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【現実世界・和風】短編~長編

この最高のマリアージュからは逃げられない

作者: 有沢真尋

 それは自分には縁のないものだ。

 しかし「そこにあること」で、少々困ったことになるのは目に見えていた。


 百貨店のイギリス物産展で、隣に出店する「超有名スコーン店」の名前を確認し、星野鈴音(ほしのすずね)は眉間にしわを寄せていた。

 店の名前は「アールグレイ・スコーン」至ってシンプルなのがいかにもイギリスらしい。

 だが、いまや業界でこの名前を知らない職人はいないだろう。


 理由は、物産展に合わせて来日する看板職人レオ・アールグレイだ。

 数年前、店のフォトSNSに出た彼の写真は、またたく間にバズった。

 とんでもないイケメンだったのだ。


 真っ白のコックコート姿が様になる。どんな角度の写真でも「ハリウッドの俳優」「あの有名映画に出ていた」と偽りの記憶が蘇るほどの美青年ぶり。くすんだ金髪と、灰色がかった青い瞳。グラビアの表紙を何度か飾ったとかなんとか。

 鈴音は、彼が本当に貴族なのかプロフィールを確認したことはないが、日本国内では「伯爵」の呼び名が定着しつつある。


(スモーク・ブルーのアールグレイ伯爵。来日前から、写真付きインタビュー記事がSNSに出るだけで毎回万バズで、リプや引用に推し発言が溢れているもんね……。物産展は本人が店頭に立つのかー。待機列がとぐろを巻いて周辺の店を圧迫しそう。隣のうちは影響受けまくるだろうなー……)


 どうしても伯爵に会いたいひと以外は「あのエリアはやばいから近寄らないようにしよう」と避けるはずだ。


 鈴音の勤務先である「ベイク」は、オーナーで兄の星野(ながれ)がイギリスで修行して帰国して始めた小さな焼き菓子店である。当初から通信販売を念頭に置き、材料調達を優先したため、店舗兼工場は千葉の牧草地帯で駅からも遠くアクセスの悪い立地にあった。


 (ながれ)は焼き菓子担当、鈴音はクロテッドクリームとジャム担当。店舗には狭いながらも喫茶スペースがあり、予約でアフタヌーンティーも提供している。キッシュやポタージュなどもつく食べ応えのある内容で、利用客からは好評だ。が、やはり立地の問題で「連日大盛況!」とは言い難い。


 正直なお客様によれば「すごく美味しいし値段も手頃でぜひリピートしたい」と「『ベイク』まで根性と交通費を出して行くなら、都内で新規開発したい」で葛藤し、再来訪を見送りにしてしまうのだとか。それでも「また食べたい」と通販は買ってくれたりするので、営業は軌道に乗っている。


 今回は、思いがけず都内の百貨店からイギリス物産展に出店しませんか? と声がかかった。

 開催期間二週間のうち、前半一週間の出店であるが、鈴音と流の二人とも出なければ到底対応できるはずもなく、店舗はしばらく閉めることになる。悩んだ末に決めた出店だった。

 だからこそ、来てくれたお客様のハートはガッチリ掴むぞ! という意気込みであったのに。


「伯爵の隣かー。どこの店舗も、混雑に巻き込まれて嫌だもんね。うちは弱小だし、文句言わなそうだから押し込まれた感ある……」


 光と影。

 取材の殺到する「アールグレイ・スコーン」の横で、淡々と営業する自分と兄の姿が今から容易に想像がつく。

 催事が始まる前だというのに、気が重い。

 兄の流も「思ったより売れないかもしれないから、仕込みの量で調整するか……?」と悩み始めている。


「物産展はどこのお店も大盛況で、リアルタイムで『残りいくつ!』ってSNS更新しているイメージだから、うちもばかすか売れると思っていたけど。そもそもお客さんが、お店にたどり着かないんじゃなあ……」


 見通しは暗く、兄妹は暗い顔で物産展に備えるのだった。



 * * *



 Hi!


