誰も私を信じてくれなかったので、全部忘れてしまいました――今さら「愛している」と言われても、あなたは誰ですか?
「……クリス。どうしてこんな事をしたんだ? 本当のことを言うんだ」
父の手の中には、青い石のついた髪飾りがあった。
先日、プリムが誕生日にもらったものだ。昨日から見当たらないと言っていたから、私も一緒に探していた。
それが、私の机の引き出しから見つかったらしい。
「絶対に私ではありません! だって妹の大切なものですよ? 私がそんなことを――」
「では、どうしてお前の部屋にある? それが証拠だ。ふんっ、嘘をつくならもう少しうまくつくんだな」
嘘じゃない。何を言っても信じてもらえない。それでも私は諦めず、父に状況を説明しようとした、が――父は私の言葉を遮った。
「プリムが褒められたのが、そんなに気に入らなかったのか?」
「そ、そんな、私は――」
「ねえ、クリス。正直に謝れば、それで済むのよ? ね、ね、クリスが盗ったんでしょ? もう許してあげるから……素直になってちょうだい」
母の声は優しかった。
私が泣きそうになると、困ったように眉を下げる。昔、転んで泣いた私を抱きしめてくれた時と似ていた。
優しそうな声なのに……母は私に近づこうとしなかった。目が怖い。まるで魔物を見るような目つきだった。
それでも私は説明をする。
「お部屋には、お掃除のために人が入ります。それに昨日は、お友達も来ていましたから、誰かが間違えて――」
「言い訳はやめろ! 誰かのせいにするんじゃないっ!! お前は卑しい下級身分の子か?」
その言葉で、何も言えなくなった。
私はただ、確かめてほしかっただけだ。
私が知らないところで何があったのか。どうして、持っていないはずの物が部屋にあったのか。
母の隣で、プリムが小さく首を振った。
「もういいの。返してくれたから……。お父様、お姉様を叱らないで」
プリムは二つ年下の妹だ。髪飾りをもらった日は何度も鏡を見て、その度に嬉しそうに私を振り返っていた。
『ねえ、お姉様。変じゃない?』
『すごく似合ってる。今度のお茶会につけていこうね』
私も嬉しかった。
本当に、嬉しかったんだよ。
なのに、私が盗んだ事になっている。
プリムまで、私が返したと思っている。
部屋の扉付近から、大きなため息が聞こえてきた。グリッドが立っていた。
幼い頃から一緒に育ち、婚約者になった人。今日は、彼と出かける約束をしていた。
私が何を言いたいのか、分かってくれると思った。
グリッドなら、きっと――。
「クリス。今は謝ろう。落ち着いてから話せばいい」
……後になってから、話を聞いてもらえた事はあっただろうか?
少なくとも、すぐには思い出せなかった。
「……申し訳、あり、ません」
父がようやく頷いた。母も安心した顔になる。
プリムは髪飾りを抱きしめ、グリッドは私に小さく笑いかけた。
これでいい。
そう思おうとした。でも、何が良かったのか分からなかった。
***
いつからだったんだろう。
最初は、本当に小さな誤解だった。
プリムに貸した本を私の机に戻していたら、取り上げたと言われた。使用人の失敗を庇った時は、その人を黙らせようとしていると思われた。
一度や二度じゃない。毎日、何かしらの誤解やトラブルに巻き込まれている。
一つずつ話せば分かってもらえる。
そう思っていたのに、いつの間にか「またクリスが」という言葉で終わるようになっていた。
まるで悪意が私につきまとっているみたいだった。しかも、徐々に誤解の頻度が高くなり、嫌悪の視線を向けられるようになっていた。
――侯爵家の長女として、振る舞いを改めなさい。妹に意地悪をしない。婚約者を困らせるんじゃない。
そんなことをしているつもりはまったくない。全部冤罪だった。
私は部屋に戻り、机の上に広げていた地図を畳んだ。
今日、グリッドと行きたかった植物園までの道を書いてある。途中にあるお菓子屋さんも調べた。彼の好きな焼菓子を売っているお店だったから。
グリッドは、今日は帰ると言った。
私が落ち込んでいるから、ゆっくり休んだ方がいいと。
