起床試験
最後に覚えているのは、学校のオンライン課題提出フォームの『送信』ボタンに指を伸ばした瞬間で、
そこから先はぷつりと糸が切れたみたいに真っ暗になった。
硬めで薄い枕が首の下に当たり、少し痛むのを手がかりに自分の体を思い出そうとすると、
手のひらには汗がにじみ、心臓は落ち着きなくドクドク騒いでいる──ここはいったいどこだ。
呼吸を試すが浅くてヒュッと空回りして喉が焼けるように痛む。
三つ数えて吐こうとして咳き込み、涙がにじんで焦りが胸の奥で膨らむ。
落ち着け、と言い聞かせても無理なものは無理だが、
それでも鼻を使って周囲のにおいを拾い集めると、
病院の消毒液ではなく紙と金属とインクの混ざった匂いがして、
少なくとも「病院じゃない」という一点だけははっきりした。
目はまだ開けない。まぶたの裏の明るさで光量を測り、
片目だけそっと開いて白い天井を視界の端に入れてからいったん閉じ、
今度は両目を少しだけ開く。焦点が合ってくるにつれ、
天井には短い言葉の箱が矢印でつながった流れ図が描かれているのが見えた。
星図ではなく、学校の掲示物みたいに『仮定→手順→結論』と順番が示されているのだが、
読めるのに頭のほうはまだ受け入れ準備が整っていない。
「だれか、いますか」
震えた声は空調の低い音に飲まれて返事を連れてこない。
シーツはざらつき、ベッドの金具は冷たく、知らない部屋だという事実だけが揺るがない。
体を起こすのは怖いが、怖いままやるしかない。
右手で押してひじが滑り、いったん戻してからゆっくり角度を変え、
めまいをやり過ごして座位まで持っていく──ふう、座れた。
そのとき胸の内側にポコンと泡が弾けるみたいに文字が浮かび、思考が勝手に二択に整列した。
A:浅く速く吸う / B:深くゆっくり吸う
は? 誰の指示だ、UI? チュートリアル? と半ばパニックの頭で突っ込みつつも、
どちらかを選びたい衝動が強く、深呼吸したい気持ちに押されてBに賭ける。
「……B」
小さく声に出した途端、呼吸だけがうまく回りはじめ、
空気がスーッと喉を通って肺に届き、肩のこわばりが抜けて心臓の鼓動が一段落ちる。
他は何も変わらないし世界が劇的にひっくり返ったわけでもないが、
息が入るというただそれだけが今はとんでもなくありがたい。
「今の、なに……?」
自問には当然答えが出ない。けれどさっきよりは動ける。
素足を床に下ろすと黒い石がひやりとして硬く、かかとも膝も情けないほどプルプル震える。
そのとき頭上から女の声がスピーカー越しに落ちてきた。
「起床試験、合格。候補生、識別名 天霧カイ。
ようこそ、**大陸法理学園《Lex Arcana Academy》**へ」
──ビクッ、と体が跳ねる。声の方向はつかめないが、名前はたしかに俺のだ。
学園? どういうことだ、と言葉を探しながら視線を巡らせる。
「すみません、ここ……どこですか。どうして俺は……」
うまく続かない質問をなんとか押し出したところで、一定のテンポの足音が近づき、
銀色の髪の女の子がドアから入ってきた。
落ち着いた色の制服に襟の細い刺繍、真面目な表情だけれど冷たい感じはない。
「白綾ルナ。案内役。今はそれだけ覚えて」
「天霧カイです。生きてます、多分」
「よかった。まず確認。さっき呼吸が急に整ったでしょ。自分でスイッチを押した感覚はあった?」
「ない。頭の中に二択が勝手に出て、Bって言ったら息だけ入った。理由はゼロ」
「OK。ここでは、ときどきそういうことが起きる。名前は後でいいし、今は覚えなくていい」
情報が多いとパンクするので、その配慮は正直助かる。
座ったまま深呼吸──いや、呼吸はもう勝手に安定しているのだった。便利だし怖い。
ルナが「立てる?」と短く訊くので、「試します」と答え、ベッドを両手で押して足に体重を移し、
膝の震えをだましながらゆっくり立ち上がる。立てた。まだふらつくが、立てたこと自体が心強い。