 写真では何度も見たことのある「アールグレイ伯爵」ことレオ・アールグレイが、光り輝くような美貌に笑みを浮かべて挨拶をして来た。

 催事場に機材を搬入し、臨時で手伝いをお願いした数人で開店準備をしていた鈴音は、突如目の前に現れた神々しい相手に完全に圧倒されてしまった。


(めちゃくちゃ大きい! 身長いくつ? レオ様は顔が繊細で綺麗だから、写真だけ見ていたらもう少し細くて女性的なのかと思っていたけど、実物は肩幅も胸板もしっかりしていて、ものすごく存在感がある……!)


 レオ・アールグレイもまた、「アールグレイ・スコーン」の準備中らしく、トレードマークのコックコート姿ではない。何気ない白シャツにデニムを履いているだけでラフな雰囲気であったが、飾り気がないだけに本人の凄まじい美貌とスタイルの良さが際立つ。腰が高く、足が長い。


 これまで「かっこいいけど、騒ぐほどかな?」と思っていた鈴音は、この瞬間に認識を改めた。

 騒ぐどころではない、ひれ伏して崇めるレベルの美貌だと。


「これ、今朝俺が焼いたうちの商品。お近づきのしるしにどうぞ」


 レオはなめらかな日本語でそう言いながら、紙袋を差し出してきた。


(お近づきの!? しるし!? 日本語堪能どころじゃない……!)


 パニックを起こしそうになりつつ、鈴音は震える手で紙袋を受け取った。口の中が干上がっていてまともに喋れそうになかったが、なんとか言葉を返す。


「ありがとうございます。本当に職人なんですね……?」


 え、こんな芸術品みたいな美形が、朝早く起きて粉を練ったり熱いオーブンの前に立って職人として働いているんだ? と失礼ながら鈴音は考えてしまった。その反応は慣れたものなのか、レオは灰色がかった青い瞳を細めて、くすりと感じよく笑う。


「俺は店のアイコンだと思われていることが多いけど、焼いていますよ。美味しいから食べて」


 百点満点。

 優しげな表情と、受け答えから感じられる人間性は、まさに「非の打ち所がない」だ。


(こんな人がこの世にいるなんて……。ファンの皆様、隣のお店というだけで私ごときが口をきいてしまってすみません。一生の思い出にします)


 隣なんか嫌だなぁと思ってすみませんすみませんと全方位に謝りつつ、鈴音は「あのっ」と勇気を振り絞って呼びかけた。


「うちのお店は『ベイク』っていいます。焼き菓子を兄が焼いていて、クロテッドクリームとジャムは私が作っています! うちの商品も食べてください!」


「うん。ありがとう」


 緊張で声を裏返っている鈴音をよそに、気負った様子もなくレオはふわりと笑う。

 圧倒的イケメンオーラを正面から浴びた鈴音はもはや、虫の息だった。ふと辺りに視線をすべらせると、準備中の店舗で立ち働くひとや通路を足早に通り過ぎようとしていたひとまで、レオの存在感に目を奪われている。


(わかる、私は万バズの美形を甘く見すぎていた……! 性格もすごく良さそうだし、日本語も上手い。好感度の塊だよ……)


 世の中を斜めに見ている場合じゃなかったな……と思いながら「ベイク」のブースに戻り、レオから受け取った紙袋を置いて、ベイクの品物を販売用の紙袋に詰め合わせた。それを持って戻り、レオに手渡しながら早口で伝えた。


「要冷蔵のクリームが入っています。保冷剤も入れましたが、それだけ保管に気をつけてください」

「ありがとう。朝食に、いま食べる」


 レオは笑いながら、保冷剤を鈴音に返してきた。受け取りながら、鈴音も思わず微笑を浮かべる。

 社交辞令だとしても「食べる」と言ってもらえると嬉しい。

 じゃあね、と去るレオの神々しい背中を拝みたい気持ちで見送り、鈴音は開店作業を再開した。


 人が変わったような恐ろしい形相のレオが怒鳴り込んできたのは、そのわずか五分後のことだった。



 * * *



「俺はこんな美味しいクロテッドクリームを食べたのは生まれて初めてなんだ。これを作ったのは君だと言ったな? 何か特別な魔法があるだろう? こんなこと、魔女にしかできない」