……一緒にいてくれたら、元気になれたと思うんだけどな。
椅子に座ると、読みかけの図鑑が目に入った。
私はこの本が好きだ。花の名前も、育つ場所も、知らなかった事が沢山載っている。
昨日まで小さな蕾だった花が、今朝には開いている。
うまく育たなかった苗を植え替えてみたら、急に元気になる。
本を読んでいるうちに、気になる事を見つけた。庭の隅に咲いていた花と、葉っぱの形が少し違う。
「……あれ、じゃあ別の種類なのかな?」
陰鬱な気分を変えるために、私は立ち上がった。
庭へ出ると、若い使用人が鉢を落としていた。
割れた鉢の横で、どうしようと青ざめている。
「大丈夫よ。根は傷んでいないから、新しい鉢に移せばいいわ」
しゃがんで土を寄せる。
使用人も私の隣に膝をついた。
「クリス様、お手が汚れてしまいます」
「洗えば落ちるわよ? ふふ、丁寧に世話をしてくれてありがとう」
そう言うと、彼女は小さく笑った。
私も笑った。誰かとこんなふうに笑えたのが、久しぶりな気がした。
***
プリムが熱を出したのは、その数日後だった。
医師から言われた時刻に薬を飲ませ、水を替える。熱に浮かされたプリムは、いつもより幼く見えた。
「お姉様……もう、行っちゃう?」
「行かないよ。眠るまでここにいるから」
私は、棚から古い本を取った。
迷子の小鳥が、自分の家へ帰るお話。小さい頃、プリムはこの本を読むと安心して眠ってくれた。
読み始めると、プリムの指が私の袖を掴んだ。
「……そこ、もう一回」
「小鳥がお花畑で迷うところ?」
小さく頷く。私は同じページを、ゆっくり読み直した。
次に気がついた時には、窓の外が明るくなっていた。
椅子に座ったまま眠ってしまったみたい。肩が少し痛い。
プリムが私の手を握っていた。
「……お姉様、ずっといたの?」
「ごめんね。起こしちゃった?」
首を横に振る妹の額に触れる。昨夜より、ずっと熱が下がっている。
「よかった。もう、苦しくない?」
「うん……」
プリムの目から涙がこぼれた。
私は慌ててハンカチを取ろうとした。でも、その前に腕を引かれた。
「お姉様……大好き」
抱きついてきた妹を、そっと抱きしめる。
「……私も。大好きだよ、プリム」
声が少し震えてしまった。
やっぱり、大丈夫なんだ。私達は、ちゃんと仲の良い姉妹なんだ。
でも……なんでおかしな時があるんだろう? なんで私を嫌う時があるんだろう? なんで誤解されるんだろう?
考えてもわからない。
髪飾りの事も、きっといつか分かってくれる。
今日は言わなくていい。プリムの熱が下がって、こんなふうに抱きついてくれただけで十分だった。
***
プリムが元気になった頃、同級生の伯爵令嬢がお見舞いに来た。
先日の髪飾りを探してくれた子でもある。
彼女は私の顔を見て、にっこり笑った。
「一晩中お世話をなさったの? お優しいのね。これで髪飾りの事も許してもらえるでしょうし」
「……え?」
彼女は、それ以上何も言わなかった。
プリムへお土産の箱を渡し、楽しそうに学園の話を始める。
私は二人分のお茶を注いだ。
プリムの視線が、私の手元に向けられていた。
「お姉様、それ……何を入れたの?」
「お砂糖よ。プリム、甘い方が好きでしょう?」
「あ……うん」
プリムは笑った。
でも、私が部屋を出るまで、そのお茶を飲まなかった。
廊下へ出て、閉めた扉を見つめる。
あの「大好き」は、嘘じゃなかったと思う。
私の手を掴んでいた指も、抱きついてきた温かさも、まだ覚えている。
だから――
明日はきっと大丈夫。うん、きっとそう。そう思わないと……。
***
婚約者のグリッドと二人で庭を歩いたのは、それからしばらく経った日の事だった。
彼は私の隣にいるのに、あまり話さなかった。
昔は違った。二人で白熱した議論を交わしたり、好きな本の感想を言い合ったり――。
グリッドは無表情だった。少し怖く感じる。彼は何かを考えているみたいで、時々、確かめるように私を見ていた。
何を話せばいいんだろう。本の事? 学園の課題? プリムが元気になった事?
