筆記試験
机、椅子、白い壁、黒い床。さっきまでのヒアリングの部屋とだいたい同じ作りだけれど、
ここには時計の代わりに砂時計が置いてあって、上から落ちる砂の音はしないのに、
視線を向けるだけで胸の奥がそわそわする。ルナは「十分」とだけ言って外へ出ていった。
ドアが閉まる音は薄く、耳の奥で一回だけ跳ねて消えた。
紙は一枚、ペンは一本。問題は一問。画面ではなく、紙に出すのがこの学園のやり方らしい。
目を走らせると、短い文章がひとつ。たしかに普通に読めるし、普通に読めない。
例:AさんはBさんが読んだ本を先生に紹介した。
このままだと主語と目的語が入り組んで、意味が二通りに取れるタイプ。国語の“やさしい罠”。
こういうの、嫌いではない。いや、今は嫌いとか言ってる場合ではない。砂が落ちている(はず)。
胸の中に、またポコンと二択……ではなく三択が浮かぶ。
A:句読点の位置で区切る / B:係り受けを優先して読む / C:省略された語を補って読む
来たな、チュートリアルの親戚。
Aを口の中でなぞると、文章に**、**が勝手に入って見やすくなるけれど、意味はまだ二通り残る。
Bをなぞると、頭の中の補助線が強調されて「Aさん→紹介」「Bさん→読んだ」の筋が立つ。
Cは「Aさんは(Bさんが読んだ)本を先生に紹介した」と主語補いで一意にできるけれど、
断定が強くてなんとなく胸が重い。
さっきから思うんだけど、楽をしすぎると胸が重くなるのは気のせいじゃない気がする。
「……B」
小さく言うと、脳内の補助線がスッと太くなり、文章の流れが一本に揃う。
ペン先で解答欄に「係り受け優先で解釈」と書き、根拠を一行。インクはスムーズ、手の震えはなし。
さっきよりだいぶましだ。
二問目、というか二段目が現れる。今度は数学っぽい文章題で、条件の読み方を問う。
ある袋に赤玉と青玉が同数入っている。1回だけ玉を取り出す。出た玉の色に応じて次の操作を選ぶ。
胸の中にポコン。
A:赤ならA、青ならB / B:赤または青ならA / C:それ以外ならB
Bは文章としておかしい(“または”で両方A)。Cはそれ以外が存在しないから成り立たない。
Aが自然。ここは迷わない。「A」と小声で言ってから、選択を書き込む。
書いた瞬間、さっきよりさらに小さく、胸の重さが軽くなる。正しい読み方だと、体の負担が減る?
偶然と言い切るには、さすがに回数が増えてきた。
三段目。今度は図形。文章は短いのに、図の見方が三通りあり得るパターン。胸の中にポコン。
A:図は上から見た図 / B:図は横から見た図 / C:図は立体の展開図
ここで迷う。Aだと説明が一発で通るが、影の付き方が不自然。
Bだと影は自然、ただし寸法の一つが意味を持たない。
Cだと説明は筋がいいが、問題文に「展開」とは一言も書いていない。
「……保留」
小さく言うと、三択が薄くなって、待ってくれた。よかった、さっきと同じ仕様。
深呼吸は勝手にうまい。目線を図から文章へ戻して、言葉の“癖”を拾い直す。
「上」「横」「開く」という語がない。なら、影を根拠にするのが安全だ。Bを選ぶべきだが、本当に?
「B」
選んだ瞬間、肩のこわばりが一段ほどける。正解だった、かもしれない。いや、採点結果は後でいい。
今はこの“選ぶと身体が軽くなる”現象を、使いすぎないことだけ決めておく。
砂時計の上部が目に入る。まだ余裕はある。焦らない。四段目は文章の要約。
「どの読み方を選ぶと、筆者の主張がいちばん素直に伝わるか」。
胸の中にポコンが来る前に、自分で三つ、読み方の候補を作ってみる。
A:結論先、B:根拠先、C:例示先。よし、先に自分でA/B/Cを作ってから、あのポコンを待とう。
……来た。
A:結論→根拠→例示 / B:根拠→結論→例示 / C:例示→根拠→結論
自作の順番と一致。思わず苦笑いする。
じゃあ、どれが楽かじゃなくて、どれが読者に親切かで選ぼう。今の俺ならA。
結論を先に置けば迷子にならない。
「A」
解答をまとめ終えると、砂時計はまだ三割ほど残していて、時間が余ることに逆に不安になる。
見直し。漢字ミスなし、句点の打ち方も統一、図の選択理由は一文で言い切り。よし。
ドアをノックして「終わりました」と言うと、待っていたルナが入ってきて紙をざっと確認し、
「うん」と短くうなずいた。
「体調は?」
「息は大丈夫。頭は少し重いけど、さっきより軽い」
「目の焦点は?」
「合ってます」
「OK。じゃあ、軽い実技。危ないことはしない」
「助かる」
歩きながら、さっき考えていたことをそのまま口にする。