 この短い間に、ほとんど中身のなくなったクロテッドクリームの瓶を片手に、レオは鬼の形相で迫ってくる。勢いに圧された鈴音は、声を震わせて呟いた。


「魔女狩りがはじまる……」

 

 さきほどまでの好青年ぶりをかなぐり捨てたレオは、鈴音の日本語の意味を正確に拾って「狩らない」と言い返してきてから、軽く首を振った。


「いや、狩ろう。捕まえる。このまま世に解き放っておいて良いはずがない」


「なんで!? なんの話をしています!?」


 レオは、けぶるようなスモーク・ブルーの瞳で鈴音を睨みつけながら低い声で答える。


「連れ帰る。君には、俺の店でそのクリームを作り続けてもらおう」


 堂々たるヘッドハンティング、もしくは誘拐宣言だった。鈴音はレオの剣幕に呆然としながらも、職人同士話せばわかるはずだと信じて自分の考えを口にした。


「味の良さは自信がありますが、腕よりも材料だと私は思うんです! 契約牧場の牛乳で作っているので、単純に私がイギリスに行ったところで同じものが作れるわけではないと思うんです」


 しかし、レオは納得しない。


「絶対に何か秘密があるはずだ。その秘密を、俺は知りたい。もちろん、タダでレシピを寄越せとは言っていない。相応の返礼はする」


「あ~……とりあえず、準備終えたいので……。というか、開催期間中はお互いものすごく忙しいはずなので、催事が終わってからでもいいでしょうか?」


「わかった。一週間後、約束だ」


 まるで、鈴音の顔を自分の記憶に刻みつけるかのようにじっと見つめてから、レオは「アールグレイ・スコーン」のスペースへと引き返して行った。

 得体のしれない強烈なオーラを漂わせた背を見て、鈴音はその場にぺたんと座り込む。


「鈴音! 大丈夫か!?」


 荷物を抱えて外から戻ってきた流が、驚いたように走り寄って来て鈴音を支えようとした。


「大丈夫、大丈夫。イケメンに本気メンチ切られて腰が抜けただけ。怖い……。クリームに秘密なんてないよ、ふつーに美味しい材料で真心こめて作っているだけ。レシピと言われても、変わったことはしていないんだけどなあ」


 ぶつぶつと言いながら、鈴音は流の手を借りて立ち上がる。


「なんだ。アールグレイ伯爵に気に入られたのか? たしかに『ベイク』のクロテッドクリームは美味しいで評判だし、イギリスでもあれほどのものはなかなかないと兄も思う。でも、探せば見つかるだろ」


「そうだよー。だいたい『アールグレイ・スコーン』とコラボしたいお店なんて世界中にいっぱいあるだろうから、レオ様がSNSとかインタビューで呼びかければ、全世界からサンプルの百や二百、あっという間に送られてくるはず。うちのクリームにこだわる理由は無いと思うんだけどな」


 だよな~と兄妹で話している間に、またもやレオがものすごい剣幕で引き返してきた。いちはやく気付いた流が、鈴音の前に立つ。

 レオの鋭い眼光は、流に向けられた。


「はじめまして。俺は『ベイク』の……」

「お兄さん!!」


 空気を震わせるような声で呼ばれて、流の自己紹介が中断した。「おまえのお兄さんちゃうわ……」と小声で言っていたが、猛獣に睨みつけられた室内犬がくぅ~んと鳴くくらいの儚い呟きだった。