考えていた時、花壇の隅に白いものを見つけた。
「あっ……咲いてる!」
思わずグリッドの袖を引いた。
細い茎の先に、白い小さな花が幾つもついている。庭師と一緒に、何度も植える場所を変えた花だった。
「この花、ずっと蕾のままだったの。日当たりが悪いのかと思ったけど、そうじゃなくてね。お水が溜まりすぎていたみたい」
「……そうなのか? 俺にはよくわからないな」
「うん。土を変えてみたら元気になって。まだ咲かないと思ってたから、嬉しくて……」
そこで、喋りすぎている事に気がついた。
「ごめんなさい。つまらない話だったね」
「いや……、ごほん、そんなことないぞ。ふっ、相変わらず元気だな」
グリッドが私を見ていた。
さっきまでと違う、柔らかい目だった。まるで人が変わったみたいだった。
「クリスは、その話をしている時が一番楽しそうだな」
胸がドクンとした。
昔のグリッドだ。
私が何かを見つけるたびに、一緒になって覗き込んでくれた幼馴染。
「……そ、そうかな。えへへ……」
「ああ。あっちの白い花は? 同じものか?」
「違うの! あれは夜になると開く花で――」
嬉しかった。
私が話すと、グリッドが聞いてくれる。時々、分からないところを尋ねてくれる。
たったそれだけで、言いたかった事が次々に浮かんだ。
帰り際、私は思い切って声をかけた。
「グリッド。前に話した植物園、次のお休みに一緒に行かない?」
彼は少し考え、頷いた。
「そうだな。……きっと大丈夫だ。今度こそ行こう」
私達は再び約束を交わした。
私は部屋へ戻ると、畳んでいた地図を広げた。
行きたかったお店はまだあるだろうか。彼は、白い花を気に入ってくれたみたい。似た花が咲いている場所も探しておこう。
でも、約束の前日になって、延期の連絡が来た。
学園で、私が級友を仲間外れにしているという話を聞いたらしい。
『……そんなくだらないことをしているなら、遊びに行っている場合ではないだろう』
手紙には、そう書いてあった。
『私にも事情を説明させてください』
そこまで返事を書いて、手を止めた。
先に謝った方がいいだろうか。
でも、私は何をしたんだろう。
(全然、身に覚えがないわ……)
仲間外れなんてするはずない。
だって……私は数年前から……学園で孤立しているから。
白い花について書き足した地図が、机の上にあった。
私はもう一度、それを畳んだ。
楽しみにしていた……お出かけは、もう二度と行けないような気がした。
***
王家から学園へ貸し出されていた聖具が盗まれた。
その聖具が、私の寮室から発見された。
意味がわからなかった。
両親まで学園に呼び出され、私は大勢の前に立たされた。
壁際にはグリッドもいた。私が見ると、彼は目を逸らした。
同級生の伯爵令嬢が、保管室の近くで私を見かけたと言っている。
あの日、プリムの部屋で一緒にお茶を飲んでいた子だ。
「見間違いであってほしいと思ったのです。でも、クリス様のお部屋から見つかったのなら……」
彼女は、私と目を合わせなかった。
「違います!」
プリムの声が響いた。
「封印が壊れた鐘が鳴った時、お姉様は私と温室にいました。庭師の方にも会いました!」
「プリム。姉を庇いたい気持ちは分かるが……証言があるんだ」
父が静かに言った。
「これ以上は庇えきれない」
「本当なんです! 私、お姉様と一緒に――」
プリムは必死だった。説明を途中で遮られ、同じ事を何度も言い直す。
その姿を見ていると、自分の事より苦しくなった。
プリムまで嘘つきにされたら、どうしよう。それでも、私が諦めちゃ駄目なんだ。きっと頑張って説明すれば――。
「は、話を聞いてください! お願いです。私は――」
声がうまく出なかった。
教員が私を見る。聞くためではなく、もう黙るようにという顔だった。
その時、後ろから別の声が聞こえた。
「疑わしい事と、有罪である事は違います」
振り返ると、袖口の擦り切れた制服を着た青年が立っていた。
小さな男爵家の出身で、名前はキリヤ。学園の廊下で、家柄を理由に上級貴族の生徒達から絡まれているところを何度か見た事がある。
