゃあ早く出ようか」
「早いって、何時?」
彼がスマートフォンを取り、途中で私を見た。
「食べ終わってから、電車調べよう」
「そうして。茄子、冷めちゃう」
悠真はスマートフォンを伏せた。
食べ終えたら、私は食器を洗い、彼は拭くと言った。狭い台所に二人で立てるかどうか、まだ分からなかったので、とりあえずやってみることにした。
今度はご飯を飲み込んでから、彼が話し始めた。
「今日、納品先でさ」
「うん」
「入口を間違えたんだ。搬入口に行くつもりが、お客さんの入口で」
悠真は少し身を乗り出した。
「それで?」
私は茶碗を持ち直し、続きを待った。
~完~