 レオはずんずんと近づいてきて、少し身をかがめて流の手を取る。


「お兄さんの、プリンス・オブ・ウェールズ・ビスケット最高に美味しかったです!! タルトも感動的な美味しさでした! 握手してください!!」


「お、おう」


 ひしっと手を握りしめられ、至近距離からレオの青い目に見つめられた流は、あっけにとられた様子で言葉を失っていた。

 流の手を握ったまま、レオは「and jam」と呟いて鈴音に視線を向けてきた。


(怖い……イケメン怖い……)


 そして物産展は幕を開けたのだった。



 * * *



“隣の「ベイク」さんと互いの商品を試食中です”

“絶品の焼き菓子と幻のクロテッドクリーム、レオ絶賛”

“オーナーシェフのNAGAREと!”


 物産展の初日から、今回最注目店である「アールグレイ・スコーン」のSNSで「とにかく美味しい!!」と宣伝されたことにより、「ベイク」の客入りは当初の想像をはるかに超えて、爆発してしまった。

 初日は用意していた分があっという間に売り切れ。流はスタッフと千葉に引き返し、追加の仕込みをすることになった。

 売るものがない針の(むしろ)状態で、留守番の鈴音はなんとか時間までやり過ごし、片付けや翌日の準備を終えて百貨店を後にした。


 元から大盛況が予想されていた「アールグレイ・スコーン」はといえば、都内のどこかにキッチンを借りているらしく、ひっきりなしに商品が搬入されてきていた。レオも、店頭にいるときもあれば、いないときもある。

 たまたま顔を合わせたときに「取材で忙しいんですか?」と尋ねたら、「キッチンでスコーンを焼いている」と笑顔で返された。恐ろしく忙しそうで、ほとんど話す機会はなかった。


 期間中、「ベイク」のスタッフは、千葉の店舗と百貨店の間を社用車で往復していた。

 鈴音もクロテッドクリーム作りなどで店舗に戻った日もあるが、何かの事故で全員千葉に足止めといったことがないよう、百貨店から数駅離れたところにホテルを取っており、流と鈴音で交互に宿泊をしていた。

 

 鈴音は、普段都内に出てくる用事は少ない。数駅とはいえ、慣れない路線を使うのは緊張する。

 初日は何度も乗り換えアプリで確認し、駅からの道もマップで確かめながらコンビニで食べ物を調達してホテルへ向かった。このくらいなら大丈夫と、一日で自信がついた。


 二回目の宿泊では、電車に乗る前に、通りすがりで目をつけていた小さなイタリアンで晩ごはんをして帰った。三回目ともなると、逆向きの電車に乗って、行ってみたかったお店に行くことまでできた。

 最終日は泊まる必要もなかったが、翌日は店舗が休みということもあり、撤収作業で遅くまで片付けをした後は「明日一日都内で遊んできていいよ」と言われて、兄や店のスタッフと百貨店の裏口で解散し、ホテルに向かうことになった。


「もう二十二時か……。さすがに逆向きの電車に乗るのは怖いな。でもコンビニでごはん買って帰るのもつまらないし……」


 表通りまで出て、まだまだ光あふれる華やかな道やひとの流れを眺める。

 ひとりでも打ち上げをしたい気持ちではあるが、土地勘がないだけに右へ行けばいいのか、左へ行けばいいのかすらわからない。ひとまずホテルのある駅まで向かうべきだろうか、終電を逃すわけにはいかないしと悩んでいたところで、後ろに人が立った気配があった。


「Hi!」


 聞き覚えのある声に、まさかと思いながら振り返る。

 そこだけ空気感が違う。シャツとデニムの私服にジャケットを羽織り、眼鏡をかけたレオが立っていた。


「お疲れ様です……!」


 で、出た~! と内心では戦々恐々としつつ、鈴音は笑みを返す。

 レオは落ち着いた様子で「立ち止まっていると、注目される」と言って、鈴音に歩くように促してきた。

 行き交うひととすれ違いながら、レオは隣を行く鈴音に低い声で話しかけてくる。


「この日を待ち望んでいたよ。絶対に『クロテッドクリーム姫』を捕まえるつもりだったから。片付けが終わって、姿が見えなくて焦った。見つけられて良かった」


 鈴音の気のせいでなければ、視線がちらちらと向けられている。スマホも向けられている。百貨店の物産展にレオ様がいたのは周知の事実なので、もしかして出待ちをしていたファンもいるのかもしれない。


(「伯爵の隣の女誰よ?」って思われてない……!? 本当にただの「隣の女」ですよ……!! 偶然隣り合って歩いているだけの……!)