「クリス様もプリム様も、確かめられる話をしています。庭師に聞けばいいのではありませんか?」
「お前には関係ないだろう」
「関係がない人間の話なら、聞かなくていいのでしょうか? これは提案です。この学園は公平を謳っていると思いますが?」
キリヤの声は変わらなかった。
怒鳴りもしない。誰かを見下すような態度でもない。
「罪があると言うなら、調べるべきです。疑っただけでは、人を罰する理由になりません」
私に向けられていた視線が、キリヤに集まる。誰かの舌打ちが聞こえたような気がした。
教員はようやく、正式な調査は王家の担当者に任せると告げた。
それでも、周囲の……私を見る目は変わらなかった。
***
その後、廊下の隅でキリヤを見かけた。
床に落ちた教本を拾っていた。表紙には靴跡がつき、何枚かのページが破れている。
角を曲がっていく男子生徒達の笑い声が聞こえた。
「……私のせいで」
キリヤが顔を上げる。
「私を庇ってくれたから、こんな事に……」
「違います。これは僕の性格上の問題です。あなたが謝ることではありません。いわば日常のようなものです」
彼は教本を閉じた。
これまで何度も同じ目に遭ってきたのか、手つきには迷いがなかった。
「……無意味な理不尽が嫌いなだけですよ」
私の口からとっさに出た言葉は――
「……ありがとうございます」
感謝の言葉だった。
キリヤは小さく頷いた。
***
グリッドに呼ばれたのは、その日の夕方だった。
私は両親と帰宅し、調査が終わるまで屋敷で過ごす事になっていた。
グリッドは帰りの馬車が来るまで、少し話があると言った。
外門の近くには、研究棟から運び出された魔獣の檻が並んでいた。騎士達が馬車への積み込みをしている。
私達は、少し離れた場所に立った。
グリッドは、私を見て疲れたように息を吐く。グリッドの表情は、昔なじみの婚約者を見る顔じゃなかった。
学園や両親と同じ……嫌な人間を見る目つきだった。
「クリス。もう、終わりにしよう」
心臓が跳ね上がる。続く言葉が容易に想像できてしまう。
「婚約を解消したい」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。
次のお休みに、一緒に行く約束をしていた。
今度こそと、言ってくれた。
「グリッド。あなたも、私が盗んだと思うの?」
グリッドは目を伏せた。
「……もう、君を信じ続ける自信がない」
信じ続ける。
彼の中では、ずっと私を信じてくれていたのだろうか?
私は、話を聞いてほしかった。
何かを決める前に、一度だけでいいから。
「家族が何を言っても、俺だけはお前を分かっていたかった。でも、何度もこういう事が続くと……もう疲れたんだ。もう君を愛していると言えない」
嫌だ。
そう言いたかった。
私は、まだグリッドが好きだった。
あの日、一緒に花を見てくれた時、本当に嬉しかった。
もっと沢山話したかった。
でも、私の話をすること自体が、この人を疲れさせていたんだ。
「……分かりました」
グリッドが顔を上げる。
少し嬉しそうな顔がとてもショックだった……
でも、これ以上はグリッドにも迷惑をかけてしまう。
だから私は頷いた。
「今まで、ありが、とう、ございました……」
声が震えていた。うまく言えなかった。
でも、グリッドは最後まで嫌な視線を向けたままだった。
そのまま走り出して逃げ出したかった。
もう違う場所に、世界に行きたかった。
――その時、鋭い音が響いた。
檻の封印が弾けた。
鉄格子が歪み、中から黒い獣が飛び出す。
「さ、下がれ!」
「馬鹿野郎! 取り押さえろ!」
騎士の声。馬のいななき。逃げ惑う人達。
魔獣の身体が、グリッドの背後へ跳んだ。
彼はまだ、私を見ていた。
「グリッド、危ない!」
彼の腕を掴み、思い切り押した。
間に合う。防御魔法を張れば、私も――。
指先に集めた光が、形になる前に砕けた。
身体に、熱いものが通り抜けた。
地面が近づく。
何が起きたのか、すぐには分からなかった。
痛い。息が出来ない。熱いものが胸に広がっていた。
「クリス!」
グリッドが私を抱き起こす。
彼の服に、赤いものが広がっていた。
血だ。グリッド、どこか怪我をしたの?
