視覚検査
午後。教室の空気が少し薄く感じるのは、緊張か、期待か、眠気か——たぶん全部。
ルナに連れられて白い廊下を二回曲がると、ドアに視覚基礎とプレートのある実験室に着いた。
中は明るいが、眩しくはない。輪っかライトが少し柔らかめに設定されている。
「怖くない検査だから安心して」
ルナが先に入って、振り返る。
「説明は七瀬技師がする。私は横で見守り」
「見守り、大歓迎」
扉が自動で閉まる音と入れ替わりに、白衣の女性がにこっと笑った。
短めのポニーテール、名札には七瀬。
「天霧カイくんね。今日は基準値を取るだけ。痛いことなし、危ないことなし、時間は二十分くらい。
途中で気持ち悪くなったら言って」
「痛いことなし、助かります」
「となりの席が空いてるから、楓くんはそこで同時にやるねー」
「同時!?」
「同時でも別々の内容だからカンニングはできないよ」
七瀬がウインク。続いて、端の器具棚から黒縁のメガネとカードを取り出す。
「じゃ、項目は五つ。視野/図地/色と語/立体/残像。最後に感覚メモを一行」
「感覚メモ、了解」
ルナが頷く。
「さっきからの“軽い/重い”も、必要なら書いて」
「はい」
楓がこっちに小さく手を振る。
「緊張したら、深呼吸を半分に分けるといい。吸って、止めて、吸って、吐く」
「それ、助かる」
◆1. 視野(周辺)
壁のスクリーンに灰色の円。中央に小さな十字、外周にふわふわ動く点。
「十字を見たまま、点が見えたら言う」
と七瀬。俺は十字をじっと見て、点が視野の端に入るたびに「見えた」「消えた」を告げる。
「いいテンポ」
七瀬はタブレットに記録をつけつつ、会話も軽い。
「最近、スマホ見すぎで視野が狭い子が多いけど、カイくんは悪くないね」
「中庸スマホです」
胸の中にポコン……。
A:十字だけを見る / B:十字を中心に薄く全体を見る
(Aはストイック、Bはやさしい)「B。全体を薄く」
選んだ瞬間、肩の力が一段だけ抜け、点の出入りが見やすくなった。終わってから七瀬が微笑む。
「今の“薄く全体”は良い選び方。理由は?」
「十字だけだと点の出入りが遅れる。全体を薄く見るほうが、端に引っかかりやすいから」
「はい、言語化OK」
ルナが端末に一行だけ打ち込む。
「軽い?」
「軽かった。さっきより視界が広がる感じ」
◆2. 図地(どっちが前?)
スクリーンにルビンの壺が表示される。黒い壺と、向かい合う横顔。七瀬が説明する。
「“壺に見える/顔に見える”を交互に言ってみて。切り替えやすさを見たい」
「壺」「顔」「壺」「顔」……言いながら、胸にポコン。
A:壺で固定 / B:顔で固定 / C:切り替え続ける
(固定は楽そう、でも“切り替えやすさ”が目的)「C。切り替え続けます」
十回ほど交互に言葉を置く。切り替えるたびに、目の奥の筋肉が小さく動くのがわかる。
七瀬がうんうんと頷いた。
「良い切り替え。理由は?」
「固定しないほうが“交互”の指示に合う。視界の前後を動かす練習になるから」
「OK。交互の方針は、後で役に立つこと多いよ」
横で楓が小声。
「顔がイケメンに見える角度、ある」
「まじで? 壺、負ける?」
「負けるときはある」
「会話の図地が入れ替わってる」
ルナが淡々と挟む。
「続けて」
◆3. 色と語
スクリーンに『アオ』『アカ』『キイロ』の文字。色はバラバラ。七瀬が指示する。
「“色”を読む。文字は無視」
「……了解」
胸の中にポコン……。
A:文字を読む / B:色を読む
「B。色を読む」——「緑、赤、青、黄……」
途中で一度だけ舌がもつれて、
「あ、違う。青じゃなくて黄色」
と自分で訂正すると、七瀬がすかさずフォロー。
「訂正、早い。いいね。理由」
「文字に引っ張られたけど、指示は色。迷ったら指示に戻るのが安全」
「はい正解。『指示に戻る』は座学でも実戦でも強い」
楓が向こうで苦笑い。
「『アオ』って赤色で出すの、性格悪い」
「そういう装置」
七瀬は笑う。
「でもね、練習すると引っ張られ耐性が上がるの」
◆4. 立体(手前? 奥?)