 いたたまれない思いに襲われつつ、鈴音はぼそぼそと言い訳をした。


「『ベイク』と『アールグレイ・スコーン』の公式アカウントが相互フォローになっていたので、連絡はいつでも取れるつもりでいたんです。レオ様もお疲れでしょうから……」


「疲れていないと言えば嘘になるけど、元気だよ。君は? さすがに今からクロテッドクリームを作ってくれとは言わない。食事はしてる? 打ち上げは?」


「うちの店のスタッフは千葉に帰りました。打ち上げは、明日改めて。『アールグレイ・スコーン』は……」


「近くのホテルのパーティールームを貸し切りにしていて、みんな移動した。俺は、最初から人数に入っていない。君と会うつもりでいた。見つからなかったら、千葉まで追いかけたから」


 しれっと言われて、鈴音は笑顔のまま顔をこわばらせた。


(冗談に聞こえない!)


「主役がパーティーにいないのはまずいのでは」


「日本に滞在できる時間には限りがある。スタッフの労いは帰ってからするよ。まずは食事しない?」


 流れるように誘われて、鈴音は駅とはまったく逆方向に歩いていることに気づいた。

 あまり離れてしまうと、迷ってしまう。


「お店、全然知らないんです! それに、今からだと終電に間に合わなくなるかもしれなくて、ええと、終電の時間を確かめておかないと」


 ぐずぐず言っているうちに、レオに背中を軽く押されて「ここ」と、流れるように建物のエントランスへと案内される。

 ひと目見て、高級ホテルとわかる開放感のある吹き抜けと、雰囲気良くライトアップされた受付。制服姿の女性が会釈をしてきた。


「どこ!?」


「『アールグレイ・スコーン』のスタッフで借りていたホテル。俺の部屋はキッチンも材料もあるから何か作るよ。食べられないものはある?」


 絶対に、終電には間に合わない。

 鈴音の頭をよぎったのは、まずその心配だ。タクシーで帰ったら一体いくらくらいかかるのだろうと、金銭面の問題で肝が冷える。

 続けて、もっと大変なこと、すなわち「男性にホテルに連れ込まれる」という状況に気づいた。


(レオ様が女性に不自由しているとはまっっったく思わないけど、それはそれとして気の迷いで手を出すくらいのことは普通にありえるから、断固として突っぱねる場面だ!)


 鈴音はこういうとき、下手に自己評価ド底辺を発揮して「女としての私に興味なんてないわよね~」と言っていてはいけないと直感的に知っている。興味あるなしに関係なく「ワンナイトならなんでも食える」という男だって、世の中には絶対にいる。「自意識過剰になっている場合じゃない、彼に下心なんてない」などと言い訳をしてついていくと、絶対痛い目にあう。


「さすがにレオ様の部屋にはいけません! 終電も逃してしまうと思いますし、無理です!」


 スーツ姿の客や、旅行中らしいラフな服装の男女が通りすがる中、鈴音は両手を前に突き出してレオを全面的に拒絶した。

 眼鏡の奥で、レオの瞳が辛そうに細められる。


(うっ……。すごく罪悪感が。でも私は間違えてない!)