「さっきの、その……“選び方”で体が軽くなったり重くなったりするの、気のせいじゃない気がします」
「気のせいじゃないことも、ある」
ルナは言葉を選ぶ。
「ただし、理由の説明は今じゃない。説明は後。体で先に覚えたほうが、変な思い込みが少なくて済む」
「実技のほうが先ってことですね」
「そう。座学はあとで一気にやる」
廊下を曲がって、広い部屋へ。
体育館を四つに割ったくらいの広さで、床に白いラインが引かれ、
壁には柔らかそうなマットが立てかけてある。中央に黒い円が三つ。
端に杖や木刀、的やコーンが整然と並んでいるけれど、今は誰も使っていない。
「初回は三つだけ」
ルナが指を三本立てる。
「①白ライン上を十メートル歩く。②音に合わせて手を叩く。③軽い的当て。どれもゆっくりでいい」
「了解」
①白ライン。まっすぐに引かれた線の前に立つ。足元を見る。かかと、つま先。
最初の一歩をどれくらいで出すか迷っていると、胸の中にポコン。
A:小さく出す / B:大きく出す
「A」
小さく。体が前に行きすぎない。二歩目、三歩目。膝はまだ少し震えるが、線からはみ出ない。
五歩目で視線を少しだけ先に。七歩目で呼吸に合わせる。十歩目で止まる。ルナの眉がわずかに緩んだ。
「②」
部屋のスピーカーからタン、タン、タンと一定のビート。
胸の中にポコンが出てくる前に、両手の距離を一定に保つことだけ意識する。パン、パン、パン。
途中でテンポが少し上がる。ついていけるか? ここでポコン。
A:手を小さく速く / B:手を大きく強く
「A」
小さく速く。リズムに乗る。最後の一拍で少し遅れてしまったが、崩れはしない。耳が熱い。
恥ずかしさはあるけれど、手は動いた。
「③」
的は近い。柔らかいボールを三つ渡される。腕を振る前に、肩の可動域を確認。胸の中にポコン。
A:狙いを一点に / B:面で捉える
Bを選ぶと楽だが、たぶん甘えになる。A。
「A」
狙いは的の中心ではなく、中心の左上。
なぜ左上かは説明できないが、今の自分の腕の癖がそこに行く気がする。
投げる。ぽす。外周に当たった。
二球目。呼吸を合わせる。ぽす。中心に近い。
三球目。腕の振りを少し短く。ぽす。中心をかすめる。
全部当たった。よし。
「いいね」
ルナが短く言う。
「今の三つ、勢いで押さなかったのがよかった。あなたは今、**『小さく正しく』**が正解」
「大きく正しく、は?」
「今は不正解。体が理解してない。だから『大きく正しく』を狙うと、大きく間違える可能性が高い」
「耳が痛いけど、納得です」
ルナは小さく笑って、手元の端末に何かを書き込む。
「次は、黒い円の中に立って、合図で左・右・前・後ろに一歩ずつ移動。合図はランダム。
転ばなければ合格」
黒い円の縁に立つ。心臓がまた少し早くなる。
胸の中にポコンが出る前に、足の裏の重心を真ん中に戻す。合図が来る。
「右」
トン。右へ小さく。戻る。
「前」
トン。前へ。戻る。
「左」
トン。左へ。戻る。呼吸は安定。汗は少し。膝は、まあ、震えてるけど。
「後ろ」
一歩下がる瞬間だけ、怖い。視界から消える場所に足を置くのが苦手だ。胸の中にポコンが出る。
A:小さく下がる / B:先に上体だけ引く
Bは崩れる。A。
「A」
トン。戻る。転ばない。終わった。
「合格」
短い言葉が、やたらうれしい。力が抜けそうになるのをこらえる。
「最後にひとつだけ、注意」
ルナが真面目な顔に戻る。
「さっきから“選ぶと体が軽い/重い”って感覚、たぶん当たってる。
でも、それに全部を預けないこと。選んだ理由を、あとからでいいから言葉にして」
「言葉に、する」
「そう。身体と頭を両方使う。どっちかだけだと、いつか転ぶ」
俺はうなずく。黒い円から一歩外へ。足の裏に床の硬さ。
呼吸のままならさが、少しずつ自分のものになっていく感じ。
そのとき、体育館の反対側のドアが開いて、人が数人入ってくる。年齢は同じくらい。
緊張している顔、眠そうな顔、やる気満々の顔。
中に、黒髪で目つきの鋭い少年がいて、こちらを一瞬だけ見た。視線がぶつかった気がする。
「新顔?」
「新人」
ルナが短く答えて、俺にだけ小声で付け足す。
「黒鐘イツキ。あの目に、今は近づかないこと」
「了解。無茶、しない」
言いながら、胸の中にまたポコン。
A:この学園で静かに暮らす / B:全力で勝ちにいく
二択はまだ、答えを急がせる。
俺は小声で「保留」と言って、それがまた薄くなるのを確認してから、ルナの後ろに続いた。
次の部屋のドアが開く音がして、空気が少しだけ入れ替わる。
知らない世界の朝は、まだ始まったばかりだ。