彼を見ようとして、ようやく気がつく。
流れているのは、私の血だった。
「お前……どうして……」
グリッドには、傷がない。
そう分かったら、少しだけ安心した。
「……よかった……」
声になったか、分からなかった。
身体が寒い。まだ死にたくない。
読みかけの本がある。庭の花も、明日にはもっと咲くはずだ。
プリムに、嘘つきじゃないと伝えてあげなきゃ。
グリッドの声が、遠くなる。
私は彼の服を掴もうとして――何も掴めなかった。
***
グリッド
頭の中にあったモヤが晴れたような気がした。
子供の頃から愛してやまないクリスが死にかけた。
「クリスは、助かったんですね」
俺が尋ねると、医師は頷いた。
「ひとまず、命は取り留めました。ただ、まだ安心出来る状態ではありません」
それでも、助かった。
俺は椅子に座り込み、両手で顔を覆った。指の間に、乾いた血が残っている。
クリスの血だった。
あの時、彼女は俺に怪我がないか確かめていた。
自分が血だらけなのに、俺を見て、よかったと言った。
どうして、あんな事をしたんだ。
いや――違う。
クリスなら、そうする。
子供の頃から、彼女はそうだった。
転んだ俺を心配して、自分まで泣いていた。誰かが困っていれば、手を貸した。花が咲いたくらいの事で、見てほしいと駆け寄ってきた。
俺は、その笑顔が好きだった。大好きだったんだ。
なのに、いつから疑うようになった?
笑いかけられたら、何か頼み事があるのかと思った。
贈り物を受け取れば、機嫌を取りたいのだと考えた。
顔を見るのも嫌になるくらい憎しみを覚えたこともある。
そういう気持ちが、なぜか今は浮かばなかった。
思い出すのは、手紙の返事を待っていた彼女の顔。
話しかけようとして、俺が忙しそうだと気づくと、口を閉じた彼女の顔。
俺は、あの顔を何度見ていたんだ。
病室の前には、クリスの両親とプリムがいた。
「クリスが、最後に食卓で話したのはいつだったかしら」
母親が小さく呟いた。
父親は答えなかった。
プリムは、古い本を胸に抱いている。
「……お姉様、ずっとそばにいてくれたのに」
誰もが、自分の知っているクリスを思い出していた。
知らなかった事ではない。ずっと見ていたはずなのに、まるで今初めて気づいたみたいだった。
***
呪いが見つかったのは、治療に加わった宮廷魔術師が、クリスの魔力を調べた時だった。
「彼女の魔力に結びついていたものです。普段はその中に紛れ、外から見つけにくい。死に瀕して魔力の循環が途切れた際、術式が崩れたのでしょう」
「呪い……?」
「彼女に向けられる疑念を増幅する術です。長い間、付着していたと思われます」
俺は顔を上げた。
それなら。
俺達が、クリスを疑っていたのは――。
「心を操られていたのですか」
クリスの父親が聞いた。
魔術師は首を横に振った。
「判断に影響する術ではあります。ただ、行動を強制するものではありません。疑問を確かめることや、本人の説明を聞くことまで出来なくなるわけではないのです」
誰も、次の言葉を出せなかった。
俺は、あの青年を思い出していた。
疑わしい事と、有罪である事は違う。
下級貴族のキリヤ。
自分まで責められると分かっていて、クリスとプリムの話を聞こうとした男。
同じ場所にいた。
彼も、クリスの部屋から聖具が見つかったと聞いていた。
それでも、調べるべきだと言った。
俺は、彼よりずっと長くクリスを知っていたのに。
***
王家の調査官が学園へ入った。
聖具の封印には、それを解いた者の魔力が残されていた。王家の技師が確認したところ、クリスのものとは一致しなかった。
プリムの話も、庭師の証言と一致した。
保管室の近くでクリスを見たと言った令嬢は、調査で証言を変えた。
やがて、彼女に金を渡されて寮室へ荷物を運んだ使用人が、その事実を認めた。
令嬢の部屋からは、クリスに残っていたものと同じ術式を刻んだ呪具も見つかった。
あの髪飾りも、彼女がクリスの机へ入れていた。級友を仲間外れにしたという噂も、彼女が言い広めたものだった。
「少しだけ、疑ってもらえればよかったの」
取り調べで、彼女はそう言ったという。
「みんなが、あの子の事ばかり褒めるから。誰も好きにならなければいいと思っただけなのに」
彼女は拘束され、呪いと聖具の事件について裁かれる事になった。
クリスの疑いは晴れた。