ルナは半歩だけ近づくが、手は出さずに見守る。
「ここは入学前の検査場。あなたは『起床』をクリア。
次は簡単な質問、そのあと移動。ゆっくりでいい」
「お願いします」
声はまだかすれ、喉がじんじんする。
ルナが壁のボタンを押すと小さなテーブルが横からウィンとせり出し、紙コップの水が置かれる。
ぬるいけれど喉には十分で、少しずつ飲むうちに胸のざわつきがいくらか引いていった。
「質問は三つ。名前、年齢、最後に覚えてること」
「天霧カイ、十七歳。
最後の記憶は、学校のオンライン課題提出フォームの送信ボタンを押す直前で……落ちた」
「OK。歩けそう?」
「ゆっくりなら」
「じゃあ、行こう」
ドアが横にスライドし、白い壁と黒い床の廊下へ出る。
ひんやりした空気の中、俺の足音はこつこつ、ルナの足音はたん、たんと規則正しく重なって伸びる。
壁には入学者の笑顔の写真が並び、その隣に名前の消された黒い板が等間隔で吊られていて、
理由はわからないのにぞわりと背筋が冷えた。
「あれ、なに」
「ここで脱落した人の記録。詳しい話は後で。今は“無茶はしない”だけ覚えて」
「了解。無茶、しない」
エレベーターに乗る。白くて角が丸く、鏡はない。
どちらに動いているのかよくわからない軽い揺れののちに扉が開くと、
机と椅子が六つずつ並ぶ小部屋があり、秒針の音がしない時計と黒いままのモニタがこちらを見ている。
「ここで事前ヒアリング。五分。終わったら向かいの部屋で筆記」
「筆記って普通の?」
「“読み方”を選ぶタイプ。わからなければ、わからないって言っていい」
一定の声色が不思議に安心をくれる。
椅子に腰を下ろすと足の震えは残っているものの、
両手を膝に置いているだけで呼吸は安定を保った。
「痛いところは?」には「喉、少し。後頭部が重い」と答え、
「ここに来る前は?」には「学校の課題のオンライン提出。送信前に落ちた」と返す。
最後に「今の気分を三語で」と言われ、
しばらく考えて「こわい、ねむい、でも助かった」と口にすると、
ルナは「いい答え」とだけ言ってメモを閉じた。
「じゃ、筆記。内容は問題の“読み方”を選ぶだけ。選択肢は二つか三つ。正解は一つじゃない。
あなたの“選び方”を見るテスト」
「合ってるかわからないけど、やってみる」
向かいの部屋は取っ手のないドアで、横の端末にカードをピッと当てると静かに開く。
中は机が一つ、紙が一枚、ペンが一本、モニタは白。
ドアが閉まって静けさが濃くなると、紙の中央に短い文章が現れ、
読み方で意味が変わる“国語の罠”系だとわかる。
そしてまた胸の中にポコン、今度は三択だ。
A:そのまま読む / B:区切りを変えて読む / C:主語を補って読む
さっきの二択の親戚らしい。
口の中でAをなぞるとぎこちなく、Bをなぞると途端に読み筋が見えて、
Cは意味は通るが断定が強すぎる気がする。
逡巡の末に小さく「B」と言えば、頭の中の文章がすっと段落分けされるみたいに読みやすくなった。
ペン先で必要なところに線を引き、短く答えを書く。震えは、ない。さっきよりずっとましだ。
念のため読み返してからドアをノックし、「終わりました」と告げると、
開いた扉の向こうでルナがうなずき、目だけで「大丈夫」と伝えてくる。
「次は体を少し動かすテスト。杖とかは使わない。危ないこともしない。ゆっくりでいい」
「はい」
と返事をして廊下へ出ると、曲がり角の先に同年代らしい影がちらりと見え、
誰かの小さな笑い声と別の誰かの深呼吸が重なって、
知らない世界の朝にほんの少しだけ現実味が足された。
そこでまたポコン。
A:この学園で静かに暮らす / B:全力で勝ちにいく
「……保留」
小さくつぶやくと、選択肢はふわっと薄くなって待ってくれた。
待ってくれるなら、いまはそれでいい。
俺はルナの少し後ろを歩きながら足元だけを見つめ、
かかと、つま先、かかと、つま先と確かめるように進む。転んでも、次の一歩だ。