第30話 声にならない違和感
朝は、いつも通りに始まった。
南部第三領の町外れ。小さな家の窓から、薄い光が差し込んでいた。マルタは目を覚ます。身体はまだ重かったが、休む理由はない。休むという選択肢は、いつの間にか手元からなくなっていた。
かつては補助役として、朝一番に循環装置を点検してまわった。灯りが安定しているか、水路に詰まりはないか。誰に言われたわけでもない。ただ、それをするのが仕事だった。
今は違う。装置は自動化され、点検は中央でまとめて行われる。効率化、合理化――どちらも正しい言葉だ。
マルタは外に出た。今日は町の工房で簡単な手伝いをする約束になっている。正式な雇用ではない。「空いていたら、来ていい」という形だ。拒まれたわけではないから、文句も言えなかった。
「おはよう」工房の主人が、荷を顎で示しながら声をかけてきた。「今日は、これを運んでくれるかい」
「はい」
返事は、考えるより先に出た。身体が勝手に動く。長年の癖だった。
昼休み、工房の裏で簡単な食事を取る。量は少なめだった。節約しているわけではない。食べる量が、自然と減っただけだ。
隣では若い職人たちが、改革の話をしていた。
「効率、上がったよな」
「無駄がなくなった」
「連合のおかげだ」
弾んだ声を、マルタは黙って聞いていた。間違っていない。全部、事実だ。だからこそ、口を挟めなかった。
午後。町の掲示板の前で、足が止まる。新しい募集の紙が貼られていた。経験、柔軟な勤務時間、即応性。条件は厳しい。かつての自分なら、どれも満たしていた。今はどれも、少しずつ足りない。年齢も、体力も、立場も。
「……次にしよう」
そう呟いて、掲示板から目をそらした。誰かに追い出されたわけではない。ただ、居場所が薄くなっていくだけだ。
夕方、川辺に座って水の流れを眺めた。あの日、連合から来た女性が声をかけてきた場所だった。彼女は何も約束しなかった。ただ話を聞いて、頷いていただけだ。それが、なぜか忘れられない。
(……私は、助けを求めているのだろうか)
分からない。今すぐ困っているわけではない。明日、食べるものもある。だから、声を上げる理由がない。
だが、このまま少しずつ削られていけば――いつか本当に、声そのものが出なくなる。膝の上で組んだ指が、知らぬ間に固く握られていた。その予感だけが、喉の奥に小さく引っかかって残った。
夜。家に戻り、灯りをつける。魔力灯は、またたきもせず安定していた。改革は、成功している。その光の下で、マルタはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
(……何かが、違う)
でも、それを説明する言葉がない。不満ではない。怒りでもない。ただ、選択肢が静かに減っている。それは誰の責任でもなかった。だからこそ、誰にも届かない。
一方、連合拠点。
私は、南部第三領の報告書を再び読み返していた。数字は良好。問題なし。だが紙の端に、ペンを走らせて小さく書き足す。
「――余白、減少」
誰に提出するわけでもない、私自身のメモだ。正しさは、声の大きい場所だけを通っていく。声にならない違和感は、拾われないまま溜まっていくのだ。
私はペンを置いた。指先に、乾ききらないインクの匂いが残っている。次に問われるのは、正しさではない。この数字の外にいる誰かの元へもう一度足を運び、関わり続ける覚悟があるかどうかだ。
今日は事件も断罪もない、静かな回でした。
マルタが「……次にしよう」と目をそらす一行を、私はずいぶん時間をかけて書きました。
悪人がいないのに居場所が薄くなる、あの感じ。
「余白、減少」というメモを走らせる彼女を、少しでも近くに感じてもらえたら嬉しいです。