父親は知らせを握りしめ、母親は泣いた。プリムも何度も頷いていた。
俺も涙を流して喜んだ。
助かった。
呪いは消えた。
クリスは何もしていなかった。
今度こそ、ちゃんと話せる。
謝って、彼女の話を最後まで聞く。愛しいクリスを抱きしめるんだ。
そうすれば、全部丸く収まる。
俺はそう思っていた――。
***
クリスが目を覚ましたと聞いて、俺達は病室へ入った。
彼女は上半身を起こしていた。顔色は悪く、腕にも首にも包帯がある。
それでも、目を開けている。
「クリス!」
母親が抱きつこうとした。
その瞬間、クリスは身体を強張らせた。
「……あの……申し訳ありません。皆様は、どなたですか?」
最初は、何を言っているのか分からなかった。
父親が自分の名前を告げる。
プリムが、お姉様と呼びかける。
クリスは一人ずつ顔を見て、困ったように目を伏せた。
「本当に、ごめんなさい。何も思い出せなくて……」
「俺だ。グリッドだよ」
俺が近づくと、彼女は布団を握った。
「や、やめてください! し、知らない人です、あなたは……」
怯えていた。
何度も会いに来てくれた。
俺を見つけると嬉しそうに名前を呼んだ。
そのクリスが、俺を怖がっていた。
どんな攻撃を受けた時よりも強い衝撃だった。
医師に促され、俺達は部屋を出た。
彼女は文字を読める。言葉も話せる。物の名前や、学んだ知識も残っている。
でも、自分が誰と暮らし、誰と何をして、何を思っていたのか。その記憶が失われているらしい。
俺を見つけると嬉しそうに笑っていた、あの明るさも見えなかった。
名前を告げれば、丁寧に返事をしてくれる。それ以上、俺に向けられる親しさはなかった。
「長く続いた精神的な負荷と、今回の衝撃が関わっている可能性があります。ただ、今の段階では断定出来ません」
「いつ、戻るんですか」
医師は、すぐには答えなかった。
「お約束は出来ません。まずは、今の彼女が安心して過ごせるようにしてください」
今の、彼女。
俺はその言葉を、うまく受け止められなかった。
***
クリスの父親は、娘の話を聞くと言った。
「もう途中で遮らない。だから、何でも話してくれ」
クリスは頷いた。
でも、父親に何を話そうとしていたのか、彼女自身が覚えていなかった。
母親は菓子を持ってきた。
クリスが小さい頃から好きだったものらしい。
彼女は一口食べ、嬉しそうに笑った。
「美味しいですね」
母親の顔が明るくなる。
「思い出した?」
「……いいえ。でも、とても美味しいと思います」
それは、今食べた菓子への感想だった。
母親と一緒に食べた時間は、戻っていなかった。
俺が見舞いに行ったある日、プリムが本を開いていた。
迷子の小鳥の話。
「ここ、お姉様が何度も読んでくれたの。私が眠れない時、いつも……」
クリスはページを覗き込み、ゆっくり文字を追った。
「この本を、私が読んで差し上げていたのですね」
プリムが頷く。
「うん。私……お姉様が大好きだった」
「そうなのですね」
「今も、大好きなの」
プリムの声が震えた。
クリスは、泣き始めた妹へハンカチを差し出した。
でも、プリムが抱きしめようとすると、どうしていいか分からないように手を止めた。
同じ本を見ているのに、プリムだけが思い出を話していた。
一緒に笑った夜も、姉を疑ってしまった日も、今の二人で振り返る事は出来なかった。
***
俺は、クリスからもらった手紙を持ってきた。
何通もある。
返事を出していないものも、途中までしか読んでいなかったものも。
彼女は一通ずつ、丁寧に読んだ。
『この前お話したお店の場所が分かりました』
『お忙しかったら、来月でも大丈夫です』
『白い花が咲きました。グリッドにも見てほしいです』
クリスの指が、最後の手紙の上で止まった。
「この人は、あなたと会えるのを、とても楽しみにしていたのですね」
俺は答えられなかった。
この人。
そこに書かれているのは、クリスの言葉だった。
その時の彼女が、どんな顔で手紙を書いていたか、俺には想像出来るのに。
「クリス。それは君だ」
「……はい。そう伺いましたけど……ちょっと思い出せそうにありません」
知識としては分かっている。
でも、自分の気持ちとしては分からない。
「君は、俺を好きだったんだ」
言ってから、違うと思った。
伝えたいのは、そんな事じゃない。