偏光メガネを渡される。スクリーンに白い点の群れ。
七瀬がリモコンを押すと、点がふわっと集まって、手前に浮く板に見えたり、
奥に沈む板に見えたりする。
「今、どっち」
「……手前」
「切り替えて、奥」
「奥」
胸の中にポコン……。
A:手前に固定 / B:奥に固定 / C:ゆっくり往復
(ここも“交互”が良さそう)「C。ゆっくり往復」
呼吸に合わせて「手前」「奥」をゆっくり言い分ける。数往復で、目の奥が少し疲れる。
七瀬がすぐ止める。
「OK、止め。無理はしない。理由をどうぞ」
「固定より、切り替えの練習が役立ちそうだから。あと、呼吸に合わせると楽」
「はい、言語化OK。呼吸と同期は安全策」
ルナがメモ。
「軽い/重いは」
「最初は少し重い、往復が安定したら軽いに寄った」
◆5. 残像
白い十字の中心を見て、周りの赤い四角を二十秒。
合図で視線を白紙へ移すと、緑の四角がふわっと浮かぶ。
「見えた?」
「見えた。薄いけど、確かに」
胸の中にポコン……。
A:すぐ目を閉じる / B:一拍おいてから閉じる
(急ぐと残像が乱れる)「B。一拍置く」
一拍置いて目を閉じると、残像は四角のまま保たれた。七瀬が満足そうに頷く。
「はい終了。基準値は十分。最後に“今日の体感”を一行」
俺はカードに書く。
『切り替えが効くと体が軽い。迷ったら指示に戻る』
楓もペンを走らせ、「顔と壺は友達」と書いて見せてきた。
「それは個人メモとして強い」
ルナが微笑する。
◆小休止(雑談長め)
椅子を回して、検査台の隅に肘を置く。七瀬が紙コップの水をくれる。
「ところでカイくん」
「はい」
「さっき“薄く全体を見る”って言ってたよね。授業のときも、それが得意?」
「……得意かはまだ。でも、一点だけを見続けると、視界が狭くなって息が浅くなる感じがします」
「いい観察。学園では“一点突破”が必要な場面もあるけど、普段は“薄く全体”が体に優しい。
息も入るし、判断も遅れない」
「うん、半分わかってきた」
楓が身を乗り出す。
「七瀬さん、図地の切り替えって、練習で速くなるんですか」
「なる。コツは三つ。名付ける/呼吸を合わせる/焦らない。
名付けると脳がモードを切り替えやすいの」
「名付ける、か……“壺モード”」
「“顔モード”」
「楓モード」
「最後は別のゲーム」
ルナが笑う。
「でも、名付けは有効」
七瀬が端末を閉じる。
「はい、おしまい。二人とも基準は良好。歩いて帰って、五分休んで、水を飲む。質問は?」
「えっと……」
と口を開くと、胸の中にポコンが一瞬だけ浮かんで、すぐ薄くなる。自分で作る。
A:検査の続きがあるか聞く / B:目の疲れを取る方法を聞く
「B。目の疲れを取る方法、ありますか」
「あります。遠くを見る/まばたきを増やす/温タオル。この三つ。
遠くを見るは、窓の向こうの雲とかね」
「雲、得意です」
「さっきから見てる気配がある」
ルナがさらっと暴露する。
「バレてるやつ」
◆廊下(帰り道)
実験室を出ると、廊下の空気が少し冷たい。ルナが歩幅を合わせる。
楓は隣でストレッチをしながら歩く。三人で並ぶと、妙に安心する。
「カイ、重い瞬間はどこだった」
「立体の“最初”。あと、ストループで一回だけ言い間違えたとき。
けど、指示に戻るって言葉を思い出したら、軽くなった」
「いいね。戻る場所を持っておくのは強い」
楓が続ける。
「図地は、切り替え続けるほうが楽だった」
「交互は有効。けど、交互に頼りすぎないのも大事」
ルナが軽く釘を刺す。
「目的は“見栄え”じゃなく“読み取り”」
「了解」
俺と楓が同時に答えて、なぜか笑いが起きる。たぶん、タイミングがぴったりだったから。
角を曲がったところで、向こうから黒鐘イツキが歩いてきた。視線は真正面、歩幅は速い。
こちらに気づいても、やっぱり目を合わせない。風のように通り過ぎる。
「……速い」
「歩幅、大きい」
「無茶はしない」
ルナが短く言って、そして少しだけ柔らかく言い直す。
「今はまだ、見守り」
俺はうなずく。胸の中にポコン……。
A:この学園で静かに暮らす / B:全力で勝ちにいく
「保留」——今日は何度目だろう。でも、保留できるのは、悪くない。
窓の外、雲の端が少しほぐれて、光が斜めに差していた。遠くを見る。まばたきを一回増やす。
ポケットの中のカードが、体温でほんのり温かい。
(薄く全体、呼吸と同期、戻る場所。——今日はそれで十分)