模擬訓練
体育館を四つに割ったくらいの広さの部屋に入ると、
さっき見かけた黒い円の向こう側に器具の棚があって、
柔らかそうなマットやコーン、フォームバトン(発泡素材の棒)がきちんと立てかけられていた。
天井は白、照明は輪が三つ重なったタイプで、音は空調と遠くの足音だけ。
ルナは端末を首から提げたまま、振り向きざまに指で三本を作る。
「ミニ模擬は三つ。①回避 ②タイミング ③軽い当て。危ないことはしない」
「“軽い”の定義は? ……怖いのはナシでお願いします!」
「青あざを作らない。走らない。跳ばない。無茶しない」
「覚えました!」
喉はまだ少し痛いけど、さっきの水でだいぶましだ。腹は減っている。
胃がきゅっと鳴りそうなのを腹筋で止めながら、黒い円の手前で待つと、
反対側から上級生らしい男子がこちらに歩いてきた。
髪は短く、表情は淡々、胸元の名札には小さく志水と書いてある。
「補助の志水です。よろしく。今日は当てない。動きを見るだけ。緊張しなくていい」
「天霧カイです。よろしくお願いします!」
志水は最小限だけうなずき、フォームバトンを一本手に取ると、ルナの方へ視線だけ送る。
ルナが同意を示すと、彼は黒い円の外に立った。
「①回避。カイは円の中心に立つ。志水は外から棒をゆっくり差し入れる。カイは一歩だけで避ける。
左右どちらでもいい。終わったら理由を一文で言う」
「理由も…言う?」
ルナが少しだけ口角を上げる。
「そう。身体と頭、両方使う」
黒い円に入る。中心印の小さな白点に靴のつま先を合わせると、膝の震えはまだ残っているけれど、
さっきよりコントロールできる気がした。
志水が棒を肩の高さに構え、わざと見やすい予備動作をつくってから、すうっと右から差し出してくる。
胸の中にポコン……。
A:左へ小さく / B:右へ小さく
視界の端で床の目地を拾い、つま先の角度だけ変えて左へ。
「A」
トン。棒は俺の右肩の手前を通過して、風のない空気を切っただけで止まる。戻る。
「理由」
「右から来たから。あと、左の床の目地が近かったので一歩を短くできる」
「OK!」
ルナが端末に打つ。
二手目。今度は左から。胸の中にポコン……。
A:右へ小さく / B:前へ小さく
前に出ると志水と距離が詰まりすぎる。右。
「A」
トン。
「理由」
「左からだったのと、前に出るとぶつかるから」
「OK!」
三手目。志水は棒を上下に軽く揺らし、今度は真上からふわっと落とす。胸にポコン。
A:後ろへ小さく / B:右へ小さく
後ろは怖い。けれど、落下の棒に横は意味が薄い。後ろ。
「A」
トン。踵で床を探りながら、すぐ戻る。
「理由」
「真上から落ちてきたから。横に動いても追いつかれる」
「OK!」
四手目。志水の動きがほんの少しだけ速くなり、棒は胸の横をかすめる速度で入ってきた。胸にポコン。
A:小さく避ける / B:大きく避ける
ここで“大きく”は危ない。小さく。トン。
「理由」
「大きく動くと戻れない。小さく外すほうが安全」
ルナが短くうなずいたところで、志水が棒を下ろす。
「①終了」
「②タイミング。志水が棒の先で床を軽く突くから、音に合わせて手を叩く。
同時じゃない、半拍遅れ。十回」
「半拍……了解!」
志水が棒の先で床をコッと鳴らす。胸にポコン。
A:手を小さく速く / B:手を大きく強く
「A」
コッ/パン、コッ/パン。三回目で少しずれて、四回目で戻す。十回終えると、腕がほどよく温まった。
「③軽い当て。志水が胸の前に四角いクッションを持つ。カイは片手でタッチ。強く押さない。
狙いを一点に」
背中が汗ばむ。胸の中にポコン……。
A:中心を狙う / B:中心の左上