「俺も、君が好きだった。今も好きだ。愛しているんだ」
クリスは手紙を膝の上に置いた。
「もう疑わない。ちゃんと話も聞く。植物園も、好きなお店も、一緒に行こう。だから――」
途中で、彼女の表情に気がついた。
喜んでいなかった。
知らない男から、突然愛していると言われている顔だった。
「……も、申し訳ありません」
クリスが小さく頭を下げる。
「あなたを愛していた私を、覚えていないんです。それに……すみません。近くにいらっしゃると、少し怖いんです。どうしてなのか、私にも分からなくて」
俺は、いつの間にか身を乗り出していた。
椅子を引く。クリスの肩から、わずかに力が抜けた。
「戻らなくてもいい。もう一度、初めから――」
「でも、婚約を解消したいとおっしゃったのは、あなたなのですよね?」
言葉が止まった。
「父から聞きました。私は、承諾した、と」
そうだ。
俺が終わりにしたいと言った。
彼女は、それを受け入れた。
なのに俺は、クリスが俺を好きなままでいると思っていた。
別れると言っても、彼女の気持ちまでは変わらないと、どこかで思っていたんだ。
「今の私には、結婚の約束は出来ません」
クリスの声は穏やかだった。
そして自分の胸に手を当てた。
「思い出そうとすると、苦しくなるんです。何があったのかは、分からないのに」
責めていない。怒ってもいない。
俺を傷つけるための言葉ではなかった。
何があったのか。
俺は知っている。
彼女が何を話そうとして、その言葉を俺がどう遮ったのか。何を楽しみにしていて、それを何度やめさせたのか。
俺だけは、覚えている。
彼女に謝ることは出来る。償うために、出来る事もあるだろう。
でも、その先に、以前と同じ笑顔を求めていいわけではない。
俺はずっと、彼女が待っていると思っていた。
俺が忙しくなくなって、彼女の言葉を聞く気になった時。
その時には、クリスは同じ気持ちで、同じ場所にいると。
婚約を解消したのは俺なのに――終わった事を理解していなかったのも、俺だった。
何か言わなければと思った。
でも、口から出たのは、もう言った謝罪と彼女の名前ばかりだった。
「ごめん……クリス。ごめん……」
声が崩れた。涙が落ちる。
止めようとしても、うまく息が吸えなかった。
クリスの指が、布団を握った。
その手を見て、俺はようやく口を閉じた。
***
私は、屋敷から離れた別邸で療養する事にした。
父だという方は、少し寂しそうな顔をした。
父親がどういう存在なのかは分かる。でも、この方が私の父だという実感はなかった。
それでも、私の話を最後まで聞いて、手配してくれた。
皆さんが悪い方だとは思わない。
ただ、笑うたびに「思い出した?」と聞かれると、何かを間違えたような気持ちになる。
私が喜んでいるだけでは、いけないのだろうか。
思い出そうとすると、なぜか胸が苦しくなる。
無理に考えるのは、今はやめておきたかった。
しばらく、静かな場所で過ごしたかった。
別邸には、小さな庭があった。
図鑑を開くと、咲いている花の名前が分かる。どうして知っているのかは思い出せないけれど、ページをめくるのは楽しかった。
庭に咲いている花と、本に描かれている花を見比べる。
似ているけれど、葉っぱの形が違うものもあった。気になって次のページをめくっているうちに、ずいぶん時間が過ぎていた。
その日、学園の方が見舞いに来たと知らされた。
会ってもよいかと尋ねられ、私は頷いた。
現れたのは、見覚えのない青年だった。
袖口を丁寧に繕った上着を着ている。私の前で足を止め、こちらが顔を上げるのを待っていた。
「申し訳ありません。以前お会いしていても、私は何も覚えていないんです」
青年は、少しも困った顔をしなかった。
「では、初めまして。キリヤと申します。本を何冊か持ってきました。気が向いたら、どうぞ」
私は瞬きをした。
彼は私に質問をしなかった。
思い出せと言わなかった。本を喜んで受け取るように、求める事もしなかった。
なんで? って聞こうとしたけど、聞かなくてもいい気がした。
彼はただ、私の返事を待っている。
「……初めまして。クリスです」
私は本を閉じた。
昔の私ならどうしたのか、考えなかった。
この人と、少し話してみたい。
そう思って、自分から隣の椅子を勧めたのであった――。
ありがとうございました!




