入門講義
目が覚めた。輪っかライトは薄暗く、窓のスリットから白い帯が一本だけ差している。
耳は静か、呼吸は安定、喉の痛みは“微弱”。(おはよう、中庸ベッド。今日も頼むぞ)
顔を洗って目を覚まし、鏡でクマをチェック。
(減った! 人間っぽい!)歯を磨いて机のメモを見る。昨日の自分の文字が、思ったより頼もしい。
『別解を一つ』
『定義を確かめる』
『動かないも選択肢』
(朝の三種の神器、暗唱いける)
◆朝点呼
寮放送がポーンと一回。廊下の足音が一段ずつ増えていく。
ラウンジに集まると、寮監の霧島さんが名簿を携えて現れた。
背筋、直線。視線、安定。(この人、規則を背中に背負ってる)
「朝の点呼を始めます。名前を呼ばれたら返事を」
順番はすぐ来た。
「天霧カイ」
「はい」
——裏返らなかった。小勝利。
連絡は短く、正確。朝食の時間、ゴミの分別、夜間の注意。昨日の復唱だ。
「午前は入門講義。配布物あり。筆記具とメモを持参」
背後でルナが小声。
「食堂、軽め」
(胃、今日も味方でいて)
◆朝食
湯気は優しい。雑穀粥と薄いスープで中庸セットを構築。トレーを置くと斜め前に楓が座った。
「眠れた?」
「中庸ベッドが良仕事。三回起きたけど、三回とも秒速で寝直し」
「合格」
静かに食べる。粥は“ぬる熱い”。胃が落ち着く。食べ終わる前、胸の奥に小さな揺れ。
胸の中にポコン……。
A:デザートを少し足す / B:水だけで終える
(甘い誘惑 vs. 午前の集中)
「B。水で締め」
——コップを空にしてゆっくり吐く。(デザートは友情、今は我慢)
◆教室
入門講義の教室は二人掛け十列。白板、端のメトロノーム、小さな流れ図が壁に等間隔。
ミレイユ教官が入室。紺の上着、声は抑制、言葉はキレ。(優しい死神じゃなく、ちゃんと先生)
「入門講義は三十分。座学と小演習。危ないことはしない」
(ありがとうの気持ち)
後方にはルナ、端で志水が備品を整理して立つ。
「今日のテーマは二つ。命題の形と条件の範囲」
白板に短文が一本。
例:AさんはBさんが読んだ本を先生に紹介した
「この文、読み方を短く言って」
「係り受け優先」「主語を補う」「区切りで読む」——三つ、即時に揃う。
「状況で最適は変わる。重要なのは自分がどれを選んだか言えること」
胸の中にポコン……。
A:係り受け / B:区切り / C:主語補い
(昨日と同じ“型”だ。今は未選択でメモ)
『選び方を言う』——横に下線。(テスト常連の顔)
次の板書。
例:ここから出たら負け
「条件の範囲を四つ問う。対象、場所、主体、時間」
(“誰が/どこで/いつ/何に”——ここが抜けるとだいたい事故る)
◆小演習
灰色のプリントが配られる。三問。読み方の選択+一行理由だ。
胸の中にポコン……。
A:先に選ぶ / B:先に理由を書く
(昨日学んだ。骨→肉)「B」——欄外に“骨”を書く。文の見え方、範囲の四つ、図の影。
骨ができたら、Aを二回、Cを一回。手は安定、呼吸も安定。(この手順、好き)
回収。教官がざっと眺める。
「全体は良い。修正一点。正解は一つとは限らない。大切なのは、選んだ読み方と理由の一致」
後方からルナ。
「体が軽い/重いも印を」
(来た、体感メモ。続投)
◆休憩
十分。窓の外は薄い雲。楓が近づく。
「二問目、主体で迷った」
「判定の主体次第で結論が変わるやつ。主語と主体、似て非なる」
「それ」——楓は自分の答えに丸。
「昼は?」
「胃に相談」
「まっとう」
(胃、評議会の議長かもしれない)
◆短い演示
透明な箱、中央に黒線。ミレイユ教官が置いて、言う。
「仮定。この線を越えたら玉は右に転がる」
箱をゆっくり傾ける。玉は線の手前で停止。
「別解。摩擦条件が足りない。仮定が不足していた」
白板に短文。
『仮定が足りないと結論は立たない』
(朝の目覚ましも条件が足りないと起きない。スヌーズは反証)
胸の中にポコン……。
A:拍手 / B:メモ / C:質問
ここはB。昨日の積み木と線でつながる。脳内配線、改善。
終了の短音。教官がまとめる。
「午前はここまで。午後は各自の検査。移動はゆっくりで良い」
端で志水と目が合う。省エネ会釈↔省エネ会釈。(助かる)
◆廊下
廊下の空気は少しだけ冷たい。ルナが横に並ぶ。
「体調は」
「安定。頭は少し重いけど、許容範囲」
「午後、視覚の基礎検査。一回だけ。怖くない」
「安心した」
歩幅を小さく正しくに合わせる。テンポはたん、たん。
胸の中にポコン……。
A:この学園で静かに暮らす / B:全力で勝ちにいく
「保留」——声は出さず、口だけ。(今日も安定の保留)
窓の外の雲は細く、ゆっくり。見えた≠ある。
けれど今は、見えている雲も、ここにいる自分も、たしかにある。
俺はルナの歩幅に合わせて角を曲がった。(午後も“小さく正しく”。それでいく)