前にもあったやつ。自分の癖を考慮するなら左上。
「B」
肩と肘の角度を少しだけ浅くして、指を揃え、ぽん。一回目は外周。
二回目、呼吸に合わせてぽん。中心寄り。
三回目、腕の振りを少し短くしてぽん。中心に触れた。
「理由」
「自分の腕の癖が左に流れる。だから最初から左上に置いた」
「OK!」
ルナが端末を閉じる。
「三つ、合格!」
肩の力が抜けそうになるのを深呼吸で誤魔化す。志水は棒を戻し、軽く会釈して器具棚に向かった。
ぶっきらぼうだけど、根は優しいタイプっぽい。
「ここからは観察」
ルナが黒い円の外に立つ。
「さっきから“選んだあとに体が軽い”って話、当たりが続くと軽くなるし、外すと重くなるはず。
次はそれを言葉に残して」
「当たり/外れの感覚を言語化、了解!」
「それと、相手はいつも正直じゃない。志水、次」
志水が棒を持ち直す。
同じ速度、同じ高さ、同じ振り出しで来る……と思わせて、最後だけちょっと遅くした。胸にポコン。
A:右へ小さく / B:待ってから左へ小さく
Aを選ぶと動き出しが早すぎる予感。待つ。一瞬、呼吸を止める。
「B」
トン。棒は空を切る。
「理由」
「速度が最後だけ落ちたから。先に動くと読まれる」
「OK!」
次。志水は視線を左に向けながら、棒を右から差し込んでくる。
胸にポコン。
A:視線に合わせて左へ / B:棒に合わせて右へ
視線に釣られるのは罠。
「B」
トン。
「理由」
「目でフェイント。棒を見た」
「OK!」
三手目。志水は棒を胸の高さで止めたまま、何もしない。胸の中で、ポコンが来ない。待つ。待つ。
まだ来ない。自分で作る。
A:動かない / B:一歩退いて距離を取る
「A」
動かない。志水が棒を下ろす。
「理由」
「相手が止まっていたから。自分から距離を詰める必要はない」
「OK!」
そのとき、体育館のドアの向こうで人の気配が強くなる。
ちらりと視線を投げると、数人の新顔が見え、その中に黒鐘イツキがいた。
目が合った気がして、喉の奥がひやっとする。
「見ないふり」
ルナの声が小さく落ちる。
「今はまだ、近づかない」
「了解……!」
志水は棒を片付け、ルナに顎で合図する。どうやらメニューは終わりらしい。
黒い円から出ると、足の裏が急に重くなる。緊張が切れた。
「結果」
ルナが要点だけ言う。
「小さく正しくができた。待てた。理由を言えた。この三つは強い。
反面、後ろに下がるのが怖いのは課題」
「はい。視界から消えるのが苦手です……」
「練習で慣れる。今日はここまで」
「ごはんは……まだ?」
「このあと。昼のオリエンの前に食堂に寄る」
「助かる……!」
廊下を出ると、向こう側から先ほどの新人たちが別メニューに入るところで、
イツキはこちらを一度も見なかった。見なかったのか、見ないことにしたのかはわからない。
胸の中で、ポコンがいつもの二択を出す。
A:この学園で静かに暮らす / B:全力で勝ちにいく
「……保留」
声に出さず口だけ動かすと、二択は薄くなって待ってくれた。
待たれるのは、少しだけ怖くて、少しだけありがたい。
食堂へ向かう途中、ルナがふと思い出したように言う。
「さっきの“止まる”の判断、良かった。動かないは選択肢のひとつ。忘れないで」
「はい。“動かない”も選ぶ!」
口にしてみると、言葉は思ったより自然にそこに収まった。
選ぶ、という行為そのものが、だんだん自分の体に馴染んできている。
まだ知らないことは山ほどあるし、名前の付いていない現象もある。
それでも今は、腹を満たして、午後に備える。
知らない世界の午前は、ゆっくりだけど確実に前へ進んでいる。
俺は足元を見ながら、かかと、つま先、かかと、つま先、とリズムをとって歩いた。