 たとえ相手が、SNSで人気爆発の超イケメン職人「アールグレイ伯爵」のレオ様であっても、絶対にふらふらついていってなるものか! と。

 すでに、ホテルまで来てしまっているが、今ならまだ引き返せると強い意志でレオを睨みつけた。

 レオは切ない表情のまま、ぼそりと言った。


「完璧に、下心を読まれていた……」


「下心!? ええええええ、あったんですか!?」


 焦る鈴音の前で、レオはスマホを取り出して誰かに連絡を始める。


「流、いますぐ来てくれ。流が必要なんだ!」


「お兄ちゃん!?」


 スマホの向こうで、わーわー流が言っている気配があったが、レオはぶつりと通話を終了して「これでよし」と呟いた。


「お兄ちゃん? 来るんですか?」


「来る。流は、東京泊はずっと俺の部屋にいた。電車に乗って帰るって言われて『俺の部屋から催事場はバカ近い』って言って誘ったら、来た。さすがに、クロテッドクリーム姫の方はそうやって部屋に連れ込むわけにはいかないと、期間中は耐えた……」


 話している間に「おーい」という声がして、待合ロビーから流が姿を見せた。


「千葉に帰ったんじゃなかったの!?」


「帰ったのはスタッフだけー。俺は今晩、レオと打ち上げのつもりだったけど、鈴音も来たのか。いいよいいよ、兄ちゃんがいるから危ないことは何もない。レオの部屋で騒ごう!」


「騒ぐのは迷惑だと思う!」


 お兄ちゃんまで何言ってるの、とまくしたてる鈴音に対し、なぜか余裕綽々の様子で流が言った。


「スイートルームだから、大丈夫。シャンパンも冷えているし、ケータリングも手配済み。朝まで飲もう!」


 終電……という鈴音の呟きは、流にもレオにも届かなかった。


 結局、流に押し切られる形で鈴音は最上階のスイートルームに案内されることになる。そして、我が物顔で振る舞う兄に呆れつつ、三人だけの打ち上げが始まった。


 レオは、顔色も変えずにシャンパンを豪快に飲んでいた。どれだけ飲んでも呂律がまわらなくなったり、手元が危なくなることもなく、品良く料理を平らげつつ、ときには流と英語まじりの会話をして爆笑していた。

 二人につられて、鈴音もおおいに笑って食べて、気がついたら寝落ちしていた。最後の記憶は「テーブルで寝てないで、せめてソファで……」だ。


 もう目も開かなかったが、ふわっと誰かに抱え上げられた。

 その力強い腕に包まれるのを感じながら、意識を失った。



 * * *



 朝の光で鈴音がソファで目を覚ましたとき、流は向かいのソファで正体をなくして眠りこけていた。大変に寝心地の良いソファだったので、状況が許せば鈴音ももっと寝ていたいくらいだった。レオの姿はなかったが、ベッドルームで寝ているのだろう。

 鈴音はひとまずバスルームで顔を洗ってから、テーブルの上が綺麗に片付けられているのに感心しつつ、併設されているキッチンへと向かう。


「朝ご飯……何か食べるのかな?」


 前夜、たくさん食べた記憶はあるのだが、すっきり寝たおかげかしっかりお腹は空いていた。

 どうせ仕事も休みなのだし、急いで千葉に帰る必要もないならお礼がてら朝食を作ろうかな、と冷蔵庫の中を確認させてもらう。


 普段、鈴音はひとさまの家の冷蔵庫を勝手に開けることなどない。だがこのときは、場所がホテルであることと、兄の流がお酒を取り出すために何度か開けているのを見ていたこともあり、油断していたのだ。


 ついうっかり――開いてみたそこには、見覚えのある牛乳瓶があった。


「あれ? これ……」


「Good morning!」


「わあああああ」


 背後から迫りくる圧倒的な「光」の気配を感じて、鈴音は悲鳴を上げた。振り返ったそこにいたのは、寝起きの乱れを感じさせないアールグレイ伯爵ことレオ様であった。爽やかな光を背負って、にこにこと笑っている。


「そう。それは流に手配してもらった、君がクロテッドクリーム作りに使っているっていう牛乳だ。牛乳があって、君がいる。つまりこれはもう、クロテッドクリームをここで作るしかない。理解したかな?」


「…………はいっ!」


 どう考えてもそれ以外の返事はないとものの数秒で理解して、鈴音は元気よく返事をした。

 レオは、くしゃりと相好を崩して、泣き笑いのような表情となった。


「ありがとう。昨日君が帰ると言い出したときは、クロテッドクリームを作らせる目的で誘っているという下心がバレたかと思ったよ。でも、素直に言っても深夜に男の部屋には来てくれないだろう?」


「えーと、はい。そう……ですね」


 あれ、この場合の「下心」ってなんだっけ? と鈴音は首を傾げてしまった。なんだか微妙にレオと会話が噛み合っている気がしない。

 一方のレオは、我が意を得たとばかりに最高に輝く笑顔をしており、親しげに両腕を広げて鈴音を抱きしめてきた。


「ありがとう、俺だけのクロテッドクリーム姫。もう離さないよ」


 語彙のセレクトがもう少しズレていれば、かなり甘いセリフだったかもしれない。だが、もはやそれを指摘するのは野暮というものなのだろう、と鈴音は苦笑してレオの腕に手をかけた。


「離してくれないと作れませんよ。キッチンを見せていただいてよろしいですか?」


「もちろんだ。最初から最後まで君のテクニックのすべてを見せて欲しい。この目に焼き付ける」


 またもや甘く囁きながら、レオは鈴音の手を取り、指を絡めてくる。


(わ、手が大きい! 指がすごく長い)


 照れる以前に、鈴音は彼の手と自分の手のサイズ感に驚き、思わずもう片方の手でレオの手を掴んで観察してしまう。


「この手が、アールグレイ伯爵のゴッドハンド……。スコーン美味しかったな……」


 呟いてから、ぱっと手を離した。

 レオは笑って、両手を差し出してくる。


「好きなだけ触っていいよ」


 輝く笑みを向けられて、鈴音は魂を奪われたように立ち尽くしてしまった。その反応を見越していたかのように、レオは鈴音の手を取り、指に口づけてくる。とても甘い仕草だったが、その唇が「クリーム……」と呟いていることに気づき、鈴音は我に返った。


(私の存在意義は、クリーム! クリームを作ること!)


 レオの手をそっと振り払って、精一杯真面目な顔で告げる。


「それではクロテッドクリーム作りを開始します! 日本での終わりに、最高の思い出になるように、がんばりますね!!」


 最初、彼の店が隣だと知って、鈴音は暗い気持ちになってしまった。有名人に対する引け目や、彼の絶大な人気から「迷惑をかけられそうだ」という先入観を抱いたからだ。

 実際に会った「アールグレイ伯爵」は、爽やかな好青年だった。

 少々思い込みは激しいが、親切でまっすぐな人柄であり、東京最後の夜には兄妹に素敵な思い出までくれたのだ。

 この恩は、しっかり返さねば。


 職人としての矜持もあり、鈴音はキッチンを借りてから一心不乱に心を込めて彼のためのクリームを作った。

 日本とイギリス、簡単に行き来はできない。品物の受け渡しも難しい。

 ならばこの機会に、最高のものを食べてほしいと。


 作ったクリームは、レオの眼鏡にかなったらしい。

 何度も何度も過剰な言葉で褒め称えたレオは、感極まって鈴音にも流にもキスを迫り、二人がかりで暴走を抑え込むことになった。


(大変だったけど、楽しかったな。本当に良い思い出になった)


 この先、人生が交わることはないかもしれない素敵な青年への綺麗な思いを胸に鈴音はレオに別れを告げて、千葉へと帰った。


 その思い出の青年が、現実の「ベイク」まで追いかけてきたのは、このわずか一ヶ月後のこと。


 俺はスコーンで、君はクロテッドクリーム。離れるわけにはいかないんだ、という思い込みの激しい彼の言葉はその後、そのまま鈴音へのプロポーズの言葉となるのだった。


※お読みいただきありがとうございました(*´∀`*)

 美味しいスコーンが食べたいです!

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